魔法少女狂葬曲

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 ニャオニャーオ! 猫はためらわず容器から墨汁を漏らす。 「君からとてつもなく大きな魔力を感じるニャン。君には魔法少女になる素質があるニャン!」  真珠の目がダイヤモンドの光りを放った。   「私に……魔法少女の素質?」  希が、ブラックコーヒーに一晩浸した黒糖パンよりも黒い猫と真剣に会話していると、周囲の目が次第に、そこそこ頭の痛い子を見る目に格上げされた。  ニャー! 「お願いニャン。君の力を貸してほしいニャン。このままだと日本人がマリアンヌに皆殺しにされてしまうニャン」 「み、皆殺し!?」  ニャー!! 「時間がないニャン! お願いニャン」  そして、猫の目が再び満月のように開いた。すると、瞳の底にある太陽のような熱を感じた希は、ためらいながらも、わかったわ、と言った。その顔の真剣さは最上級。だから、祖母とギャラリーの目も、最高級に痛いものになってしまった。祖母が希の額に手を当てて具合を確認する。 「希ちゃん? あなた、だいじょうぶ?」  訊ねる祖母の声には哀愁が漂っている。若くして、何かの病気を発症してしまったのか……。そんなことを憂いているような哀愁だ。晩秋の物悲しい空のよう。三年間洗わずに使い続けた魚焼きグリルみたいに真っ黒な猫が、ニャー、といった。 「今から渡す魔法のコンパクトを開いて、鏡に映る自分に向かって『マジカル・チェンジ』と大きな声で唱えるニャン。そうすれば、魔法少女に変身できるニャン!」  猫は希の頭上に飛び移り、目を閉じて何かを念じながら、防災無線のサイレンのようにニャーーーオ、と長く鳴いた。エレベーターホールの隅々にまで響いた。すると、黒い猫の眼前の小さな空間が陽炎のように揺らぎ始めた。そして、その空間から原発の燃料棒が臨界したみたいな目を刺す光が放たれた。その眩さに、皆目を開けていられなくなった。  やがて光が収まると、猫の目の前に小さなコンパクトが出現した。コンパクトの中心に、真っ白な翼を生やしたプルンと瑞々しい大きなハートがあり、その上には黄金色に輝く王冠がある。その小さな丸い手鏡は、晴天のさざ波に上下する船舶のように、キラキラ、ふわふわと宙に浮かんでいた。 「受け取るニャン。そして、魔法少女に変身してマリアンヌの野望を阻止するニャン!」  館内の照明を浴びても黒さを全く変えない猫が、ニャオ、と鳴くと、宙に浮かぶコンパクトに重力のスイッチが入った。希は、受け取るために、手を伸ばした。 (よかったニャン。これほどの魔力を持った魔法少女なら、マリアンヌなんてすぐに倒してくれるニャン。地獄に仏ニャン)  安堵した黒猫が、ホッと息をついて目を閉じると、あっ!という希の声のあとに、カチャン! 床に何かがぶつかる音がした。ニャン? 何かと思い、猫が目を開けると、その視界に床を転がるコンパクトが飛び込んできた。落とした小銭みたいにフラフラと転がっている。 「ニャン?」  希が受け取りをしくじったのだ。手をすり抜けたコンパクトは彼女のつま先に当たって転がり、どんどん離れていく。 「ニャニャ!?」 (ちょっと待った!)  コンパクトは、ころころ、ころころと転がり続けて、やがて慣性力を失って倒れた。そのすぐそばにいたのは、先ほどのケーキ屋でモンブランを購入した70歳ぐらいの女性だった。 「あらまぁ」  70の女が、親切心でコンパクトを拾ってあげようと床に手を伸ばした途端、ニャン!ニャン! 猫が犬みたいに吠えた。 (やめるニャン!)  だが女の指は、コンパクトに向かって一直線。 (だめニャン!!)  猫は、活火山の火口から聞えてきそうな声でニャー!!!と叫んだ。しかし、70女の人差し指がコンパクトに触れた。 「ニャ……」  一瞬、コンパクトが茜色にふわりと光る。コンパクトを拾ったセブンティーガールはそれに気づくことなく、希に歩み寄り、微笑んで、 「これ、あなたの物でしょ」  といって渡した。 「ありがとうございます」  照れながら頭を下げる真珠の少女。その頭上には、木炭を彫ってつくった置物のような猫がフリーズしている。仕切り直した希は、目を閉じて何かを決心するように頷いたあと大真面目に、コンパクトに映る自分と見つめ合った。 「ニャン……」  猫は、風船から空気がぬけていくような声を出す。真剣な希との温度差が著しい。 「いくわよ」  熱い眼差しの希が黒猫に意思確認をしたが、猫は何も答えなかった。真夏の炎天下に溶けるイカ墨ソフトクリームみたくドロンとうなだれている。周囲の痛い目を振り切って、希は大声をエレベーターホールに響かせた。 「マジカル・チェーンジ!!!」  ・・・・・。 水を打ったように静かになる、という言葉を、その場にいた全員が思い浮かべてしまった。雑踏の賑やかさは百メートル以上向こうに追いやられている。周囲の目は痛さを超えて、憐憫の眼差しへと変わった。祖母が、泣きそうな目をしながら言う。 「希ちゃん……あなた、どうしちゃったの」  希にもわからない。見知らぬ猫に突然話しかけられ、その気にさせられたあと、言われるがままに手鏡に向かって大声を上げた結果、数多の冷眼を浴びることになったのだ。希は今、アラスカの氷山に挟まれた谷底にワープしたような心境だ。猫は、しょんぼりとしながら希の頭上からピョン、と降りた。その屈託のないシルエットを見た途端、希の腹ぞこが煮え返り始めた。純真な乙女心を八つ裂きにされた気分になった彼女は、怒りの炎で凍りついた体を溶かしはじめた。 「魔法少女になるんじゃなかったの?」  希の声は、海底火山の蠢きに似ていた。しかし、さっきまで賑やかに喋っていた黒い炭はニャーとしか答えない。その猫なで声についに噴火してしまった希は、手に持っていたコンパクトを猫に向かって思いっきり投げつけて叫んだ。 「からかってるのか! この馬鹿猫!!」  ニャン! 火を吹く直球を背中に受けた猫が飛び上がって悲鳴を上げると、周囲は皆ビクついた。搾りたてのミルクのように白かったはずの希の頬は、非常ベルのランプと同じく真っ赤になっている。ジリリリリ、と警報が聞こえてきそうなほどだ。少し涙ぐんでいるところからみて、相当傷ついたのだろう。そのとき、ポーンと到着のベルを鳴らしながらエレベーターのドアが開いた。猫を睨みつけたあと、彼女は逃げるように箱に飛び乗ったので祖母も慌ててあとを追った。そして、ドアが閉まる間際、彼女が大きく泣き出す声が一瞬だけエレベーターホールに聞こえた。  ニャン……猫は、床にとろりとうなだれている。70の女が戸惑いながら、落ちたコンパクトを拾いあげて猫に近づいた。すると彼女の頭の中に突然、 「困ったニャン」  の声が響いたので、え? なに? と縮み上がった。辺りをキョロキョロ見渡すが声の主が見つからない。 「こっちニャン。今しゃべっているのはあなたの足元にいる黒猫だニャン」  彼女は、未知の惑星にワープしてしまった人みたいにオロオロしている。怯えた顔で猫の方を見た。 「初めまして。僕の名前はリリー」  猫が笑ったように見えたので、70の女は一瞬気を失いそうによろめいた。なんとか踏ん張ったので転倒は避けられたものの、酒を飲んだみたいに目が回っている。 「なに? どうなっちゃったの私」 「大丈夫だニャン。あなたもさっきの女の子も、どこも変になってないから安心するニャン。僕は魔法の国から遣いとしてやってきたニャン。だから、特定の人間とお話が出来るんだニャン」  そうと言われても70の女は理解などできない。緊張と疲労のせいで顔の見た目年齢が七割増しになっていた。 (無理もないニャン。でも、こうなった以上はこの人に魔法少女になってもらうしかないニャン)  漆塗りの重箱なみに黒い猫が、彼女に事情を一から説明しようとした時だった。地下一階にも津波が到達しようとしていた。大波の前に波が引いていくように妙な静寂が館内を満たす。 「テロ?」  「冗談でしょ?」  売り場を埋め尽くす客たちがひそひそ声で話し始めた。フツフツと湧き始めるヤカンのように。加熱される水は温度をみるみる上昇させていく。 「コスプレをした奴らがイベントに乱入して暴れてるんだってさ」 「マシンガンで何人か撃たれたらしいわよ」 「え? うそ!?」 「ちょっと、逃げた方がいいんじゃない?」  湯を沸かすケトルがどんどん騒がしくなっていき、やがてエスカレーター付近から沸騰が始まった。 「館内でテロが発生しました。危険ですので今すぐ外へ避難して下さい!」  警備員の声が聞こえた。その声に正気を取り戻した70の女が、エスカレーターの方へ視線を向けると、皆凍りついた背中を見せながら、動く階段を駆け上がっているのが見えた。掃除機のノズルの内部みたいに人が上の階へと吸い込まれていく。だが、すぐにゴミパックがいっぱいになったらしく、エスカレーターはそれ以上人を吸い上げられなくなった。登り口が渋滞し、人の団子ができて焼けた餅みたいにどんどん膨らんでいく。 「慌てずにゆっくりと登ってください」  の警備員の呼びかけは、どけ、早くいけ、押さないで、の怒号にかき消されていた。 「なんなの? 何が起きたの!?」  70女が鳥肌を立てながら慌て始めた。 (とうとうマリアンヌが行動を始めたニャン!)  黒猫は、女の正面に移動して訴えた。 「魔法の国から脱走してきた悪魔が上の階で暴れているニャン。阻止しないと日本が危ないニャン」
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