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自分の一番忌まわしい記憶の中にある言葉をあえて使った。平気でそういうことをする嫌らしさがきっと、自分という人間の本当の形なんだろうと思った。
「ご、ごめん。その、ええと……」
重陽に強く手首を掴まれたままの夕真は、その腹が立つほどよく似合う丸眼鏡の奥の目を泳がせながら、重陽のよく知る声音で呟く。
「ラインとかそういうの、そもそも苦手で……家族ともあの感じだし──むしろお前とは、結構やり取りしてる方っていうか……」
「はああ!? あれで!?」
「なんかほんとごめん」
思わず大きくため息を吐き頭を抱えてその場に膝を折った重陽の横で、彼はしばらくおろおろした空気を全身から迸らせていた。が──。
「……でも、俺が今みたいに笑えるようになったのって、お前のおかげだよ?」
意を決したように、けれど落ち着いた声で、ゆっくりと夕真はそう発した。
「環境が変わったからっていうのも、そりゃ勿論あるけど……でも高校の時に、うちの部室でお前が『もっと笑えばいいのに』って言ってくれなかったら……きっと今の俺はいないよ」
しゃがみ込んだまま見上げた彼は照れ臭そうに、けれどあからさまに恐る恐る、気まずそうに訥々と重陽に告げた。
よく覚えている。昼下がり、日当たりのいい写真部の部室。初めて聞いた、彼の小鳥のような笑い声と、初めて見た笑顔と八重歯とハの字眉──。
重陽だって気をつけてはいた。自分の生きている世界で同性に恋をすることは、禁忌以外の何者でもなかった。
だから自分の本質の一つを見抜き、受け入れてくれた美しい彼が危うい存在でしかなかった。惹かれているのは人間性だと思い込もうとした。なのに、なのに!
「先輩の言葉借りて言うなら、おれ、先輩のそういうとこほんと嫌いです」
彼の笑顔ひとつで、十七歳の重陽の中では「好きだ!!」が爆発していた。ちょうど今日、最初に彼の姿を見つけた時と同じように。
「は? そういうとこってなんだよ。感謝でしかないんだが?」
少し不服そうに発せられた彼の声こそが、重陽のよく知る織部夕真のそれだった。それでようやく少し気持ちが落ち着いて、気を取り直して立ち上がる。
「いいすか先輩。感謝っつーの小出しにしてナンボのもんなんですよ! 言わなきゃ伝わんねーの! 分かります!? 言わなくたって関係性で伝わるはず! なんつーレジェンド昭和ムーブ(笑)が通用すると思ってるとこ、マジ直した方がいいっすよ!?」
重陽がそう言って詰め寄ると、夕真はたじろぎながら後退りをして自分のTシャツの胸ぐらを掴む。
「た、頼む……正論で理詰めにするのをやめてくれ……ようやく見ないふりに慣れてきた俺のダメ人間ぶりを浮き彫りにするな……っ!」
「いや別に、ダメ人間ではないでしょ。人間誰しもウィークポイントってあるもんですし、今はたまたまおれが先輩のそこをスナイプしたってだけで」
「だとしても、おれはお前に自分のダメなところをスナイプされるのが一番堪えるわ……」
苦しげにそう言って眉間に皺を寄せた夕真の顔を見て、重陽は確信を得た。
この人、絶対おれのこと多少は好きだ! 押しに押せば行ける!!
自分の性的指向が揺らぎに揺らいで混乱し、かえってそれが認められなくなってしまうなんていうのはよくあることだ。自分にも思い当たる節がたくさんある。
「……とりあえず、ホール行きますか。もう開場も始まってるでしょ。先にトイレも行っときたいし」
と水を向け、道路を挟んだ向こう側のビルを指した。彼も苦笑を浮かべながら「そうだな」と頷き、ふたり肩を並べて横断歩道を渡る。
同じように肩を並べて指定席に着き、同じものを見てけらけら笑って、そうしたらやっぱりもう一度告白してみよう。
同じライブを観に行くのであろう人並みに紛れながら重陽はそう心に決め、汗をかいた手で彼の用意してくれたチケットを受け取った。
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