序章:告白の行方は甘酸っぱさと共に

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序章:告白の行方は甘酸っぱさと共に

 ぱたん、ぱた、ぱたん。ガラス窓を雨が叩いている。  分厚い雲で覆われた空、太陽を知らないあやかしの世界は闇にぬり潰されて、頼りない蝶の明かりが薄ぼんやりと室内を照らしていた。  貸本屋の古びた居間は、店舗と東雲さんの私室が併設されているのもあり、いつも本とインクの匂いが満ちている。  けれども今日ばかりは違う。室内に香っているのは、甘酸っぱい果実の匂い。  なぜならば、部屋に山盛りの完熟梅があるからだ。  初夏は梅の季節。  充分に熟れた梅は、酒に漬け込んでも、砂糖と一緒に漬けてシロップにしても美味しい。  でも、私が作ろうと思っているのは梅干し。  市販のものよりも塩分多めに仕込んだ手作りの梅干しは、東雲さんの好物。  だから、養父の喜ぶ顔が見たくて、毎年手作りしている。  一年分ともなればかなりの量だ。せっせせっせと竹串で梅の実のへたを取る。  毎年のことだし慣れた仕事だ。だから、なにも考えずにできる作業のはずなのだけれど。 「痛っ……!」  盛大に竹串を指に刺してしまい、小さく悲鳴を上げた。ぷくりと赤い玉が浮かぶ。慌てて指を口に含んで、そのなんともいえない味に気分が急降下していった。  ああもう、こんな単純作業すら集中できないなんて! 『――水明のことが、好きですっ!』  ふとした瞬間に、あの日の自分の言葉が脳裏に蘇ってくる。同時に、恥ずかしさと、どうして言ってしまったんだという後悔と、愛おしさが溢れて出てきて。 「……う~」  私は竹串を放り出すと、ぱたりとその場に寝転んだ。  夏の始まり。さあさあと降り続く雨、粘つくような湿気と共に、私はひとり悶々とする羽目に陥っていた。  ――私がこんな状態になってしまった原因。それは春の終わりの出来事にあった。  〝現し世を祓い屋にとっての理想郷……あやかしが跋扈する混沌とした世界へ変える〟  水明の父である白井清玄が起こした騒動は、幽世全体を巻き込みつつも、なんとか未遂に終わった。その被害は甚大としかいいようがない。多くのあやかしが傷つき、悲しみ、私自身も大怪我をしてしまった。傷は癒えたものの、今もなおその痕は残っている。  清玄さんと水明は、完全にわかり合えたとは言えないものの、一応は和解したらしい。  騒動で負傷した清玄さんは、犬神の赤斑と一緒に、今は鞍馬山僧正坊のもとで養生しているのだそうだ。  そんな騒動の中で、私はとんでもないことを仕出かしてしまった。  きっかけは、清玄さんと相対した時、私が放った言葉だ。 『私が一緒にいたいのは水明なの。この人が好きなの。だから、彼をもう傷つけないで!』  告白以外のなにものでもないそれを、あろうことか本人の目の前で口に出してしまった。  更には、そのことを言及され、なにをとち狂ったのか思いの丈をぶつけてしまったのだ。  ……本当に勢いだけの告白だったと思う。  後先なにも考えず、溢れてくる感情をそのまま吐き出したような。  今思い返してみると、冷や汗ものだ。  あの場で告白を断られたら、その後、気まず過ぎて死んでいただろうに。  ――水明の反応が悪いものじゃなかったのが救いだけれど。  顔を真っ赤にして言葉を失っている彼の姿を思い出すと、胸の辺りがキュンキュンしてどうしようもなくなる。けれど、この感情をぶつける先がない。  なぜならば、あの日以来、水明には会えていないからだ。  清玄さんの騒動終結からすでに二週間経っている。  しかし、私はいまだに彼から告白の答えを聞けていなかった。  ――うう。寝込まなかったら、こんなにも焦れることはなかったんだろうなあ。  実はあの後、すぐに体調を崩してしまったのだ。怪我が全快していないのにも拘わらず無茶したことが祟ったらしい。次に目覚めた時には、貸本屋へ居候していた水明は荷物を引き払って薬屋へ戻っていたし、私の体調がすっかり元通りになった頃には、清玄さんを鞍馬山僧正坊のもとへ預けるため、彼は現し世へ出かけてしまっていた。  ――ああ、タイミングが悪すぎる。  私の想いは、はたして受け入れてもらえるのか。それともふられてしまうのか。  この調子じゃあ、水明の気持ちがわかるのが、いつになるのかわからない。  スマホなんかがあれば、すぐにでも訊けたんだろうけれど……。  残念なことに、幽世には電波塔なんて建っていない。  水明の意思を確認するためには、直接会うか……もしくは――。  ちらりと、雨が降りしきる外を窓越しに眺める。  ぱたぱた、ぱたん。ガラスが雨に打たれて震えているだけで、その他にはなにも見えない。 「ンッフフフフ。お手紙の返事、なかなか来ないでありんすねえ」  すると、鈴を転がしたような声が聞こえた。  明らかに面白がっている様子のそれに、勢いよく体を起こす。  じとりと睨みつければ、窓辺に座っていたその人はコロコロと楽しげに笑った。 「手紙というものは、返事がいつ届くのかと待つ時間すら楽しいものでありんすなあ?」 「私は死にそうになっているけどね……」 「ああ、可愛らしいこと。初心でありんすねえ。少し前までは、なあんにも知らない赤子のようでしたのに。恋を知るだけで、ここまで人間が変わるとは。ンッフフフフ」 「もう、からかわないで。こっちは真面目なんだから」  抗議の声を上げると、文車妖妃はますます楽しげに笑った。  彼女は、恋文に籠もった想いの化身だという謂われのあるあやかしだ。  絹糸のように純白の髪。透き通るように白い肌。二重に重ねた打ち掛けは朝焼けに染まった霞のような色。ほんのり紅で染めた小さな唇や目もと、瞳の藤色が、彼女の纏う白色の中で際立って見え、同性であるにも拘わらずドキリとするような色気がある。  脚が悪い彼女は、私の隣へズリズリと腕の力だけで寄ってくると、つつ……と太ももに指を滑らし、どこか艶やかな声色で囁いた。 「ソワソワ、ソワソワ。夏織は返事が待ち遠しくて仕方がないのでありんすなあ。水明に送った手紙には、さぞ熱い愛の言葉を連ねたんじゃあおっせんか?」 「そっ、そんなわけないじゃない! 普通の手紙よ、普通の」 「嘘はつきなんしな! 〝会いたい〟とか〝温もりが恋しい〟とか絶対に書いたに違いないだんす。わっちが恋物語を好いていることは知ってるではありんせんか。むごうありんす! 焦らさないで、なにを書いたのか教えてくれなんし。さあさあ!」 「いや。でも、えっと……」  文車妖妃にガクガク揺さぶられ、けれども嘘をつくわけにも行かずに途方に暮れる。  直接会う以外に意思疎通を図る方法……それは手紙だ。  ――会えないなら、手紙を書けばいい。  数日前のこと。ひとり悶々していた私に、そう提案してくれたのは文車妖妃だった。 『文通は恋愛の基本。古めかしいと馬鹿にしなんし。人ははるか昔より、文に想いをしたためてまいりんした。平安時代なぞ、顔を合わせずとも文で心を通わせたものでありんす』  だから手紙を書けばいい。文字に込められた想いは、確実に相手に届くのだからと。  恋文に込められた想いが変じたあやかしらしい考えだと思う。  彼女の勧めに従って、私は〝幽世式〟の手紙を水明へ送ることにした。  〝幽世式〟といっても、必要なのは特別な紙だけだ。  それは、あやかし〝樹木子(じゅもっこ)〟で作られたものだ。  〝樹木子〟は、古戦場などで多くの血を吸った樹木が成るあやかしで、それで作られた紙は、配達人が不要だ。折り紙のように鶴を折ると、自ら空を飛んで相手のもとへ行ってくれる。  ――確か、戦場で大切な人へ想いを届けられずに死んだ人の念がそうさせると、東雲さんは言っていたっけ……。  私は期待に目を輝かせている文車妖妃に、申し訳なく思いながら言った。 「そんな色っぽいことはひと言も書いてないよ。季節の挨拶とか、最近の幽世の様子とか。当たり障りのないことしか書いてない。わかるでしょ。私は恋愛初心者なの。無理だよ! 手紙にそんなこと書くの!」  自棄気味に叫ぶ。すると、文車妖妃は不満そうに唇を尖らせた。 「ええ……ほんだんすかえ? じれっとうす。はようくっついて、わっちに甘酸っぱい恋の話を聞かせておくれなんし」 「妖妃ったら、人の恋路をなんだと思ってるの……」  恋愛物語を心から愛する文車妖妃からすれば、私と水明の関係は最高に面白い余興らしい。頻繁に訪ねてくるようになった彼女に、私は心中複雑だ。  前は、私を〝まだ友だちじゃない〟と言っていた癖に。  ……少しくらいは、親しく思ってくれているのかなあ。  学生とかが、クラスの友だちと恋の話をする時ってこんな風なのかもしれない。  嬉しいような。くすぐったいような。なんだか変な感じだ。 「ええい恋愛の話は終わり!」  とは言え、いつまでもからかわれ続けるのは気分がよくない。  私は再び竹串を手にすると、梅の実の山へ再び向かい合った。 「いつ来るかわからないものにやきもきしてても仕方ないし。妖妃、梅仕事手伝って!」 「ええ……わっち、箸より重いものを持ったことがありんせん」 「……嘘でしょ?」 「嘘でありんす」 「もお……!」 「ンッフフフフ。ああ、夏織はからかい甲斐があってよござんす」  コロコロ笑っている文車妖妃に呆れつつも、熟れた実に手を伸ばしたその時だ。   からりと貸本屋と居間を繋ぐ引き戸が開いた。  顔を覗かせたのは、私の母代わりでもあるナナシだ。 「まったくもう。この長雨には嫌になっちゃうわね」  深緑色の髪をかき上げ、山積みになっている梅を見つけた途端に顔を輝かせる。 「あらま! やだ、もうそんな季節? アタシも手伝うわ」 「わあ! ナナシ、ありがとう~。終わる気がしなかったんだ」 「いいのよ。おしゃべりしながらやったらすぐ終わるわよ」  パチリと片目を瞑ったナナシは、いそいそとハンドバッグに手を差し入れた。 「それと、こんなのが来てたわよ」 「えっ……」  どきり、と心臓が跳ねた。  ――まさか。まさか、まさか、まさか!  するとナナシのバッグから、なにやら白いものが飛び出してきた。  パタパタと羽を動かして飛んでいるのは――鶴だ。  それは天井あたりをぐるりと一周すると、ゆっくり私の手の中に下りてきた。  ――手紙の返事が来た! 「玄関のガラス窓にくっついてたの。見てみなさいよ」 「う、うん」  ……ああ、指が震える。そっと鶴を解していく。丁寧に折られた鶴。几帳面な水明の性格が窺える。やっとのことで鶴を開いた私は、ドキドキしながら中身に目を通した。 「それで、なにが書いてありんした?」  ニマニマ笑った文車妖妃が覗き込んでくる。  私はパッと顔を上げると、感激で胸を震わせながら言った。 「水明、私が貸した小泉八雲の『怪談・奇談』が面白かったって……!」 「お馬鹿。今反応するべきはそこじゃないだんす」  すん、と白けた顔になった文車妖妃は、素早く私の手から手紙を取り上げた。 「あっ、あっ! 返して!」  慌てて取り戻そうと手を伸ばすが、躱されてしまった。  文車妖妃は内容に目を通すと、どこか含みのある笑みを浮かべる。 「『三日後、幽世へ戻る。話したいことがあるから、時間が欲しい』……でありんすか」 「……っ!」  途端にパッと顔に火がついたように赤くなった。  耳の奥で心臓が鳴っている音がする。いきなり、シロップの海に放り込まれてしまったような、甘ったるい感覚が全身に満ちて、どうにもいたたまれなくなった。  ――話がある……! 話ってもしかして! 「ナ、ナナシ!」  堪らなくなった私は、ナナシに思いきり抱きついた。 「み、三日後だって。どうしよう。どうすればいい?」 「あらあら」  ナナシはくすりと笑い、私の頭をゆっくりと撫でてくれた。 「――〝とうとう〟?」  まるで子守歌を歌ってくれた時のように優しい声で訊ねられる。  私はコクコクと小さく頷いて、涙目になりながらナナシを見つめた。 「こ、告白したの。多分、返事だと思う……」 「……そうなの!」  途端、ナナシはぱあっと顔を輝かせ、琥珀色の瞳を細めた。 「夏織、大きくなったわね」 「それって今関係あるかなあ……?」 「あるわよ、大ありだわよ!」  ナナシは心底嬉しそうに言い、私の両頬を手で挟んで言った。 「あんなに小さかった子が恋をして、好きな人に告白をした。もしかしたら、恋人ができるかもしれない……すごい成長。もしかしたら、そのうち花嫁姿が見られるのかしら?」 「はっ……花嫁!? ナ、ナナシ。気が早すぎるよ」 「そうね。ウフフ、ごめんね。すごく〝家族〟って感じがして嬉しくて――」  ナナシが涙を浮かべている。彼は小さく洟を啜り、ハンカチでそれを拭った。  そして私の顔をまじまじと見れば、にっこりと笑んだ。 「当日はオシャレしなくちゃね。髪も少し切りましょうか。新しい夏服に、可愛いサンダル。お化粧はアタシがしてあげる。アクセサリーも可愛いのを貸してあげるわ」 「いっ……いいの?」 「もちろんよ。可愛い娘の新しい門出だわ。特別にしなくちゃ」 「……ッ!」  その言葉があまりにも嬉しくて、私はナナシの胸に顔を擦り付けた。 「ありがと。ナナシは本当に私のお母さんだね」 「そう言ってくれると嬉しい。アタシからもお礼を言わせてね。こんな嬉しい出来事に立ち会えるなんて……夏織と〝家族〟になれて本当によかった」  ふたりでクスクス笑って、見つめ合う。  ナナシの琥珀色の瞳が、じんわりと潤んでいる。きら、きらり。蝶の明かりを取り込んだその瞳の色は、まるでぽかぽかした陽だまりのような柔らかな熱を持っている。 「素敵な一日になるように準備しましょうね」 「……うん」  こくりと頷けば、ナナシはさらさらと私の頭を撫でた。  ――ああ、緊張する。私の告白の行方はどうなるのだろう。  初めてのことばかりで、どうにも落ち着かない。  上手く行ったらどうしようとか、駄目だったらどうすればいいのかな、とか。  いろんな感情が浮かんでは沈んでいく。  初めての感覚、初めての体験。……ああ、初めてづくしでどうすればいいの。 「大切な〝家族〟のことだもの。応援しているわ。アタシがついている」  ――でも、ナナシがいてくれたならきっと大丈夫。  私はナナシの温もりに頬を寄せると、胸いっぱいに息を吸い込んだ。  いつものインクと本の匂いとはまた違う、甘酸っぱい匂い。  初夏の訪れを告げる梅の香りは――。  なんだか恋と似ているような気がした。  
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