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上
その漆黒の姿は、ひとえに異形と呼ぶが相応しい。楕円形の朧げな輪郭に、爛々と光る二つの紅き目。腕はなく、脛ほどで途切れた短き二本足のみが、奇妙にも人と似た形を成している。
背丈も人と同じである異形は、人に属する種か? そんな血迷った言論は、胴部を裂く巨きな口が嘲笑うだろう。決して言葉を発しないそれは、ただ空腹を満たす為だけにある。
それは人けのない路上に現れる。
薄暗い森の獣道を行く婦人が一人。優雅な白い服に身を包んだ彼女が、期せずしてかの悍ましき異形を見た。
恐怖の顔色を露わにする婦人は正しい。
ひとたび路傍の餌を捉えた異形は大口を開け――忽ちその全身を呑み込んだ。
漆黒が純白を覆い尽くす。くしゃりくしゃりと咀嚼音のみが漏れ聞こえる。傍から見れば暗澹たる影が不気味に蠢くのみで、閉ざされた犠牲者の慟哭を見聞きすることは叶わない。
やがて解放された身に外傷はない。されど焦燥に揺れていた双眸からは光が奪われ、あてもなく虚空を見つめるばかりである。
黒き異形が食らうは"感情"。喜怒哀楽の区別も、倫理道徳の分別もなく、異形は生ける者の感情を糧とする。
虚ろな抜け殻を打ち捨て、異形は次の餌を探して彷徨う。かつて異物に怯えていた婦人の表情は凍りつき、二度と無以外の色に染まることはない。
それは獣のように獰猛で、空虚な存在だった。
感情を食らい続けることこそが、異形の生きる手段であり目的。
ただそれだけの命だった。
あくる日、異形は同じ道で一人の少年と出会う。
幼き彼は両親に連れられ森を訪れた。口減らしの為である。一面の緑に見惚れる息子を途中まで進めると、若き夫婦は早足で逃げ去った。
少年のすぐ目前に、黒い影はあった。
紅き光が薄汚れた体を見下ろす。口を開こうとする。
一片の事実も知らぬ少年はまさしく、飢えた異形に捧ぐべき供物と言えるだろう。
しかし、異形は食わなかった。見つめ返す少年が、場にそぐわぬ笑顔を向けてきたからである。
少年は無邪気に笑みかけて言った。一緒に遊ぼう、と。
異形が沈黙を返すと、少年は道脇にしゃがみ数輪の花を摘み始めた。やがて編まれた白ツツジの花冠を、小さな両腕がそっと異形へ差し出す。
閉じた口が影に溶け込む。自らの本能に背くことは初めてだった。
異形は食らった獲物達の末路を全て憶えている。ゆえに悟ることは容易かった。ここで自身の食欲に身を任せてしまえば、少年の笑顔は永遠に見られなくなるだろうと。
初めて向けられた恐怖以外の感情。それを性急に奪い去ってしまうことは惜しかった。胴から唾液が零れ落ちようと思考は変わらない。
花冠に影が伸びる。
それは大きく、いびつな形の五指である。
異形の両側部から、腕が生えていた。
黒き両手は少年に促されるまま、影の真上に花冠を乗せた。
紅き視線が空になった両手に落ちる。
目を瞠る少年を横目に見る。無意識に口が開いていた。
衝動が訴えかけてくる。少年の感情に代わる食事が、目前にあることを。
異形は自らの両手に牙を立てた。
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