6、熱病と臆病⑤

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 あんまり照れ臭いのでマフラーを鼻の頭まで引き上げて、吐いた息で眼鏡を曇らせながら「塾行く」とだけ言ってリアクションを待たずに回れ右をした。  雪のちらつく中でも汗ばむくらいの早足で学校を出て、駅前行きのバスに乗る。  うっすらと窓に映っている自分の顔は、たぶん特別良くも悪くもない。同じような顔つきで女の子に生まれてしまったまひるには同情するが、愛嬌さえあれば気にするほどのことでもないんだろう。もっとも夕真には、その愛嬌がひとかけらもないわけだけれど。  その日はそれから、ずっとふわふわ嬉しい気持ちが続いた。にやけてしまうのを堪えるために頬の内側を噛んでいたら口内炎ができて、夕食はえらくしみた。  それでも夕真は暇さえあれば喜久井の「先輩かっこいいのに」を脳内でリピート再生し続け、ついには夢にもそれが出てきた。  夢の中で喜久井は、夕真にキスをしてくれた。口内炎の痛みと、視界の端で捉えた少し背伸びをしている足元が妙に生々しかった。  夢の中の夕真はそれが夢だと分かっていて、だから無邪気に好きだと言えた。  当たり前みたいに何度もキスをして、手を繋いで歩いた。  離れていると寂しいから、どちらからともなく肩を寄せてじゃれあった。  気持ち良くて幸せな夢だったけれど、目を覚まして急に怖くなった。今までピントを合わせることを避けてきた「そうなんだろう」という実感が、溺れるような恋をしたことで、恐ろしいほど鮮明に像を結ぶ。  夢の中では無視できた不都合の解像度が、リアルではやけに高い。だから自分が「同性を相手に恋をしている」という現実が、今更のように怖くて仕方がない。
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