第1話 店内

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第1話 店内

何も描かれないままぼろぼろになった僕の地図は、君のと一緒に海に流そう Untitled:名前の無い地図 ───────────── (愛知県民てほんと喫茶店好きだよな)  田川到流は朝7時からすでに賑わっている店内にぐるりと目をやった。  たいていのお客さんが注文するのはモーニングセット。焼きたてのトーストに、ゆで卵かたまごペースト、小倉あんのどれかを選んで、コーヒーとセットになる。ここにミニサラダやヨーグルトを付ける人もいる。モーニングの時間が終わっても、コーヒーの注文がひっきりなしに入る。  リタイア後の悠々自適な毎日を送る年配者、はしゃいでいる子供達を連れて来た家族、土曜日も部活なのか大きなスポーツバッグを持った学生…愛知県民は、週末の朝を過ごすのに喫茶店を選ぶことが多い。 (今日もみんな充実してるらしい)  暗い穴がふと開いた。  いつものことだ。  それは至流の中に常にあり至流はその淵に立っていつもそれを眺めていた。  目の前の光景は、自分には無いもの。感じたことの無いもの。  …そう。こういうのは僕には分からない。 「すいません、コーヒーおかわり」  注文の声に、「はい、伺います」と到流は急いで向かった。  到流は高校卒業後、福井から1人で愛知へとやってきた。福井で田川を名乗っていると、遅かれ早かれいつも自分の周りに噂の火種が立つ。  なるべく早く福井を捨てた方がいい、中学生だった到流を引き取ってくれた祖母に背中を押され、愛知の大学を受験した。  愛知はなかなか住み心地が良い。  名古屋から電車で40分。大学卒業後しばらくしてここへ引っ越してきた。ここは、目的地の描かれていない旅の地図をよれよれのまま押し入れの奥に仕舞ってしまうようなこんな僕にも、優しい。  到流は、誰にも責められないこのぬるま湯のような日々に、寄る辺の無い身を置いている。 ───────────── (ちょっと寝坊したらこれじゃんね)  中瀬文雄は、土曜出勤の上がらないテンションをモーニングで上げようと早めに家を出るつもりだった。脳が土曜日は休日だと認識を改めなかったせいで、8時半の店内の様子にうへ、と足を止めてしまっているこの状況だ。  辛うじて窓際のカウンター席が1席空いていた。 「あれ、文雄。久しぶり、2ヶ月くらい?」  入り口で所在なげに立っていた文雄に気付いたのは店長の水野だった。 「水野さん、おはようございます」  カウンターいいですか。文雄は渡りに舟と急いで席をキープした。 「どう?仕事上手くいってる?」  店長自ら水の入ったグラスを持ってきてくれた。 「ぼちぼちですね。ここんとこ少し忙しかったですけど、お得意さんは決まってますから、慣れれば楽ですよ」  当たり障りのない答え方をしながら熱いおしぼりで手を拭く。ぼやけた顔を拭きたい衝動はなんとか抑えた。この喫茶店は文雄の元職場だ、振る舞いには気を遣う。  店長が慌ただしく接客に戻ると、文雄は店内の騒めきから逃れようと軽く目を閉じた。  喫茶店が、好きだ。  目的の有る無しに関わらず、来た人が自分の時間を思い思いに過ごせる場所。  一杯のコーヒーを飲む時間、少し息を整えると見えてくる。忙しなく過ぎる日々の中に置いてきてしまったもの、忘れてきてしまったもの。あ、そうだ、と立ち止まり、それらを取りに戻る時間。人にはそういう時間が必要なこともある。  僕はもう、あの頃の大きな忘れ物は取りに戻れない。だからせめて、日常の小さな忘れ物くらいは拾いたい。  そう自分に言い聞かせながら、文雄は今も諦めきれない思いを抱えて喫茶店に通っている。
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