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仕事から帰ってきた梶尾は、ジャケットだけ脱いでソファに放り投げた後、エプロンも掛けずに冷蔵庫の野菜室を開けた。
根元を輪ゴムでまとめられた葉ネギが、少し元気をなくしているのを見て取り出す。シャツの袖をまくって、先が黄色く変わってしまっている部分や、薄皮が溶けかけているものを手でちぎったり剥いだりして食べられる部分だけを残したら、あっという間に半分になってしまった。
買ったのが何日前だったか、梶尾は思い出せない。
一緒に購入した食材も、この何日かのうちに賞味期限や消費期限が過ぎてしまっていて、今朝の燃えるゴミに出したばかりだ。
昨日までろくに食欲もなかったのだからしょうがないとは言え、食材を無駄にするのは気分が良くない。
ため息をつきながら手を洗い、もう一度冷蔵庫を検めた。
「梶尾さん、なんかやつれてません? ちゃんとごはん食べてます?」
「あー……うん、今日は食べる」
「ほんとですよ? 明日確認しますからね」
職場で後輩に心配され釘を刺されてしまったが、食欲自体は戻ってきていない。食べなければ、という気持ちになっただけマシではあるが、冷蔵庫の中は今朝方ほとんど処分してしまったし、何よりあまり多くは食べられない。
「やっぱりうどんかな…」
冷凍庫から冷凍うどんと、鰹節を取り出した。
作り付けの棚から小鍋を2つ出して水を入れ、コンロで火にかける。
いつものように昆布と鰹で手間をかけて出汁をとる気分にはなれない。
取り付けてあるタオル掛けから布巾をとると、濡らして軽く絞る。
濡れ布巾を適当にたたんでシンクに敷くと、立て掛けていた分厚いまな板をその上に乗せた。
包丁スタンドから万能包丁を手に取ると、そのまま葉ネギを刻む。
丁寧な切り方をすると褒めてくれた人はもういない。
料理をするのも、何かを食べるのも、その人を思い出しそうで嫌だった。
実際、どうしたって思い出してしまうけれど、感情が動くことを忘れてしまったようだ。
梶尾は、自分の表情が少しも動いていないのを他人事のように感じながら、無心にネギを刻み続ける。そうして、うどんに添えるには多すぎるネギの小山を見てため息をついた。
「…あぁ、切りすぎた…」
沸騰した鍋の一方に冷凍うどんを入れる。
もう一方には鰹節をひと摑み入れて火を消した。
うどんはすぐに解れたので、ざるに上げて湯切りして器に盛っておく。
まな板からネギを全てうどんにふりかけると、ほとんどうどんが見えなくなってしまった。
さっとまな板と包丁を洗って水切りかごに並べると、そのまま冷蔵庫から、昆布だし入りのつゆを取り出す。
あみじゃくしで鰹節をさらった出汁に目分量でつゆを入れたら、少し混ぜてそのまま器に注いだ。
ネギが熱い汁をかぶって色がほんのり変わる。
立ちのぼる湯気と、黄金色に近い汁に浸かった白いうどん、そしてそれを覆い隠すように浮かぶ緑のネギ。
調理に使っていた箸とうどんを、そのまま食卓へ運ぶ。
いつも向かいに座っていた人の影が脳裏にうかぶのをそのままに、床に腰を下ろした梶尾は軽く手を合わせた。
「いただきます」
誰へともなく、幼い頃からの習慣を呟いて、うどんをすする。
ネギの青くささと少しの辛みが、つゆのやわらかな味にアクセントをもたらす。食欲がなくとも、身体は食べ物を欲していたようで、自分でも驚く速さで用意した夕食は腹におさまってしまった。
食べ終わると同時に、梶尾は仰向けに倒れこんだ。
「…なんだよ、うまいじゃんかよ…」
部屋の照明からかばった目の端からつたうものを、梶尾は無視することにした。
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