14、愛日と落日⑦

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 臭うかな……と自分のTシャツの袖に鼻を寄せている夕真のつむじにドキドキしながら顔を寄せ、 「匂いって髪に一番つくんすよ。次が服」  と言いながら路線バスの停留所へ向かう道すがら、おふざけの体を装って大きく息を吸った。実際のところ言い逃れ不可避の下心でしかないのだけれど、そんな意図など一ミリも想定しないであろう「元彼女の兄」である彼の隙に付け込むのだ。 「マジ? ってか嗅ぐなって! そもそもフツーに汗臭いだろ!」 「それもありますけど、やっぱタバコの匂いしますよ。キャメルじゃないです? でも紙巻きじゃない。電子タバコでしょ」 「なんで分かるんだよ! 悪いけどちょっと気持ち悪いよ!?」  気持ち悪い。と言われてにわかに傷つきはしたものの、客観的に見れば確かに気持ち悪いので甘んじて受け入れ、なんとか平静を保つ。 「現国のナリ先、覚えてます? あの人いまクラス担任なんすけど、すげーヘビスモでキャメルのメンソール吸ってんすよね。同じっぽいけど、紙巻きのとはちょっと違う匂いするから」 「あ、ああ──いたなあそう言えばそんな先生……っていうかお前、足速い上に鼻もいいのかよ。どういうステ振りだよそれ」  夕真は呆れとも感心ともとれる口ぶりで言って、バス停の時刻表と腕時計を見比べた。彼の手首に巻かれたそれは、年季の入った革バンドのアナログウォッチだ。そんなところがあまりにも彼らしくて嬉しくなる。  定刻から八分遅れでやってきた最寄駅へ向かうバスへ乗り込み、ICカードリーダーへ慣れた手つきでスマホをかざす夕真。一方の自分は、まごまごとポケットから定期入れを取り出し見様見真似でカードを当てる。 「ここ、駅から結構離れてますよね。バス通の人多い感じですか?」  二人掛けのシートに並んで座り、車窓の外を眺めながら声だけで尋ねる。バスの揺れでたまに触れる肩が熱い。 「実家住まいのヤツはそうかな。バスとか電車とか。でも地方勢は近所に部屋借りてるヤツがほとんど」 「ふうん……じゃあ、先輩も?」 「ああ。──ちょうどそこの路地入ったとこのアパートだよ。チャリならキャンパスまで五分ってとこかな」  と言って彼は重陽の方へ身を乗り出し、窓の外を指差した。胸元に、膝の上に感じる体温で頭がどうにかなりそうになる。いっそのこと彼の華奢な両脇に腕を差し込んで持ち上げて膝の上へ乗せてしまいたい。が、それをしてしまうと一貫の終わりだ。  そうして下心と理性と社会性の三角コースをぐるぐる周回しながら、重陽は夕真の実に都会的なエスコートでバスから私鉄に乗り換え、私鉄から地下鉄に乗り換え、大手町までやって来た。  高校時代に二人、写真部の部室で昼休みに聞いていたラジオのパーソナリティ・赤福氷の単独ライブが行われるのは、なんの因果か箱根駅伝のスタート兼ゴールにあたる読売新聞本社ビルの中にあるホールだ。
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