14、愛日と落日⑦

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 頭を上げた瞬間。たまたま前から歩いてきたスーツ姿のおじさんと目があって、彼は戸惑いながらも重陽に向かってぺこりと浅く会釈をした。 「あはは……あの、一区の……」  可笑しくなってしまって、重陽は息を切らせたまま口角を上げ、すぐそばの歩道橋を指差した。  すると男性は「ああ……」と合点したように何度か頷くと、急に親しげな笑みを浮かべたかと思えば重陽に歩み寄り、 「頑張って!」  と肩を叩き去っていった。きっと地元の人なんだろう。  そんなおじさんの背中を見送りながら、重陽は「早く帰ってママに謝ろう」と思った。いくら普段から思うところがあったとしたって「メンヘラ過保護クソババア!」はひどすぎるし、自分が衣食住になんの心配もなく走ることや学生生活に打ち込んでいられるのはほかでもない、両親のおかげなのだ。  自分にも他人にも、家族にも、常に誠実であろう。ついさっき見知らぬおじさんと交わした短い会話で、重陽はそんなことを強く思った。  結局、世界は自分の「鏡」なのだ。自分がしてきたことの影響が、まわり回って自分に返ってきているだけだ。  今日までの重陽は、自分にも夕真にも不誠実だった。同性に恋をすることは決して罪でも嘲りの対象となるべきものでもない。  だから重陽はカトリックの母親や無知なチームメイトに調子を合わせてヘラヘラへつらうべきではなかったし、回りくどい方法で夕真との距離を詰めようと画策するべきではなかったし、ましてや「あてつけ」で彼の妹と付き合うなんてもっての外だった。  その結果がきっと夕真とのすれ違いで、初めから重陽が誰に阿ることもへつらうこともなくいれば、もしかしなくても自分たちはあのハーフの日に結ばれていたんだろう。  一方で──逃げることばかり考えてはいたけれども──走ることには、競技には真摯に取り組んできた自負がある。  走ることが好きだし、人より多少は速く走れる自分のこともわりと好きだ。苦しいことの方が多いけれど、きっと自分は生涯を通して走ることに向き合っていくんだろう。  だからきっと重陽は、丹後尚武という人に出会えたに違いない。  陸上激戦区である関東の大学からなんて、青嵐大のほかには自分に声をかけてくれた大学なんてないのだ。それ自体が奇跡みたいなもので、その奇跡を呼び込んだのは、ネット中継もされていたあのハーフマラソンでの自分の走り様に違いない。  全ての「誠実さ」と「不誠実さ」が巡りめぐって、まるで鏡に映したみたいに自分に返ってきている。  子どもっぽい捉え方かもしれない。そう思ったけれど、なんだか世界の真理を掴んだような気がした。  今、この瞬間からは、全部に誠実に生きよう。  そう決意した重陽はひとまずスマホを取り出し、父親に電話をかけ「ごめん。ママにひどいこといっちゃった。いま鶴見中継所にいるんだけど、電車賃ないから迎えにきてもらえないかな……」と平身低頭で発した。
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