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第1話「日常」
大学3年生、夏の手前。
6月始め、静海美術大学、オープンキャンパス前日。
佐藤義人(さとうよしと)は夏休みを挟んで9月・後期から所属する事になっている古畑ゼミの古畑教授が担当している造形建築デザイン学科の作品展示スペースの手伝いをしていた。
静海美術大学のオープンキャンパスは6月と後期が始まる寸前の8月に行われる。
この6月のオープンキャンパスは土日に行われ、8月は夏休み中にあり、作品展示や実際に学生とも話ができる為、毎年多くの受験生や編入希望者、その親達が訪れる。
「佐藤先輩、これって、」
「お〜と〜こ〜の〜こ〜だ〜!きゃわいー!」
「きゃわわー!盛り上がりますなあ!」
「佐藤、椿、やめて」
「あ、ごめんごめん」
無論、古畑ゼミに既に所属している4年生も展示の手伝いに参加しており、義人と同じ苗字の佐藤莉乃(さとうりの)、そして椿裕美子(つばきゆみこ)は自分達の代にはいなかった男子生徒のゼミ生に大変興奮していた。
恋愛対象うんぬんではなく、ただ単に男がいると潤う、目の保養になると言う理由での興奮だ。
その2人を必死に宥めているのが中野宏美(なかのひろみ)と言う副ゼミ長である。
「佐藤くん、それはそっちの机に置いて!動線がこうあるから、こっち向き。あとそこの机ってもう少し傾けられる?」
「はい!」
そして無論、この男も彼と共に手伝いに参加していた。
「佐藤くん、机は俺が動かすからこの模型並べてって」
古畑ゼミのゼミ室から持ってきた模型を義人のそばの机に置き、中野が指示を出した机に向かう男。
「あ、そう言えば誰かゼミ室で揉めてたんだった。一回戻るね。止めてくる」
「ん、ありが、え、揉めてた?」
「揉めてたって誰が?」
義人と中野がキョトンとそちらを向くと、藤崎久遠(ふじさきくおん)はへらりと困ったように眉尻を下げた。
「すみません名前が分からなくて、、髪の長い背の低い女の人と、真っ赤な服着た女の人だったんですけど」
「うわあ〜!!橋本と宮藤だ!まずいまずい、昨日話し合ったのにまたぶつかったな。佐藤!さーとーおー!!」
「なに!」
「橋本と宮藤がゼミ室で喧嘩してるって!止めてきて!」
「またあ!?行ってくる!」
ドタバタと足音を立てつつ、先輩・佐藤の方は走って別棟のゼミ室へ急いだ。
「藤崎くんは机やってもらえる?あいつらの喧嘩はほっといていいよ。大体、違うゼミ行くのに手伝ってもらって悪いね」
中野は彼に笑いかけ、義人が置いた模型を2人で眺めて角度を調節する。
「全然大丈夫ですよ。うちのゼミのはもう先輩達が終わらせたみたいだし、こっちやりたくて来ましたから」
藤崎は彼らが模型を置いている机の向かいの列の机に手を掛けた。
3年生後期から造形建築デザイン学科はそれぞれの生徒がゼミに所属する。
人数制限はあるものの、別段試験などはなく、大体の生徒が希望したゼミへ入れる。
ときたまに人数制限が過ぎると面談が行われて第二志望のゼミへ行く事もあるらしいが、義人達の代は難なく全員がきちんと割り振られたようだった。
「佐藤くんがいるならゼミ室にお邪魔することもあると思うので、今の内に顔覚えてもらって、好感度上げときたいので」
「あははっ!佐藤くんやばいね、めちゃくちゃ好かれてんじゃん。あ、と言うか一緒に住んでんのか」
義人と藤崎はそれぞれ、別のゼミに入る事が決まった。
この事については2人で話し合ったが、お互いがいるからと言って同じゼミを選択するのは何かが間違っているだろうと2人共が承知しており、最初に希望したままの別々のゼミへ行く事になった。
ゼミ室自体は近く、同棲しているアパートから大学までは一緒に来る事ができ、帰るタイミングさえ合えば今と同じで一緒に帰る事もできる。
ゼミで授業する以外の学科類も同じ授業を選択すれば一緒に過ごす時間も調整できるのだ。
別々と言っても、そんなに離れる事を意識する必要はない。
「はい。ルームシェアしてます」
藤崎は相変わらず美しい顔面で美しく笑みを作り、にこりと中野に微笑み返した。
しかし、心中はあまり穏やかではない。
義人が自分から手伝いたいと言って他の3年生達と共にオープンキャンパスの準備に参加する事になったまでは良かったのだが、これは、今まであまり関わりのなかったクラス以外の女子達と一気に関わる場が設けられてしまった事になる。
女子対策及び扱いに長けており、優しさの微塵もなく女の子の「そう言ったアピール」に対して「お断りします」とサラリと冷たく遇らえる藤崎と違い、義人はガードが緩く鈍感過ぎて告白されるまでそんな女の子達の様子に気がつく事がない。
相変わらず自己肯定感と自己評価が低く、誰かの恋愛対象になると言う想定ができないのだ。
藤崎からすれば悪いムシが着き放題のイベントが、オープンキャンパス準備のこの手伝いだった。
それも、クラスに限らず学年関係なく女子生徒の多くが参加している。
(この先輩は大丈夫そうだな)
藤崎がこの場にいるのは、義人が入るゼミの先輩や同じく手伝いに参加している同期達を1人1人丁寧に観察し、悪いムシかどうかを判別する為だった。
付き合って3年目の夏の手前。
藤崎久遠は自分に課したミッションを遂げる為に義人から片時も離れないように意識していた。
「ルームシェアか〜、中々難しそうなのによく続くね。喧嘩しないの?」
中野は藤崎の完璧な笑みに照れつつ、佐藤の方を向く。
重ねて2つ持ってきた模型の2つ目を綺麗に飾ろうと、1つ目の模型と角度を調整している義人はそちらを向く事はなく、耳だけで会話を聞きながら「うーん」と低く唸る。
「しますねー、かなり」
「佐藤くん朝弱くてむちゃくちゃ機嫌悪くなるんですよね〜」
「は?」
これは藤崎から周りで今義人との会話を聞いている女子達へのマウントだったが、このひと言に義人はぐりんと首を回し、動線を挟んで向かいの机の列で作業している藤崎の方を向いた。
藤崎は悪びれずにこにこしている。
朝が弱い事に関しては同棲する前から知っていた筈で、義人はその事に関しては何度も「ごめん」と謝罪している。
遅刻しそうになった事も、やると言った朝ご飯当番がまっとうできなかったときもきちんと謝ったのだ。
(今更掘り返す気か)
完全な勘違いで、キッ!と藤崎を睨みつけた。
「そこじゃなくて、俺が言ってんのはお前が下手なこだわりを見せてすぐ喧嘩んなるって話しだよ!」
「え、料理とか?佐藤くん作んないからじゃん」
「たまには作ってるだろ最近!!」
「どーどーどー!待ちなさいお2人さん、今は準備準備」
「あっ、すみません」
「すみません。机、このくらいでいいですか?」
「うん、ありがと。大丈夫!」
何で今この場でそういう話しをするかな!?と掴みかかりそうになった義人を抑えてくれたのは中野の方で、2人の間に入って手を上げ、主に義人を落ち着かせる。
ムス、としたまま彼が一瞬だけ藤崎を睨んで作業に戻ると、彼女は面白そうに微笑んで藤崎の方を向いた。
「完全に痴話喧嘩じゃん。何か夫婦みたいだね、2人って。あ!付き合ってたりして?」
核心をついたひと言に、2人はいつも通りの反応を見せた。
「っ、」
義人はドクンと大きく心臓が嫌な音を立てたのが聞こえて、作業していた手が止まり、ピク、と唇が揺れる。
その様を藤崎は横目でチラリと眺め、フォローする為に大きく笑った。
「あははっ!似合います?」
わざとらしく義人の隣に寄り、彼と腕を組んでニコッと笑い、中野にポーズをして見せつける。
「おいコラ!離せバカ!!」
義人はその衝撃で我に返り、慌てて藤崎の腕から逃れようと暴れた。
「痛い痛い痛い」
「あはははっ!似合うよ〜」
グッと中野が親指を立てた右手を前に出すと、開け放たれている教室の後方のドアから先輩の佐藤が中に駆け込んでくる。
どうやら中野は2人の関係が冗談だと思ってくれたようだ。
聞こえて来た足音に釣られるように後ろを向き、彼女は首を傾げた。
「佐藤どした?」
「あかん!収まらん!あいつら言うこと聞かねえし全然手伝ってくれないし橋本泣き始めた!!」
「ガッ!!めんど!今日島さんいないのに〜」
「来てくれ〜助けてくれ〜私だけじゃ無理だ〜」
「んー、行く行く!佐藤くん、藤崎くん、2人で机やって!ゼミ室の揉め事終わったら模型持ってくるから!」
「あ、はい!」
「椿!ゼミ室手伝い来て!」
「またー!?」
そう言うと、佐藤、中野、椿の3人は走ってゼミ室のある別棟へと消えてしまった。
古畑ゼミ4年生。
6月1日のゼミ決定後の顔合わせで「全員彼氏がいないんだ」と教授・古畑昌夫(ふるはたまさお)に笑いながら紹介された合計10人のメンバー。
島根綾香(しまねあやか)と言う派手な服を好んで着るゼミ長を筆頭に、中々に個性豊かな女性が揃っており、見事に男子生徒がいない代である。
ゼミ長は通称・島さんと呼ばれていて、カリスマ性があり「こんな上司が欲しい」と関わった後輩達を惚れさせていく姉御肌。
そして副ゼミ長が中野だ。
ふわふわっとしているがやる事はやる女性で、ノリが良く、佐藤と椿と共にふざけながらも島根をフォローしている。
今ゼミ室で喧嘩している2人は橋本と宮藤と言い、ゼミ内でよく意見を対立させ言い合いになる名物的な2人だ。
「藤崎、離せ、やめろ。バレたらどうすんだ」
先輩3人が消え、教室内にいた他の生徒達が揃って飲み物を買いに行くところを見送ると、義人は藤崎の腕を自分から剥ぎ取りながら不機嫌そうにそう言った。
「俺はいいんだけどなあ」
「ダメなもんはダメ」
相変わらず、こう言った事に関しては厳しく神経を張り巡らせている義人を見つめ、藤崎は口元を緩める。
拗ねたような言い方が可愛らしかったのだ。
「ん、分かってる。ごめん、義人」
周りに人がいなくなった事をお互いに確認すると、藤崎は義人の手に触れて、甲を擦り合わせてから優しく指を絡めた。
義人は未だに周りに男同士で付き合っている事を知られるのを嫌う。
彼らの関係を知っているのは義人の家族以外の近しい間柄の人間と、1年前に起きたある事件の関係者達だ。
藤崎は義人が自分の彼氏であればこの関係を誰がどう言おうと別段どうでもいいのだが、義人が嫌がる事は基本的にしたくない為、彼に合わせて今まで関係を隠して来ていた。
「、、、帰ったら、ちゃんとするから」
「何を?」
「分かるだろ」
「分かんないなあ」
顔を赤らめた義人を見下ろし、指を絡めたまま、義人の右手の親指を摩る。
ピクン、と可愛らしく彼の手が緊張で震えた。
「帰ったらちゃんと、恋人に戻るから。だから今は、」
「ん。帰ったら、俺のこと好きな義人に戻ってくれる?」
俯く義人を覗き込むと、少しだけ拗ねた眼差しがこちらを見上げた。
「、、帰らなくても、お前のこと好きだよ」
「っ、、」
どうしてそこで拗ねるかな、と、自分の微妙な言い回しに悔しそうに下唇を噛む彼に、藤崎は困ったように切なく愛しく細めた視線を送る。
人にバレたくないと言うが、愛情が薄い訳ではない。
関係を公にしない事で藤崎を守ると言うのが、義人なりの愛情なのだ。
そしてそれを、藤崎自身が痛い程良く理解している。
「帰ったらセックスしたい」
「ん、」
「やだ?」
「やじゃないよ」
誰かの足音でフッとお互いに手を離した。
義人の頬は赤いままで、藤崎は彼の気まずそうな瞬きで揺れる長いまつ毛に見惚れた。
「もう1回言って」
義人の黒っぽい瞳が熱で揺れながら彼を見つめている。
「今だって、好きだよ」
「、、俺も」
もう一度義人に手を伸ばし、掴んだ右手の手首から手の先までをスルン、と撫でて、藤崎はふわっと優しく彼に笑い掛けてから手を離した。
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