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安売りの靴と靴下は微妙に足に合わなくて、一足また一足と踏み出すたびに固めのアーチクッションが重陽の浅い土踏まずを抉る。
──こんな靴で走ったら、秒で怪我しそう。
どうでもいいか。そんなこと。と投げやりになりながら店を出てふらふら歩き出した。とにかくなんでもいいから何も考えないでいられるようにしたい。ICカードっていくら残ってたっけ、どこまで行ける? てか、新宿二丁目の最寄駅って、新宿?
「あー……めんっどくさ」
と零した重陽の目の前には銅像がある。
天に両腕を突き上げ歓喜の表情を浮かべている、箱根駅伝・絆の像。
「ちょっとぐらい速く走れるからって、なんなわけ? なんにもいいことねえんだけど」
吐き捨てて、重陽は両耳へワイヤレスイヤホンを突っ込み絆の像に背を向けた。ついさっきまでいた読売新聞本社ビルを左手に少し行った先の交差点が、例の「コース間違え事件」の勃発した場所だ。
夕真は自信満々で「ここに! スタートと! ゴールのゲートができる!」なんて言っていたが、ゴール地点の方は彼が示した場所じゃない。実際のゴールは、絆の像のある方の路地だ。
十区のゴール直前にあたる直線を遡るように例の交差点へ向かい、重陽はそこを「誤った」方向へ曲がる。
それから次の角を左に曲がった先──夕真がスタートとゴールを一緒くたにしていた場所──で重陽は地面に目を凝らし、とある目印を探す。
「……あった」
彼が適当に宙を指さした場所ではない。本当のスタート地点。歩道に埋め込まれた金色の細い板には「箱根駅伝スタートライン 1区」と刻印されている。
別に特別憧れていたわけじゃない。ただいろんなものから「逃走」していたら、たまたまその逃げ足が速かっただけだ。
「位置について……よーい……どん!」
それでも重陽は、盛り場でやさぐれることよりも走ることを選んだ。安売りのフィットしない靴でも、履いたら足がうずうずして仕方がなかった。
走ることは好きだ。走ってて得したことも走ってて良かったと思ったことも、なくはないけれど辛いことに比べたらそう多くもないのに、それでも走るんだから好きなんだろう。
こんな時でも走っているんだから相当好きなんだろう。
泣きながらでも走っているんだから本当に好きなんだろう。
どんなに悪態をついても投げやりになっても結局走っているんだから、きっと一生好きなんだろう。
──ああそうさ! 好きだよ! ずっと好きだった!!
こんな時だからさすがに、走り始めさえすれば彼のことなんか頭の外に追いやって何も考えずにいられるだろうと期待した。けれど、そうは問屋が降さなかったようだ。
久しぶりに会えて嬉しかった。垢抜けてかっこよくなっててときめいた。箱根を走るところが見たいと言ってもらって、絶対に頑張ろうと思った。初めてのライブを一緒に見られて楽しかった。早く追いつかなきゃ。と焦った。
しかし彼はそうして重陽がもたもたと焦っている間に、重陽とは全く関係ないところで恋をして、実らせて、信じられないくらい臆面なく笑いながら──。
「あああああくそっ! くそっ! くそっ! やってられるか! くそくらえ!!」
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