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二ツ岩の出家狸6
風に煽られ、ざわざわと木々が騒いでいる。
前日とは違い、今日は生憎の曇り模様。
石の塔が並び立つお堂の前で、俺と双子は団三郎狸と再び向かい合っていた。
「――そろそろ、佐渡島を発とうと思っている」
俺がその旨を口にすれば、団三郎狸は小さな両手を合わせて頷いた。
「そうであるか。はるばる佐渡島まで来てもらったというのに、力になれずにすまぬな。芝右衛門へは、後で拙僧から文を出しておこう」
「こちらこそ、祈りの時間を邪魔して申し訳ない。……なあ? 銀目」
ちらりと銀目へ目配せする。銀目はにこりと笑みを浮かべ、話を引き継いだ。
「確かにな。俺らも修行を邪魔されたらムカつくしよ。金目もそうだろ?」
銀目の後ろから顔を覗かせた金目は、憂いげに瞼を伏せる。
「僕もそうだよ。だから、なにかお詫びをしたいんだ」
「――お詫び?」
首を傾げた団三郎狸へ、金目は手を合わせて言った。
「そう、なにか願いごとはない? 僕らこれでも天狗だから、多少は神通力が使えるんだ。今、幽世で噂になってる人魚の肉とまではいかないけど、ある程度は希望に添えると思う」
「……願い」
金目の言葉に、団三郎狸はじっとなにごとか考え込んでいる。
俺はすかさず、かの狸へと声をかけた。それもこれも話の筋から逸れないためだ。
「団三郎様、寒戸から聞いたんだが、どうも死後に受ける罰に怯えているらしいな」
「そ、それは……」
サッと目を逸らされた。
ただの根拠のない想像であったものが、確信に近づくのをひしひし感じながら続ける。
「よければ、そこの双子に釈迦の説法を聞かせてもらったらどうだろうか。ああ、もちろん本物の、だ。かのお方が存命のおり、天竺の大鷲山の霊峰で大会があったことは知っているか?」
「ああ、いつかどこかの僧が語っていたでござる。時空を超越してでも目にしてみたいと」
「――ならば話が早い。この双子ならば、それを見せることができる」
「なっ……!?」
目をまん丸にしている団三郎狸へ、にこりと菩薩のような笑みを浮かべる。
「団三郎様もいまだ修行の半ばとお見受けする。ならば、釈迦如来の説法を聞くことには意味があるはず。俺は仏教についてあまり詳しくないが、もしかしたら――現世で犯した罪を濯ぎ、極楽へ行くための方法がわかるかもしれないと思っている」
その瞬間、団三郎狸が勢いよく立ち上がった。
「そっ……そうであるか! ならば、ならば! 是非とも!」
どこか切羽詰まった様子の団三郎狸へ、銀目と金目は静かに語りかけた。
「よっしゃ、わかったぜ。俺らがその光景を見せてやろう――だが、俺らもまだ未熟でな」
「ふたりでようやく一人前なくらいでね~。だから、ひとつ約束して欲しいんだ」
「「絶対に声を出さないこと」」
「それを破ったら大変なことになっちまう。一声も漏らすなよ」
「万が一、なにがあったとしても文句は受けつけないんだからね!」
はっきり言い切った双子に、団三郎狸は戸惑いながらも頷いた。
途端、にや~っと双子が妖しく笑う。彼らは互いに手を合わせ、同時に言った。
「「ならば、二ツ岩の団三郎狸! 天狗の神通力、とくとご覧じろ!」」
瞬間、辺りに強い風が吹き荒れた――。
***
目を瞑っていた団三郎狸は、そろそろと目を開けた。
風がやんだ瞬間、どこからともなく心地よく響く澄んだ声が聞こえてきたからだ。
しかし、すぐに目を眇める羽目になった。
なぜならば、眼前に広がっていた光景があまりにも眩しすぎたからである。
そこは住み慣れた二ツ岩神社の敷地内のはずだった。しかし、生えているのは金・銀・瑠璃・玻璃・珊瑚に瑪瑙、そして硨磲の七宝とされる宝石でできた木々。
数多の星々が彩る夜空からは、はらりはらはらと曼珠沙華や曼陀羅華の花が絶え間なく降り注ぎ、それは地面を覆い尽くすほどだった。
この世の場所とは思えない光景に見蕩れていれば、遠く離れた場所で、人々がある人物の説法に耳を傾けているのに気がつく。
団三郎狸自身、誰かから仏教の教えについて正当に学んだことはない。
だから、目の前に広がっている光景の〝ありがたさ〟はさほど理解できていなかった。しかし、そこに満ちる神々しいまでの空気感、その人物から感じられる陽だまりのような温かさ、わけもなく無性に惹かれている自分には気がついていた。
――あれが釈迦如来。その教えを知れれば……。
説法を聞いている一団に加わろうと、団三郎狸が一歩踏み出したその時だ。
ざらり、足もとでその光景に似つかない音がした。
ふと視線を落とせば、団三郎狸に足もとには丸い石が敷き詰められていた。
再び顔を上げれば、すぐそこに一本の川が轟々と流れているではないか。
知らぬうちに、団三郎狸と釈迦如来たちがいる場所が川によって分断されていたのだ。
様々な色で溢れた向こう岸とは対照的に、石ばかりで草木も生えないこちら側は色褪せて見える。どこか寒々しい光景に、団三郎狸はふるりと震えた。
――天狗め。なにを企んでおる。ともあれ川を渡ろう。説法を聞くのだ。
決意して歩き出す。すると――どこからともなく誰かの泣き声が聞こえてきた。
聞き覚えのある声にハッとする。
慌てて辺りを見回せば、少し離れた場所で蹲っている一匹の狸を見つけた。
雄ではない。雌の狸だ。小さな体を丸め、手ぬぐいを頭から被り泣いている。
見たことのある後ろ姿に、団三郎狸は堪らず息を呑んだ。
――寒戸……!
ここ数年、滅多に目にしなかった姿だ。当たり前だ。意図して避けていたのだから。
胸が耐えきれないほど苦しくなって、無視を決め込もうとする。けれども色のない風景の中、ひとりさめざめと泣いているその姿はあまりにも憐れだった。
団三郎狸はわずかに躊躇すると、そろそろと寒戸へ近づいて行った。
「……!」
瞬間、団三郎狸は必死に悲鳴を呑み込んだ。
なぜならば、寒戸の体がゆっくりと倒れ、地面に伏したからだ。
慌てて様子を確認するが、再び団三郎狸は悲鳴を呑み込む羽目になった。
倒れた衝撃で手ぬぐいが外れている。その下から現れたのは――寒戸ではなく。
団三郎狸が愛してやまない、もう一匹の雌狸であったのだ。
「――お、おろく」
おろくの体の下から、じわじわと赤い血がにじみ出した。首を掻き切られたばかりのようだ。うっすら開いた瞳は涙で滲んでいて、ひゅうひゅうと声にならない声を上げている。
「ど、どうして。どうしてだ!!」
双子とした約束をすっかり忘れて叫ぶ。身につけていたものを脱いで傷口に当てた。
しかし、血は止まらない。おろくの体からはみるみるうちに体温が失われていく。
その瞬間、砂利を踏みしめる音が背後から聞こえた。
絶望に苛まれながらゆっくりと振り向く。そして――大きく目を見開いた。
「団三郎様」
そこにいたのは、口もとを真っ赤に血で染めた寒戸。
寒戸はボロボロと大粒の涙をこぼしながら、掠れた声で言った。
「……私を裏切りましたね」
「うわあああああああああああああっ!!」
団三郎狸がとうとう悲鳴を上げた、その時だ。
ふっと風に吹かれた煙のように寒戸とおろくの姿が消えた。
煌びやかな七重宝樹はことごとくが砕け散り、地面に降り積もっていた花々は見る間に枯れて、釈迦如来の姿は立ち込めてきた霧の向こうに見えなくなる。
説法の代わりに耳に届いたのは、亡者があげる悍ましい悲鳴だ。
ハッとして周囲を見回せば、そこは極楽のように美しい光景から一変していた。
角の生えた鬼が跋扈する、血と炎と悲鳴で満ちた地獄へと変貌を遂げていたのだ。
「……やめ、やめてくれ」
途端に恐怖が襲ってきて、団三郎狸はその場に蹲った。
全身の毛が逆立っている。震えが止まらない。どうしてこんなことに。
そこに、やたら能天気な声が聞こえてきた。
「あ~あ。やっちまったなあ」
「本当に。声を出したら駄目だって、あれほど言ったのに」
ノロノロと顔上げた団三郎狸の鼻先にいたのは、烏天狗の双子だ。
彼らはニヤニヤ嫌らしい笑みを浮かべ、震えている団三郎狸を見下ろした。
「僕らの術は未熟だ。だからこそタブーを犯した時の反動は大きい。なにせ、その人物にまつわる罪に対応した地獄が再現されてしまうんだ。ねえ、銀目?」
「そうだな、金目。ここは……衆合地獄じゃねえか? 衆合地獄っていやあ――〝邪淫〟の罪を負った人間が落とされる場所だぜ。おいおい、信心の道を極めようと修行してたんじゃなかったのか?」
銀目と金目は互いに顔を見合わせ、いやに楽しそうに続けた。
「ねえ銀目。ここ衆合地獄はね、罪によって落とされる場所が違うんだよ」
「そうらしいな金目。団三郎狸が落とされるところはどこだろうな?」
「そりゃあ、大鉢頭摩処じゃない? 出家僧じゃないのに、身分を詐称した人が行くところ! なにせ、おろくのところでお経をあげてたっていうじゃないか!」
さあ、と団三郎狸の顔から血の気が引いていく。
すると、銀目が調子よく続けた。
「そうかもなあ金目。でも……俺は確信してるぜ。コイツが落ちる地獄は、無彼岸受苦処に決まってる。――なにせ」
ニィ、と銀目が妖しく笑む。彼は団三郎狸の耳もとへ顔を近づけて言った。
「寒戸ってもんがありながら、よその狸と通じてたんだからなあ」
「……!」
「浮気はいけねえと思うぜ、俺は」
銀目の言葉に、団三郎狸はゴクリと唾を飲み込んだ。
震えが止まらない。頭の中はひたすら混乱していて、なにが正しいのかすらわからない。
しかし――このことに関してだけは、団三郎狸は以前から決めていた。
「すっ、すまなかったと思ってる!」
僧侶らしくと飾り立てていた言葉遣いをかなぐり捨て、素のままの自分になって叫ぶ。
「これは紛れもなくオレの罪だ。償う覚悟はできている。寒戸にも誠心誠意謝ろう。そ、そうだ。オレはおろくを愛している! それは嘘偽りのない気持ちだ。だが、罪は罪! 死後にどんな地獄に落とされようと――オレはそれを受け入れる」
銀目は、じいと団三郎狸を見下ろし、どこか冷たく聞こえる声で言った。
「意外だな。地獄が怖くて怖くて堪らないから修行をしていたんじゃねえの?」
「違う。怖くない! そうじゃないんだ! だから、だから頼む」
団三郎は涙で顔をグチャグチャにしたまま、プライドを捨てて、銀目と金目に縋った。
「もう一度、釈迦如来の説法を聞くチャンスをくれ! オレにはどうしても必要なんだ!」
「――やはりそうか。お前が畏れているのは〝自分の罪〟ではないんだな」
するとそこへ、淡々とした声が響いた。
顔を上げた団三郎狸が目にしたのは水明である。
「――以前より、お前はおろくと関係を持ち、何度も逢瀬を重ねていた」
「…………そ、そうだ」
「お前が〝極端になにかを畏れるようになった〟のは、五年前。記録的な大雨が降った日のことだ。おろくの棲み家は橋のたもとにある。大雨が降れば当然流されてしまうだろう。狸の巣なんてもろいものだ。すべてをあっという間に濁流に持って行かれる」
「おろくも流されたってことか? ……でも、アイツは元気そうだったぜ?」
「そうだな。団三郎狸にとって――〝それだけが救いだった〟と言えるのかもしれない」
そう言うと水明は口を閉ざした。赤々と燃える地獄の炎が水明の瞳に映り込んでいる。
どうにも、自分の奥底に隠しているものを覗かれている感覚がして落ち着かない。
堪らず団三郎狸が目を逸らした――その時だ。
――かつん。かちん。かつん。
どこからか、石が触れ合うような音が聞こえてきた。
なんの音だ。これは一体、なんの……。
――かつん。かちん。かつん。がら、がらがらがらっ!
その時、一際大きく石が鳴った。それはまるで――積み上げた石が崩されたような。
ハッとして団三郎狸は水明を見た。しかし視線は交わらない。
水明は、団三郎狸を通り越し、その背後にあるなにかをじいと見つめている。
瞬間、鮮やかに金目の言葉が蘇った。
『僕らの術は未熟だ。だからこそタブーを犯した時の反動は大きい。なにせ、その人物にまつわる罪に対応した地獄が再現されてしまうんだ』
――〝その人物にまつわる〟。
まさか。まさか、まさか、まさか! オレの後ろには――。
「あああああああああああっ!」
瞬間、団三郎狸は悲鳴を上げ、その場に蹲った。
――振り返ったら駄目だ、駄目だ、駄目だ!
「怖い。怖い……っ! やめろ、やめろよ! お前たちはなにがしたいんだっ!」
滂沱の涙を流しながら必死に訴えかける。
丸裸にされた心が寒くて。同時に、自分の背後にある〝なにか〟を無表情に見つめている水明が空恐ろしくて――。
団三郎狸は、心の内に仕舞い込んでいた〝秘めごと〟を耐えきれずに暴露した。
「そうだっ! オレがこんなにも足掻いているのは……すべて〝アイツら〟の罪を濯ぐ方法を見つけるためだ。五年前……濁流に呑まれて死んでしまった〝わが子〟の……!」
ブルブル震えながら団三郎狸が言うと、水明が静かな声で訊ねた。
「二ツ岩神社のお堂の前にいくつもあった石の塔――あれは賽の河原の石塔だな?」
団三郎狸はコクリと頷いた。水明は更に続ける。
「賽の河原は、親よりも早死にした子どもが行くとされる場所だ。親より先に死んだ罪……親不孝に報いるため、石を積み上げる苦行を課せられる。しかし、完成間近になる度に鬼に壊される。酷い仕打ちだな」
水明は震えている団三郎狸の前にしゃがみ込むと、はっきりと断言した。
「――五年前。お前は大雨でおろくとの〝子〟を亡くした。そして、賽の河原へ落とされたであろう子の罪をあがなう方法を、ずっと探し続けている」
「…………ああ。そうだ」
がくりと団三郎狸が項垂れた。ポタポタと大粒の涙をこぼしながら呟く。
「生まれたばかりだったんだ。ちっこくて、まだ母親の乳も上手く吸えないくらいで。みゅうみゅう鳴いてた。可愛くて、でも雨続きで寒そうで……オレは藁を取りに外に出た。すぐに戻るつもりだったんだ。なのに――戻ったら、巣は完全に流されていて」
あの日感じた恐怖、絶望、悲しみ……。
それらがまざまざと蘇ってきて、団三郎狸は頭を抱えて蹲った。
「アイツらは、なんにも悪くない。オレが……父親のオレが悪いんだ。戻るのがあと数分早かったら、アイツらが死ぬことなんてなかった……!」
――からり、から、からん。
石が崩れる音がする。ああ、これはきっとわが子が自分を責めている音なのだ。
不倫の果てにできた子。大手を振って親子なのだと言えない関係。
果てはその命すら守れなかった父を、不甲斐ないと恨みを募らせているに違いない。
「悪いのは俺だというのに、どうしてだ。どうしてあの子らが罪を償う必要がある!? お前たちが苦しむことはなにもないんだ。だから、もう少し待っていてくれっ……! 一刻も早く、賽の河原での苦行から解き放ってやるからな! それが、それがっ!」
すうと息を大きく吸う。そして万感の思いを込めて叫んだ。
「それが、俺が父親としてすべきことだと思うから……!!」
瞬間、辺りに満ちていた亡者たちの叫び声が静まり返った。
――からり。
響いたのは、石が崩れた音だけである。
「ふん。どこの父親も、お前のように志が高かったら違ったんだろうがな」
すると、水明が苦々しげにぽつりとこぼした。
「……?」
不思議に思って団三郎狸が顔を上げれば、今まで様子を見守っていた銀目が口を開いた。
「まあ、話はわかったぜ。大変だったな。罪ってもんは簡単に濯げるもんじゃねえからな。そのために地獄ってもんがあるくらいだし」
しみじみと呟く。しかし次の瞬間には、銀目はどこか冷たい表情になって言った。
「まあでも……一番罪深いのは――お前の〝無知〟さだと思うけどな」
「はっ……!?」
思わず言葉を失えば、銀目は犬歯を剥き出しにして悪戯っぽく笑った。
「なあ、団三郎。さっきから、変な音が聞こえてねえか?」
「えっ……あ、ああ……」
――から、からり。
またあの音がして、団三郎狸が身を硬くする。
銀目はにんまり笑って、固まっている団三郎狸を抱き上げると――。
「まあ、見てみろよ。音の正体をさ」
その体を、くるりと反対側へ振り返らせた。
「……え」
瞬間、団三郎狸は目を剥いた。
そこには賽の河原が広がって――いなかったのだ。
「やっほ~」
いたのは、足もとの石を適当に放り投げている金目だけだ。
「なんっ……なんで……どうして」
拍子抜けしている団三郎狸へ、銀目は苦笑しながら言った。
「知ってるか? 賽の河原ってえのは〝俗説〟って奴でよ。仏教の教えには出てこねえ」
「ぞっ、〝俗説〟……?」
「法華経の経典に元ネタがあるっぽいけどな。本来はなんも関係ねえ。誰かが言い出した、本当かどうかも知れねえことだ。だから……」
銀目はポンと団三郎狸の頭に手を載せ、優しい声色で言った。
「きっと、お前の子どもは賽の河原で石積みなんてしてねえさ」
「……ッ!」
みるみるうちに、団三郎狸の瞳に涙が滲んでいく。すると水明が言った。
「団三郎様。ひとつ提案がある」
「提案……?」
「佐渡島から一度出て、外の世界を識る努力をしてみないか。今回のことは、視野が狭く、誤った知識を信じたせいで起きたことだと思う」
――五年間も恐れ続けていたものが、そもそも存在していなかった。
途端、団三郎狸は強烈な羞恥に見舞われた。
「ハハ……。なんというか。お恥ずかしい限りで……」
堪らず目を伏せた団三郎狸へ、水明はゆっくりと首を横に振った。
「恥じることはない。〝無知〟は罪だ。しかしそれは、自身の努力で濯げる〝唯一の罪〟だとも言える。これから正しいことを知っていけばいい」
すると、水明の後ろからひょっこり金目が顔を出した。
「あのさ、本気で出家してみない? 賽の河原はないかもしれない。でも、亡くなった子どもの霊はきちんと弔ってあげるべきだと思うんだよね。あのでたらめなお経じゃ、子どもの霊も浮かばれないだろうし。よかったら、うちの師匠を通じて人間のお坊さんを紹介するよ。きっと、狸を弟子にしてもいいって奇特な人がいると思う」
「ほ……本当か!?」
団三郎狸は目を輝かせ、次の瞬間には大粒の涙をこぼし始めた。
「……ああ、ありがたい。本当にありがたいことだ。このご恩をどうお返しすれば……」
水明はちらりと双子へ目配せすると、少し気まずそうに言った。
「なら、俺たちの願いも聞いてくれ。白蔵主を説得するための計画に協力して欲しい」
じっと真摯な眼差しを団三郎狸へ向ける。
「お前が自分の子を守りたかったように、俺も大切な人を守りたい。そのために、必要なことなんだ。人を化かしたくない気持ちはわかる。だが、お願いだ」
そして団三郎狸へ向かい、深く頭を下げた。
団三郎狸は水明の様子をじっと見つめ――こくりと小さく頷いた。
「ああ、わかった。オレも君たちの計画を手伝おうじゃないか」
そう言った団三郎狸の表情は、まるで夏の日の空のように晴れ晴れとしたものだった。
***
「……手紙で報せないと」
双子が創り出した世界から抜け出した俺は、空を見上げてホッと胸を撫で下ろした。
小泉八雲の本にあった『天狗の話』。それは鎌倉中期の教訓説話集『十訓抄』の中の一篇を再話し、収録したものだ。内容はそう難しいものではない。とある高僧が天狗を助け、その恩返しにと天狗は高僧が望んだ光景を見せる約束をする。しかし、あらかじめ「なにも喋るな」と釘を刺していたのにも拘わらず、高僧は感激のあまりに祈りの言葉を発してしまい、その光景が霧散してしまうというものだ
団三郎狸のことを知った時、ふと、その物語が頭に浮かんだ。
なんとなく似ていると思ったのだ。
現実に存在しない光景に感激し、それに夢中になってタブーを犯してしまう高僧の心と。
ありもしない〝賽の河原〟でのわが子への責め苦に怯え続けている団三郎狸の心が。
一見すると、正反対の心の動きに思える。しかし、どちらも狭い世界しか見えていないからこそ、そこに囚われ、正しい判断ができなくなっているのではないだろうか。
『祓え給え、清め給え、なんまんだぶ、ほうほけきょ、般若腹満たし心経……らぁめん!』
あのでたらめなお経も、彼の心のうちを知った今、笑うことはできない。
まるで、少し前までの俺のようだと思うからだ。感情を制限され、相棒であるクロに去られ、あやかしの跋扈する暗闇の世界に紛れ込んだ時の俺は――。
「水明~! 次は栃木県だよ! 那須湯本温泉郷が近いはず!」
「おっ、また温泉か~。傷心を癒やすためにも立ち寄り湯をしないとな!」
「ひゃ~! また温泉に入れるの? オイラ、温泉まんじゅう食べてみたい!」
――あやかしが、あんなに愉快な奴らだって想像すらできなかったから。
「さすがに、栃木では温泉は入らないからな!」
「「「ええ~~~~!」」」
不満げに頬を膨らませているふたりと一匹に苦笑をこぼす。
そっと空を見上げれば、徐々に日が落ちてきて、辺りが薄暗くなり始めていた。
「夏織は今ごろなにをしてるんだろうな……」
上手くいったと知れば喜ぶだろう。
きっと、キラキラ目を輝かせて飛び跳ねるくらいには嬉しがるに違いない。
「……手紙の悪いところだな。姿が見えない」
なんだか無性に夏織の顔が見たい。次に会えるのはいつになるのだろう。
俺はわずかに頬を緩め、大騒ぎしている双子とクロのもとへ向かったのだった。
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