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閑話 優しい人、厳しい人、愛おしい人2
白沢はゆっくりと目を開けた。目に飛び込んできたのは、見慣れない天井である。どうも、鳥山石燕との邂逅を果たした後、通された部屋でしばらく眠りこけていたらしい。のろのろと辺りへ視線を遣れば、すぐそばにお雪が座っているのがわかった。
「お目覚めですね。ご気分はいかがですか」
「アンタ……」
ちらりと障子を見れば、外は昏いままだ。白沢がこの屋敷にやって来たのは丑の刻より少し早いくらいだった。どれくらい眠ったかはわからないが、もうずいぶんと遅いはずなのに、この老女はつきっきりで看病をしてくれていたらしい。
礼を言おうと口を開く。……が、そこへ有無を言わさずに湯呑みが差し出された。
中に入っていたのは茶褐色の液体である。白湯でも煎茶でもない。
「あ、ありがとう」
よくわからないまま、それを受け取る。少しだけ口をつければ、香ばしい匂いが鼻を通り過ぎて行った。瞬間、喉がカラカラだったことに気づき、勢いよく中身を飲み干す。
渋みはほとんどなく、とても柔らかな味わいだ。まるで、干からびた大地に雨が降り注いでいくように、水分が優しく体に染み渡っていくのがわかった。
「……美味しいわ」
「それはようございました」
お雪はにこりと笑むと、それが麦湯と呼ばれるものであること、昨今、町人たちの間で寝苦しい夜に好んで飲まれているものだと説明してくれた。
「白湯では少し味気ないと思いましたので」
麦湯は煎茶などと違って、眠る前に飲んでも目が覚めないのだと語る。
白沢はへえ、と相槌を打つと小さく首を傾げた。
「いいところの奥様に見えるけれど、町人が好むようなものも口にするのね?」
すると、お雪は栗色の瞳を丸くしてコロコロ笑った。
「なにが〝傑作〟のきっかけになるかわかりませんもの。いろいろな知識を蓄えておくことは、〝鳥山石燕〟の妻として必要なことです」
「そう……」
――良妻の見本みたいな人。
お雪の第一印象はそれだった。たとえ相手が異形のあやかしであっても、夫の客人であれば丁寧にもてなすことができる。先ほどの口ぶりからすれば、夫のためならば、身を粉にするのも厭わないのだろう。
「迷惑をかけたわね」
そう言って、熱を持っているらしい体をゆっくりと起こす。
「もう石燕は眠ってしまったかしら? まだなら、さっそく絵を……」
「なりません」
「へっ?」
いきなり言葉を遮られ、白沢は目を丸くした。聞き間違えか、もしくは冗談かとお雪の様子を窺えば、かの老女は凜とした様子で白沢を見つめている。青白い月光を背景に、暗い部屋に佇むその姿はどこか頑なで、彼女が本気で白沢の言葉を否定したことがわかった。
「……どうして?」
おそるおそる訊ねてみれば、お雪はゆっくりと首を横に振った。
「体調が万全になるまでお休みになるべきです。お顔の色が優れませんもの」
「でっ……でも! アタシは一刻も早く辟邪絵を描いてもらいたくて来たのよ?」
辟邪絵とは、瑞獣である白沢の姿そのものに力があると信じられ、広まった文化だ。
門戸に飾っておけば、あらゆる鬼や精魅、いわゆるもののけがもたらす病から身を守ってくれる。白沢は、それを描いてもらおうと考えていたのだ。
「アタシはより多くの人を救うためにこの国にやって来たのよ。想像してみて。今、この瞬間にも誰かに疫鬼が忍び寄っているかもしれない。誰かの命が落ちるかもしれないのよ。そんなの赦せないでしょう? 嫌でしょう? なら……」
「なりません」
「……っ!」
白沢の説得も虚しく、お雪は決して首を縦に振ろうとしない。怒りがこみ上げてくるが、看病をしてくれた相手を無下にできない。白沢は辛抱しつつもお雪に重ねて訊ねた。
「どうしてなの? 理由を聞かせてちょうだい」
「簡単なことでございます」
お雪は半眼になると、まるでそれが真理が如く、きっぱりと断言した。
「豊房様が描かれる〝傑作〟に、弱ったあやかしは必要ございませんので。どうしてもお急ぎだと申されるのでしたら、他の絵師をご紹介いたします。どうぞお引き取り下さい」
そして――畳に三つ指をつくと、おもむろに頭を下げた。
「すべては夫のためなのです。ご勘弁下さいませ」
その姿に、先ほど縁側で頬を染めていた乙女らしさは微塵もない。
「…………。プッ!」
その瞬間、白沢は思わず噴き出してしまった。
なんて融通が利かないのだろう。
自分は瑞獣。それも、日本どころか中国にもその名を轟かせている白沢だ。
普段ならば、瑞兆だと盛大にもてなし、どんな希望でさえ通ることが大半だ。
なのに、なにがなんでも休めと言う。それどころか帰れだなんて!
「アッハハハハハ! なあに、これ……! おっかしい!」
白沢はお腹を抱えて笑い、その場に蹲った。
そんな白沢を、お雪はキョトンと見つめている。
「お気を害したのならば……」
「いやいや! いいわ。アタシも悪いもの。悪かったわね」
打って変わって上機嫌になった白沢は、ヒラヒラと手を振って笑った。
「せっかくだわ。休ませてもらう。確かに、絵にしてもらうにはみっともない顔だもの」
そっと頬に触れれば、以前とは比べものにならないほどに荒れているのがわかった。
「駄目ね。本当に……」
小さく嘆けば、再び涙が滲んでくる。
雫がこぼれる前に、そっと指で拭う。その様子を見ていたお雪は再び頭を下げた。
「なにかございましたら、すぐにお申しつけ下さいませ」
そう言って、足音ひとつ立てずに部屋を下がっていく。
そして退室する寸前、ぽつりと言った。
「あまり気に病みませんよう。誰しも〝器〟というものがございます」
「……え?」
――すたん、と襖が閉まる。
再び微睡みに身を任せようとしていた白沢は、驚きのあまりに目を瞬いた。
部屋の中に静寂が満ちる。障子越しに青白い月光を浴びながら――白沢は、お雪の言葉の意味をしばらく考え込んでいた。
***
天より、人へ恩恵をもたらすため遣わされためでたき徴――それが白沢だ。
そんなものが屋敷に滞在しているなんて。そのことに、豊房は興奮を覚えていた。
かの瑞獣が現れた翌日のことである。
白沢は、古代中国……神話の時代とも言える初代皇帝、黄帝の御代に現れた瑞獣だ。古来より中国では、王や皇帝の徳が高く、また世が安定していた場合に、天より吉兆がもたらされるという考えがあった。
黄帝は優れた為政者だった。そこへ天より白沢が遣わされたのだ。
その姿は、人面を持った〝白い牛〟の姿で描かれ、額の他にもあばら部分にいくつか目を持っている。そして、あらゆる鬼や精魅に関する知識があったとされ、その知識をもとに黄帝は『白沢図』という書物を作り出したのだ。
『白沢図』があれば、人ならざるものが及ぼす脅威から逃れられる。それもあり、仙人を目指し、深山へ分け入る修行者の必携書ともなっていた。
その書自体は、宋代に失われてしまったらしいが、辟邪絵として白沢自体は多くの人々に親しまれている。日本でも狩野派の絵師たちが、かの瑞獣の姿を多く描いていた。その機会が自分にも訪れたのだ。絵を描き始めると寝食を忘れるほどの豊房にとって、それはなにより嬉しいことだった。
朝餉を素早く終えた豊房は、白沢がいるはずの部屋の近くをウロウロしていた。
小者たちが怪訝そうな顔をしているのには気がついていたが、それどころではない。
豊房の頭の中は、あの恐ろしいほどの美貌を持つあやかしを、どう描くかでいっぱいだ。
――お雪はしばらく放って置いてやれと言っていたが。少しくらいはその姿を見られないだろうか……。話もしてみたい。それにあの――緑色の髪。
なんとも面妖な色だ。絶対に人間が持ち得ない色。話に聞く白沢は白いはずであるのに、どうしてあんな色になってしまったのか、興味がそそられて仕方がない。
ついでに構図を練りたい。ああ! 寸刻といえど惜しい。
そろそろと足音を消して客間へ近づいて行けば、あと少しというところで襖が開いた。
姿を現したのは、手桶を持った妻のお雪である。
「……なにをしていらっしゃるのです?」
お雪がにこりと綺麗に笑った。途端に豊房の背筋に怖気が走る。
そういう笑みをした時の妻は、最高に機嫌が悪いのだと知っていたからだ。
「あっ、あの、その。自分は……」
年甲斐もなく後退る。堪らず縁側から落ちそうになって、慌てて踏ん張った。
すんでのところで落ちずにすんだ。ほうと安堵の息を漏らせば、そばに妻が立っているのに気がついて、まるで素人が繰った人形のようにぎこちない動きで顔を巡らせる。
「……豊房様」
「う、うむ」
「先だって申し上げましたように、お客人はかなり弱っておいでです。存分にお休みいただけるよう、わたくしが采配いたしますので、どうぞご心配なく」
「そうか」
「余計なちょっかいは無用です。すべては……〝傑作〟のためでございます」
「…………。あいわかった」
そう言われると豊房も弱い。思わず神妙な顔になれば、お雪はクスクス笑った。
「ご心配ならずとも、すぐによくなります。すべて、心の持ちようでございますから」
それだけ言い残すと、お雪はくるりと踵を返した。
すぐさま意味を汲み取れなくて首を傾げる。同時に、少し不安に思った。
「おい、お雪」
「……? なんでございましょう」
「白沢様は瑞獣ではあるが、男だ。密室で二人きりにはならないように」
顔だけ振り返ったお雪が目を瞬いた。栗色の瞳がまん丸になって、朝日を照り返してきらりと輝く。そして――さもおかしそうに細められた。
「変な豊房様。こんなお婆さんを、あんな綺麗な人がどうこうするものですか」
コロコロ笑って去って行く。その姿を見送りながら、豊房はなんとも言えない気持ちになって首を掻いた。じっと、白沢が寝ているはずの客間を見つめる。
「……まあ。そのうち会えるか。お雪の言うことは間違いない」
豊房は苦笑をこぼすと、軽い足取りでその場を後にしたのだった。
それから数日後のこと。
またもや月の美しい夜のことである。真円から欠けてしまってはいるものの、冴え冴えと輝く月は眩しいほどで、寝静まった江戸の町を青白く照らしていた。
誰も彼もが夢の世界で戯れている時刻、佐野邸はいつも以上に賑やかだった。
さほど広くもない中庭に、ぎっしりと小麦色の毛玉が犇めいていたからだ。
キャンキャン、ワンワンと大騒ぎしているのは、数え切れないほどの狐たち。
その中心には、なんとも雅な十二単を纏った美女がひとりいた。
美女は豊房が描いた下書きを眺め、その吊り上がった瞳をすうと細めた。
「石燕! 褒めてつかわす。噂に違わず見事なできよ!」
「恐悦至極に存じます」
「ふふ。妾の美しさが見事に再現されておる。素晴らしい。なんでも望みを言うてたもれ」
「そんな。その美しい御姿を描かせていただけただけで……」
「遠慮はいらぬ。おお、なんなら……」
檜扇越しに、ちろりと豊房にあだっぽい流し目を送る。
「妾との同衾を許してもよいのだがのう」
「お、お戯れを……」
豊房は、パッと顔を染めて俯いた。
なんとも初心な反応を返した豊房に、美女はコロコロと楽しげに笑う。
中庭に下り立った美女は、かの有名な悪女、玉藻前だ。
『画図百鬼夜行』の続編を作るにあたり、ぬらりひょんが紹介してくれた。
瑞獣である白沢に負けず劣らず高名なあやかしだ。かの美女が強大な力を持っていることは、なんの特別な能力も持たない豊房であっても肌に感じるほどだった。機嫌を損ねたらどうなるかわかったものではない。そのせいか、いつも以上に緊張していた。その生真面目な様子が玉藻前からすれば楽しくて仕方がないようだ。どうみても遊ばれている。
「大変ねえ」
そんな豊房の様子を、白沢は面白く思いながら眺めていた。
かたわらにはお雪の姿がある。お雪はいやに不機嫌そうだった。年頃の少女のようにツンと唇を尖らせて、玉藻前に相対している豊房の背中を穴が空くほど見つめている。
お雪を横目で見た玉藻前は、どこか底意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「なるほど、奥方の目がある場所では言えぬか。ムフフ、ならば気が向いた時にでも文をおくれ。もちろん、熱烈な詩を添えてな。でき次第では妾が相手してやろう」
「あっ、相手……!? いやいやいや。本当にご勘弁ください」
真っ赤になって否定している豊房。しかし、見方によっては喜んでいる風にも取れる。
「…………むう」
「……プッ!」
お雪の頬が正月の餅のように膨らんだ瞬間、白沢は勢いよく噴き出してしまった。
さすがに笑い声は堪えたものの、プルプル震えて蹲っている。
その様子をお雪はジロリと横目で見て、ふんと鼻から息を漏らした。
「なにがおかしいのですか。ちっとも楽しいことなんてありやしませんのに」
「フ、フフフ……フフ……! やだわ。これが笑わないでいられる? フフフ……」
「もう! 白沢様ったら」
「お雪、終わったぞ」
そうこう話しているうちに、例の悪女は帰ったらしい。
いまだ顔を紅く染めたままの豊房は、疲れ切った様子で縁側に座り込んだ。
「まったく、あの方はご冗談が過ぎる。望みをひとつ叶えて下さるという申し出はありがたいことだが、年寄りにはそぐわないことばかりおっしゃって……」
「ええ! まったくそうでございますね!」
「お、お雪? どうしたのだ……」
そっぽを向いてしまったお雪に、豊房はオロオロと動揺している。ちらりと白沢に視線で助けを求めれば、かの瑞獣は非難めいた視線を豊房へ返した。
「まったく、お雪ちゃんって素晴らしい人がいながら、あ~んな年増のババアにデレデレするなんてね。いやあね~。男ってこれだから」
「おまっ、な、なにを!? お主も男であろう? 儂の気持ちも理解できるだろうに」
「やあね。アタシ瑞獣よ? いつだってか弱い女の人のみ・か・た!」
「まあ! 白沢様。わたくし、とても心強うございます」
楽しげに目を細めたお雪に、心底弱り果てたように豊房は眉を下げた。
「か、勘弁してくれ。天に誓って、自分にはお雪だけだ」
「「あっははははは……!」」
ひとしきり笑った後、白沢はしみじみと言った。
「――冗談よ。本当、アンタたちみたいなおしどり夫婦、他にいないわよ」
白沢の言葉に、ふたりはちろりと視線を合わせ――驚くほど赤くなった顔を同時に逸らしたのだった。
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