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逃亡した猫はその後、二階中央の、通称・時計台広場にある背の高い天使のオブジェの頭上におすわりしていた。ヨーロッパ市街の広場を思わせる広い円形のスペースの中央に時計台があり、その脇に二人の天使が竪琴をつまびきながら微笑んでいる。猫はその天使像の上にちょこんと座っていて、まるでオブジェの一部になっていた。その広場は巨大な吹き抜けになっていて、十二階の天井の照明が星屑みたいに小さくきらめいているのが見えるばかりだ。
(タイムリミットはおそらく午後11時前後ニャン。こうなったら、ここにいる人の中から選ぶしかないニャン)
猫が心中つぶやくと、何かを念じるように目を閉じて、瞼の裏に何かを探し始めた。その様子を天使像の足元から女の子が見上げている。一人ぼっちなので親とはぐれてしまったのか? わからないが、まったく不安な素振りはみせずに、エンジェルの頭に乗っかる黒炭みたいな猫に興味津々だ。手を伸ばすが身長が足りない。ジャンプしても届かない。すると、竪琴を奏でるその石膏像に足をかけて木登りを始めてしまった。危なっかしい。転落したら大怪我だ。女の子は、身長の倍はある白い塔のてっぺんを目指してみるみる高度をあげた。だがそこへ、女の子の母親が現れて、我が子の危険行為を目撃するや否や、
「コラァ!」
の声が広場にこだました。同時に、猫の目が満月のように開く。
(いたニャン。物凄い魔力を持った少女が下の階にいるニャン!)
黒砂糖を百回煮詰めたぐらい黒いその猫は、これから母にこっぴどく叱られるであろう女児を尻目に、天使の頭上から放物線を描いた。床を捉えて即、跳ねるように駆け出して地下へ降りるエスカレーターへと向かった。
(マリアンヌの凶行を阻止する手立てはたったひとつ。最強の魔法少女ニャン!)
数分後。仮装軍団の集合場所である三階エスカレーター横の広場で、女児向けアニメのキャラクターショーが始まった。ステージの前方に集まっている子供たちを、親が後ろから見守っている。そのアニメのストーリーは至ってシンプルで、二人姉妹の魔法少女がワルモノを倒すという内容だ。毎週日曜の朝に放送されている。ピンク色の簡易ステージの背景パネルには大手製菓会社と玩具メーカーのロゴが碁盤の目のようにうるさく並んでいた。そのパネルの裏には黒いカーテンで目隠しされた小さなブースがあり、イベントの運営スタッフの詰所になっている。演者や音響、メーカーから派遣された担当者など十名程がその中にいた。
舞台の上で悪役が、いかにもなセリフで暴れながら、観客の子供たちを怯えせていると、魔法少女のキャラマスクを被った役者たちが、待ちなさいっ!と言って上座から登場してきた。が、すぐにピンチなった。悪役のトラップにハマったヒロイン二人が縄でぐるぐる巻きに縛り上げられてしまったのだ。
「く、苦しい!」
役者が、食い入るような眼差しを向けてくる児童たちを見つめながら、
「みんな、私たちに力を分けて!」
と訴えると、純粋無垢な子供たちは、催眠術にかかったみたいに、一斉に応援を始めた。
「おねえちゃん、負けるな!」
「ワルイヤツなんか、やっつけちゃえー!」
「頑張って!」
子供の声が飛び交い始めると、突然元気になったヒロインが未知のパワーを発揮しはじめ、悪役はあっと言う間に倒された。「予定調和」なんて言葉をまだ知らない子供たちはキラキラした目で夢中で手を叩きながら喜んでいた。
「みんなも強くなって、将来はワルイヤツをやっつけられる大人になろうね」
メイド服をモチーフにしたピンク色のコスチュームを着たヒロインが、決めポーズと最後のセリフでお芝居に幕引きをした。演者がすべて引き上げ、入れ替わるように登場した司会進行の女性が中央に立った。そして、子供達が待ちかねていたお菓子と玩具の即売会に移ろうとしたときだった。仮装グループのリーダーである黒いドレスの女が、突如ステージに上がってきたのだ。片手にインスタントカメラを持っている。ギャラリーの子供たちは、新キャラの登場にワクワクし、胸の温度を上昇させた。が、舞台裏の詰所にいた運営スタッフたちは思わぬ乱入者のせいで体感温度が下がってしまった。
「誰だ、あれ」
責任者であろうスーツをキメた男が言うと、ブース内の気圧配置が一瞬で冬型に変わった。真っ白なウインドブレーカーを着たスタッフたちが次々に首を傾げていく。
ステージ上で黒ドレスの女が、司会の女性の手からマイクをかっさらって、センターをぶん取った。
「良い子のみなさーん。ちゅーもくー」
黒いドレスの声は、子供向け番組のうたのおねえさんのようだ。
「私は魔法の国からやってきた、ちょっとジャンキーなお姫様でーす。おねえさんが今からみんなに、本物の魔法を見せてあげる」
子供の胸の温度計がまた一メモリ上がった。その分、舞台裏の等圧線の間隔が縮まっていく。北風が吹き荒れているような険しい表情になった責任者のスーツが、
「おい、やめさせろ」
と若い男性スタッフ二人組に命じた。乱入者からイベントを守らなければならない。目が覚めるほど白いウインドブレーカーを着た二人が、シャカシャカと化学繊維を擦らせながら素早くステージに上がり、黒い女がカラスのようにマイクに向かってガーガー吠えているのをやめさせようと駆け寄った。すると女は、それを待っていたかのように二人の男にくるりとターンしてカメラを構え、
「はい、チーズ」
シャッターを切った。パシャリ、音とストロボの閃光がステージ内を駆け抜けると、ウインドブレーカーたちの首から下がピタリと止まってしまった。
「おい、なんだ、これ」
走る格好のままフリーズする男性スタッフが怯えながら言った。物理法則を無視した不自然な姿勢で、石像のように固まる二人を見た子供たちの笑いがドッと起きる。ギャグに見えたのだろう。一方、マイクを奪われて、呆気にとられている司会役の女性は、台本にない進行に戸惑い、おもわず舞台のそでから詰所を覗き込んで、
「これってなんなんですか」
と問うたのだが、ブースから吹いてきたブリザードに凍りついてしまった。女の顔は、雪山のクレバスの底よりも青ざめている。折りたたみ式の簡易テーブルやパイプ椅子に、煮詰めた赤ワインのような液体が飛び散っていて、たった今、悪役を倒した魔法少女の演者たちをはじめとしたスタッフ全員が、血まみれで床に折り重なるようにして寝そべっていたのだ。慌てて取り込んだ洗濯物の塊みたいになっている。そのすぐそばには、アメコミヒロインのコスプレをした、目の死んだ女が一人、赤い床に靴を濡らして立っていた。手に持っている安全なゴム製ナイフから、赤い雫が糸を引きながら滴り落ちている。その光景を目にし、背筋を凍らせた司会役の女性が本能の悲鳴を上げた。だがその刹那、コスプレ姿の女がナイフで鋭く空を切った。司会の女に直接斬りかかったのではなく、離れた場所から空中を斬る真似をしたのだ。これでは何も起きようがないはずだ。だが、どうしたことか、司会の女の首から突如、猛々しい血のミストが噴射された。まるで直接斬られたかのように首から血が吹き出たのだ。女はそのまま瞳の黒さを失いながら崩折れていった。一瞬の悲鳴は、デパート内の雑音に溶けて、ギャラリーのキッズに届くことはなかった。皆、黒い女の魔法ショーに熱中している。すると壇上に、海賊とゾンビが上がってきて、黒女の隣に並んだ。さらなる新キャラの登壇に、子供たちの心のメーターはレッドゾーンに向かって急上昇だ。その頃にはもう、ショーが狂ってしまっていることを知っている人間は、ステージで走った姿勢のまま静止する二人だけ。
「みんなー、これなんだと思う」
黒いドレスのうたのおねんさんが、カメラをかざしながらキッズたちに問うと、
「チェキ」
と、インスタントカメラの商品名の合唱が起きた。
「セーカーイ(正解)」
うたのおねえさんは続ける。
「でもね、これはちょっと不思議な魔法のカメラなんだよ。なんと、これで撮影したものは全部、この二人のお兄さんみたいにピタリと止まっちゃうの。スゴイでしょ」
おねえさんは、かぶっていた黒い帽子の羽飾りを引き抜いて空に投げ、ひらひら舞い落ちるカラスの羽を、パシャリ、撮影した。羽が、空中に糊で貼り付けたかのようにピタリと止まった。それを見た子供たち、だけでなく親たちまでもが感嘆した。
「すごーい」
「え? あれってどんな仕掛けになってんの?」
大人も子供みたいに、狂ったショーを楽しんでいる。
「他にもこんなことができるのよ」
優しい顔のおねえさんは、ゾンビ男のモデルガンに向かって、
「マジカル・チェンジ」
と言いながら指をパチンと鳴らした。すると、マシンガンがほんの一瞬だけ茜色に輝いた。
「私が魔法をかけると、どんなおもちゃでも本物になっちゃうの」
言った途端、うたのおねえさんの顔が豹変した。ギャングの妻みたいに硬いシワを眉間に寄せている。黒い女はゾンビからマシンガンを取り上げて、フリーズしている二人のスタッフに銃口を向けた。外装はおもちゃのままだ。天井照明を写し込む銃身は、チープなプラスチックの艶を放っていて、弾倉にはうさぎも殺せないBB弾が詰まっているだけ。
「イッツショーターイム」
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