15、愛日と落日⑧

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 とは言え、重陽だって全くもって人に「そういうとこだぞ!」なんて言える立場ではないのだ。なんなら重陽があんな暴言を母親へぶつけられたのはきっと母親に対する甘えもあるんあろう。  というのは父と祖父母の、共通の見解──もとい説教だった。  毎日毎日あの人と顔ひっつき合わせて暮らしてないあんたらに、一体おれの何が分かるんだ! とは思いはするものの、ぐうの音も出ない。  なぜなら毎日自分の服を洗濯し、シャツにアイロンを当て、バランスの取れた食事を食べさせてくれて。という毎日の営み……には、実を言うとそこまで──少なくとも、人に感謝を強制されるほどの恩義を実感しない。  けれど重陽が陸上を始めてからはどんな大会でも、必ず沿道で一際大きな声援を送ってくれたのは、いつだって母だった。  夕真の声は、耳を澄ませて探し当て自身の行く末を定めるための北極星だ。  母のそれは、建物の間に間に伴走してくる月の光のようなものだ。  だから、なるべく許したかった。怒りたくも泣かせたくもなかった。けれど、あるがままの自分を最も受け容れて欲しい人からこうも目を背けられてしまったら、耳を塞がれてしまったら、自分には一体何ができるんだろう。  どんなに考えても、重陽にはついぞ答えが出せなかった。息子と目を合わせようとしない妻を、所在なさげな息子を、父はひどく心配そうに東京駅のホームまで見送ってくれた。 「──ママ! 行ってきます!」  地元へ戻ってきた翌日の朝から、早速部活だった。インターハイ前の追い込みなので集合時間は朝の八時。家を出るのは六時半。重陽が起きるのは六時だけれど、母は重陽の弁当と朝食の支度のために五時には起きている。 「……行ってらっしゃい。気をつけてね」  東京にいる間、大人たちの間でどういう話がなされたのかは知る由もない。けれど母はあれ以来「行ってらっしゃい」と「お帰りなさい」のキスをしなくなった。  正直なことを言えば、負担が減った。けれど、母がそれによってひどく戸惑い傷ついているのはよく分かる。遠い異国から風土も常識も宗教観も違う場所に海を越えやって来て三対一でやり込められたら、そりゃあ参りもするだろう。 「ちゃんと持ってるよ。大丈夫。神様がおれを守ってくれる」  重陽はクラブバッグのポケットからロザリオを出して見せ、改めて「行ってきます」と行ってドアを開けた。
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