閑話 優しい人、厳しい人、愛おしい人4

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閑話 優しい人、厳しい人、愛おしい人4

 まるで初めて会った時のように晴れ渡った満月の夜。  縁側に並んで座り、白沢は彼らにポツポツと己のことを話し始めた。 「三年間、ずっと考えていたのよ。自分の〝器〟のこと。そして〝心〟のこと」  哀しげに睫毛を伏せ、少し不安に思いながらも続ける。 「でも、まだ答えまでには至ってない。だから、忌憚ない意見が欲しいの。答えを見つけられたら、豊房に絵を描いてもらえる準備ができると思う。……いいかしら?」  そっと訊ねれば、佐野夫婦はこくりと頷いた。  唾を飲み、息をゆっくり吸って――大きな月に見守られながら話し出す。 「これまでのアタシは、おそらく自分の〝器〟以上のことをしようとしていたと思うの。自分の弱さを棚に上げて、大きすぎるなにかを追い求めていた。そんなの手に入れられるわけがないわよね。だから心が折れた。どうしようもなく自分を追い詰めたの」  白沢の足もとには、山ほどの屍が積み上がっている。血を流し、四肢が欠け、蛆が湧き、濁った瞳を宙に向けているのは、誰も彼もが白沢が救えなかった人間たちだ。  白沢は〝すべて〟を救いたかった。けれど、多くの命を取りこぼしてしまった。  別に誰が悪いわけではない。白沢自身にも責任があったとは言えない。  ただただ、己の成果物である『白沢図』の効果を過信していただけなのだから。 「アタシには瑞獣の証である白色(アルビノ)がないの。それはアタシへ課せられた罰」  白沢はまるで夏の山々を想起させるような濃緑の髪を持っている。なにもそれは、生まれつきではない。白い獣は古来より瑞兆とされた。それは白沢にも言えることだ。  かの瑞獣は、生まれた瞬間は紛れもなく穢れひとつない白色を持っていたのだ。  だのに、それを失ってしまったのは――たった一度の失敗に心折られてしまったからだ。  きっかけは、ある年の春のことだ。  黄帝とふたりで作り上げた『白沢図』は、できあがり次第すぐに国内に広められた。  そのおかげで、大勢の人々が鬼や精魅がもたらす禍から救われたのだそうだ。  耳に届くのは賛辞の言葉。助けられたと涙ながらに告げられる感謝。  白沢の心は達成感と喜びに満ちていた。  その目には、黄帝の国はとても美しく見えた。季節ごとに花が咲き乱れ、果実はたわわに実り、村々には笑い声が響いて――その平和の一端は己が担っているのだと、白沢は誇らしく思ってさえいたのだ。  しかし、すぐに思い知ることになる。世界の厳しさ、そして残酷さを。  己が――どれだけ、現実が見えていなかったのかを。  ある日、桃の花に誘われて、山間にある村を訪れた白沢はひとりの少女と出会った。 『ようこそ! 遊びにきたの? うちの村の桃の花は綺麗でしょ?』  甘酸っぱい匂いに包まれたそこで、少女は桃の花にも負けないほどの可憐な笑みを浮かべていた。白沢が瑞獣だと名乗れば、ぱあっと瞳を輝かせる。 『本当に? 確かに牛の角だわ! おめめもみっつ。素敵。あなたが『白沢図』をもたらしてくれた天からの使いなのね……!』  喜びを全身で表し、ぴょんぴょん飛び跳ねる姿は可愛らしい。 『白沢がこんなに美人だなんて知らなかった。お父さんとお母さんに教えなくちゃ』  少女は薔薇色の頬にはにかみ笑いを浮かべ、キラキラした眼差しで白沢を見つめていた。  村人たちは白沢を大いに歓待してくれた。  それは日々、使命だ世界を救うのだと気を張り詰めていた白沢にとって、心地よいひとときだった。だから、再会を約束して村を離れたのだ。  そして数ヶ月後――再び、白沢が村を訪れた時に事件は起こった。  白沢の目に飛び込んできたのは、見るも無惨に変わり果てた村の様子だった。  美しかった桃林は切り倒され、村のあちこちから煙が立ち上っている。  疫病にかかり死んだ人々を燃やしているのだ。村人たちは誰も彼もが暗い表情で、呆然と変わり果てた故郷を見つめていた。その中に、あの少女もいたのだ。  キラキラ、春の水面のように輝いていた瞳はぼんやりと曇り、薔薇色の頬は煤で汚れていた。憔悴した様子の少女は、両親の亡骸に縋りついて泣いている。  それは、野僮游光(やどうゆうこう)という、疫鬼(えきき)の仕業だった。もちろん『白沢図』にも記載はあったが、その知識は正しく使われなかったのだ。 『……どうして? なんでこんなことっ……!』  訳もわからず少女に駆け寄る。その瞬間、白沢は息を呑んだ。 『……私たちを助けてくれるんじゃなかったの』  どろり、白沢を見た少女のつぶらな瞳の奥に黒い淀みが見えた気がした。  それは、人間が持つ昏い感情を煮詰めたかのような瞳だった。絶望、嘆き、悲しみ、怒り、直視するのも憚るほどのそれが、純粋だった少女の内面に渦巻いている。それは、ただの一度も悪意を向けられたことがない瑞獣からすれば、恐怖以外の何物でもなかった。 『ひっ……』  思わず後退った白沢は、慌ててその場を後にする。  逃げたわけではない。黄帝に助けを求めるためだ。  しかし、黄帝は救助要請を退けた。村は封鎖し、あらゆる建物、死骸を焼き払うと言う。 『蔓延してしまった病を食い止める手立てはない。為政者として、他の民を守るためにも、あの村は切り捨てなければならぬ』  ――大勢のために少数を見捨てる。  黄帝の判断に、白沢は異議を唱えることもできなかった。  すべてを知る瑞獣には、それが最適解であるとわかってしまったからだ。  瞬間、世界の見え方が変わった。  美しいと思っていた国の礎をそっと見遣れば、そこには無念のうちに死んでいった人々の骸が積み上がっている。為政者である黄帝は、それを踏みつけにして立っているのだ。  その事実は、ある意味無垢な瑞獣には衝撃的だった。  なにも考えられなくなり、黄帝のもとを飛び出し、必死に村に舞い戻る。  あの少女だけでも救いたい。その一心だった。  村へ到着した頃には、すでに紅蓮の炎が舐めるように家々を覆っていた。 『どこっ……! どこなの!』  必死に探し続ける。しかし少女の姿は見当たらない。  そして――ある場所に来た時、ようやく捜していた顔を見つけた。  それは、うず高く積まれた村人たちの死骸の中だ。  そこにあの少女の姿を見つけた途端、白沢は思わずその場に膝を突いた。 『あっ……ああああああああああああああああああ……!!』  ズシン、となにかが背に覆い被さってきたような気がした。  脂汗を流しながら、苦労して背後を振り返る。当たり前だが、そこにはなにもいない。  なのに――確かに、白沢の目には死んだ人間たちの姿が映ったのだ。  彼らはみな、あの少女と同じ瞳をしていた。  黒い淀みを湛えた、人間の昏い感情を煮詰めたような瞳。あまりのことに怖気が走る。  白沢を押しつぶそうとしている彼らは、口々に怨嗟の声を上げた。 『……私たちを助けてくれるんじゃなかったのか』 『許して……! ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいっ……!』  必死に赦しを請いながら、頭を抱えて蹲った。  鼻を刺すような煙の臭い。生き物が焼けていく異臭。息をするのもままならない。  耳には死者たちの声が響き続け、彼らの重みで逃げ出すこともできない。  あまりの恐ろしさに震えていれば、小さな手が体を這い上がってきた。  それは、あの少女の姿を持ったなにか。瞬間、心が壊れる音がした。 『いやあああああああああああっ!』  紙を引き裂くような悲鳴を上げた白沢は――まるで囚われでもしているかのように、そこから動けなくなってしまったのだ。  ――白沢は〝すべて〟を救いたかった。けれど、多くの命を取りこぼしてしまった。  ――別に誰が悪いわけではない。白沢自身にも責任があったとは言えない。  ――ただただ、己の成果物である『白沢図』の効果を過信していただけなのだから。  すべての鬼や精魅の知識を収めた『白沢図』とはいえ、ただの書物だ。  書物が救えるものなど、そう多くはない。それを理解していながら過信してしまった。  〝器〟以上のものを望んでしまったのだ。  絶望のあまり現実から目を逸らし、三つの瞳はただ涙をこぼすだけのものになった。  後悔が、絶望が、悲しみが――尽きることなく湧き出てくる。  涙と一緒に流してしまおうとしても、深すぎる負の念がそれを許してくれない。  なにをする気にもなれず、呆然と座り込んだまま、雨風に晒されてもなお嘆き続ける。  何年も、何年も、飽きることなどない。人ならば、そのうち体力が尽きて諦めもついたのだろう。しかし、それは瑞獣という人あらざる存在にとってはそうもいかなかった。  人ではないが故に、人よりも深い悲しみに囚われ続ける。  そんな白沢の上に、すべてを焼き尽くした白い灰が積もっていく。  時の流れと共に灰は土となった。風や鳥に運ばれた種がそこに根付き、芽吹き――数百年と時が過ぎていくうちに、白沢の姿は自然の中に埋もれていった。  一体、いくつの季節が通り過ぎていったのだろう。  大陸には多くの国が興り、そして滅んでいく。  人を救う使命を忘れた白沢を嘲笑うかのように、其処此処で多くの血が流れた。  そして――ある日のこと。唐突に白沢は目を覚ましたのだ。 「目覚めた時、辺りは一変していた。村の名残なんてなにもない、むせ返すような緑の匂いを覚えてる。なめくじみたいな速さで這いずりだして、体に纏わり付いていた草や土を払った。ようやく一息ついた頃……髪が緑に染まってるのに気づいたの。それで悟ったの。天から瑞兆たる証を奪われたんだって」  そこまで一気に語った白沢に、息をするのも忘れて聞き入っていた豊房は目を瞬いた。  深呼吸をしてようやく一息つく。隣で話を聞いていたお雪はどこか思案げだ。 「……それで日本に来たのか」 「ええ。……逃げてきたの。失望した?」 「いや、そんなことはない。誰だって逃げ出したくなる」  すると、今まで黙って話を聞いていたお雪が口を開いた。 「どうしてお目覚めになったのですか? そのまま終わることもできたでしょうに」  なにか思うところがあるのだろう。辛辣な言葉だ。しかし、白沢はぐっと顎を上げてお雪を見つめた。彼女には真摯に向き合いたい。そう感じたからだ。 「単純よ。――どうしても、誰かを救わなくちゃって気持ちが捨てきれなかったの」  まるで灰の中でくすぶり続ける残り火のように、その感情は白沢を苛み続けていた。  守りたかった相手を救えなかったことに絶望しているというのに、もっと誰かが救えと耳もとで誰かが囁き続けているような。  まるで地獄の責め苦のようだった。だから、この小さな島国にやって来たのだ。  大陸と比べるまでもない小国ならば……きっと自分にも救える相手がいるはずだ。  なのに辟邪絵を一枚描いてもらうことすらままならず、こうして足踏みしている。  未来がなにも見えない。まるで袋小路にでも迷い込んでしまったようだった。 「……ねえ、お雪。豊房。アタシはどうすればいいと思う? アタシは〝白沢〟なの。誰かを救うために生まれたの。なのに、白色も失ってしまった。たった一度の失敗で心が挫けてしまった。なにをしてもてんで駄目で」  話しているうちに涙が滲んできた。悲しさよりも情けなさが勝っている。どうすれば上手く行くか見当もつかなくて、ひとり途方に暮れていた。 「はあ……」  すると、お雪がひとつため息をこぼした。  涙を流している白沢をまっすぐに見つめ、栗色の瞳を優しげに和らげて――綺麗に笑う。  そして、とんでもないことを言い出した。 「なら〝白沢〟をおやめになってしまったらいかがです?」 「はっ……!?」  ギョッとして目を剥く。豊房も驚きのあまりに言葉が出ないようだ。  驚いているふたりをよそに、お雪は口もとを袖で隠してコロコロ無邪気に笑った。 「心が挫け、白色も失った。ならもう、好きにされたらいいのでは?」 「まっ……待って。なにを言っているの」 「ですから、〝名〟を捨てればよろしいのではと申し上げているのです」  白沢の背中に冷たいものが伝った。 「冗談よね……?」  思わずそう訊ねれば、お雪はニコリと笑んで首を横に振った。 「いたって真面目でございます。その重すぎる〝名〟を捨てて、ご自分の〝器〟に見合ったことをすればいいと思うのです」  さあと白沢の顔から血の気が引いて行った。  〝白沢〟であることをやめる。そんなこと一度も考えたことはなかったからだ。 「そっ、そんなことできるわけないわ。アタシは……アタシは〝白沢〟として生まれたのよ。なのに、その〝名〟を捨てたら、後になにが残るっていうの!!」  震えながら叫ぶ。しかし、まるでお雪は動じない。  いつもどおりにコロコロ笑って、いつもどおりにまっすぐな言葉を紡いだ。 「〝名〟を捨てたら、ただの一個人になるだけですよ。わたくしのように」 「アンタと……?」 「はい。特別な力をなにも持たないわたくしは、別に歴史に残るようなものは持ち得ておりません。でも、ちゃんとここに生きておりますよ。この世界は、普通の人のほうが大半なのです。特別な人はそれを忘れがちですけれどね」 「……でも。名前を捨てたとして、なにをすればいいかもわからないし」  モゴモゴ言い訳がましく呟く白沢に、お雪は更に続けた。 「ですから自身の〝器〟を知ることが大事なのです。そして自分の〝願い〟も」  ちろりと豊房を見る。愛おしげに見つめ、瞳に温かな色を滲ませた。 「家を守り、家族を支え、豊房様のお手伝いをすること。それがわたくしの〝器〟の精一杯。ですが、同時にそれはわたくしの〝願い〟でもあります。それに、わたくしがいませんと、すぐに豊房様はへこたれてしまいますし」 「お、おい。それは今はいいだろう」  眉尻を下げている豊房にクスクス笑って、お雪は白沢へ問いかけた。 「あなた様が今……望んでいることはなんですか? 誰かを救うこと以外に、どうしても叶えたい〝願い〟は?」 「〝願い〟……」  白沢はぱちくりと目を瞬くと、じいとお雪と豊房を交互に見た。  つきんと胸が痛む。……ああ、なんて仲睦まじい夫婦だろう。  もしも――自分にもお雪のような存在がいたのなら、こんなにも心挫けることはなかったのかもしれない。〝器〟そして〝心〟以前に、自分には絶対に足りないものがあったのだと気がついて、徐々に胸の痛みが大きくなっていった。 「あっ……アタシは。家族が欲しい……」  どんな時にだってそばにいてくれ、辛い時は支え合い、苦しい時はともに前に進み、笑顔で同じ時間を過ごせるような。  天より遣わされた彼はいつだって孤独だった。逆に言えば、そういう存在を作ってはいけないような気もしていたのだ。〝白沢〟は〝孤高の存在〟であるべきだと思い込んでいたのかもしれない。けれど――もし〝白沢〟でなくなるのだとしたら。  もう、我慢する必要なんてないのだ。 「倒れそうになったら支えてくれる。逆に相手が苦しそうだったら、そばにいてあげたいって心から思えるような相手が欲しいの」  涙腺が耐えきれないほどの熱を持っている。  ぽろ、ぽろりと流れ出した涙が、月の冷たい光を取り込んで。  白沢が胸に抱えていた寂しさのぶんだけ、こぼれ落ちては小さく弾けた。 「どうか両手で輪を作ってみてください」  お雪がそんなことを言った。疑問に思いつつ、素直に言われた通りにしてみる。  するとお雪は愛おしそうに腕の中に現れた空間を見つめた。 「まるで〝器〟のようでしょう。そこに受け入れたいと思う相手を見つけるのです。それが家族を作るということ」 「受け入れる……」 「まずはそこからです。手の届く範囲の相手に心を砕いて、一生懸命それだけに集中してごらんなさい。そうしたら――いつの間にか救われています」  お雪の言葉は白沢の胸を強く揺さぶった。 「――そう、なの」  ドクドクと心臓が高鳴り、どうしようもないほどに体が熱くなる。  そんなことをしても許されるのだろうか。  いや、決めるのは自分だ。きっと、誰の許可もいらないのだろうけれど――。  ――ああ! でも、不安で不安で堪らない。 「すごく魅力的な話だわ。でも、大丈夫かしら。家族なんてできるかしら。今のアタシなんかが誰かを救えるのかしら……」  どうか背中を押して欲しい。そう思って助けを求めれば、三年間、共に過ごしてきたふたりは顔を見合わせて破顔した。 「大丈夫だ! 自分らがついている。迷ったら相談でもなんでもすればいい」 「わたくしも、あなたの力になりたいと考えています。だって……ねえ、豊房様」  豊房は一瞬、照れくさそうに視線を泳がすと、ニッと歯を見せてこう言ったのだ。 「長い付き合いだ。自分らはもう友人だろう? なんの遠慮もいらないさ」 「……っ!」  じんと優しさが胸に沁みた。息が詰まって、ぶわっと涙が勢いよく溢れ出す。 「う、うええええん。……や、優しすぎるのよ。馬鹿ああああああああ……」 「あらあらあら」  思わず赤子のような声を上げれば、お雪が慌てて手ぬぐいを差し出した。  号泣している白沢。必死に宥めているお雪。元気いっぱいなのは豊房だけだ。 「……もしやこれは、姿絵解禁か!?」  シュバッ! と勢いよく立ち上がり、バタバタと絵筆と紙を持ってくる。  筆を手に白沢をじいと凝視すれば、泣きすぎて顔が真っ赤になっている瑞獣が慌てた。 「やっ……やめてよ! こんな時に!」 「いやいやいや。三年も待たされたのだぞ。もう我慢ならん!」 「ちょっ……お雪~!」 「まあ! 困ったお人ですこと」  三人の賑やかな声が、月明かりが眩しい夜に響いていく。  こうして、白沢は〝白沢〟であることをやめる決心をした。  そして〝白沢〟としての最後の仕事だと、鳥山石燕へその姿を描いてもらったのだ。  しかし、泣き顔を断固として見せたくないと、なかなか顔を見せようとしなかった。  だから、鳥山石燕がその二年後に刊行した『今昔百鬼拾遺』にある白沢の絵は、尻をこちらに向けている――というのはここだけの話だ。
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