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閑話 優しい人、厳しい人、愛おしい人3
――佐野家で数日過ごすうちに、白沢の体調はすっかり元に戻っていた。
佐野夫婦とも仲良くなり、この家に来た頃とは比べものにならないほど調子がいい。
きっと、そろそろ辟邪絵を描いてもらえるだろう。
白沢はそう考えていたのだが、なかなかお雪の許可が出ないで困り果てていた。
お雪いわく、まだまだ全快にはほど遠いからだそうだ。
「なあんでかしらねえ?」
「なんでだろうな」
今日も今日とて、あやかしが屋敷を訪れるのを縁側で待っている。
月光浴をしながら、虫の演奏を肴に、井戸水でほどよく冷やした酒を嗜む。刻んだネギと鰹節をたっぷり乗せた冷や奴をつまみながら、男ふたりで首を傾げている次第である。
「いつになったら辟邪絵を描いてもらえるのかしらね」
ぽつりとぼやいた白沢に、豊房はクツクツ笑った。
「お雪次第……いや、お主次第だろう。お雪が言うには〝すべてが心の持ちよう〟らしい」
「……心。そう言えば、アタシも言われたわ。誰しも〝器〟というものがあるって」
「まるで謎かけのようだな?」
「まったくもってその通りだわ! 全然わからない。すべてを知る瑞獣のはずなのに」
むうと唇を尖らせている白沢を、豊房はじっと見つめている。
「まあ、事情はよくわからぬが、瑞獣ともあれば色々と柵もあるのだろう。幸い、お雪とも上手くやっているようだ。存分に滞在していかれるといい」
「……あ。ありがとう」
途切れ途切れにお礼を言った白沢は、ついと視線を宙にさまよわせた。
何度か口を開いては閉じる。この胸に抱えているものを打ち明けてしまおうかとも思うが、軽々しく話していいものではないように思えて、口を噤んだ。
それに――この親切な、自分を立派な瑞獣だと信じてやまない人間が、白沢の真実を知った時、一体どう思うのだろう?
――怖いわ。
真夏の夜だ。やけに湿気が高い。決して涼しいとは言えないのに、どうにも寒々しく思うのは、自分が臆病なせいなのだろうと白沢は哀しく思った。
「――なにも焦ることはございません。ゆっくりでいいのですよ」
その時、柔らかな声が降ってきた。
白沢がハッとして顔を上げれば、そこには、追加の酒を持ってきたお雪の姿がある。
「豊房様のおっしゃるとおり、体調を戻すことだけをお考えください」
「でっ……でも!」
白沢は声を荒げると、すぐにしょんぼりと肩を落とした。
「アタシは白沢よ。人間を救うために天から遣わされたのに、のんびりだなんて」
「そう言えば、先日もそんなことをおっしゃっていましたね」
お雪は空になった豊房の酒杯に酒を注ぎながら、不思議そうに首を傾げた。
「――誰かから、そうしろと言われたのですか?」
「えっ……? いや、そう、じゃないけれど」
なんでもない問いかけなのに、なぜかお雪の言葉にうろたえてしまった。
白沢は無理矢理笑みを形作ると、冷静を装いながら言った。
「アタシは瑞獣よ? 普通の生き物じゃない。特別な力を持つ獣で、誰かを救うための力も知識もある。なら……やらない手はないでしょう? アタシは世界を救うために生まれたんだから〝そうするべき〟なのよ」
至極まっとうな説明のように思える。しかし、お雪はますます首を傾げてしまった。
「まあ! 不思議ですこと。〝そうするべき〟……〝そうしたい〟のではないのですね。ならば、他の方に任せてみては?」
「おっ……おい、お雪! 白沢様になにを言うんだ!」
豊房が焦って止めようとするも、お雪は毅然とした態度で言った。
「世界を救うということは、歴史に残る大業かと思われます。ですが、わたくしはこうも思うのです。偉大なことを成し遂げ、歴史にその〝名〟を刻むような人物は、少なくとも自ら積極的にそれに関わるものだと」
まっすぐに白沢を見る。お雪の栗色の大きな瞳が、きらりきらりと月の光を反射して不思議に揺らめく。瞳を悪戯っぽく細め、コロコロと楽しげに笑った。
「――たとえば豊房様のようにです。年がら年中、したいことばかり考えるような人でないと、大業はなし得ないと思うのですよ」
思わず苦笑をこぼす。
「拍子抜けだわ。……もしかしてアタシ、惚気話を聞かされたのかしら?」
堪らず白沢が肩を竦めれば、「そうです」とお雪はますます笑った。
途端、豊房が茹で蛸みたいに真っ赤になってしまった。涙目で惚気た妻に抗議をする。
「お雪! お前って奴は……!」
「ホホホホ。失礼いたしました。他ではおおっぴらに自慢できないものですから、つい」
夫婦がじゃれ合っている間、白沢はじっと考え込んでいた。
けれど答えを見つけられず、鬱々と視線を上げれば、お雪の栗色の瞳と交わる。
白沢が再び口を開こうとして――お雪の言葉に遮られた。
「すぐに答えを出す必要はございませんよ。ゆっくりと申しましたでしょう?」
お雪がにこりと笑む。そしてこうも言った。
「自分がどういうものか。それを知るのは……人間ですら勇気がいりますから」
ぎゅうと胸が締めつけられたようになって、白沢は思わず顔を顰めた。
「……敵わないわね。アンタには」
思わずそうこぼせば、お雪は再びコロコロ笑った。
「わたくしの父もそれなりに高名な絵師なのです。幼い頃から大勢の人と作品を目にして参りました。他の人よりかは真贋の見分けがつくと自負しております」
「あら。アタシが紛い物だとでも?」
「そうとは言っておりません。それともご自身が偽物だという自覚でも?」
返す言葉もなくなり黙り込む。すると、泡を食った豊房が間に入った。
「なんだなんだ、どうしたんだお前たち。さあさ、飲め飲め。難しい話は後にしよう」
酒杯になみなみと酒が注がれる。白沢は、ちゅっとそれを啜った。上等な酒のはずだった。しかし、舌の上に広がったわずかな苦みに耐えられず、堪らず弱音をこぼす。
「……よくわからないわ。アタシにはなにもわからない」
その言葉に、お雪はまるで独り言のように返した。
「わたくしどもは、いつでも構いませんよ」
――なにが、とは問わなかった。
こくりと頷き、虫の音に耳を傾ける。涼やかな虫の音が鼓膜を震わせている。
白沢は固く目を瞑り、己のうちにじっと目を向けた。
「女の戦いとはこうも恐ろしいものなのか……」
ぽつりと豊房が呟いた言葉にだけは、少々異議を申し立てたったが。
***
『ゆっくりと申しましたでしょう?』
お雪の言葉は優しくて、けれどもどこか厳しい。
それはまっすぐ芯が通っているからだ。言われた相手は反発する前に納得してしまう。
佐野家で過ごしているうち、白沢はたびたび泣きたくなった。
なぜならば、お雪からもらう言葉がいやに胸の深いところに沁みるからだ。
豊房が向けてくれる笑顔が、親しみに溢れていて仕方がないからだ。
思えば、瑞獣としてこの世に生を受けた白沢は、こんなにも誰かの近くに居続けたことはなかった。黄帝でさえ、一定の距離を保って接していたのだ。当たり前といえば当たり前だ。相手は自分を天の御使いだと思っていたのだろうから。
豊房とお雪の関係――それは〝家族〟だ。なんて温かな繋がりだろうと思う。
人間は弱い。弱いからこそ互いに身を寄せ合う。
瑞獣である白沢には必要のないものだ。白沢はひとりでも充分に強い。
でも――その関係に無性に憧れるのはどうしてだろう。
焦がれてしまうのはなぜだろう。眩しく思うのは、愛おしく思うのは。
ふたりの仲の良さに、ときおり胸が痛むのは――……。
――白沢は、佐野家での生活を通して、少しずつ彼らに心を開いていった。
簡単に、とは決して言わない。
彼らを心から信用するのに一年かかった。
己の脆い部分を見せても、決して見放さないと確信を得るまでもう一年。
そして――彼らへ事実を告げるための勇気を得るまで、更に一年かかった。
結局、白沢が己の事情を彼らに打ち明けたのは、出会ってから三年後。
『画図百鬼夜行』の続編である『今昔画図続百鬼』が刊行された後のことだ。
「アタシの話を聞いて欲しいの」
神妙な面持ちでそう持ちかけてきた白沢に、佐野夫婦は嬉しげに頷いたのである。
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