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銀治郎が三連発でくしゃみをすると、病院の待合室にいた患者数人が銀治郎のほうを振り向き、そのあと嫌そうな顔で顔を背けた。くしゃみの仕方は以前と同じだった。銀治郎は鼻をすすり上げながら身を縮めた。もっとも、健吾の体は背が高く、縮めても相変わらず存在感がある。銀治郎は濡れた服を脱ぎ、スーパーで買ってきた服に着替えていた。ホッカイロを手でさすりながら、自分は何をしてるのかと思う。川はそこまで深くなかったのだが、足がもつれて転んでしまったのだ。
二人は市内の神経内科にいた。脳の異常を見て貰うためだ。病院は比較的すいていて、すぐに診てもらえた。健吾も診察室から出てきて、銀治郎の横に座った。銀治郎は小声で聞く。
「姫路くん。どうだった」
「なんか大丈夫っぽいです」
「そうか。よかっ・・・」
『よかった、僕もとくに問題はなかった』と言おうとして、銀治郎はいい淀んだ。問題はある。銀治郎は携帯を取り出した。すでに四時を回っていた。娘からのあたらしい通知は来ていなかった。
銀治郎が階段から落ちた時、財布も一緒に落としていたらしい。スーパーで金を払おうとしたときに気がついた。銀治郎はすぐさま警察に問い合わせた。幸い、財布は近くの警察署に届いていた。そこで銀治郎は、息吹にそれを取りに行ってくれるよう頼んだ。しかし息吹は出先だったため、学校帰りの紘子にその役が回ってきたのだった。
健吾は携帯を見ながら、無表情に呟いた。
「みやうちさん」
「あ、それはくない、と読むんだ。なんだい」
「いえ、アドレス帳読んだだけっす」
健吾は携帯から目を離さずに言った。さっき交換した連絡先を見ているらしい。
「クナイさん。いや、銀さんだな」
会話が破綻している、と銀治郎が思ったとき、病院のドアが勢いよく開いた。ベルがチリンチリンと鳴り、緊張した面持ちの紘子が入ってきた。銀治郎はほっとして紘子の方へ歩み寄る。
「紘子。悪いね。学校の帰りに」
紘子は不機嫌そうな表情で振り向く。しかしそれは見る間に驚きの表情へと変わった。
「えーっと、あの・・・・・・?」
真っ赤になりながら、紘子の目線は助けを求めるように銀治郎の後ろを彷徨う。そんな紘子を見て、銀治郎ははたと気がいた。銀治郎の体に入った健吾が、銀治郎の脇からぬっと出てきた。
「どうもありがとう」
紘子は父の姿をした健吾を認め、一瞬ほっとした顔をした。そして彼をじろりと睨み、財布を掌にばんと押し付けた。
銀治郎と健吾が会計を終え、診察室の扉をくぐるなり、紘子が我慢できなくなったように言った。
「えーと、どうして二人が一緒にいるんですか」
紘子はそう言いながら、銀治郎の方をチラリと見た。銀治郎は狼狽しながらしゃべりだす。
「ああこれは、ええと、紘子さんのお父さんが階段から落ちたところに、ちょうど姫城君…僕がいて一緒に落ちて」
急に話しはじめた銀治郎を、紘子はびっくりした顔で見ている。その顔を見て、一人称「僕」は、やっぱり違ったか、と銀治郎は思う。
「・・・・・・そうなんですか。うちの父が申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」
そう言って裕子は深々と頭を下げた。銀治郎は、紘子がこんな殊勝なことを言えるようになったのかと、娘の成長を感じてジーンとしてしまう。
しかし、上半身を上げた紘子の目は、銀治郎の手元に釘付けになっていた。銀治郎もすぐにその目線の理由に気づき、慌てて紙袋を後ろに隠す。
「それ・・・・・・」
紘子はそう言いながら、紙袋を凝視する。びしょ濡れで泥だらけだ。そして父の姿をした健吾を勢いよく振り替えり、すごい顔で睨んだ。銀治郎は慌てて言い訳をした。
「あーこれ、お父さんのお弁当袋に入ってて・・・・・・」
「中身見ましたか」
「ええと、いや、まだだけど」
「そうですか。じゃあ返してください。私のなんで」
「え」
紘子は早口でそう言い、うつむきながら手を伸ばした。銀治郎は紘子の震える手を見ているうちに、思わず意図しないことを口走っていた。
「あの、でも。よかったらこれ、僕が貰ってもいいかな」
「え」
「さっき、手紙の宛名だけ見えちゃったんだ。僕」
紘子は息をのみ、真っ赤になった顔を両手で隠した。頬はますます紅潮し、今にも泣き出しそうに見えた。
「 あ、えーと。勘違いだったらいいんだけど。でも貰えるんだったら貰うよ」
銀治郎は助け舟のつもりで言ったのだが、紘子は赤い顔でまっすぐ銀治郎の方を見て譲らなかった。
「いいえ。なんか汚れちゃってるし。お腹壊しちゃったら大変だし」
「本当に大丈夫だから」
「だめです」
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