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番外2022:地図に名前はなくてもいい
#ルクイユのおいしいごはんBL Returns!
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文雄は黒いネクタイを少し緩め、ほっと息を吐いた。
会社としての香典、個人としての気持ちを包んで、受付に頭を下げる。順番が来て焼香をし、喪主である奥さんにお悔やみを述べると、早々に目立たない場所へと移動した。
こういった事にも少しずつ慣れていかなければいけないのだな。いつの間にか抑えるように呼吸を浅くしていた自分がそこに居た。
文雄にB6判の喫茶店経営読本を譲ってくれた知り合いの葬式だった。文雄が会社の後継者になると決心した後も、変わらずに可愛がってくれた恩人だ。
市の商工会議所の要人でもあったその老人には、会社からとは別に文雄個人からも直接お別れの挨拶を言いたくて参列を願い出たのだ。
式が終わり黒い背広を助手席へと放り投げると、文雄は疲れた仕草で車を走らせた。向かう先は、到流の住むアパート。
近くのコインパーキングに車を停めると、文雄はカンカンと少し古びた鉄階段を上った。インターホンに指を伸ばしたと同時にドアが開く。
「文雄さん、お疲れ様でした。コーヒー飲むでしょ」
「ありがとう。あ、その前にこの塩、撒いてもらえん?」
「塩?ああ、スーツに掛ける感じでいいですか?」
「うん、そうそう。簡単でいいよ、形式だからさ」
胸と背中に塩を撒いてもらう。文雄は自宅に帰る前に到流の家に立ち寄ることが多くなっていた。バイトの終わった到流が、軽食やコーヒーなんかを用意して待っていてくれるこの時間が、何より心地良くそして楽しみなのだ。
到流も、文雄が顔を出してくれるのを待ち遠しく思っていた。文雄の人生の分岐点となった喫茶店への思いを応援してくれた人。その人の葬式帰りとあれば、ことのほか気落ちしているに違いない。
そう考えた到流は、バイト先の喫茶店から社割で購入したコーヒーを丁寧に準備していた。疲れた文雄がほっとひと息つけたら。そんな到流の気持ちが文雄にも伝わったようだ。
「ああ、旨い。到流君の淹れてくれるコーヒーは本当に旨い」
「文雄さんには負けますよ」
「そんなことないで。到流君は飲み込みも早いし仕事も丁寧だ」
沁み渡るような表情でひと口ひと口味わっている文雄に、こんな時に不謹慎だと感じつつも到流の心は躍る。自分が誰かの役に立っているという喜び、しかも他の誰でもない文雄に褒められるのが到流には嬉しかった。
「そうだ、こんなものを貰ったんだ」
文雄は茶色い封筒を背広の内ポケットから出した。挨拶を交わした際、喪主である奥さんから「中瀬、さんよね。これ、主人がいつか貴方に渡そうと大事に持っていたものなの。良かったら読んでみてもらえるかしら。無理にとは言わないけれど目を通すだけでも」
と渡されたものだった。式場のロビーで封筒を開けてみた。
中身は、文雄の喫茶店でコーヒーを飲んでみたかったという書き出しからはじまる短い手紙だった。日間賀島の空き家をいつでも好きに使ってほしい旨が書かれており、挨拶の合間を縫って文雄の様子を見に来てくれた奥さんによれば、そのための手続きもすぐに進められるとの事だった。
「田川さんに会社のご事情があるのは存じていましたから、主人もこれを言おうか言うまいかずっと迷ったまま私に託したというわけなの」
手紙を読んだ文雄に、「古い家だからダメで元々なの。気楽に考えてね」と奥さんはにっこり微笑んだ。「考えてみます」文雄はその手紙を到流に見せようと、自宅に戻るより早く到流のアパートに立ち寄ったのだ。
文雄からその手紙を受け取ると、到流は丁寧にそれを開き、ゆっくりと文字を目で追った。到流だけが知っている文雄の夢の地図。なんとなくだけれど、二人の新しい地図は重なる様に描かれていく気がしている。
「文雄さん。この物件、僕が預かってもいいですか」
「……え」
「僕があの本を文雄さんに返す時まで」
「到流君」
コーヒーの冷めかけたマグカップをもう一度温めるように両手で包み込む文雄。長い沈黙の波間を、到流と一緒に漂う。今は深く暗い海を闇雲に掻いているだけかもしれないが、到流と二人ならいつかは浅瀬に足が着くかもしれない。
「到流君がそう言ってくれると、嬉しい」
辛く苦しいと思っていた息継ぎは思ったより楽で、顔を上げた先にお互いの居る安心感が二人の表情を柔らかくしていた。
じんわりと胸に広がる幸福感、そしてこの弾む気持ちは何なのか。二人の中には、答えが芽生えていた。
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店の名前は「名前の無い地図」。最初にそれは決まった。
少し海風に晒されて傷んだ部分を直せば、その家はすぐにでも住める様になっていた。
忙しい文雄に代わり、平日は到流一人で休みの日を利用しながら作業を進めている。バイト先の喫茶店の店長には文雄の件はうまく誤魔化しながら、島に渡る旨を伝えた。確かな実力のある店長の応援を貰えたのは心強い。
週末には文雄も合流して、喫茶スペースの改装やオープンに必要な物資の仕入れなんかを二人でわいわい言いながら進めていく。
預かると到流は言ったけれど、文雄がこの物件に腰を据えることができるのは、何年、何十年と先の話だ。実質、到流が切り盛りしていくことになる。
他人の未来に深入りして良いのだろうか。あれから幾度となく文雄は自問自答し、到流とも話し合ってきた。到流は、
「僕の決めた未来です。たまたま文雄さんと方向が一緒だったと思えば、ね?」
と朗らかに笑った。暗い印象のあった出会いの頃と比べれば、今の到流は生きているという感じがする。文雄はそんな到流にパワーを貰う。二人で顔を見合わせて笑った。
「文雄さーん、頼んでたやつ買い物袋に入ってないんですけど?」
「え、うっそ。マジで?すまん、来週でもいい?」
「いいですけど、じゃあまたこれも追加して買って来て下さい」
「はい」
「あとカウンターの寸法もっかい測ってきてほしいです」
「了解」
一日の作業を終えて、二人は小さな島の小さな食堂で夕飯を摂った。今の時期は強風に見舞われることが多い。海砂や舞い上がる落ち葉に騒ぎながら、日もだいぶ落ちた海岸線の道路を歩く。
ふと、夕暮れに紛れかけた二人の長い影が一本に重なった。
「……わ、砂が」
「ジャリジャリするな」
照れ隠しの甘さを含んだ台詞が日常の一部になるのは、まだ先の話だ。
終
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