女の勘

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 ここは太平の世、江戸の場末。空の樽ほど音が大きいとはよく言ったもので長屋の路地で素っ頓狂な声が響く。与作が声のオクターブを上げて尾鰭を付けて口走ったんで。 「おい!やっさん!おいら、また上玉買っちまったぜ!」 「すっとこどっこい!そんなこと、てめえが住まう軒先で自慢するもんじゃねえ」  案の定、与作は玄関に入るなり上さんにド叱られた。で、そこを這う這うの体で逃げ出して隣の安吉の住まいに倉皇として駆け込んだ。「おい!やっさん!女の勘というものは閻魔様より怖ろしいものだな!」 「どうして?」 「おいらが帰るや否や見破ちゃってよ、また女遊びして来やがったな!って怒鳴りやがったんだよ。全く恐ろしや・・・」 「この唐変木!おめえ、さっき俺が帰ろうとする時に大声でてめえの不行跡を明かしただろ。それを上さんは訊きつけただけの話だ。女の勘も糞もねえ」 「あ、そっか」 「てやんでい!何がそっかだ。上さん、恐れてんなら少しは気を付けろ」 「なんせ、妬くからね」 「だから気を付けろってんだよ」 「諺通り女房の妬くほど亭主もてずなんだけどな」 「それを自覚してるなら女房の勘なぞと恐れることねえやな」 「けどさ、顔が般若みたいにおっかなくて」 「そりゃあ見た目はそうだろうが、中身はそれ程でもねえんだ」 「そう思えりゃ楽なんだがね」と与作は言いながら身震いする。 「ハッハッハ!震えてやがる。目くら滅法に心に鬼を作って無闇にかかあを恐れてんだから世話ねえや。おめえは精々心に笠着て暮らせってんだ」 「どういう意味だい?」 「おめえはうすのろだから教えてやるがな、笠を被れば上が見えねえだろ。となれば高い所が見えねえ。つまりだ高望みせずに済むだろ。その様に分相応に暮らせってことでな、遊郭の綺麗な花魁を望まずに、てめえのかかあで満足しろってことだ。そうすりゃあ、かかあの機嫌も良くなる」 「はあ、な~るほど」 「べらぼうめ!間抜けた顔して感心してやがる」 「ありがとう。いい教訓になったよ」 「礼までしやがった。ハッハッハ!」と安吉が大笑いすると、与作は相変わらず間抜けな面持ちで持ち掛けた。 「しかし、何だな、やっさん」 「何だよ」 「女の勘ってやっぱりすげえと思うんだ」 「おめえは顔に出やすいからな。俺にだっておめえの様子でてめえの考えてることが手に取るように分かるよ」 「そうかい。顔に書いてあるかい」 「ま、そういったもんで、おめえだけじゃなく世間の奴も女の勘、女の勘って大層なもののように言うけどさあ、男はてめえのような雑魚でも女遊びしたりして浮気するもんだろ。片や女は器量良しで慇懃を通じて二股三股掛けられるのは別としてそうはいかねえ。するってえと、男は女に浮気される目に遭うことが少ないが、逆に女は男に浮気される目に遭うことが多いから浮気を見抜く機会に恵まれる。で、男は浮気がばれると、てめえのばればれの言動を余所に女の勘と称して勝手に恐れてるだけの話さ。それをいいことに女は男より洞察力に優れているのよなぞと思い上がって女の勘を然も誰もが持ってるように信じ込んで誇る訳さ」 「あ、な~るほど」 「へっへっへ、また感心しやがった。大体よお、男が女より劣るようなことを言われたんじゃあ、苟も鯔背な江戸っ子を任じて憚らねえ俺だ。黙っていられるかってんだ。男が廃るってもんよ。女は男社会に生きていて自然男に対して反骨精神が湧いて勝気になって出しゃばったりするけど、男にだって勘の良い奴はいるよ」 「だよねえ、やっさんもその一人だな」 「おう、おめえでも分かるかい」 「あたぼうよ」 「おう、おめえも江戸っ子の端くれかい」 「そうさ、やっさん、持つべきものは江戸っ子でえ」 「それを言うなら持つべきものは友だろ」 「あ、な~るほど」 「ハッハッハ!また感心しやがった」 「そんなにうれしいかい?」 「うれしかねえよ。さっきから呆れて笑ってるんだ。第一おめえに感心されたって。況してこんなことで感心されたって。第一、俺はおめえと友ってことが心地いいもんじゃねえんだよ!」 「そうかい、そうだろ。そうにちげえねえ。だけど、おいらはやっさんといると心地いいよ」 「へへ、そうかい。馬鹿にされてもかい?」 「うん、おいらのことを思って言ってくれてんだから」 「なるほど、分かってんじゃねえか。それにつけても何だな、若旦那じゃあるまいし、よくおめえが花魁を買えたな」 「花魁じゃねえよ。おいらが買ったのは曖昧屋の女郎さね」 「何だ、そうか、そりゃそうだよな。俺の勘も当てになんねえや。で、かかあより良かったか?」 「ああ、色も香も花も実もあるてえした上玉だもの」と与作は大風呂敷を広げると、「あたしは売女以下か!」と与作の上さんが怒鳴り込んで来た。 「壁に耳あり障子に目あり、打てば響くってか」と安吉は呟き、与作の上さんの嫉妬深さ執念深さを恐れ、別れた女の下衆の勘繰りを想起した。
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