1、On your marks

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「どうした、まひる。落ち着いて話せ」  穏やかで気持ちの良い日曜日に、一瞬で暗雲が立ち込めた。  なんの前触れもなくこんな電話を受ければ、世の大抵の「お兄ちゃん」は居ても立ってもいられなくなるはずだ。 「今、どこにいるんだ? 何があった」 「清掃センターの二つ手前の交差点! お兄ちゃん、今日の朝イチでニシムラさんにカメラ取りに行くって言ってたよね!? 今近くにいない!?」 「近く……ってほど近くもないけど。三十分くらいはかかりそう──」 「よかった! お兄ちゃん、一生のお願い! レースの写真撮りに来て!!」  妹のまひるは同じ高校の陸上部で幅跳びをやっていて、その日は駅伝大会の応援に行っているはずだった。  普段の夕真ならきっと、お調子者の妹が口にする「一生のお願い」なんかに真面目に取り合ったりはしない。  けれどその日は天気が良くて、目玉焼きは双子で、リュックには修理が終わったばかりのカメラと、とっておきのフィルムとレンズが入っていた。  だからなんだろう。「こんなことでもないと、駅伝大会なんか撮りに行くことないだろうし」と妹のいる交差点へと足を向けたのだ。  そうしてふらりと訪れた先では、何十メートルと人だかりが続いていた。  まひるの話によれば、行われているのは駅伝の県大会──つまり、年末に京都で行われる全国大会への出場のかかった大一番ということだった。 「──で、こちらがその……」 「新聞部のウツギちゃん。カメラの替えのバッテリーどっかに落としてきちゃったんだって。だからお兄ちゃん、代わりに写真お願い! あとで肉まん奢るから!!」  ウツギちゃん。と紹介された顔面蒼白の彼女は、なるほど首からデジタル一眼レフのカメラを提げ腕には新聞部の腕章をつけている。 「肉まんは別にいらないけど……俺、走ってる人なんか体育祭以外で撮ったことないけどいいの? 今持ってるのモノクロフィルムだし。使い物にならないかも」 「一枚もないよりマシだよ! お兄ちゃんよく電車撮ってるじゃん。キプサングだって電車よりは遅いんだから大丈夫だって!」  キプサングって誰だよ……。とここが家ならすかさず言い返しているところだ。けれど妹の横に立っている新聞部のウツギちゃんに、悲壮な声で「お願いします!」と頭を下げられてしまい、夕真は「わかったよ」とだけ返事をしてカメラにフィルムを装填した。 「うちの学校、あとどのくらいで来そう?」 「さっき前の中継所でタスキ渡したところだから……あと十分くらいです! 十番手だったって聞いてます!」  質問に答えながら、ウツギちゃんは夕真の手元を覗き込んでいた。カメラがあんまり古めかしいので不安になったんだろう。 「ありがとう。陸部には悪いけど、先頭じゃなくてよかったよ。練習できる」  そんなことを言っている間に、道の先に先頭を走る選手が見えてきた。他校の留学生選手だ。黒くしなやかな脚が、大きなフォームでアスファルトを蹴っていた。 「──はっや!」  パチン、かしゃん。と夕真が一度シャッターを切ってフィルムを巻き上げる間に、その選手は沿道の応援団に目もくれず一瞬で駆け抜けていった。現像するまでもなく、シャッタースピードが足りなかったのは明らかだ。  先頭じゃなくて本当によかった! と思わず息を吐きながら、夕真は慌ててカメラの設定を調整し直した。試し撮りの機会はもう少しあるようだったけれど、無駄打ちするには惜しいフィルムだったのだ。 「えーっ!? 嘘でしょ!?」  しかしすぐ横で誰かと電話をしていたまひるが、えらく興奮した様子で声を裏返した。
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