二ツ岩の出家狸1

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二ツ岩の出家狸1

 夏の鞍馬山。冴え冴えしい青空が広がる夏のとある日。  目に染みるほどの木々の緑。巨木の間を渡る風は平地に比べると涼やかだ。  平安の頃より、鞍馬山は貴族たちの避暑地として親しまれてきた。葉と葉の間を戯れ遊ぶ鳥たちの声。むせ返るような緑の匂い。都の喧噪を忘れさせてくれるこの場所は、彼らの身と心を癒やし、大いに創作意欲を誘ったに違いない。  そんな穏やかな鞍馬山で、俺、白井水明は――。  耳を塞ぎたいほどの騒音の最中にいた。 「いいから、即刻本を貸し出すのを止めろ!」 「絶対に無理だって言ってんだろうが!」  鞍馬山山中にある、今にも崩れ落ちそうなほどに草臥れた庵。そこでふたりの男が激しく言い争っている。ひとりは幽世の貸本屋当主、東雲。もうひとりは狐のあやかし白蔵主だ。二日前、幽世であわや大火事を起こしそうになったふたりは、ここ鞍馬山で話し合いという名の延長戦を行っていた。今にも床が抜けそうな庵のど真ん中で、一升瓶を片手に行われているふたりの口論は、実のところ一昼夜続いている。 「私の話を正しく理解していれば、東雲、お前だって危機感を持つはずだ」 「だあっ! んな、言いがかりみたいなこと理解できっかよ、ふざけんな!」  しかし、その内容は堂々巡りしているように思えた。永遠にわかり合えないのではないかと思うほどに平行線。彼らの様子を見守っていてくれと、ここの主である鞍馬山僧正坊から頼まれた俺は、すでに耳にたこができそうだった。  そんな議論にも新たな展開が訪れる。気が短い東雲がぶちキレたのだ。 「そもそも、娘が人間にうつつを抜かしたくらいで、店に乗り込んでくるのはお前だけだ。非常識め。モンペかこのクソ狐! 娘に嫌われろ、バーカ!」  すると、東雲と同じくらい気が短い白蔵主もキレた。 「なんだと、私は至って常識的だ! 人間とあやかしは別の世界で生きるべきだ。お前こそ娘に愛想尽かされろ、このガラクタ店主!」  途端、東雲の周囲に稲光が走り、彼らを取り囲むように白蔵主の狐火が出現した。  しかし、すぐにしゅるしゅると勢いを失っていく。庵の中で妖術を使おうとしても、効果を発揮しないように、鞍馬山僧正坊が仕掛けを施してあるのだ。 「「……っ!」」  ふたりは互いの力の象徴が消え去ったのを確認すると、おもむろに拳を握った。 「「うおおおおおおおおおおっ!」」  同時に雄叫びを上げ、渾身の力をこめて拳を相手の顔に向けて打ち込む。 「「…………ッ!!」」  綺麗に交差したその腕は、見事にそれぞれの顔を変形させ、ふたりは同時に白目を剥いた。まるでスローモーションのようにゆっくり倒れ、ピクリとも動かない。  ピチチチ……と小鳥の声が耳に届いた。  こうして、ようやく鞍馬山は、元の静けさを取り戻したのである。  ――まったくもって無駄な時間だった。はあとため息をこぼす。 「……こいつらのせいで」  その時、俺の脳裏に浮かんでいたのは、先日、白蔵主越しに眺めた夏織の姿だ。 「アイツ……珍しく化粧なんてしてたな」  それに前に会った時よりも、髪が短かった気がする。服もいつも着ているものとは違ったような。言うなれば、あの日の夏織はなんだか……綺麗だった。 「あああ~……」  ぐしゃぐしゃと頭を手でかき混ぜる。じんわりと頬が熱を持っている。どうにも感情を持て余して仕方がない。走り出したいような、大声で叫び出したいような、それでいて泣きたいような。恐ろしく不安定な感情で身体の内がいっぱいだ。  頭を抱えてしゃがみこむ。途端に狭くなった視界の中、俺は小さく弱音をこぼした。 「――いつになったら夏織へ返事ができるんだ……」  チュン、ピチュン。  弱りきった俺を慰めてくれたのは、自由奔放に遊び回る小鳥の声だけだった。  俺の受難は、夏織の告白を受けた瞬間から始まったと言える。 『水明のことが、好きですっ……!』  実父が巻き起こした騒動が終わったあの日。夏織は、唐突に俺へ気持ちをぶちまけた。  心の準備をしていなかった俺は、咄嗟になにも言えずに黙り込んでしまったのだ。  その時、頭の中をグルグル回っていた考えはひとつ。  先を越されてしまった! それだけだ。  ――夏織の奴! 雰囲気もへったくれもないあんな場所で突然告白してきて!  いや、別に嬉しくなかったわけじゃないが。  当時のことを思い出すだけで鼓動が早くなる。それにしたって、時と場合というものがあるだろう。夏織はいつもそうだ。勢いに任せて思いもつかないことを仕出かす。善くも悪くも素直な奴なのだ。それがいいところでもあるが、一緒にいる側からすれば、振り回されっぱなしで面白くない。だから、告白くらいは自分からと思っていたのに! 「…………はあ」  感情が昂ぶりすぎたようだ。深呼吸をして冷静さを取り戻す努力をする。  まあ、夏織の気持ちを確認できたのはよかった。感情を制限されて生きてきたせいで、恋愛のことなんてわからない。正直、不安でしかなかったのだが――これで勝ち戦が決定というわけだ。俺は勘違い野郎なんかじゃなかった。それは喜んでいい……はずなのだが。  あと一歩、というところで俺はお預けを食らっていた。 「……クソが。まったく災難にもほどがある……」  夏織へ告白の返事をしようと出向いたあの日。白蔵主のせいで、夏織とひと言も話せずにとんぼ返りをする羽目になった。あれから二日。再び幽世を訪れる目処は立っていない。 「おっ! オッサンたち、また相打ちかよ」 「アハハ~。面白いねえ。逆に示し合わせたんじゃないかってレベル」  するとそこに賑やかな声が聞こえてきた。  羽音と共に、庵の前へ舞い降りたのは、烏天狗の双子だ。銀目は地面に降り立つなり、抱きかかえていた黒い毛玉を地面へ解き放った。バビュン! と効果音でもつきそうな勢いで駆けてきたのは、俺の相棒である犬神のクロだった。 「水明、水明っ! オイラ、すんごい頑張ったんだぜ! 褒めておくれよう!」 「そうなのか?」  双子へ訊ねれば、金目は垂れ目がちな瞳を細めて頷いた。 「滅茶苦茶張り切ってたよ~。襲ってくるあやかしたちを、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ~。一瞬さ、北欧神話のフェンリルかと思ったね!」 「ふぇんりる……! ふぇんりるってなんだ? なんだかかっこいいな!」 「遠い国の伝説にある、狼の姿をした巨大な怪物のことだ。よかったな、クロ」 「うん! オイラが狼かあ~。ヒヒヒッ」  頭を撫でてやると、クロは気持ちよさそうに目を細めた。  どうやら、思う存分暴れられたらしい。その表情から達成感がありありと見て取れた。 「それにしても、アイツらもしつけえよなあ。なあ、クロ?」 「うんうん。毎日毎日……飽きないのかなあ」  銀目が言う〝アイツら〟とは、はるばる幽世からやってくるあやかしたちのことだろう。  彼らは〝ある人物〟の命を狙っている。  それは俺の実の父である白井清玄だ。奴は幽世で起こした騒動のせいで、多方面から恨みを買っている。復讐をしようと、大勢のあやかしが鞍馬山へ押しかけてきているのだ。 「すまないな、うちの父親のせいで」 「いやいや、構わねえぜ。俺らからすればいい修行になるしなっ! それに……」  ニカッと爽やかに銀目は笑った。よくよく見れば、その顔にも返り血がついている。 「楽しいだろ? 敵を蹴散らすの。喰えば飯代わりにもなるし」  にんまり、銀目がどこか薄ら寒い笑みを湛える。金目も「だよね~」と頷いた。  その時浮かべた金目銀目の表情は、どう見たって捕食者の顔だった。人間と同じような形(なり)をしているが、彼らはどう足掻いてもあやかしだ。  そう、誰かを傷つけることを厭わず、その血を啜ることを至上の喜びとする存在――。 『人間とあやかしは別の世界で生きるべきだ』  先ほどの白蔵主の言葉を思い出して、眉を顰めた。  去年までの自分なら、その言葉に頷いてしまいそうだ。けれど――。 「それならよかった」  さらりと流し、護符の残量を確認する。あやかしたちと過ごすようになって一年。これくらいで驚いたり怖がったりはしなくなった。  幽世は俺の〝居場所〟だ。徐々に、その流儀に俺も染まりつつある。  倒れているふたりを指さし、金目銀目へ訊ねた。 「どうせ数時間は起きないだろう。敵はまだ残っているか? 俺も行ってもいいだろうか」 「いいぜ! 麓の方には、赤斑ひとりじゃ始末できない程度にはいると思う」 「そうそう。だから誘いに来たんだ~。一緒に狩ろうって!」 「それは助かる。鬱憤が溜まっていてな。突出しすぎるかもしれん。その時はフォロー頼む」  そう言って双子を見れば、彼らは目をキラキラ輝かせて笑った。 「「任せて!」」  フッとわずかに笑みをこぼす。  ――夏織への恋心は置いておこう。それよりも、今の俺にはやるべきことがある。 「さあ、修行へ行こうか」  その時、ふと脳裏に浮かんだのは、清玄にいとも簡単に組み伏せられてしまった無様な自分。あんなのはもう懲り懲りだ。好きな女へ想いを告げようと思っているのなら、ソイツを守り切れるだけの実力がなくてどうする。 「よっしゃ、やったろうぜ。水明!」 「あっ! オイラも、オイラもー!」 「もちろんだ、クロ。お前は俺の相棒だからな」 「へへへっ! 水明がいれば、オイラはもっと活躍できるんだからね! 楽しみだなあ」  全員で庵を出る。俺たちは互いに頷き合うと――一気に駆け出した。
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