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屋島寺の善行狸6
――月子は貸本屋の常連だ。
なにも、貸本屋のラインナップは文芸小説ばかりではない。
漫画からライトノベル、小説のコミカライズ作品まで。顧客のニーズに合うようにと、様々な本が取りそろえてある。そんな中で、月子はどちらかというとエンタメ色が強い作品を好んで読んでいた。映画化されたり、アニメ化されていたりするものが大半だ。
私自身は東雲さんの影響もあり、どちらかというと近代の作品を好んで読んでいる。
だから、今回の件に関して考えた時、現代作品を取り扱うべきだとは思いつつも、どうしても力不足が否めなかったのだ。
そこで月子の出番である。現代作品は彼女の主戦場。
〝新しい〟今まさに創られている作品を語るなら、月子が適任だ。
「おじさまは過去に拘りすぎ。モフモフしすぎなの」
「儂の毛の具合は関係ないであろう……?」
太三郎狸の頭を執拗なまでに撫でくり回した月子は、キラリと目を光らせて言った。
「ううん。おじさまは分厚い毛のせいで、耳が遠くなっているとしか……思えない。夏織さんの話、ちゃんと聞いてた? 自分の頭で考えた? 今の日本をちゃんと見てる?」
「今の日本……?」
「昔の人は、今と比べものにならないくらい物知らずだった。無知は罪ね。知らない現象はすべて怖いなにかや神様の仕業にしてしまうの。ウフフ、ねえそれっておじさま」
すう、と黒曜石のような瞳を細め、ゆらゆら揺れながら月子は言った。
「とってもあやかしに似てる」
月子はヒョイと太三郎狸を持ち上げると、言葉を失っているかの守護神へ言った。
「当時、狸はあやかしと同じだった。恐ろしい、人間の力が及ばないなにかだったの。でも、今は違う。人間は多くの知識を身につけた。科学の光に照らされ、文化の進化の渦に巻き込まれた狸は、得体の知れない化け物から哺乳網食肉目イヌ科タヌキ属になった」
自分の鼻と太三郎狸の鼻をくっつける。
酔いで蕩けた瞳で、月子はにいと笑う。さらりとおかっぱ頭が揺れて顔にかかった。
「纏っていた闇を引っぺがされた狸は、ただの動物になった。人間は、今のわたくしたちを見ると、みんな〝可愛い〟と褒めてくれる。まん丸の耳、ふわふわの尻尾、もふもふした体、小さな肉球。今は狸を愛でる時代なの。〝萌え〟なの。愛されるために狸はいるの」
「あっ……愛……!?」
「とぼけた顔をして、玉袋を曝け出している狸すらもう古いの」
「とっ……年頃の娘が、玉袋だの言うでない!」
「……ごめん。じゃあ陰嚢」
「そういうことじゃないじゃろう……!」
「フ、フフフ……。おじさまったら怒りんぼ」
どうも同じ狸の……それも知り合いの娘相手ともなれば、さすがの太三郎狸も弱いらしい。クスクス無邪気に笑っている月子に振り回されっぱなしだ。
月子は地面に散らばったイラストを指して言った。
「さあ現実を見るの。昔人間に向けられていた嫌悪感や恐怖なんて、この絵にはないでしょ。人間がわたくしたちに向けているのは〝萌え〟。ただひたすら、優しい感情。人間が狸を好きな気持ち……感じるでしょ?」
「ぐむ……」
返す言葉がないのか、唸り声を上げた太三郎狸へ、月子は更に続けた。
「人間の社会は移り変わりが本当に早い。十年もすれば価値観はがらりと変わる。今は、身分も性差も立場も種族すら関係ない、場所を目指しているの……かも。わたくしもそうなって欲しい、と思う」
月子の大きな瞳がじんわり滲んだ。
涙を湛えたまま、月子は腕の中の太三郎狸へ必死に語りかける。
「種族の壁を越えて、誰かと恋をしてもいいんだよって。人間の創る物語は、そう言ってくれてるみたいで……好き。だから、読まず嫌いは駄目。おじさまも読んで」
その目はキラキラ輝いていて、本当に好きなものを語っているのがありありとわかる。
「…………」
月子の言葉は、そして想いは、太三郎狸へ届いたらしい。彼はついに黙ってしまった。
頃合いを見計らって近づく。私は月子へ抱かれたままの太三郎狸へ言った。
「――月子さんの言う通り、時代は変わりました。ですが、狸が悪役の物語が完全になくなった訳ではありません。過去に創られた作品が目につく可能性は大いにあります」
「やっ……やはりそうなのじゃろう。ならば!」
焦ったような声を上げた太三郎狸へ、私は首を横に振って続けた。
「太三郎様は誤解しています。物語は〝選べる〟のですよ」
はっきりと断言すれば、太三郎狸は息を呑み、恐る恐る口を開いた。
「選べる……?」
「……はい。今は、昔とは比べものにならないほど多くの物語が創られるようになりました。内容も千差万別。こめられた想いも様々です。きっと……ある人には最高の物語も、別の人にとっては、不愉快なものである場合も考えられるでしょう。狸が悪役として虐げられる物語を、太三郎様が他の狸へ読ませたくないと思うように」
誰かが創り上げたものには、その作者の考えや主張が少なからず含まれている。
諍いや戦争がなくならないように、万人に受ける物語なんて存在しないのだ。
かといって、それが物語そのものを拒む理由にはならない。
「同胞を傷つけたくない気持ちは理解できます。誰だって、仲間や大切な人が傷つくおそれのあるものを近づけたくはないですよね。今回、狸の物語が生まれた最初期からお話しさせてもらったのは、ちゃんとわかって欲しかったからです」
「わかる、とな?」
「はい。物語が創られるのには、きちんと理由が、そして背景があります。その時代、時代に必要とされていたもので、決して意味なく創られたものではありません。そしてそれは誰かが一生懸命創り出したもので、長く残った物語ほど、誰かが大切にしてきたものでもあります。簡単になくせばいいと言っていいものじゃないんです」
「じゃ、じゃあ……どうすればいい。儂は……狸は、そんなもの見たくないのに」
「無理に読む必要はありません。自分にとって、面白くて有意義な物語だけ選べばいいんですよ。合わないと思ったら本を閉じればいい。海外ではこれを〝NOT FOR ME〟と言うんだそうですよ。選べるなら、傷つく心配をしなくてもいいでしょう?」
私は空を見上げて、どこまでも広がる夏空に目を細めた。
「この世界に、物語は数え切れないほどあります。新しい価値観のもとで、新しい物語がどんどん生まれている。若い狸たちが、狸が大活躍する物語を知らずにその生を終えるなんて、もったいないなと、私なんかは思っちゃうわけなのです!」
一息で言い切って、ぺこりと頭を下げる。
「……これが、私の言いたいことです。長々とご静聴ありがとうございました!」
合わない物語、理解できない話運び。そういうものは、強烈な忌避感を喚び起こす。
それは仕方のないことだと思う。誰もが自分にとって大切にしているものがあって、それを否定したり傷つけたりするものを見たら、目を背けたくなるに違いない。
物語を楽しむためには、広い視野と逃げてもいいのだという認識があればいい。
NOT FOR MEな物語は見ない。むしろFOR MEな物語を探して、深遠なる世界へ大冒険に出かけるような気持ちを持つこと。それが読書じゃないかと思うのだ。
「……クッ、ククク……」
すると、笑い声が聞こえてきた。
顔を上げれば、そこには小刻みに体を揺らしながら笑う太三郎狸の姿がある。
「儂の負けじゃ! 若い者には勝てぬ! これでは、貸本屋の継続が悪行とは言えぬ。正論を言ったつもりが、すべてが年寄り狸のわがままになりよった。ホッホッホッホ!」
まるで吹っ切れたかのように、太三郎狸はカラカラと調子よく笑っている。
そして、月子の腕の中で大きく尻尾を揺らした太三郎狸は、どこか嬉しげに言った。
「仕方あるまい。儂も……白蔵主を化かす計画に協力するとしよう」
「…………!」
狐ノ葉、月子、そして私は互いに顔を見合わせると――。
「「「やったあ!」」」
と、女子三人で手を合わせ、笑い合ったのだった。
** *
「孤ノ葉もお酒、飲んで。ウフフフフ、お酌してあげる……」
「やっ……待って月子! わ、私はそんなにお酒はっ……ひいいっ!」
話が一段落した後、残ったおつまみを食べてしまおうという話になり、私たちは引き続き香川の郷土料理に舌鼓を打っていた。酔った月子に狐ノ葉が弄ばれている。その様子をみんなで苦笑しながら眺めていれば、玉樹さんがぽつりとこぼした。
「同胞を守るために……か。さすがは善行で知られる狸らしいな」
杯に残っていたわずかな酒をちびちび舐めていた太三郎狸は、こてりと首を傾げる。
「らしい? そうか、お主はそう思うか。ホッホッホ!」
「……どういう意味でしょう?」
意外に思って訊ねれば、太三郎狸は茶目っけたっぷりに片目を瞑る。
「――これは儂の〝秘めごと〟。他言無用であるぞ」
瞬間、ひゅうと緑の匂いを乗せた夏の風が吹き込んできた。
神妙に頷けば、太三郎狸は差し込んできた木漏れ日に目を細め、ポツポツと語り出す。
「できる限り善行をするという人との盟約。今まで、それを意識したことはそう多くない。それよりも大切なことがあったからだ。儂はただ――同胞の汚名を濯ぎたかった」
悪さをする狸もいるが、そうではない善性の狸ももちろんいる。そういう存在が、狸だからと言って、一律〝悪〟とされることが赦せなかったらしい。
だからこそ、人間の創る物語にもあれほど反発したのだ。
「善行はあくまで結果なのだよ。同胞のためならば、場合によっては悪事に手を染めたかもしれぬ。目的のためなら手段を問うつもりはなかったからのう。いやはや、実に人間が考える狸らしい思考ではないか。儂は運が良かっただけだ」
そう語った太三郎狸の瞳は、狐ノ葉と戯れている月子を見ていた。
そんな彼に、玉樹さんは再び訊ねた。
「本心はどうであれ、お前が善性の狸で居続けたことには間違いない。がむしゃらにそのことだけを考えて生きてきたのだろう? それが今に繋がっている。……〝誰か〟が言っていた。後世に〝名〟を残す人物とはそういうものだと」
しみじみと語る。すると、太三郎狸は朗らかに笑った。
「おお。その〝誰か〟とやらの言う通り。ホッホ。まさに、まさに」
そして、じいと玉樹さんを見つめて言った。
「実に面白いことを言う御仁であるな。ぜひとも酒を酌み交わしてみたいものだ」
「……それは無理だ。すでに故人だからな」
「そうか。大切な人だったのだな?」
「…………」
太三郎狸の問いには答えず、玉樹さんは黙々と酒を飲んでいる。
その話を聞きながら、私は少しドキドキしていた。
秘密主義な玉樹さんの背景が垣間見えたような気がしたからだ。
――大切な人。一体誰のことだろう……。
少なくとも幽世に来てからの知り合いではなさそうだ。
ならば、彼が〝鳥山石燕〟として活躍していた頃の知り合いだろうか。
いつか聞いてみたいな。彼の過去のことも。例の〝企み〟のことも。
――野暮だ~って怒られそうだけどね!
思わずクスリと笑みを零せば、玉樹さんが私を見てギョッと目を剥いたのがわかった。
「おっ……お前、まさか飲んだのか!?」
……どうやら、顔が真っ赤になっているのを見つかってしまったようだ。
今回、初めて知ったのだが、どうにも私は――。
「うへへへへへ~」
……酒に弱いらしい。
「飲んじゃった~。変らの。私って東雲さんの娘なのにお酒に弱いんだね」
「義理の親子関係なんだから当たり前だろうが! ああもう、水はどこだっ……!」
玉樹さんが大慌てで鞄を漁り始めた。物語に準えるのをすっかり忘れている。
その時、くらりと世界が歪んだ。どうしたことだろう。上手く思考ができない……。
「うっ、眠い……それになんら、へんらよ……」
玉樹さんに寄りかかる。ううっ、この得も言われぬ浮遊感。気持ち悪い……。
「はっ、吐くのか!? 出そうになったら先に言え。ほら、ビニール袋。あとは……」
「玉樹しゃん、優しい」
ふわふわしながら玉樹さんを見上げ、その癖っ毛をワシャワシャと撫でてやる。
「ありがと~! お父しゃんがふたりいるみらいで嬉しい」
「はっ……!?」
ニコリと笑って、こてんと玉樹さんの膝の上に着地した。玉樹さんの太ももは、男性らしく固かった。枕と比べものにならないほどの寝づらさ。でも、なんだかこうしていたい。
――なにはともあれ、一匹目の協力者を獲得できた。
順調……なのかどうかはわからないけれど、この先も上手くいけばいいなと思う。
「おい、そこで寝るな。起きろ、これからどうするつもりだっ……!」
玉樹さんがなにやら叫んでいる。とりあえず、この成功を水明へ手紙で報せなければ。
微睡みながら好きな人の顔を思い浮かべて……私は襲い来る眠気にその身を任せた。
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