屋島寺の善行狸1

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屋島寺の善行狸1

「ど、どうかな……?」 「大丈夫。今日の夏織は、幽世一可愛いわ」 「え、えへへへ……それは言い過ぎじゃない?」  その日は、梅雨のうっとうしさなんてすっかり忘れてしまったかのように晴れていた。  まるでメロンソーダのように緑がかった夜空。相変わらず幽世に太陽は昇らないものの、熱を持った風が幽世を渡り、幻光蝶が気持ち良さそうに風に遊んでいる。  本格的な夏の訪れを予感させるそんな日に、私は薬屋を訪れた。新調したワンピースを身に纏い、ナナシに薄く化粧をしてもらって、水明との久しぶりの再会に備える。 「髪の毛、変じゃない? 大丈夫かなあ……」  姿見の前で確認している私を、一匹の黒猫がじとりと呆れたような目で見つめている。 「変なのは髪の毛じゃなくて夏織の頭だわ。発情期かしら。浮かれちゃって」 「なっ……! にゃあさん!」  思わず抗議の声を上げると、私の親友であり火車のあやかしであるにゃあさんは、くわ、と大きくあくびをした。 「人間って面倒ね。付き合うだの付き合わないだの」 「そりゃあ、猫とは違うわよ。ねえ、ちょっとぐらい励ましてくれてもいいでしょ」 「ふられたら慰めてあげるわ。頑張って」 「どうして失敗すること前提なの? うう、冗談でも勘弁して……」  思わず弱気になれば、にゃあさんは盛大にため息をこぼして続けた。 「どうして夏織が不安に思うのか、あたしにはまったく理解できないのだけれど」 「……それって、どういう意味?」 「わからないなら別にいいわ。野暮なことはしたくないし」 「ねえにゃあさん。私にわかるように言って……」  親友がなにを言いたいのか欠片も理解できない。  落胆していると、にゃあさんは楽しげに色違いの目を細め尻尾を揺らした。 「本当にお馬鹿ね。そうだ。ふられたら人魚の肉売りにでも願いを叶えてもらったら?」 「人魚?」  首を傾げれば、化粧品の片付けをしていたナナシが割って入ってきた。 「ああ! そういえば、最近よく耳にするわね。なにか叶えたい願い事があるのなら、人魚の肉売りに願えばいいって。なんでも叶えてくれるらしいわよ、すごいわね」 「人魚の肉売りが現れる時、鈴の音がするらしいわね。肉売りを呼び寄せるとか言って、商人が鈴のアクセサリーを売り歩いてたわ。商魂たくましいったら」  盛り上がっているふたりをよそに、私はひとり眉を顰めた。 「……確かに、なんでも願いを叶えてくれるなら、すごいかもしれないけれど」  私の脳裏に浮かんでいるのは、人魚の肉を食べたことのある人たちだ。 「あんまりいい印象がないな。ちょっと怖い」  父親が持ち帰った人魚の肉を食べ、永遠の命を得てしまった八百比丘尼。  愛情深い彼女は、自分の家族が先に逝ってしまうことを心から悲しんでいた。  身に余る力を得るために人魚の肉を食べた清玄さんは、強力な力を獲得した代わりに、内臓は腐り果て、常に激痛に見舞われているのだという。それ以前に、そもそも人魚の肉なんて食べなければ、あんな騒動を起こさなかったはずだ。 「願いが叶うのは魅力的だけど、一度食べたら後戻りできないんでしょ? よっぽど覚悟がないと口にできないや……」  思わず本音をこぼせば、にゃあさんとナナシは互いに顔を見合わせ、にっこり笑った。 「そうよねえ。アタシもそう思うわ。自分の願いは自分で叶えるものだもの。恋だってそう。だからこそ、今日はとびっきりのオシャレをしたわけだし」 「そうね。夏織、とっとと水明を捕まえて、自分の男にしちゃいなさい」 「じっ……自分の男って、にゃあさん!」  ものには言い方があるだろう。  顔を真っ赤にして抗議すれば、にゃあさんはゆっくり瞬きをして言った。 「アタシは猫だからよくわからないけれど、今日の夏織が可愛いことくらいはわかるわ。秋穂の娘だもの。猪突猛進で行きなさいよ。なにも心配いらないわ。わかったわね?」 「……!」  嬉しい親友の言葉に、私は破顔一笑して頷いた。 「ありがとう。にゃあさん大好き!」  ――なあん。  私の言葉に、にゃあさんはそっぽを向いて一声鳴いた。  幽世の舗装されていない道を小走りで行く。 「夏織ちゃん、いい魚が入ったよ。寄っていかないかい」 「ごめん! 時間がなくって。後でまた!」 「稀人のお嬢ちゃん、夕方うちにおいで! 新商品が出るんだ。味見しておくれよ」 「わあ! ありがとう。絶対に寄る!」  大通りを通るだけで、たくさんのあやかしが声をかけてくれる。  みんなに返事をしながら、クスリと笑う。  そういえば、水明と初めて会った日もこんな感じだった。道端で倒れているのを見つけた時は、こんなことになるなんて欠片も想像していなかったけれど。  ふわり、寄ってきた幻光蝶を眺め、軽やかに人混みを縫って行くと、大通りの外れまでやって来た。もうすぐわが家が見えてくる。そう思った瞬間――。 「……あっ」  私は足を止めた。なぜならば、遠くに一際明るい蝶の群れを見つけたからだ。  幻光蝶は、人間を好んで集まってくる習性がある。  この幽世で、現在暮らしている人間は私と……水明だけだ。  頬に熱が上ってくるのを感じながら、こちらへ歩いてくる彼を見つめる。両隣には烏天狗の双子、金目銀目。足もとには犬神のクロがいて、なにやら楽しげに話していた。  すると、水明も私に気がついたらしい。  一瞬だけ足を止め、ふわりと柔らかい表情になった。  ――わあああああああっ!  なんて顔をするのだ。元々、あまり表情がないタイプだったはずなのに。  手のひらに汗が滲む。鼓動が速まる。どうしよう、本当にどうしよう……。  混乱しているうちにも、水明はゆっくりとこちらへ近づいてきていて。  こくりと唾を飲み込み、恐る恐る私も歩き出した。  じゃり、じゃり。靴底を擦った砂利が軽やかな音を立てた。大通りの外れとは言え、それなりに喧噪は聞こえてくるはずなのに、不思議とその音ばかりが耳に飛び込んでくる。  そう言えば、彼とこんなに会わなかったのは初めてだ。その姿に懐かしさすら覚える。  ……あと少し。心臓が爆発しそう。彼の薄茶色の瞳が私を捉えている。  やがて――貸本屋を挟み、もう少しで声が届きそうな距離に近づいたその時だ。 「どっわああああああああああああああっ!!」  いきなり、貸本屋の店内から東雲さんがまろび出て来た。 「やめろ、オイ。冗談だろ……!?」 「チッ! 東雲、なんとかしろ!」  東雲さんに次いで現れたのは〝物語屋〟の玉樹さんだ。 「なんとかしろって言われても……って、夏織!? くっそ、こんな時に!」  東雲さんは焦ったように顔を歪め、私をなにかから守るように立ちはだかった。 「なっ……なに?」  東雲さんの背後から顔を覗かせて様子を窺うと、とんでもない光景が目に入ってくる。 「東雲ぇぇぇぇぇ! 逃げるんじゃない!」  貸本屋の古びた戸口から、小麦色のもふもふが、まるで雪崩のごとく溢れ出てきたのだ! 「きっ……狐!?」  それは見たこともないほどの狐の大群だった。ギャンギャン騒ぎ立てながら、通りいっぱいに広がっている。やがて狐同士がくっつき合うと、ぼふんと白い煙と共に姿を変えた。  現れたのは――東雲さんと同年代くらいの男性だった。 「東雲、君には失望したよ。まさか逃げるとはね。それは己の非を認めているということでいいんだな!?」  男性は、一見して僧侶とわかる格好をしていた。縹帽子(はなだぼうす)に黒衣、青丹(あおに)色の袈裟を着ている。その瞳は切れ長で、目尻を紅く染めていた。  その瞳の鋭さは、じろりと睨みつけられると、震え上がってしまいそうなほどだ。  なにより特徴的なのは、黒衣から伸びる四本の尾。純白のそれは、まるでこちらを威嚇するかのように大きく膨れ上がっている。 「そうじゃねえよ! 獣に囲まれるのが嫌だっただけだ。落ち着け。な? 白蔵主!」  ――白蔵主?  白蔵主と言えば、狐を捕まえて皮を売っていた男を止めるため、僧侶になりすまし、殺生をやめるように諭したことで有名な化け狐だ。確か、東雲さんとも旧知の仲で、よく彼が棲まう山梨県まで遊びに行っていたような……。  東雲さんは、額からこぼれた汗を拭き拭きしつつ、愛想笑いを浮かべて言った。 「いっ……言いたいことはわかった。そうだな、確かにうちの本のせいなのかもしれねえが、その責任をこっちにおっ被されても困る」  そんな東雲さんに、恐ろしい形相をした白蔵主はビシリと指を突きつけた。 「言い逃れなど無駄だ。然るべき対処をしろ。場合によっては賠償を要求する!」 「ば、賠償……!?」  予想外の言葉に目を白黒させていれば、貸本屋の店内からふたりの女性が出てきた。 「お父さん、もうやめて! 貸本屋さんは関係ないわ!」  叫んだのは、ストレートのロングヘアーに真っ白なワンピースが眩しい女性だ。  やや吊り上がった涼やかな目もとに、八重歯が可愛い見蕩れるほど綺麗な女性で、頭には大きな狐耳にお尻には大きな狐の尾っぽがある。右の狐耳が一部分欠けているのが特徴で、紫色のサテンのリボンを着けていた。 「こ、孤ノ葉(このは)……がんばって」  もうひとりはゴシック調の着物を着た女性だ。  着物にレースのブラウス、黒のショートグローブ。頭には鍔広の帽子に、オシャレな色ガラスの眼鏡をかけていて、今風の着物を楽しむお嬢さん風。お尻からはふんわりした尾が顔を覗かせていて、どうも彼女は狸が化けたものらしい。 「いや、だがな。狐ノ葉……」  孤ノ葉と呼ばれた狐耳の女性は、薄墨色の瞳に涙を浮かべ、白蔵主へ訴えかけた。 「お父さんったらみんなに迷惑をかけて! 私、恥ずかしいわ」 「でも、お前がこの店から本を借りさえしなければ……」 「それは関係ないって言っているでしょう! 確かに本はきっかけだけれど、それがすべてじゃないわ。このわからずや。頭でっかち。お父さんなんてもう知らない!」 「ちょっと待ってくれ、そんなこと言ったら、お父さん泣いちゃうんだからな!?」  先ほどまでの勢いはどこへやら。  白蔵主は途端に泣きそうな顔になり、弧ノ葉の言葉に真っ青になっている。 「ねえ、東雲さん? これってどういうこと? なにがあったの?」 「それがなあ。どうもあの娘っこが、うちの本を読んで現し世に興味を持ってな。そんで遊びに出かけた現し世の町で、人間と恋に落ちちまったらしい」 「……ああ~。それは心配だよね。人間とあやかしじゃあね」  生活基盤どころか住む世界が違うのだから、父親としては簡単に賛成できないだろう。  すると、今まで静観していた玉樹さんがクツクツと喉の奥で笑った。 「それは関係ない。東雲並みに過保護な様子を見るに、あの狐娘が誰を連れて来ようが荒れるに決まっている。馬鹿らしい。巣の中でやっていろという話だ」  辛辣な玉樹さんの言葉に苦笑しつつ、いまだに言い争っている親子を眺める。  ――それだけ娘さんが大切だってことなんだろうけれど。  ちらりと東雲さんの様子を覗き見れば、養父が苦み走った顔をしているのがわかった。 「まあなあ。どこの馬の骨かわからん奴に……って気持ちは痛いほどわかるけどよ」 「……ハッ!」  瞬間、私はあることに気が付いて、さあと血の気が引いていくのがわかった。  ――水明とのこと。東雲さんにバレたらどうなるんだろう……。 「ねえ……東雲さん。もし、私がこっ……恋人を連れてきたらどうする?」  恐る恐る訊ねれば、東雲さんの目に明らかな殺意が浮かんだ。 「……夏織に相応しくねえ奴だった場合――ぶん殴る」 「ひっ!」  ――本気だああああああああ!  目つきが殺人者のそれだ。背中を冷たいものが伝う。  すると突然、肌がちりつくほどの熱風が頬を撫でて行った。 「……いい加減、わがままを言うのはよすんだ! 孤ノ葉!」  聞こえてきたのは、怒り心頭の白蔵主の声。  恐る恐る様子を窺えば、彼は轟々と燃えさかる狐火を周囲に浮かべて仁王立ちしていた。 「そこらのあやかしならまだ諦められたさ。でも、人間は駄目だ。絶対に!」  その言葉に、娘への愛情以外に切羽詰まったものが垣間見えた気がして、ドキリとする。  白蔵主は東雲さんへと向かい合い、その瞳にあからさまな殺意を滲ませて言った。 「悪いな、東雲。今はもう昔とは違う。人間とあやかしが棲まう場所は明確に線引きされて、それぞれが別々に生きている。そんな時代に、人間が作り出す物語は害悪にしかならない。これ以上被害を出さないためにも店は廃業しろ。幽世に貸本屋は不要なんだ――!」 「ハッ……!」  白蔵主の言葉に、東雲さんは不敵に笑って、右手にバチバチと雷を纏わせて言った。 「それはねえだろう。勝手に来て勝手に大騒ぎして。人の商売にケチをつけるたあ、捨て置けねえな。俺はこの仕事に誇りを持ってる。お前もそれは知っているはずだろうが!」 「その仕事が害となる可能性があるならば、それを止めるのも友の務めだと思わないか?」 「さあなあ? ちょうど今、友人をひとり失ったところでね。全然わかんねえ!」  東雲さんが叫ぶと、青白い雷が放射状に走った。本気で怒っているらしい。額の角がぼんやり光り、うっすらと肌に鱗が浮かび上がっている。 「お前が踏ん切りつかないのなら、私が代わりにやってやろう」 「余計なお世話だ、このクソ野郎が!!」  ――まずい……!  まさに一触即発の雰囲気。この町の建物は多くが木造だ。このままでは、いつ火が着くかわからない。一度、火事になれば大変だ。消防車なんてないこの世界では、江戸時代よろしく建物を打ち壊すしかないのだから。 「しっ……東雲さん、やめて!」 「お父さん。いい加減にして……!」  私と孤ノ葉が止めに入ったその瞬間、どこか場違いな声が響いた。 「「ていっ!」」 「やめろ。この馬鹿」  いつの間にやらふたりの背後へ移動していたのは、金目銀目と玉樹さんだ。  金目は白蔵主の首元へ手刀を振り下ろし、銀目はみぞおちに拳をめり込ませた。  玉樹さんはというと、東雲さんの頬を思いきりビンタしている。 「ぐうっ……!」 「いってえええええええ!」  瞬間、白蔵主は白目を剥いた。意識を失ったらしい。倒れそうになったところを、すかさず双子が支える。東雲さんはというと、怒り心頭の様子で玉樹さんを睨みつけた。 「なにすんだよ! 玉樹ィ! 馬鹿とはなんだ、馬鹿とは!」  すると玉樹さんは、口癖である〝物語〟に準えて東雲さんを責め立てた。 「悪いが自分は正直なのが売りでね。馬鹿に馬鹿と言ってなにが悪い。決定的な場面で冷静さを欠く愚か者は、最も読者に嫌われる。話の展開を悪化させるからだ。そういう登場人物に待ち受けているのは、大抵悲惨な末路――。お前もそうなりたいのか?」  気怠げに首を傾げた玉樹さんは、ある場所を指差した。それは貸本屋だ。 「店を自らの手で燃やす気か。フラグを立てるなら他でやってくれ」 「ぐぬ……」  東雲さんは、気まずそうにわしわしと頭を掻いた。 「止めてくれて助かった。どうも頭に血が上っちまったみたいで」 「わかったなら少し休め。顔色が悪い。具合が悪いんじゃないか? 家で寝ていろ」  玉樹さんの言葉に、東雲さんは一瞬だけ変な顔になった。  こくりと頷く。貸本屋へ向かおうとして――途端に顔を歪めた。 「……東雲さん?」 「あ、ああ。わりい。なんでもねえよ」  お腹辺りを手で摩った東雲さんは、白蔵主を抱えたままの金目へ言った。 「悪いが、ソイツを鞍馬山僧正坊のところへ連れて行ってくれ。頭を冷やしてやってくれよ。悪い奴じゃねえんだ。ちいっとばかし思い込みが激しいだけで。きっと、時間をかけて話せばわかってくれるだろう。俺も後で行くから」  そう言い残し、ヨロヨロと店へ戻っていく。  ――調子が悪いのかな。昨日もたくさんお酒を飲んでたから二日酔いとか?  心配になってその背中を見つめていると、白蔵主を抱え直した金目が言った。 「仕方ないね。久しぶりに幽世に来たのになあ。戻ろうか、水明、銀目」 「東雲に頼まれたんじゃなあ」 「あ、ああ……」  金目はふたりへ目配せすると、私たちの方へ手を振る。 「じゃあ、お父さん借りていくね~? 東雲はああ言ってたけど、そう簡単な話じゃない気がするんだよねえ。一応さ、君たちの方でも対策を考えておいてよ。また、貸本屋を潰すなんて言い出したら困るじゃん?」 「んだなあ。俺らは、親父どもに酒でも飲ませて発散させるか。金は後でこのオッサンからもらおうぜ。水明、つまみ買いに行くぞ! 俺らが食っても美味い奴!」 「……そうだな」  その時、ちらりと水明がこちらを見た。  なにか物言いたげな顔をしていたが、銀目に促されて背を向ける。 「……あれ?」  徐々に遠ざかっていく水明の姿を眺め、私は思わず首を傾げた。 「告白の返事は……?」  しかし、その疑問には誰も答えてはくれず。  その代わり、どこかのんびりとした声が耳に届いたのである。 「いやあ、参った、参った。こりゃ困ったねェ」  そう呟いたのは――どこか人を食いそうな雰囲気がある、恰幅のいい男性だった。
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