16、愛日と落日⑨

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 重陽には、心底から調子に乗れる瞬間が少ない。リア充パリピ熱血部活メンを装う喜久井エヴァンズ重陽の真の姿は、単なるネガティブ根暗オタクだからだ。  しかし、そんなネガティブ根暗オタクが調子に乗ることができる稀有な瞬間が今、訪れている。実に八ヶ月ぶり二回目。昨年末のハーフで入賞して以来──いや、それ以上の調子にノリ具合である。  とは言え抜け目なく、彼のバイトが終わる時間を見計らい、重陽は「えいやっ!」と声に出して彼の携帯にコールした。 「……もしもし」  呼び出し音を八回聞いて、もう出ないかな。と思った矢先に彼は少し疲れた声で着信に応じた。 「あっ、お、お疲れ様です! 今、大丈夫すか?」 「ああ。うん。大丈夫。っていうか、こっちからかけようと思ってたとこ」  と言った彼の少しはにかんだような声色に「は? かわいいんだが? ご趣味は『罪作り』でいらっしゃる?」と喉元まで出かかったのをなんとか堪えて「ソスカ。アザス」と早口で応え、続ける。 「ええと、その、一応、インハイのご報告をと思いましてですね……」 「うん。公式のアーカイブ観た。すごいな全国でベスト十六って。おめでとう。よく頑張ったな」  欲しかった言葉を強請る前にドンピシャでもらった瞬間。試合が終わって初めて涙腺が緩んだ。 「……ありがとうございます。先輩のおかげです」 「いやいや、何もしてないにも程があるだろ俺は」 「どうでした? おれ。カッコよかった?」  夕真と接するいつもの調子で尋ねると、彼は笑いながら「マジでお前のそういうとこどうかと思うけど」と前置きしながらも、 「カッコよかったよ。予選も決勝も、ラストスパートには痺れたね」  と率直に言ってくれた。 「よかった。じゃあ、やっぱりベスト十六は先輩のおかげです」 「いやだから何もしてないって俺は」 「だっておれは、先輩のヒーローになるために走ってるから」  何せ今の重陽は調子に乗っているので、そんな言葉もするりと出てくる。しかし、電話の向こうの彼からは反応がなく、無言の時間が続いた。  調子に乗りすぎた! と焦って、重陽の頭は高速で自分の言葉を冗談に変える言葉を検索する。けれど、その言葉が見つかる前に彼は口を開いた。 「志が低いよ。お前なら、世界中のヒーローになれる」  受容のようでいて、強烈な拒絶だ。そう感じた。 「……ありがとうございます。頑張ります」  現実、きっつ……と思ったらもう、月並みな言葉しか出てこなくなる。 「次は駅伝だな。今年は例の双子もいるし、行けるんじゃないか? 全国」 「そうですね……でも駅伝はトラックと違ってチーム競技なんで、個人の成績だけ良くてもどうかってとこですけど」 「ああ。それは確かに……でも楽しみにしてるよ。今度は絶対観に行く。インハイ行かなかったの、動画見ながらすごい後悔したもん」  現実、きっつ……から、頑張りしか勝たん! への急浮上。 「……まぁじすか! 全国行ったら、来てくれるんすか。京都まで?」 「ああ。行くよ。絶対行く。じいちゃんの一眼とバズーカみたいなレンズ構えて、一番いいポイントで待ってるよ」 「え、じゃあおれも絶対行きます。爆速で行きます! 爆速て。ははっ! ウケる」  体じゅうにやる気とエネルギーが満ち溢れてきて、今すぐにでも走りたい気持ちでいっぱいになった。そんな自分の情緒があまりにチョロすぎて笑えてくる。 「ははは! 爆速ね。俺も新幹線の爆速で駆けつけるよ。京都で会えるの、楽しみにしてる」 「おれも、先輩に会えるの楽しみにしてます!」  それじゃあ。うん、また。とシンプルな言葉で電話を切ったあと、重陽はおもむろにジャージへ着替えランニングシューズを履き、部屋を抜け出した。  が、運悪くロビーで監督に見つかり「今何時だと思ってんだ!」と部屋に追い返された。
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