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第3話 到流
到流がこの喫茶店でバイトするようになったのは3ヶ月前のことだった。
「前のバイト君が辞めてから、なかなか新しい人が入らなくてね、助かるよ」
店長は人の良い顔を嬉しそうに綻ばせたが、到流にはどうでもいいことだった。ただ生活費を得るためのバイトだ。店の事情など到流には関係ない。
「はあ」と曖昧な返事しか返さなかったが、それでも店長は到流の履歴書を見ながら
「お、朝から夕方まで入れるの?」
と機嫌良さそうだったので、到流も
「はい、大丈夫です」
と少しだけやる気を見せておいた。
「これ、カウンターの一番端の人に持ってってくれる?」
店長にコーヒーの置かれたトレイを渡された。コーヒーの他は添え物の豆菓子しか載っていない。
「フレッシュは」
と到流が聞くと
「ああ、彼はブラックでいいはずだから」
と店長はいつものことだと言った口ぶりで到流の質問に答えた。
(常連か)
到流には喫茶店のルールなど分からなかったが、3ヶ月働いているうちに、コーヒーチケットを必ず持ってくるくらいこの喫茶店に通う人が多いということに気が付いた。
福井に居た頃は、と言っても中心部よりかなり離れた小さな漁村だったからかもしれないが、喫茶店なんておしゃれな場所ひとつもなかった。人々がたむろって噂話に花を咲かせるのは、たいてい漁港近くの集会所だった。そしてそこでは一日にいっぺんは自分の、自分の家の話題が出ている事を到流は知っていた。
(ばあちゃんは、元気でいるだろうか)
少しずつ客の引いていく店内を片付けながら、到流は福井に置いてきた祖母のことを思った。今頃祖母は1人であの冷ややかな視線に耐えて暮らしているのだろう。祖母の息子…到流の父親が、漁業組合長の妻を強姦して殺害しようした、その事実は何年経ってもあの町から消えることはないのだから。
「田川君、…田川君。これも持ってってくれる?」
店長に数回呼びかけられて到流はテーブルを拭く手が止まっていたことに気が付いた。
「あ、すいません」
店長からモーニングセットの載ったトレイを受け取ると、再びカウンターの隅の席の客に持って行った。
「お待たせしました。モーニングセットです」
B6判本を読んでいた男性に声を掛けると、その男性はゆっくり本を閉じて到流を見上げた。
「ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
到流が皿を置き終えて立ち去ろうとすると、男性が声を掛けてきた。
「君、新しいバイトの子かな」
到流は無表情で男性の顔を見た。特に何の探りと言うわけでもなさそうだが、ただの好奇心か。にこやかな男性の表情からは真意は伺えなかった。
「はい」
「普段は何してるの?」
「フリーターなんで、今んとこ、ここのバイトオンリーです」
「そうかあ。羨ましいな、好きなことやれる時間があって」
なんだろうこの人。
到流の人生の中で、こんなに馴れ馴れしく絡んでくる他人は初めてだった。思春期を迎える頃にはすでに到流は孤立していたし、祖母以外の他人と話す機会など殆ど無いに等しかったからだ。
「そうですかね」
失礼します、到流は距離感の掴めない他人に対してそれ以上の言葉を発する必要はない、と思った。
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