15、愛日と落日⑧

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15、愛日と落日⑧

 車で重陽を迎えに来た父親は汗だくの重陽をひと目見て目を瞠り、一言だけ、 「重陽、今朝履いてた靴は?」  と短く尋ねてきた。 「地下鉄降りる時にすっぽ抜けて、片方無くしちゃって……それで代わりの靴買ったらお金が全然なくなって……それでその、走って鶴見まで来たら、ICのチャージも帰りの分に足りなくて……」  重陽がしどろもどろに答えると、父親は「そうか」と言ったきり、あとは何も聞こうとはしなかった。  沈黙が気まずい。気まずい理由を理解しているだけに、居た堪れないほど気まずい。  けれど、その気まずさに負けて「大手町から鶴見まで走って来たことを、今までみたいに健気に明るい息子の顔で話すことは絶対にしないぞ!」と心に決め、重陽は助手席で口を噤んだままでいる。  両親が自分を大切に思ってくれていることは、よく分かっているつもりだ。だから重陽もその「愛情」に、誠実に応えることにしたのだ。  と言っても、重陽には「誠実さ」が分からぬ。例えるなら、メロスの政治への理解度とどっこいどっこいである。  しかし重陽が今「そっとしておいてくれ」と思っていてそれが父親に伝わっているから彼は何も聞いてこないのだろうし、よしんば何か聞かれたとしても、これまでの自分のように顔色を伺いながら言葉を選ぶのではなく「今はそっとしておいてほしい」と伝えるのが「誠実さ」のような気がした。  上野にある父の実家へ帰り着いた頃には、日付が変わろうとしていた。祖父母は起きて重陽の帰りを待っていたが、やっぱり母親はあてつけのように寝込んでいて、重陽は「マジでそういうとこ!」と激怒した。  重陽は田舎の高校生である。部活へ勤しみ、ソシャゲで遊んで暮らしてきた。けれども母親の機嫌に対しては、人一倍に敏感であった。  なぜなら、自分にも「そういうとこ」が間違いなくあるのだ。自分が母親に対して「嫌だ」と思うところは、思えば自分自身に対して「嫌だ」と思うところに多くが重なる。  だから母親に対しての「そういうとこだぞ!」という怒りや苛立ちは、そのまま自分自身に返ってくるのだ。  重陽が各方面への「あてつけ」でまひると付き合ったように、母親は重陽が自分の思い通りにならないと寝込むんだろう。
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