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エピローグ:残月の下で未来の話を2
カツン、カツンと私たちの足音が座敷の中に響いている。
そこは幽世にある「魂の休息所」と呼ばれる場所だ。
湖にぽっかり浮かんだ島の周りには、水中に沈んだ座敷牢が並んでいる。魂の休息所は、転生を拒んだ人間の魂が収容される場所だ。管理は八百比丘尼が行っていて、そこで充分な休息を取った魂は、再び輪廻の輪へ戻される。
月子が起こした事件が終結したその日のうちに、私たちは連れ立ってここへやってきた。恐ろしく疲れているし、もうすでに日付が変わろうとしているくらいには遅い時間だ。
けれど――私たちにはあまり時間が残されていなかった。
昨今、現し世の情勢が不安定だからか、休息所は満員御礼だった。尼僧たちが慌ただしく業務に追われているのを眺めながら、そっとその人を見遣る。
いつも飄々としている玉樹さんは、どこか思い詰めたような表情をしていた。
「相変わらず、ここはしけてやがるな」
「仕方ないだろう? ここは入院施設みたいなものだからね」
その隣を歩くのは、東雲さんと河童の遠近さんだ。ふたりは玉樹さんの古くからの友人だ。彼らは玉樹さんの付き添いをするために、深夜だというのにわざわざここへ駆けつけた。
それは友人の最期を看取るためだ。そう――玉樹さんは今日、奥さんとの未来のために、不当に引き延ばされた人生に終止符を打つつもりなのだ。
――玉樹さんが死んでしまう。
そのことに想いを馳せると、頭も心もすべてがグチャグチャになって、わけがわからなくなる。知っている人が亡くなること。蝉のきょうだいたちの件でも目の当たりにしたことではあるが、何度体験しても慣れるものではない。
玉樹さんとなればなおさらだ。彼とは何度も何度も言葉を交わし、笑い合い、時に軽口をたたき合ったのだ。一緒に過ごしてきた時間の密度が違う。
「……大丈夫か」
よほど暗い顔をしていたのだろう。水明が声をかけてくれた。
けれど、それに言葉を返すことはできなかった。喉の奥がひりついて、どうしようもなかったからだ。だから、小さく首を横に振るだけにとどめた。私の反応に、水明は表情を曇らせ、そっと手を握ってくれた。
そこから歩くこと数分。私たちは目的地へ到着することができた。
やってきたのは、湖の中央辺りに位置する座敷牢だ。普通の家屋とは違って天井はなく、頭上にはゆらゆらと湖面が広がっている。時折、魚の影が横切っていく。幻光蝶入りの行灯が設置されたその場所は、思いのほか穏やかな雰囲気を醸し出していた。
「ようやく来たか。待ちくたびれたわ」
「いらっしゃい。待っていたわ」
すると、先に到着していたらしい玉藻前が文句をこぼした。その隣で微笑んだのはナナシだ。ふたりは、座敷牢の前に座り込み、中の人物と話し込んでいたようだ。玉藻前は、さらりと衣擦れの音をさせて立ち上がると、衵扇で口もとを隠して笑んだ。
「馬鹿者め。想い人をあまり待たせるものではない。他の男に取られても知らぬぞ?」
意地悪な玉藻前の発言に、玉樹さんは特に反応を返さなかった。
わずかに眉を寄せ、苦しげに座敷牢の奥を見つめる。
すると、中にいた人物がゆっくりと座敷牢の中から出てきた。
「ずいぶん、ゆっくりされていらっしゃったのですね?」
現れたのは白髪の老女だ。柔らかな目もと。年輪のように刻まれた皺。真っ白な髪は丁寧に梳かれ、腰の辺りで緩く結われている。その人が、玉樹さんの妻であるお雪さんだ。
お雪さんはちらりと着物に視線を落とすと、少し恥ずかしそうに眉尻を下げた。
「――ふふ。あなたが来ると知って、ナナシに新しい着物を用意して頂いたのです。淡黄色だなんて……お婆さんには少し若すぎる色かと思ったのですけれど」
本人はそう言うものの、春を思わせる柔らかな黄色は、お雪さんにとても似合っていた。
ゆっくりとお雪さんに近寄って行った玉樹さんは、愛おしそうに目を細め、そっと彼女の頬に手を伸ばす。柔らかな手付きで彼女の頬を撫でた玉樹さんは、私が聞いたこともないような優しい声で言った。
「とても似合っている。お前の瞳の色を際立たせているようだ」
「――まあ!」
すると、お雪さんはパッと頬を薔薇色に染めた。
「やだわ。他の人もいるのに! 見た目だけじゃなく、心まで若くなられたのですか?」
江戸時代に生きた彼女からすれば、玉樹さんの言葉は直接的過ぎたのだろう。
どうにも気恥ずかしいようで、ツンとそっぽを向いてしまった。
「……ハハッ」
玉樹さんは小さく笑みをこぼすと、そっとお雪さんの腰に手を回して抱き寄せる。
「なっ……! と、豊房さま!?」
「あれから二百年以上経った。時代は変わったのだ、お雪。今は、衆目の前で愛を囁いたって構わない」
「~~~~ッ!」
茹で蛸のように真っ赤になってしまったお雪さんを腕の中に収めた玉樹さんは、微かに声を震わせながら囁いた。
「……ずいぶんと待たせてしまった。すまない」
お雪さんはピクリと体を硬くすると、小さく首を横に振った。
「あなたが、絵を描くこと以外できないのは存じ上げておりましたので」
「手厳しいな?」
「ふふ。たくさん待ったのですから、ちょっとくらい、いいではありませんか」
「確かに」
玉樹さんは大きく息を吐くと、ふいに私たちの方を見た。
「東雲、遠近、ナナシ。死後、この体の始末を頼む。できれば、現し世式で葬って欲しい。自分は……己があやかしであったとは一度も思っていない。うっかり、死にそびれてしまった、ただの人間だ。だから、人間らしく弔われたい」
「……わかった」
「ああ。僕に任せておいてよ」
玉樹さんは玉藻前へ視線を遣ると、小さく頭を下げた。
「転生後の自分とお雪が巡り会うように、閻魔への取り計らいを頼む。よもや、天下の玉藻前が約束を違えるとは思わないが……」
「ホホホ! わかっておる。しつこく言うでない。やる気が削がれるわ」
「……頼んだ」
最後に私を見た玉樹さんは、目を細めて笑った。
「自分とお雪の間には、子ができなかった。だから――なんというか、父がふたりいるようだと言われて……うん。少し、そういう気持ちを味わえた。感謝する」
「……っ。は、はい」
「お前は本当に出会いに恵まれている。それを忘れるな。幸せになれ。誰よりも」
息が詰まって返事ができない。ボロボロ泣きながら、コクコクと黙ったまま頷けば、安心したように息を吐いた玉樹さんはお雪さんへ向き合う。
「――なあ。しばらくまともに絵を描けていない。転生した後、ちゃんと描けるだろうか」
弱音をこぼした玉樹さんへ、お雪さんはコロコロ笑った。
「あらあら。大丈夫ですよ。わたくしがお尻を叩いて差し上げますから。ちゃんと描けたらたくさん褒めて差し上げます。いつものように」
「厳しいな。相変わらず、お雪は厳しいのに優しい」
「だってわたくしは〝名〟を遺すような偉大な絵師の妻ですもの」
「アッハハ! 確かにそうだな。まったく……自分にはお前がいないと駄目だ。なあ、人魚の肉を食べる前に少し話そう。今日まで、いろんなことがあったんだ。それに、貯め込んだ感情を吐き出したい。あの時代は妻を綺麗だと思っても碌に褒められもしなかったから」
「……お手柔らかに頼みます。わたくしの心臓が止まってしまいそう」
「それは困る」
玉樹さんとお雪さんは手と手を取り合うと、そのまま小声で話し始めた。
完全にふたりの世界になったのを確認して、そっと踵を返す。すん、と洟を啜った東雲さんの背を、遠近さんが優しく叩いた。
「今は寂しいかもしれないが、転生後の彼らに会いに行けばいい話さ。彼らが戻ってくるのを待とう」
「…………。ああ、そうだな」
そんな会話をすると、東雲さんたちは連れ立って先に行ってしまった。
私は溢れてくる涙を抑えきれず、ボロボロ涙をこぼしながらゆっくりと歩いていく。
すると――隣で歩いていた水明が私の手を強く引いた。
「……話がある。行こう」
真剣な眼差しに、思わずこくりと頷く。
その時、背後から温かい感情に満ちた声が聞こえてきた。
「――お前と会えて良かった。愛している。お前しかいない。ずっと一緒にいてくれ」
「はい。わたくしでよければ、どこまでも、どこまでもお供いたします」
***
水明に連れられ、私は再び淡路島へやって来た。
まだ夜は明けていない。暗い海からはざあざあと波音だけが響いている。
なんとも心を不安にさせる光景だ。呑み込まれたら、二度と帰ってこれないような……。
けれど、今の私にはそれがちょうどよかったようだ。乱れていた感情が、黒一色の海を見ていると穏やかになってくる。肺いっぱいに潮風を吸い込めば、苦しい感情を一時忘れられるような気がした。
防波堤に座って海を眺めていると、そこに水明がやってきた。
「……落ち着いたか」
隣に腰掛けた水明は、苦い笑みをこぼした。
「まったく。お前の周りはいつもいろんなことがあるな」
「私のせいじゃないよ。でも……今回のことは、ちょっとくるものがあるかな」
思い出すと、またじんわりと涙が滲んできた。
「――玉樹さんたち、来世はもっともっと幸せになって欲しいなって思う。でも、私は来世の姿を見られないじゃない? 突然、別れが来たようなものでさ」
小さく洟を啜れば、水明は複雑そうに眉を寄せた。
「仕方がないさ。アイツらと違って、俺たちは人間だからな」
「そうだね。でも……寂しいねえ……」
「ああ」
ぽつりと互いに呟き合って口を閉ざす。一定のリズムで寄せては返す波音を聞きながら、ぼんやりしていると、ふいに水明がこぼした。
「……久しぶりに会ったの、忘れてるだろう」
「ハッ……!」
慌てて水明の顔を見れば、じとりと私を不満げに見つめている。
「いやっ、えっと! なんというかこれはっ!」
――玉樹さんのことで頭がいっぱいだったというかなんというか……!
ひとりアワアワと慌てていれば、水明はプッと小さく噴き出した。顔を逸らし、クツクツと喉の奥で笑っている。私はなんとも言えない気持ちになって、素直に謝った。
「……ごめん。別に忘れてたわけじゃなかったんだけど」
「わかっている。少し意地悪だったな」
水明は笑いを収めると、じっと私を見つめた。
「返事、遅くなってすまない」
――ドキン、と心臓が跳ねた。
つま先から頭の天辺まで、一気に血が巡ってきたのかと思うほどに体が熱くなって、じんわりと汗が滲んできた。心臓の音がうるさい。自分に注がれる水明の視線がいやに気恥ずかしくて、なんだか逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
「なあ、どうして淡路島へ戻ってきたと思う?」
意外な言葉にキョトンとする。咄嗟に答えが出なくて戸惑っていれば、水明は海に視線を移して語り出した。
「お前たちが孤ノ葉と話している間、少しだけ……玉樹と話す時間があったんだ」
「玉樹さんと?」
「それで教わったんだ。古事記によれば、淡路島は日本で一番最初に作られた島だと」
じっと私を見つめた水明は、その瞳を柔らかく細めて言った。
「つまりは、ここからすべてが始まったんだ。あらゆる命も、伝承も……物語も。それを聞いた時、一番にお前の顔が思い浮かんだ」
瞬間、チカチカと視線の端から眩い光が飛び込んできた。
驚いて光の方へと顔を向ければ、水平線の向こうから暁色の光線が伸びてきているのがわかる。――夜明けだ。暗かった空に赤みを帯びた色が滲んでいき、黒々としていた海面が宝石のように眩く輝き始めた。
思わず見蕩れていると、そっと私の手に水明が触れた。
ハッとして顔を向ければ、彼の瞳の中に朝日を見つけて目を瞬く。
薄茶色の瞳が朝日に染め変えられ、黄金のような輝きを増していった。
「きっと、俺の物語は……あの日、幽世に落ちた時に始まったんだ。お前が拾ってくれなければ、始まりもしなかったに違いない。ありがとう」
そして強く私の手を握りしめ、言葉を重ねた。
「感情を制限されていた俺を、世界を知らなかった俺を、不器用だった俺を、ここまで変えてくれたのは、紛れもないお前だ。……本当にありがとう」
水明はそこまで言うと、大きく息を吸った。ゆっくりと息を吐いて、決意したように顔を引き締めると、その瞳を柔らかく細めて――こう言ってくれたのだ。
「俺もお前が好きだ」
それだけ言って口を噤む。ぱあっと顔が色づいたのは、きっと朝日が差したからじゃない。
「う、うう……!」
心が震える。心臓が今までにないくらいに強い鼓動を刻んでいる。
わけもなく体がソワソワして。盛大に照れている目の前の少年がどうにも愛おしくて。
私は気持ちが導くまま、勢いよく叫んだ。
「――水明っ!!」
「な、なんだっ!?」
「手を広げて!!」
「お、おう!」
そして、素直に両手を広げた水明の腕の中へ、私は勢いよく飛び込んだ。
「やったあ……! 私も大好き!」
「……うわっ!」
瞬間、ゴチン! と鈍い音がする。水明の顔が痛みで歪んだ。
どうやら勢いよく抱きついたせいで、後頭部をしたたかに打ち付けたらしい。
「あ、あわばばば! す、水明、大丈夫~!?」
「お、ま、え……」
「ど、どどどどどどうしよう! 両思いになった途端、彼氏が脳内出血で死亡とか嫌だ! ナナシー! ナナシ……いやここは現し世! 健康保険証持ってる!?」
「落ち着け、馬鹿」
ぽんと頭を叩かれて、ハッと正気に戻る。
涙目になって下敷きにしている水明を見つめれば、彼は心底おかしそうに笑った。
「――アッハハハハハ! 本当に、お前といると退屈しないな!」
ケラケラ笑っている水明を見つめ、しょんぼりと肩を落とす。私のが年上なのに、これじゃあどっちが上かわかったものじゃない。脱力して水明の胸に頭を乗せていれば、ふと空にうっすらと月が居残っているのを見つけた。
それは残月だ。まだ明け切らない空に浮かぶそれは、柔らかな光を湛えている。
有り明けの月。なんて綺麗なんだろう――。
思わず目を奪われていると、ふと水明が言った。
「夜の世界に生きるあやかしと、昼の世界に生きる俺たち人間と。いくら長い年月をあやかしたちと過ごしても、馴染みきれない時は絶対にある」
「うん……」
――ああ、そうか。まるで私は残月みたいだ。
夜の世界と昼の世界の狭間で、ひとりぼっちで漂う月。
どちらにも馴染みきれない。ぽつんと取り残されたみたいな月は……私。
「でも、辛い時は俺に言えよ」
「……え?」
ハッとして顔を上げれば、水明は優しい笑みを湛えて言った。
「大丈夫だ。いつだって俺がついている」
その言葉に、じんと胸の奥が温かくなった。じわじわと胸の奥から熱が広がっていく。なんて心地のいい熱だろう。その熱はすぐに私の一部となって、体全体に馴染んで行った。
「わ、私だって。いつだって水明のそばにいるからね」
ホッと息を漏らして、再び水明へ体重を預ける。
――ああ。信じられない。こんなに満たされることは、今までなかった。
そのまま私たちは、ざあざあと絶え間なく押し寄せる波音を聞きながら――太陽が徐々に上って行く様をひたすら眺めていたのだった。
***
「――明日、アイツの埋葬に行くつもりだ。今日はお前も疲れただろう。休め」
遠近と店頭で別れた東雲は、疲れた体を引きずるようにして貸本屋へ入った。
わが家の中は静まり返っていて、夏織はまだ帰ってきていないようだ。
「まったく、どこ行ったんだ。あの馬鹿娘」
ブツブツ言いながら居間へ上がる。一服しようかと煙草入れに手を伸ばせば――ズキリと鋭い痛みが襲ってきた。
「ぐっ……」
指先に当たった煙管がコロコロと畳の上を転がっていく。それを拾うこともできずにしゃがみ込んでいると、遠くから涼やかな音が響いてきた。
――ちりん。
鈴の音だ。夏織が帰ってきたのかとも思ったが、誰かが入ってくる気配はまるでない。
東雲は脂汗を流しながら畳に寝転がると、ひたすら痛みが治まるのを待った。しかし、痛みは一向に治まる気配はない。それどころか、徐々に強くなっていく。
――やばい。そう思った瞬間、耳もとで聞き慣れない声がした。
「人魚の肉はなんでも願いを叶えてくれるんだ」
しかし、東雲はその声に応えることはなく――襲い来る痛みに耐えかねて意識を手放したのだった。
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