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僕は急いでいた。今は時間無くて取り敢えず地下鉄に乗っている間にだってどうしようも無くて焦るしかない。そんなに焦って僕が心をヤキモキとしたところで地下鉄はスピードを上げてくれるはずも無い事は解っていた。
つい一週間前にデートの約束をした。
「ねえ、今度暇が空くからさ、たまにはそとでディナーでもたのしもーよー」
「別に良いけど、それってデートの誘い?」
「そんなロマンチックな事だろうか?」
「良いんじゃないのー、ロマンチックでも」
「まあ、仕事と邪魔者の間の数時間だけどそんな風に楽しもうか」
もう僕達は長い付き合いだ。こんな風に改めて場所を決めて待ち合わせをしたことなんてどのくらいぶりなのだろう。それは解らなくても今日はその久々な分も含めても十分に特別になっていた。
「今度のデートなんだけどさー、どの服が良いかな?」
「別にどれでも良いよ」
「それって男が言う言葉のワーストランキングだよ」
「えーっと、じゃあ新しい服でも買えば? 君の素敵な姿がみたいなー」
「嘘っぽい…でもなー。お金も節約しなきゃだし」
「俺が払うから…」
それなのにどうして僕がこんなに焦っているかって? それは僕が遅刻をしているから。別に寝坊とかでは無い。元々約束はしごとが終わってからだったので、そんな筈も有るわけが無い。普通に仕事が押してしまったのだ。
「じゃあ、仕事が17時には終わる予定だから17:30の約束でどうかな?」
「遅れたら許さないから!」
「そんな事、今まで俺がしたこと有った?」
「ない。けど、次はどうなるか解らないから予防策」
「必要ないねそんなもん」
本来の予定なら余裕で僕が待つ様に約束をしていた。それなのにもう約束からは二時間も過ぎている。これは彼女に怒られてしまう。それは避けたい所だ。しかし、こんな状況ではどうしようも無かった。
もとはと言えば別に僕が悪い訳でもない。仕事は普通なら時間通りに終わっているはずだった。それなのに後輩が残業を安請け合いをしてしまったのだから僕が手伝う事になってしまった。普段から甘い顔をしているのがこんな所で悪となった。
「任せといて下さい! 俺が引き受けますよ!」
「ちょっと待て、その仕事は今日中に仕上げないとならないのに」
「えっと…先輩は手伝ってくれますよね?」
「元からそのつもりだったのか?」
「ハイ! 先輩が居たら百人力ですから!」
「悪いけど今日は約束が有るから定時で帰る」
「そんなー! 救けて下さいよー。俺だけでこの仕事だと明日の朝まで徹夜しても間に合いませんよ!」
「カンベンしてくれよー」
本当に安請け合いだ。後輩の教育係を受けたこと自体が間違いだったのかもしれない。
それよりも今になって彼女に電話が通じないのが気がかりだ。彼女はそれはもう怒っているだろう。僕はこれまで時間を守らなかった事は無いからそうなったら彼女がどんなに怒るかは解らない。定時で帰れなくなった時の電話で素直に今日はキャンセルをしていた方が良かったのかもしれない。
「悪いんだけど、今日の約束ちょっと遅れると思うんだ」
「仕事、忙しいの?」
「別にそう言う訳じゃないんだ。ちょっと無駄な残業を受けた奴が居て」
「あーなるほど、彼ね。それはご愁傷さま。んで? 約束は破談?」
「いや、1時間…30分だけ遅れるけど、必ず行くから」
「今度埋め合わせしてくれても良いんだよ」
「俺も楽しみにしてたから…」
確かに楽しみだった。もう彼女と二人っきりになる事なんてのも随分無い様な気がしていたから。ちょっと遠い昔の事を思い出すと僕だってそれを楽しみにもしたくなったんだ。
そしてやっと地下鉄は待ち合わせのレストランの最寄り駅に着いたので、僕はドアの方へ移動したけれど、まだこの時間は地下鉄もかなり混んでいる。しかし東京とかとは違ってそれでも移動は出来るし、押し合いにはなってない。人々は集団となって駅の出口の方へ向かっていた。もちろん僕もその流れに漂いながら急いでいる。
そして地上への長い階段になって皆はエスカレーターの方へと向かっている。しかしそこは混んでいるし、階段を登った方が明らかに速いから僕はそっちを選んだ。タンタンッと普段は使わない階段を急いで一つ飛ばしで登ってゆく。
その時だった。僕は階段を踏み外した。
「うわぁ!」
「おっと、危ないですよ。こんな高さから落ちたら怪我では済みませんよ」
「どうもすいません。急いでいたもんで…ホントだ貴方は命の恩人かもしれない」
「命の恩人ですか、それは良いですね。帰ったら息子に自慢します。パパは今日、人の命を救ったんだって」
落ちそうになった時に横に居た同年代くらいの男の人がとっさに僕の腕を掴んでくれたおかげで階段から落ちる事は無かった。振り返るとそこは結構な高さで冗談じゃ無く落ちていたら命が無かったかもしれない。
僕はそんな人にお礼を言ってから階段を今度は気を付けながら登るとやっと地上に出た。そこはもう雪も無くなって十分に春になっている筈なのにまだまだこの街は随分と寒い。僕の生まれた街ではもう半袖の人も居るだろうに日本と言う国がこんなに広いものだと実感して、僕はブルッと震えてから彼女との待ち合わせの場所の方に向かう。
駅の前には大きな通りが有ってその歩行者用信号が点滅しているのが解った。急いでいる人間は誰だってそうするだろうが、僕もそれを実行して走った。でも、信号は直ぐに赤になって車が走り出した。
すると僕の事に気付いて無かった車がスーッと普通に加速し始めた。もちろん僕もそんな事には気付いて無くて、お互いに気付いた時にはパニックになっていた。
そんな時に人間は硬直してしまう。急いで走っているはずだった僕なのにその場で立ち止まってしまって車の事を見て居た。
「バカヤロウ! しにてぇのか!」
「すいません。急いでいたんで…」
「信号は守れよ!」
「ハイ、すいません」
運が良かったのは運転手の方はブレーキを踏んで硬直してくれたことだった。
車は僕の数センチ手間で停止して運転席から随分と怒鳴られたが、その運転手の顔は怒っていると言うよりも安心している様にも見えたので僕からは文句のひとつも言わないで平になって謝った。
その瞬間に僕は懐かしい事を思い出してしまった。それは彼女を好きだと思った瞬間の事だった。
あれはもう遥か昔のの高校生の頃になる。それまでも知り合いだったけれど、あの瞬間に僕は彼女の事が好きになったんだった。
「ウノ!」
「あたしに勝とうなんて百年早いわ!」
「この二人はなんの対決をしているのかねー」
「だな。暇つぶしに見つけたウノをするってだけなの白熱してるよ」
「ウルサイ! 勝負はいつだって真剣なんだ」
「そうだ! あたしは負けんから!」
「そんな事はどうでも良いからカード出しなって」
「ワイルドカードだ!」
「ほほう! で? 色は?」
「エメラルドグリーンで」
「あはははっ」
「そんなのねーって!」
「なんだその色!」
「んっ? 緑だよ。もってないだろ」
「確かに…」
その彼女のギャグセンスととぼける様な良い方に僕は惚れた。多分この人と居たら飽きない人生を送れるだろうなと思ったからで、別にお笑いコンビを組みたいと思った訳じゃない。
しかしこれはいわゆる走馬灯と言う物なのだろうか? そうだとすれば今のは危なかったのかもしれない。焦りは禁物。だけど今はそんな事を言っている場合じゃない。僕はそれからも急ぎ、そして彼女に「もう着くから」と電話をしたが、それだって完全に無視をされていた。それがちょっと恐ろしい。彼女は嘘がキライな人なのだから。
「全く信じらんねーって!」
「まあ、そう言うなって、なあ」
「プレゼントが有るならそう言えば良いのにどうして嘘を付くの?」
「だってサプライズってやつじゃん。そう言うのが嬉しいんじゃないの?」
「あたしはキライ。サプライズって言っても人を騙してる事になるやん!」
「そう、なのかな?」
彼女の誕生日を忘れていた振りをして僕がサプライズを企てた時の事だった。彼女が喜んでくれる事を予想していたのにそんな風にプックリと膨れてしまってそれからはご機嫌斜めで僕はその日から細かい嘘もつかない様にしていた。
やはり電話には出てくれなくて、僕はもうこれは急ぐしかないと今までは速足だったのを走るに変えた。最近は運動不足でこの数年は体重も増加している。なのでこのランニングは簡単なものでは無かった。数分で脛が痛くなってもう歩こうかって思ってしまう。
息が切れて、鼓動は早くなって、呼吸は苦しい。そんな風になった時に約束の店が見えたけれど、また信号が有った。今度は完全に赤になっているし、さっきの事も有ったので信号無視はしない事にした。
それで電柱に手を付いて一時の休憩をする。思っていたよりも僕の身体は運動が出来なくなっていてなんだか左胸が痛い。そうして深呼吸をすると逆に息苦しくなって眩暈がした。
彼女の笑っている顔が見えた気がした。
「ねえ、あたし達っていつまで一緒にいれるのかなぁ?」
「それは永遠にだろ?」
「それてってプロポーズ?」
「そうとも言える。けどその時は改めて指輪を用意しとくよ」
「なんだ。今日は指輪無しか…」
「そんないつでも用意してる人間は居ないよ」
「でも、プロポーズしても良いと思ってるんでしょ?」
「っていうか、ずっと一緒に居たいなって思ってる方が勝ってるかな?」
「そっか! じゃあ骨になってもずっと一緒だ!」
そんな風に笑っている彼女の顔だった。これもまた昔の事だから走馬灯なのだろうか。今日はなんだか僕は良く死にかける。でも、もう彼女の所までもう直ぐだ。それに死ぬわけにはいかない。
そうすると信号が青になって横断歩道を渡ると約束の店が有った。そこに彼女は店の邪魔にならない様に端っこに寄ってしゃがんで僕の事を待っていた。
どのくらい待ったのだろう、約束の時間から居たのだったらこの寒空に彼女は二時間以上もこんな風に待っていたのだろうか。今はそれは解らないけれど、僕を見付けた彼女はニコッと目を細くして笑った。
「愛する妻を待たすとはねー」
「だから、何度も電話したでしょ。送れるから先に店に入っていてって言おうと思ったのに」
「それがさー、携帯忘れちゃって…」
「それは、俺が悪いんじゃない」
「だから、せめて遅れた事を許してあげてんじゃん」
「一言目と違う!」
「アレは30分遅れるって言った事に対して、残りの1時間30分はあたしも悪かったって言ってんの」
「あーさいですか、まあ、寒いから飯にしよう」
「残念、もう子供達を友達の家からピックアップしないと」
「マジか! 悠々と飯を食う時間も無いのか…」
「そうだね。その辺で牛丼でも食べようか」
「ゴメン」
「良いって」
そんなふうに彼女はまた笑った。結婚をしてから五年過ぎて、僕達には二人の娘が居る。今日はそんな二人が友達の家に遊びに行っているから久し振りの夫婦二人だけの時間だったのに僕が壊してしまった。
けれど、それを彼女は怒る事も無く自分も落ち度が有ったからと笑っている。そんな彼女の事を見ているとより一層彼女の事が好きになった。本当にこれは死んだとしても一緒に居たいと思える人間だ。
僕はそんな最愛の人に手を指し伸ばした。彼女は嬉しそうに笑った顔を見せて僕の手を握り返すと、この寒風にさらされた彼女の手から冷たさが伝わった。そんなに長い時間ずっと僕の事を待ってくれていたんだ。
「こんなに冷たい。寒かったんなら店で待ってたら良かっただろ」
「でも、健気に寒い中待っている子って愛しいでしょ?」
いつもなら返事は直ぐに返して楽しい会話を続けたい僕だったけれど、この時ばかりは彼女に対して返す言葉が無かった。この言葉には全ての面で僕の負けだと思ったから。
「埋め合わせはちゃんとするからその時まで忘れなよ」
呟きみたいに言うとその手を引ていた。
おわり
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