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女が、道化っぽい声を上げながら引き金を引くと、ちっぽけなエアガンの連射音とともに、二人が着ている白一色のウインドブレーカーに無数の黒い点が現れた。そして、男性たちは悲鳴混じりの血を吐きながら、さきほど舞台裏で倒れた司会の女性と同様に、目の色を失いながらその場に崩れ落ちたのである。ウインドブレーカーの黒い点は徐々に赤く滲んでいく。倒れた彼らの顔は、平和な日本の日常にはあってはならない形相だった。その一連の、生々しい音と光景は子供たちの顔から一瞬で笑顔を奪い去った。ギャグじゃない。それを直感した皆の背筋が、冷凍庫の内壁に張り付く分厚い霜みたいにカチカチに凍りついた。
「なによこれ」
親たちは耳の中で、戦時中の空襲警報を聞いていた。ハリネズミみたいな鳥肌を立てた保護者が一斉に、滝を落ちる水のように我が子に駆け寄りはじめた。だが、
「はい、チーズ」
黒い悪魔がカメラで子供たち全員を撮影したのが先だった。親が手を引っ張っても子供はびくとも動かない。
「何してるの! 早く立ちなさい」
親が喚いても、
「ママ、体が動かないよぅ」
キッズたちは泣き叫ぶばかりだ。やがて悲鳴とパニックの声が、広場を中心に渦を巻いて小さな台風を成した。何事かと、周辺の買い物客たちが怪訝そうにステージの様子をジロジロと見やっていると、誰かが、
「テロだ! 逃げろ」
と叫んだのを合図に、イベント広場の周囲からダムの放流が始まった。逃げ惑う人たちが出口を目指して激流を形成し始める。あちこちのエスカレーターでは、川を登る津波のような逆走が起きていて、人間の洪水が発生していた。パニックになった人たちの怒号が飛び交う。
「どけ!」
「ちょっと何なのよ」
「テロリストが暴れてんだよ。お前らも逃げろ」
最大瞬間風速60メートル超えの暴風のお陰で、ステージの周囲からはあっというまに人の影がなくなった。だが、台風の目の中で子供を縛り付けられている親たちだけが、床に張り付いたシールを剥がすように必死に愛するわが子を動かそうと抗っている。何人かの父親が血相を変えながら、ブラックデビルに駆け寄り、
「お前らは一体なんなんだ。うちの子に何をしたんだ」
と吠え付いた。すると海賊とゾンビが彼らの足元に威嚇射撃を行った。キツネも殺せないはずのBB弾が、硬い床に易々と穴を空けていく。子供を助けたい父たちの足元には、ロックアイスのようになったコンクリート片がばら蒔かれた。
「騒ぐな」
海賊が冷凍庫の唸りのような低い声で言ったが、親たちはひるまずに食い下がる。愛するわが子のためなら命を捨てる気だと言わんばかりに目を血走らせている。しかし、それ以上に目が赤い黒い女は、ニヤリと笑って子供たちを撮影したポラロイド写真を父たちに見せながら端っこを破いた。すると突然、ドン!と、ボーリングの玉を2階から落としたような音が広場にこだました。ビクついた母親たちが音の震源を見詰めると、子供たちのすぐ後ろの床が割れ、長い亀裂が入っていることに気がついて恐怖した。
「この魔法のカメラは、写真と被写体を運命共同体にする力があるの。だから、写真をやぶっちゃうと、そこに写っていた物も一緒にやぶれちゃうってわけ」
白黒チェック模様の硬い床の亀裂は、写真の破れた場所と全く同じ場所に刻まれていた。もし、写真の中の子供の首を破けば、実物の首もたやすく裂け、床が地獄のように赤く染まるのだ。子供たちの命は、もはや悪魔の手中の写真の中にある。女は、海賊の上着のポケットからライターを取り出して火をつけ、写真に近づけた。
「私の言うことを聞かなかった場合、この子たちがどうなるかを想像してみて」
ライターの火が写真の隅を焦がす。そばに写りこでいる子供の、
「熱いっ」
の悲鳴に、その子の母の、やめて!の叫び声が重なった。
「わかった」
父親の群れの先頭に立つ男が、黒い毒女にストップの手をかざした。
「要求はなんだ。言うことはなんでも聞くから」
先ほどまで、気高き猟犬のように吠えていた父たちは、今は子犬のようにシュンとしている。それを見た女は、おかめのお面みたいに笑った。
「子供をおいて、ここから出て行って」
女が言うと、親たちは本能的に首を横に振ってしまった。縦に振らなければいけないことはわかっているのだが、体が言うことを聞かないのだ。すると、黒いカラスが首をかしげて、再びライターに火をつけた。
「出て行って」
父も母も目に涙を浮かべながら呆然と立ち尽くしたまま動けない。
「ゲラウェーイ(get away)!!!」
業を煮やしたカラスが、ガァーッ!と吠えた。親たちがどうしていいのかわからずにうろたえていると、女は顔を歪めて舌打ちし、火で写真を炙りだした。子供たちの絶叫が始まる。するとやっと親たちが、わかった、と叫んで動き始めた。父たちが泣き伏す母に歩みより、肩を抱きながら、いこう、と促す。
「言うとおりにする。だから、子供たちには何もしないでくれ。これだけは約束してくれ」
頬に涙の筋を光らせながら、一人の父親が女に懇願した。
「わかったわ。約束する」
あいかわらず、おかめのお面みたいな笑みを顔にくっつけている魔界のカラスが答えると、父たちが、絶望にひれ伏す母たちの肩を抱き抱えながら広場から去りはじめた。我が子の名を呼んで泣き叫ぶ母たちは、負傷した兵隊そのもの。それを父たちが、引きずるようにして外へと出して行った。 やがて、広場には子供とテロリストだけの氷の国が完成した。子供たちは、雪山の樹氷のように、ショーを楽しんでいた時の格好のままでピタリと止まっている。その小さな雪像は、目からポトリ、ポトリ、と涙を落としていた。氷のオブジェをステージから見物する雪の女王がつぶやく。
「約束を守るのは、愛のある家庭で育った人間だけよ」
気が付けば、おかめのお面は般若面に入れ替わっていた。
そうこうしていると、彼女のもとに、おもちゃや生活雑貨などを引っさげたハロウィンのお化けたちがゾロゾロと集まってきた。林檎でいっぱいになった買い物かごをぶら下げる赤ずきんちゃん。その隣には、カセットコンロのガスボンベを詰め込んだリュックを担ぐ狼男がいて、その後ろに両手で電子レンジを抱えるピノキオに扮した中年女が立っている。ピコピコハンマーを握ったピエロもいた。計二十名ほどの悪魔同盟が、ボスである黒カラスの周囲に集結すると、氷の国は、いつの間にかゾンビが群がる墓場に変わっていた。子供たちは墓石みたいに、ぴくりとも動かない。
「予定通りね。それじゃあ各班、作戦に移って」
パンッ、と手を叩くと、今度は小さな群れに分裂した屍たちが広場からすばやく離散していった。そして、黒い毒蛇みたいな女リーダーは二人の部下を連れて、展望台直通の超高速エレベーターの乗り場に向かった。一人は、おもちゃ売り場で折り紙セットをチョイスした妖精。もうひとりは、丸ブチのメガネをかけて、犬の着ぐるみをきた高校生ぐらいの鈍臭そうな女だった。その女が歩くのが遅くて、マリアンヌさん待ってください、というと、黒蛇は持っていたアタッシュケースを静かに床に置き、般若面みたいな顔をしながら踵を返した。そして、遅い女の背後に回り込んで、
「トロイんだよ、このメンヘラ女」
と、大根のような足で着ぐるみの尻を蹴り上げた。
「ごめんなさい」
キャン!と鳴く犬のような声を上げながら着ぐるみは跳ね上がった。般若は、のら犬の耳を引っ張り上げて脅した。
「足引っ張るんなら屋上から投げ落とすぞ」
ごめんなさ……犬が詫びるのをカラスが、ガァー、と遮る。
「謝るヒマがあったらさっさと歩け」
大根が尻を叩くと、もう一度、キャン!と犬が鳴いた。
希がいる地下一階の菓子売場には、三階で発生した津波がまだ到達していなかった。フィーバーのパチンコ台から溢れ出す玉のように、客が賑やかにごった返している。選ばれし輝きを秘めた少女・白鳥希は、人ごみの中でも見失う心配がないほど目立っていた。もはや歩く真珠だ。キメの整った彼女の頬は、開封したてのヨーグルトの表面と同じでなめらか。おもわずスプーンを入れたくなる。彼女は、祖母と一緒に2階へ上がるためにエレベーターホールに来ていた。ホールにはエレベーターを待つ客がたくさんいて、その中にモンブランを買った70歳頃の女性の姿もあった。
母へのバースデープレゼントを手にぶら下げる希は幸せそう。そんな彼女に、背後の人だかりを縫いながら近づく黒い影があった。さっきの雄の黒猫だ。彼は一目散に希に駆け寄って、ジャンプ! 彼女の頭に飛び乗った。
「きゃあ! なに?」
小さく叫ぶ真珠。隣に立つ祖母も面食らって、慌てふためく。
「話を聞くニャン!」
猫の言葉は、希の頭の中でだけ認識された。周囲には、ニャーとしか聞こえていない。彼女はケーキを祖母にあずけ、目を白黒させながら頭上の猫を両手でつかんで目の高さに下ろして視線を合わせた。
ニャーオ、猫が鳴いた。
「僕の声が聞こえるってことは、君が強い魔力を持っている証拠ニャン」
(ね、ネコが喋った!)
希は、高速連写するカメラのシャッター幕みたいに目をパチパチと瞬いている。
ニャーオ、また黒い塊が鳴いた。
「今、この建物には魔法の国から逃亡してきた凶悪犯がいてテロを始めようとしているニャン。君にそれを阻止して欲しいニャン!」
「わ、わたしが?」
希が、墨汁の容器みたいな色の猫に向かって大真面目に呟いた。すると、人間の女の子が猫を相手に一人でしゃべっている絵面を目の当たりにした祖母と周囲の買物客たちが、ちょっとだけ痛い子を見るような目になってしまった。
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