つめたい掌の少女

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 コロナ禍でずっと部屋にいると、普通だったら気がつかないような、ささいなことに気づく。  クローゼットの中から、わずかながら冷気が部屋に流れ込んでくるのだ。ユニットバス付きで賃料が月6万円なので文句は言えないが、1月、外を小雪がちらつくような夜には、この「わずか」でも気になる。  僕はクローゼットの扉を開ける。  上京してからもうすぐ1年経つが、いまだ引越しダンボールが積んである。その向こうから、冷気が流れてくる。  このダンボールを引っ張り出すのは面倒だ。  でも、ちょうど、試験代わりのレポートを出し終えて暇だった。  それで、気まぐれを起こした。  僕はダンボールをどけることにした。もし穴でも開いていたら、少しは家賃を値切れるだろうか。  引越しダンボールの上には立体パズルのように衣服やら靴箱やらが押し込んであり、それを1つずつ、クローゼットから取り出していくと、部屋面積の3分の1くらいはすぐに埋まってしまう。  壁が露わになる。  壁には、下の隅に、30センチ四方くらいのベニヤ板が貼り付けてあった。壁一枚で、その向こうは建物の外だ。  やっぱり。  穴があって、それをこのベニヤで塞いでいるのだ。だから外から隙間風が入る。  釘付けはしていない。  ボンドか何かで貼ってあるのか。  僕はベニヤ板の端をちょっと引っ張ってみた。  板は、ほとんど抵抗もなく、ひっかかりもなく、剥がれてすとんと落ちた。  そこには、確かに穴があった。  穴から冷気が一気に流れ込んでくる。  僕は穴を覗き込んだ。  当然に、外が、つまりは隣家の、やはりアパートが見えると思った。  でも見えなかった。  穴の向こうは真っ暗な闇で、何も見えなかった。見えないだけでなく、かなりの奥行が感じられた。  そんなバカな。  僕は部屋に戻り、サッシ窓を開けて身を乗り出し、穴のあたりの外壁を見た。外壁に穴はない。だが、内側には穴がある。そしてその穴には奥行がある。  僕が身震いしたのは、外気の冷たさだけが原因じゃないだろう。  とにかくサッシを閉め、もう一度、クローゼットに頭を突っ込んだ。  もちろん穴は、厳然としてそこにある。  どうなっているんだ。  僕は、おそるおそるだけれど、穴に手を突っ込んでみた。  やはり穴には奥行があった。  僕の肘、それから肩近くまで突っ込んでもなお、指先にぶつかるものはない。もう手はとっくに外壁を突き破っているはずだ。  頭が、おかしくなってしまったのか。  そう思った。  僕は手を穴から引っこめると、穴を前にして、どうしたら良いのか分からなくなった。  上京してからずっとコロナで大学にも通えず、知り合いも友だちも出来ず、誰とも口を利かない日が何日も続いた。出口の見えないトンネルのような1年だった。それなのに講義はネットで淡々と続き、それで、ダウンロードしたテキストを見ながら試験代わりのレポートを何本か書き、僕の大学1年は終わる。  この1年、何度か、メンタル面で壊れそうになった。  そのたび、何とか、立て直してきた。  けれど。  本当は、もう僕は、どこか壊れてしまっているのかもしれない。それに自分では気づいていないだけかもしれない。  なんだよ、この穴は。  あり得ない穴は。 「ああ、もう、何だよ!」  思わず、穴に向かって叫んでいた。  そして――。 「誰かいるの?」  穴から声が聞こえた。  僕は愕然とした。  本当に、本当にどうかしてしまった。  僕は今、幻聴を聞いている。  なんてことだ。  僕は慌ててベニヤ板を拾い上げ、穴に当てがった。  塞いでしまおう、こんなもの、さっさと塞いで、無かったことにするんだ。穴は無かったし、僕は何も聞いていない。  僕は――。 「誰かいますか!」  また、声がした。  女の子の声だった。  僕より年下。小さな子供じゃない。ないけどたぶん、中学生とか、せいぜいそれくらい。 「そっちこそ」  僕は反射的に応じていた。 「そっちこそ、誰かいるのか?」 「たすけて」  少女は言った。 「動けないの」 「きみは、――きみは、どこにいる?」 「大きな音がして、家がものすごく揺さぶられて、ものすごい風も吹いて、家が崩れて、流れてきた瓦礫に埋まって、その隙間に閉じ込められているの」  訳が分からなかった。  分からなかったけれど、分からないままに、僕はもう一度、腕を穴に突っ込んでいた。肩まで突っ込んで、それ以上は入らない。  その僕の指先を、誰かがそっと掴んだ。  その掌は冷たかった。  とてもとても、冷たかった。 「暖かい」  少女は呟いた。 「そっちは寒いのか?」 「うん、凍えそうだよ」 「いつから、そこにいる?」 「分かんない。埋まっちゃっていて、何も見えない。今が昼か夜かも分からないし、何回、昼が来て、夜が来たのかも分からない」 「食べ物はあるのか? それから、飲み物」 「何もないよ」  少女は弱弱しく答えた。少し、笑ったようだった。 「ただ、ずっとこの真っ暗で冷たいところにいる」 「ちょっと待ってろ」  僕は穴から手を引き抜き、大急ぎで、買ってあった菓子パンとブリックパックのジュースを掴み、それでクローゼットに戻った。 「まだ、そこにいるか?」 「いるよ。動けないもん」 「これ」  僕はパンとジュースを掴んだままで、また手を肩まで穴に入れた。 「わあ!」  穴の向こうから歓声が聞こえた。 「ありがとう、すごい、奇跡」  僕の手からパンとジュースが取られる。すぐに、飲み食いする気配が伝わってくる。 「ねえ、まだいる?」  しばらくして、穴から僕を呼ぶ声がした。 「いるよ」 「手、出して」  請われるままに、僕は穴に手を入れた。肩まで入れた。  そうすると、僕の指が、また少女の両掌で包まれた。  相変わらず、つめたい掌なのだった。 「あなた、――助けに来てくれた人、じゃないよね」 「ごめん、そうじゃない」 「でも、ここまで来てくれたんだよね?」 「分かんない。僕は東京にいるんだ」 「え? 東京? だって、わたしのいるここは」  少女はどこか地名を言ったのだけれど、僕には知らない場所で、ちゃんと聞き取ることが出来なかった。 「だから」  少女は言った。 「東京からはすごく離れているはず」 「うん、でも、僕は東京にいるんだ」 「そんなのあり得ないよ。あたし、ここに閉じ込められて、怖くて寒くて、――変になっちゃったのかな」 「いや、たぶん、そうじゃないと思う。きみは変になんか、なっていない。だって、僕は本当にここ東京にいて、きみに、パンとジュースを渡したんだから」 「じゃあ、なんで、そっちとこっちが繋がったんだろう。何か、通じるところ、共通することがあるのかな。たとえば、あなたも閉じ込められているとか?」 「いや、僕は閉じ込められてもいないし、寒くもないけれど、でも」  そこで、あ、と思う。  僕は閉じ込められていた。  この1年、コロナ禍でずっと。  これが郷里であったなら、同じコロナ禍でも、たぶん、全然楽だった。でもここは東京で、僕には初めての場所で、郷里の町とは何から何まで違っていて。 「僕も」  僕は言った。 「やっぱり、僕は僕で閉じ込められていたのかな」 「そうなの?」 「ああ、たぶん、そう」 「だから、閉じ込められた同士で繋がったのかな。あたしは、瓦礫でここから出られない。あなたは? あなたも、そう?」 「僕は」  僕は――? 「ねえ」  僕は言った。 「きみは今、どこにいる? こんな、小さくて暗い穴で繋がるんじゃなくって、僕は本当にそこに行く。そこに助けに行くよ」  僕は別に瓦礫に埋められているわけじゃない。家に押しつぶされたわけでもない。コロナ禍でも、大学構内に入れなくても、この街で全然知り合いが出来なくても、それでも僕は閉じ込められているわけじゃない。  何か、そういう毎日であっても、出来ることはあるはず。  穴の向こうで、少女が僕の手を離した。 「ありがとう。あなたが助けに来てくれるのを、待っている」 「ちょっと待ってろ。いま、メモを持ってくる。それで、きみのいる場所を詳しく聞かせて」  僕はクローゼットを出て、そこらへんにある裏の白いチラシとボールペンを持って、また、クローゼットに戻った。  そして――。  穴は消えていた。  跡形もなく。  さっきまで穴をふさいでいたベニヤ板すら、無くなっていた。  代わりに、壁の前には、少女に渡したはずの菓子パンとジュースが、封も切られずに並んで置かれていた。 「おい! おーい!!」  僕はクローゼットの壁に向かって叫んだ。 「どにに行っちゃったんだよ!」  でも応えは無い。 「そこから出られたのか! 大丈夫なのか!?」  僕は壁に近づき、指先で触れた。建材のざらついた感触がした。  さっきの少女の掌はつめたかった。  細くて柔らかで滑らかで、そしてやはり、ひどくつめたかった。  翌朝、僕は早く起きた。  クローゼットを開けて確かめてみたけれど、やはり、穴は無かった。  僕は身支度をすると部屋を出た。  あの少女はどこにいるのだろう。  僕の精神が衰弱して幻覚を見た?  たぶん、そうだろう。  そう考えるしかない。  気になって念のためネットで検索してみたが、日本中どこも、少女が言っていたような災害など起きてはいないのだ。  でもまあ、幻覚でもいいじゃないかと思う。  おかげで、ひとつ、吹っ切れた気がする。  きっと、あの少女は、つめたい掌をした少女は、日本中、いや、世界中、過去にも現在にも未来にもいるのだ。それぞれに事情を抱えて助けを待っている人たちが、たくさんいる。  その人たちに、僕は何が出来るだろう。  幸い、僕は閉じ込められていない。  コロナ禍でも、いやコロナ禍だからこそ、何かやれることがあるはずだ。  1月の朝の太陽は、思っていたよりずっと力強かった。
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