43人が本棚に入れています
本棚に追加
「うちの先輩、ごぼう抜きしてるって! いま三番手!」
それはよほどの番狂わせらしかった。近くにいた同じジャージの陸上部員たちがにわかに色めき立ち、ガードレールの手前に押し寄せた。
夕真もその人波に押されながら、少しだけ身を乗り出してファインダーを覗く。掌にかいた汗でグリップが滑るのが分かった。
「……来た」
息を飲みながら、無意識に呟いていた。
とっておきのレンズを限界まで伸ばし、ガードレールから乗り出している人の頭の間をぬってその姿にフォーカスを合わせる。
パチンッ、かしゃん。
その瞬間、世界からそれ以外の音が消えた。呼吸も止まった。大きなフォームで泳ぐように走る彼に、夕真は吸い寄せられるようにフォーカスリングを回してはシャッターを切りフィルムを巻き上げた。
炎に巻かれたような赤い髪と、同じ色のユニフォームと襷がなびいている。そしてきっと気のせいではなく肌も赤い。皮膚の下で煮え滾る血が透けているのだ。
パチン、かしゃん。
パチッ、かしゃんパチッ。
前を走る選手の襷を掴まんばかりの勢いで大きく腕を振って走る彼は、追っているというより逃げているように夕真の目には映った。何がそんなに怖いんだろう。そんな疑問で頭がいっぱいになる。
パチンッ──かしゃん。
最後に一度、見送るようにシャッターを切ってカメラを下ろした。目がチカチカするのはきっと、酸欠のせいに違いなかった。
「──じゃあ俺、もう行くわ」
夕真がそう言ってカメラをリュックに仕舞うと、まひるは「え! もう!?」とまた声を裏返した。
「最後まで見ていけばいいのに」
「いや。学校行ってこのフィルム現像する。すぐ使うでしょ?」
とウツギちゃんの顔を見れば、彼女は小さな頭をこくこく縦に振り「月曜日には……」と言いづらそうに答える。
「データ化できたら送るよ。新聞部のアドレスとかあるなら教えて」
「ど陰キャのお兄ちゃんが女子に連絡先聞いてんのウケんだけど」
「まひるうるさい」
妹のちゃちゃをいなし、ウツギちゃんから新聞部のメールアドレスを聞いて夕真はすぐにその場を離れた。
人の流れに逆らって、体の前にリュックを抱えたまま早足でバス停を目指す。
気がついたら走り出していた。焦ってもしょうがないのは分かっていても、気持ちが逸って走り出さずにはいられなかったのだ。
赤い髪と赤い襷をなびかせるあの選手は、まるで火の鳥みたいできれいだった。持っていたのがモノクロフィルムだったのがつくづく悔やまれる。
けれど、たとえモノクロでもあの瞬間が自分のカメラの中にある──フィルムにあの瞬間の光が焼きついていると思うと、まるで恋でもしたみたいに胸が高鳴る。
早く見たい。早く。早く!
気持ちの逸るまま、ちょうどやってきたバスに飛び乗って学校へ急いだ。職員室で暗室の鍵を借り、すぐに現像とプリントに取り掛かる。
案の定、ほとんどの写真が手ブレやピンぼけで使い物にならなそうだった。
──ただ一枚を除いて。
「……すごい」
火の鳥みたいな彼が、前の選手を抜き去った瞬間。
唯一その写真だけは、夕真の想像を遥かに上回る出来だった。
薬品を洗い流したばかりの印画紙を見つめ、シャッターを切っていた時のように息を飲んだ。学校行事の手伝いや家族旅行以外で人を撮るのも、写真を撮っていて人間が「きれいだ」と思ったのも初めてだった。
それが、夕真と喜久井エヴァンズ重陽との馴れ初めだ。
雲ひとつない秋晴れの日、長い初恋に号砲が鳴った。
最初のコメントを投稿しよう!