2、熱病と臆病①

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2、熱病と臆病①

 教室を出ていく夕真の背中無遠慮な視線が叩く。織部は今日も便所メシ。とかなんとか囁かれているのは知っていて、けれど直接言われたわけではないので否定のしようはないのである。  実際に昼休みを過ごすのは、トイレではなく写真部の部室だ。時折ほかの部員が忘れ物を取りに来たりする以外には誰が顔を出す訳でもなく、学校なんかどこにいたって憂鬱なものではあるが、夕真にとって部室はまあまあ「居られる」場所だ。  窓を開けて換気をし、ポッドキャストで深夜ラジオを聴きながら弁当を食べる。パーソナリティの芸人が繰り出す話のオチに、思わず「ふふっ」と声が漏れた。  耳に届いた自分の声が少し女の子っぽくて嫌なことを思い出し、一気に気持ちが塞ぐ。一年生の頃、それをひどくからかわれたことがあった。それ以来夕真は、人前で声を上げて笑わないように気をつけている。  もともとあまり愛想のいい顔立ちをしていないこともあり、そうして気を張っているとどうにも不機嫌に見えるらしい。それもあって二年でクラスが変わってからは、クラスメイトとはほとんど関わりを持っていない。  お前ってもしかしてそっち系? としつこく揶揄された時、何も考えずに強く否定できたらよかった。と夕真は、その頃の自分の不器用さを未だに少しだけ恨んでいる。  けれど、じゃあ今ならそれができるかというとそれも怪しい。自分が「そうではない」とは思えないからだ。  溺れるような恋をしたことはまだないけれど、目を奪われるのはいつも同性アイドルの屈託ない笑顔だった。アダルト系の動画を見ていても抱かれる側の女優に自分を重ねてしまっていて、だから更衣室ではいつも少しだけ罪悪感がある。なのできっと、むしろ「そう」なんだろうと思う。  夕真自身はそれが悪いことだとは思わないし、そのことで嫌な思いをさせられるのも腑に落ちない。けれどそうは思わない人がいるのもよく分かるし、真っ向からそのことに立ち向かっていくエネルギーも、何食わぬ顔で隠し通す器用さも、そのことを「個性」と周囲に認めさせるほどの機転も、何一つ夕真は持ち合わせてはいなかった。  だから、黙ってひとり「便所メシ」と囁かれるルートを選んだのだ。プライドと合理性のバランスを取ってそうなった。おかげで教室には全く居場所がないものの、自分と同じ大人しいタイプの後輩が四人いるだけの部活ではそれなりに楽しくやっている。 「こんにちはーっ! まひるちゃんのお兄さんいますか?」  ラジオのコーナーが変わり、気を取り直して弁当を口へ運んだ。その時だった。部室の戸が前触れなくガラリと開いて、赤毛のそばかす顔が覗いた。  忘れもしない。駅伝の県大会でごぼう抜きの活躍を見せ、名だたる強豪校を押しのけ二位まで迫ったあの選手──喜久井エヴァンズ重陽だ。  夕真の中で顔と名前が一致したのは駅伝の県大会でのことだが、学祭の実行委員だったり体育祭でその俊足を披露したりと、彼は一年生の時から何かと目立つ生徒だった。写真部のハードディスクをあたればきっと、かなりの枚数の写真が出てくるはずだ。 「……俺だけど。何か?」  慌てて口の中の物を飲み込み、箸を置いて応える。すると彼は「あ、よかった」とそのあどけない顔に笑みを浮かべ、後ろ手に戸を閉めた。
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