序章~第1幕

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序章~第1幕

             ストゥラグルの塔                                   序章  その塔は奇妙な形をしていた。  形状をあらわすどんな言葉を並べてもそれを表現することは難しく、その試みは歯がゆさと無力感を生むだけだ。それは伝えようとすればするほど実態から遠ざかってしまう夢の解説に似ている。ささやかな抵抗の手段として、きわめて比喩的な言葉を用いてみよう。——地表に湧き出た得体のしれない灰色をした半固形物を、天から伸びて来た巨大な手が無造作に掴み天空に向けて垂直に引き延ばした。無造作という言葉とは裏腹にそれは決して乱暴な行為ではなく、熟練の陶芸家がろくろの上に泥の柱を築くように繊細で、その所作は深い慈悲のようなものすら含んでいた。そして最後にどこからか取り出した鋭い刃物でその先端を斜めに切り落とした。とても静かに——そういう形だ。濃い灰色をした重量感のあるその物体からは、込められた強い思いやメッセージも、新たな造形の模索も感じ取ることが出来ない。もしもその頂に十字架が掲げられていたなら、それは間違いなく宗教施設に見えるところだがそれらしきものは見当たらず、頂点を鈍角に切り取られたコンクリートの塊がただ上方に向かっているだけだった。そしてその先にはまるで用意されたかのような暗い灰色の空が広がっている。それは決して青空であってはいけないのだ。どこまで暗雲を掻き分けて行ってもそこに陽の光は存在しない。そんな絶望的な空だ。  目視で判断する限り、その塔には窓はもとより開口部と呼べるようなものは無く、その内部の構造を想像することは難しい。しかし世界中に無数に存在するその類の建造物を思えば、それは中心までぎっしりとコンクリートが詰まったソリッドである可能性は極めて低く、そこには何かしらの空間が存在するのだろう。そして空間の存在するところには必ず目的が存在する。  塔の下3分の1ほどはその周りを取り囲んでいる3階建ての建物に遮られて見えない。しかしそのおかげで塔のおよその高さを推測することができた。特殊な造形は時として私たちの距離感や大きさの感覚を狂わせてしまうから。取り囲むその建物も塔と同じく無機質なものだが、そこにはたくさんの窓がある。中には青白い蛍光灯の灯りが点っているのが見え、姿は見えずとも確かに人間の存在が感じられた。かなりの数の人たちが淡々と業務をこなし、規律は厳しく守られ怠惰な者は誰ひとりいない。そんな想像をさせるものだった。                 第1幕               第1章  ハル  娘が生まれた時ハルと名付けたのは、春という季節に彼女の生涯を重ねたからだ。春という季節を思うだけで幸せな心持ちになれる。柔らかな日差しはその奥に揺らがない力強さを秘め、まるで世界のあちら側から吹いてくるような優しい風と共に僕を包んだ。それはほんの一瞬の出来事でありながら、決して終わることの無い時間の存在を垣間見せてくれるような、何か不思議な感覚をもたらすものだ。風のように涼やかでいて、同時に生暖かい泥のように濃密なその時間に身を委ねながら僕は思う。もし仮に魂の故郷というようなものがあって誰もがいずれそこへ帰るのなら、それはそんな優しい風が吹く場所であって欲しいと。  妻は男の子が欲しいと言っていたが、自分の内側に新しい命を宿すということが彼女の世界観や優先順位を大きく変え、生まれるのが男の子であれ女の子であれ無類の愛情を注ぐことになる。それが母親というものなのだろう。 「女の子のいい名前ってぜんぜん思いつかない。思い浮かぶ名前がどれも嫌な感じなの」 「嫌な感じ?」 「わたし中学からずっと女子だけで来たから女の子の名前なんてたくさん知ってるの。友達も多かったし。でも名前を思いつくとその瞬間に嫌な子を思い出す。意地悪な子とか暗い感じの子だとかね。どうしてかしら。いい感じの子もたくさんいたはずなのに、ぜんぜん名前が思い出せないの」  妻はある地方都市のはずれの私立の女子高を卒業した。東京にあるミッション系女子大系列の中高一貫校で、比較的裕福な家庭の子が多く校則はとても厳しかった。男性とふたりで街を歩くには届け出が必要で、それは実の父親とて例外ではない。とは言っても彼女の父親はとても忙しく、娘とそういった時間を過ごす機会はほとんど無かった。 「私が生まれた時だって病院に顔も見せなかったのよ。兄の時はすぐに駆けつけたくせにね。お母さんからその話を聴いた時すごく腹が立ったわ。基本的に男尊女卑なのよ。だからきっとこの子の名前にも関心無いわ。男の子なら別だけどね」  生まれて来る娘の名前のことで妻の父親に相談した方がいいかと尋ねると、大きく前にせり出してきたお腹をさすりながら妻はそう答えた。次にもし男の子が生まれたら妻が名前を考えるということで、娘の命名は僕に一任される。春という季節に関する僕の想いに妻は一応の共感を持ってくれたようだったが、僕が感じたあの風については、よくわからないという反応だった。  『助けてあげないといけない人がいます。終ったら戻ります。心配しないで下さい』  短い書き置きを残して、16歳の春に娘が僕たちの前から姿を消した。冬に逆戻りしたように肌寒い雨の日、会議の為に早朝から職場に向かった妻に代わって僕が朝食をつくり学校へ送り出した。しかし娘が向かったのは学校ではなく、僕たちの知らない何処かだった。 「届け出は受理しました。はい、もちろん捜索はします。ただですねぇ、中高生の行方不明って年間どれくらいだと思います?そう、人数です。だいたい1万人です。大半は家出だと思うんですが、中には犯罪がらみっていうのも少なくないんです。どうしてもこう、そっちの方が優先っていうかですねぇ。特にお嬢さんの場合はこうやって書き置きもあって、まぁ事件性も無さそうですしねぇ」  警察の担当者は僕が手渡したハルの写真と勉強机の上で見つけた短い書き置きを交互に見ながらそう言った。不自然なほど色白でかなり太った体形の彼の表情はとても申し訳なさそうなものだったが、言葉の端々に違う感情が見え隠れしている。妻は比較的落ち着いた様子で彼の話を聴いていたが、警察署からの帰り道、急に立ち止まり僕の腕を強く掴んで泣いた。僕たち夫婦にとって娘が生まれてからこれまでの年月は決して平坦なものでは無かった。ひとりの人間を生み育てるということは誰にとってもた易くはなく、穏やかで幸福な場面を切り取った写真のファイルを眺めるような、微笑ましく懐かしいだけのものではないだろう。それでも客観的に見て僕たちが、特に妻が娘とともに過ごした苦悩の日々は、闘いという言葉を用いてもよいものだったと思う。娘が16歳になり、ようやく長いトンネルの出口が見えて来たような安堵感の中にあっても、その闘いの相手がいったい誰だったのかを僕たちは分からずにいた。その娘の家出が妻にとってどれほど辛い出来事なのかは考えるまでもない。  小さな頃から変わったところのある子だった。保育園では他の子供たちとの間でトラブルが絶えず、妻は加害者の母親として怪我をした子の家庭を訪れ頭を下げた。小学校にあがり言葉という武器を手にすると事態はより深刻さを増し、やがてハルは孤立して行くことになる。 「いじめられているという訳ではないんです」  新任の女性教諭は自信なさそうに言った。 「周りの子たちがハルさんと距離を置いているという感じなんです」  とても頭のいい子で成績に問題は無かったが、その利発さはクラスの子供たちにとって決して愉快なものでは無かった。口喧嘩でハルに勝てる子は無く、しかもその負け方は惨たんたるもので、彼らが子供ながらに築き上げたささやかな自尊心は見事に砕け教室の床に散った。10歳にして相手の弱点を的確に見極め冷徹にとどめを刺すことが出来る彼女に戦いを挑む者はいなくなり、ハルは独りになった。授業以外の時間のほとんどを図書室で過ごしたハルが、学校で唯ひとり信用していたのは図書室司書の女性だった。彼女は夫の暴力が原因で離婚し娘とふたりで暮らしていたが、その娘を3年前に交通事故で亡くしていた。その子がちょうどハルと同じ年頃の時の出来事だったが、そんな境遇をまったく感じさせない朗らかな人で、その表情はいつも誰かに笑みかけているかのようだった。ハルがそれについて尋ねると彼女は答えた。 「笑顔には魔法の力があるの。世界を変えるくらいのね。ハルちゃんもやってみて」  僕と妻は一度彼女を訪ねたことがある。学校での話を殆んどしないハルが、時には饒舌に語るその人物にとても興味があったし、もちろんお礼も言いたかった。 「とってもチャーミングなお嬢さんですね。彼女と話をするのがいちばんの楽しみなんですよ。私の方がお礼を言いたいくらいです」  娘から聴いていたとおりの素敵な笑顔だった。 「彼女なりにとても傷ついているんだと思います。私はあまり話が上手ではないので、ハルちゃんにうまく伝えられないことがたくさんあって。だからその代わりに本を選んであげています。とても頭のいい子なので、きっと私からのメッセージは届いていると思っています。今はまだ分からなくても、何かの時に役に立てばと」  それが本当に心からの願いだという風に、彼女は小さく頷きながらごく短い間目を閉じた。ハルの読書量はかなりのものになり、そのジャンルも多岐にわたった。純文学から推理小説、世界中の神話や偉人伝、子供向けではあるものの心理学や哲学、自己啓発の類まで、彼女の傍らにはいつも本があった。クラスでの対人関係に変化は見られないまま小学校の卒業式を迎えた。涙や笑い声があふれる中、ハルだけは冷めた表情でその様子を眺めていたが、司書の女性に別れの挨拶をした時だけは控えめに微笑んだ。 「素敵な笑顔ね。ハルちゃん」  彼女はそう言ってハルの手を握った。卒業しても会いに来ていいかと尋ねるハルに、自分もこれを機に学校を辞めて遠くへ行くことになったと告げた。ハルは声を上げて泣いた。                第2章  医師  彼は少し丈の足りないグレーのスラックスに白いワイシャツ着て、茶色いカーディガンをはおっていた。ネクタイは無く、やや長めにのびた白髪混じりの髪は清潔そうには見えない。医師というよりは、経営難に苦しむ養護施設の園長といった風貌で、僕の記憶どおりならば、数日前に初めてこの場所で会った時と同じ服装のようだった。 「いいですかお父さん、こういった精神医学というのは他の医療とは基本的に違うのです。血圧がいくつとか、血糖値がどうとか、いわゆる数値ですね、機器ではかれる数値。そういったものが無いのです」  妻はあいにく風邪で熱を出し同席できなかったので、医師と僕は診察室の机を挟んで向かい合うことになった。 「私たちの診断はすべて臨床によるものなのです。症例のほとんどは脳内の神経伝達物質、セロトニンとかドーパミンとか、ご存じですよね。名前くらいは聞いたことがあると思いますが、いわゆるホルモンですね。これが関係しているわけです。ただこのホルモンと言うのは先ほども言いました通り数値化できません。そこで私たちはこのホルモンの分泌量やそれをやり取りする機能を調整することで症状の原因を探るのです。ホルモンを出やすくしたら状態がこう変化したとか、その反対ならどうなったとか、実際にはもっと複雑な話なのですが、まあ、ざっくり言うとそういうことです」 「それで・・娘は病気なんでしょうか?」  医師の話が途切れたのを見計らって僕は口を挟んだ。この前ハルが受けたテストのようなものの結果を聴くのが今回のいちばんの目的だった。医師は僕の質問には答えず、机の上のレポート用紙を手にとって余白のページを開いた。 「いいですかお父さん」  ワイシャツの胸ポケットからボールペンを取り出しながらそう言うと、慣れた様子でペンを走らせた。レポート用紙の縦と横をそれぞれ半分に分けるように直線を引いたことで、紙面がちょうど四分割される形になった。 「縦軸が知能、横軸は感情です。感情、と言うより情緒ですね。そう、情緒の安定の度合いと言えばわかりやすいでしょう。つまりこのグラフの上に行くほど知能が高く、右へ行くほど情緒が安定していると言うことになるのです」  医師はそう言いながら縦の線の脇に「知」、横線の上に「情」と書いた。次に、縦軸の比較的上のあたりと横軸の中心よりやや左のところを結んだあたりに小さな黒丸を描いた。四分割されたレポート用紙の左上のエリアの右上の部分ということになる。 「娘さんの場合、おそらくこのあたりに居ると考えてください。つまり、知能はかなり高いレベルにありますが、感情面では困難さを抱えているということです。お分かりになりますか?」  中学生になっても学校での様子に大きな変化は見られなかった。環境を一度リセットする為に自宅から距離のある私立の学校に入れた。同じ小学校からの入学者は無く、人間関係を新たに作る良い機会だったが、以前と変わらず居心地の悪い日々が続き欠席日数も多くなっていた。心配した学校側からの薦めで心療内科を受診することになり、初めに僕と妻が医師と面談し、次にハルの面談が行われ簡単なテストも受けた。知能テストと心理テストの複合的なもので、今後の方針の参考にするという説明だった。 「いいですかお父さん。先ほど娘さんが病気かどうか?とお尋ねになりましたが、まず大前提としてご理解いただきたいのです。繰り返しになりますが、この種の症例には数値化されたデータはありません。今回受けてもらったテスト結果は数値で表示されますが、これはいわゆる医学的データとは意味合いの違うものなのです」  医師はテスト結果の用紙の数値が書かれた個所をキャップの付いたボールペンの背の部分でなぞりながらそう言った。 「そういう性質のものですから、病気かどうかというボーダーラインというものはそもそも存在しないのです。つまり、その判断は私たち医師に一任されていると言うことです。先ほどの質問にお答えするならば、私がカルテに病名を書いた時点で、娘さんは病気であると言うことになるのです。私の立場でこう言うのもどうかと思いますが、これはとても危険なことです。正直言えば私だって怖いのです。いっそ誰かが数値的なラインを引いてくれたらどんなに良いかと。しかし私はこんな風にも思うのです。そもそも数値というものにどれほどの意味があるのかと。人間の身体はそれぞれに違うのです。数値を基準に正常異常を判定し、さらに病名までつけてしまう。これは医者の怠慢に他ならない。さらに言えば数値が医者の責任逃れの材料にもなってしまう。そもそもおかしな話だと思いませんか?それでは医者は何の為にいるのでしょうか?」  そこまで一気に話をすると、彼は黙ってしばらく自分の描いたグラフを見つめていた。心を落ち着けようとしているのか、それとも全く関係ないことを考えているのかは僕には判断がつかなかった。そして何事もなかったようにグラフの解説を再開した。 「このグラフの右上のエリア。つまり、知能が高く、情緒も安定している。おそらくどなたにもひとりくらいは思い当たる人がいるのではないでしょうか。こういうタイプの子が。ここにいる人たちは一見何の問題も無さそうに見えます。それはそうですね。成績が良くて周囲との関係も上手く築けるわけですから、先生にも一目置かれリーダーシップも発揮できる。しかし人間はそう簡単ではないのです。我々の分野の研究でも、いま一番の課題は実はこういうタイプの人たちなのです。ここにいる人たち。特にこの部分の人」  医師はグラフの右上のエリアに大きな丸を書き、次にいちばん右上の隅の方に小さな丸を書いた。 「特にこの部分の人が問題なのです。長年の調査の結果ですが、この人たち、この一見何の問題も無さそうな人たち、というよりは他人も羨むような、将来を期待されるような人たちは、かなりの確率で将来的にひどい結果に至っているのです。例えばですが、犯罪者、自殺、薬物依存といった、どう見てもよい人生とは言い難いものなのです。しかも不思議なことに皆40歳を過ぎたあたりから人生がおかしくなり始めているという共通点があるのですが、このあたりの原因はまだ分かっていないのです」  それはそれで興味深い話ではあったが、今の僕にとってはどうでもよかった。 「娘はこれからどうなって行くんでしょうか?」 「もちろん、娘さんのような方にはケアが必要です。本人が苦しんでいるわけですし、親御さんにとっても辛いことです。それでこうしてご相談に来られている訳ですから。私としても出来るかぎりのことをさせて頂きます」  医師は少しの間うつむいて何かを考えているようだったが、やがて僕の目を見て言った。 「抽象的な言い方で申し訳ないのですが、世の中にある問題というのは、問題に気づいた時点でそれほど深刻ではなくなるのです。人間は欠陥だらけですが、同時に人の知恵は偉大です。私たちが本当に恐れるべきものは、一見すると問題がなさそうに見える物の中にあるのです。私はそう思います」  なぜか分からないが、医師のその言葉が心に残った。それはハルについてではなく、僕自身に向けられたメッセージのように思えて仕方なかった。それ以降ハルは定期的に医師の元へ通い、ただ話をしゲームをして遊んだ。次に僕が医師を訪ねたのはハルが夏休みに入る少し前だった。今回は妻も一緒だった。 「娘には驚かされることがよくあるんです。不思議な体験というか」  ボクがそう切り出すと、医師は研究者としての好奇心が何かを感じ取ったかのように目を輝かせた。 「とにかく耳がいいんです。聞えるはずの無いような小さい音が聞こえるようで、かなり離れた場所でドアが開く音とか、ほんの少しだけ出ている水道の音とか。私たちの声も信じられない距離で聞こえているみたいで、うかつに内緒の話もできないと言う感じです」 「なるほど、まあこれは私たち全てに言えることなのですが、人間の聴覚というのは実にうまくできていまして、自分に必要のない音を自然にシャットアウトしていると言われています。逆に言えば必要なものに対してはとても敏感になるということなのです。たとえば私たちもレストランで食事をしていて、隣の席の会話が気になって自分たちの話に集中できないことがあります。逆にどんなに周りが騒がしくても全く気にならないという場合もある。これは音量の問題では無く、私たちが無意識に耳に入って来た情報を選別しているということなのです。そういう意味では私たちは耳ではなく脳で聞いているとも言えるのです。そして確かに娘さんのようなタイプの人は五感がとても敏感です。聴覚について言えば、隣のクラスで授業をしている先生の声が聞えてしまって、自分のクラスの授業に集中出来ないというケースもあるのです。隣の先生の話の方が興味深かったのか、あるいはもっと複雑な構造なのかもしれませんが。臭覚も味覚も敏感ですから食事にも苦労している方が多い」  妻は、その通りですと言うように頷いて、娘の食事に関する苦労話をいくつかしたが、医師はそれほど興味なさそうに小さく頷いただけで話の続きに戻った。 「この感覚の敏感さは特殊な能力だと言えますが、ただそれは本人にとって決して嬉しいことでは無いのです。聞こえなくてもいい音や声が聞えるというのは、常にある種の緊張感の中に居るようなもので、精神的な負担が大きいのです。にもかかわらず、学校では注意散漫だとして責められる。食事に関してはただの我儘だとされ、教師たちは無理にでも食べさせようとする。アレルギーなどの体質的な要因には大袈裟なくらいに神経質になっている学校も、こうした脳の機能による個性を全く認めようとはしないのです。実にひどい話です」  医師は、本当にうんざりだというように小さく首を横に振った。 「その敏感さというのはこれから変わっていくんでしょうか?」  口をはさめそうなタイミングを見て僕はそう尋ねた。僕たちにとっては今後のことがとにかく気懸りなのだ。 「個人差があるとしか言えないのです。聴覚に関しては普通に近づく場合が多いと言われていますが、置かれた状況や精神状態によっては、一時的に極度に敏感さが増すという報告もあります」 「先生、聴覚についてはもっと驚くことがあるんです。これはもう聴覚というより超能力かと思ってしまうほどですが」 「超能力ですか?」  医師は興味深そうに少し身を乗り出した。 「超能力というのは言い過ぎかもしれませんが、異常にカンがいいというか、例えば娘が学校に行っている時に私たち夫婦で何か話をするとします。そうですねぇ、家族旅行のこととかを。もちろん娘には聞えるはずは無いんです。いくら耳が良くてもさすがにそれは無理ですよね。するとその日の夕食の時に娘が突然家族旅行について話し出すんです。もう妻と顔を見合わせて言葉も出ない。そういうのが度々あって、何処かに盗聴器でもあるんじゃないかと真剣に話してるんです。そんなことってあるんでしょうか?」  医師は少しの間黙ったまま何かを思い返すように中空を見ていたが、やがて腕時計に目をやった後で僕達を見た。 「おふたりは潜在意識という言葉はご存じですね。無意識と言い換えてもいいですが、要するに自分では気付いていなくとも感じていることや思っていること、あるいは憶えていることだったりします。そしてそれは実際の判断や行動にも大きく影響している」  僕と妻は小さく頷いた。 「やや学問的な話になりますが、この無意識について研究していたのがフロイトという心理学者です。そしてこのフロイトの弟子がユングという人。このユングの学説がなかなか面白いのです。それは、人間はこの無意識のレベルで他人と繋がっているというもので、彼はこれを集合的無意識と呼んでいるのです。つまり、人間は意識のレベルでは会話もしていないし会ってすらいない人、極端なことを言えば、地球の裏側で生活している見ず知らずの他人とでも、潜在意識のレベルで交流しているというわけなのです。一見信じ難い話のように思いますが、そう考えると説明のつくことがたくさんあるのです。連絡をしようと思った相手からそのタイミングで電話がかかって来る。初めて来た場所なのにいたるところに見覚えがある。そんな体験は大なり小なりどなたにもあります。先ほどの娘さんの超能力的な話も決して珍しいことではないのです。ユングはそれをシンクロニシティと呼んでいます。意味のある偶然というような意味でしょうか。そしてさらに彼はこう言っています。その集合的無意識は時間さえ超えたものだと。お分かりになりますか?つまり、遥か昔に生きていた人と今を生きる私たちが潜在意識において繋がっている。まあこうなるともうスピリチュアルな世界です」  そう言って医師は小さく笑った。そして何か複雑な感情が含まれた表情のまま小さく息を吐いてから話を続けた。 「そうです。これはもはや魂の話なのです。医師である私がこういうことを言うのはどうかと思いますが、この潜在意識の研究は突き詰めていくとそういう領域に入ってしまうことがあるのです。私の父は物理学者でしたが、ある時を境にそちらに傾倒していきました。魂は時間も空間もない世界で互いに関わり合いながら永遠を生きる。同じ故郷を持った魂たちはグループを作り、時には物質的な世界で出会い別れすれ違い、そして故郷に帰る。それを繰り返しながら魂は自らを成長させ、究極的な存在を目指す。父はよくそんな話をしていました。そんな風に考えるとほとんどのことは説明がついてしまうのです。私達が人生の中で対面する苦難や障害が魂の成長のための課題であるとすれば、誰もが必ず死に行くと知りながら、人は何故わざわざこの世に生まれるのかという究極の疑問にさえ容易に答えられてしまうのです。もし同じ問いに科学的な立場で答えるとすれば、私たちひとりひとりの人間は、この物質世界を永続させるためのひとつの要素であるとしか言えない。はたしてどちらの答えが私たちに生きる活力を与えてくれるのか」  医師はしばらく黙った。僕たちも言うべきことが見つからなかった。 「話が本題からそれてしまいました。これは医師の愚痴として聞き流していただいて結構です。私はあくまでも医師として、科学的な根拠に基づいたものを真実と考えているのです。そのうえで確実に言えることは、娘さんのようなタイプの人は全ての感覚において敏感なのです。もし仮にユングの言う、その時間も空間も超えた集合的無意識というものが存在するとしたら、おそらくそこから彼女が感じ取るものは、我々普通の人間とは比べ物ならないものなのです。それは私たちの想像を遥かに超えた世界なのです」  僕は少しハルが羨ましく思えた。彼女の苦悩はもちろん理解していたつもりだし、何もしてあげられない自分を歯がゆく思ってもいたが、僕のように特術すべきことの無い人生を歩み、50歳になるというのに何者にも成れていない人間にとってみれば、その特殊性に憧れのようなものを抱いてしまうのも正直な気持ちだった。               第3章  正義 「もし自分がチビでデブでハゲてても、あなた今と同じ気分で街を歩ける?」  深夜に近い地下鉄のホームのベンチで隣に座る彼女が言う。彼女は僕と同じで20歳になったばかりだった。僕は彼女のことがとても好きだったし、彼女も同じ気持ちだと思っていた。乗らずに見送った車両が僕たちの前を通り過ぎ暗いトンネルに吸い込まれて行くと、微かな風が彼女の長い髪を揺らした。 「あなたはそこそこ頭も良くてまあまあのルックスで話もなかなか面白いから、けっこうモテるでしょ。だからダメなのよ。あなたあんまり努力とかってしないでしょ。男の色気っていうのはね、苦手なことを克服しようと必死で頑張るとか、手の届かないものに少しでも近づこうとか、そういう時に滲み出て来るものなの。カッコ悪くてもみっともなくても、そういう男に女は惚れるのよ」  そのとき僕は彼女が言ったことの意味を正しく理解できてはいなかったが、それは僕の心のいちばん深いところに鈍い痛みをもたらした。そして彼女とはそれ以来一度も会うことは無かった。  子供のころからこれと言って特徴の無い人間だった。我を忘れて熱中するようなことも無く、他人に自慢できるような特技も無い。もちろん誰にとってもそうであるように、僕自身にとって自分は特別な存在で、日々感じる強い感情や興味をそそられる物事は存在した。しかし僕には、そういった自分の中に沸き起こるものについて自分以外の人間に伝える能力が欠けていたようだった。それは能力というより意志の問題かもしれないが、結果的に周りからも当たり障りの無い人間と思われ、学校生活に困らない程度の友人もいた。目立った主張をしなければ大きなトラブルに巻き込まれることは無かったし、特別な努力をしなくとも得られている結果にある程度の満足感があった。何事においても、この程度で充分という思いで日々を過ごしていた気がする。自分のどこかに秘めた何か大きな力のようなものに密かな期待を抱く瞬間もあったが、その何かと積極的に向き合おうとしたことは一度も無い。振り返れば、その頃の僕はごく当たり前のことに気がついていなかった。階段の途中で立ち止まっている者は登っている者に次々と追い抜かれて行くのだ。必然の結果として実質的に僕は階段を少しずつ降りていることになる。世の中のほとんどの物事は相対的に評価されるのだから。  思春期の僕は、そんな何者にもなろうとしていない自分が大嫌いだった。思い出される場面は断片的なものに過ぎず、どんな気持ちで日々を過ごしていたかを総括することは難しいが、凄まじいほどの劣等感が僕を支配していたことははっきりと記憶に残っている。誰を見ても羨ましく、何も持っていない自分が恥ずかしくてたまらなかった。いったい僕はその場所からどうやって抜け出たのだろう。気づけば大人になり苦悩の記憶さえ薄れていった。いつの間にか僕の中には自分なりの正義が確立し、まるでそれまで抑えていたものに対する反動のように、自信をもって行動し発言するようになった。あの苦しみは少なからず誰もが出会う思春期特有のものであり、僕はそれを順当に乗り越えたのだ。そう思っていた。しかしやがて、自分があの頃いた場所から一歩も動いていないことに気付かされる。あの地下鉄のベンチで。  《だからあなたはダメなのよ》  大学を卒業した後いくつかの職場で働いたが、そのどれも長続きせずそこを去ることになる。10年足らずの間に3度も会社を辞めなければならなくなった原因が、あちら側にあるのではなく僕自身の中にあることに気づくまで僕は同じ失敗を繰り返した。自分自身の正義に照らして発言をし、相手が誰であれ怯まぬよう自分を鼓舞した。自信を無くしかけ疎外感におし流されそうな時も僕を支えたのはその正しさだけだった。しかし結果的に僕は捨てぜりふを残してその場を去ることになり、そしてそれは何も生み出さなかった。周囲の人間の考え方も職場の状態も何も変わらず、ただ僕が姿を消した。それだけだった。そして時を置かずして僕がそこにいた痕跡すら消え失せてしまったことだろう。僕は何も生み出せず、何処へも行けなかった。そして今でも僕は分からずにいる。僕はあの時、どうすれば良かったのだろう。  《あなた全然変わらないわね》  30歳になる頃には僕はすっかり自信というものを無くしてしまっていた。僕はどこで何を間違えたのだろう。何か大切なものを忘れてしまっているのだろうか?答えの出ないそんな自問の中、学生時代から住み慣れたアパートを引き払い、僕は思い出深い街を離れた。もうこの場所に戻ることは無いだろう。そんな思いで電車の窓から見た川の流れはとても冷ややかに映った。  どう生きて行けば良いかも分からないまま、生活の為に次の職に就いた。食品業界の業界紙を発行するその会社は加盟企業が国の補助金を使い共同出資でつくったもので、役人の天下り先としての役割も持っていた。業界紙といっても一般の人に読まれることは少ない極めて内部完結的なもので、運転資金の大半は広告料で賄われ不足分は加盟企業の寄付で補われていた。僕の仕事はその広告枠を管理する部署だったが、広告主である関連企業は十数年間ほとんど変動が無く枠もほぼ固定されていた為、実質的にはただ書類のやり取りだけが業務だった。この変化の激しい世の中にあって、未だにそういう仕事が存在することは僕にとって驚きだったが、仕事の内容はどんなものでも良かった。それは生活の為の手段でしかなかったし、結局のところ組織というものの構造はどこも全く同じだった。誰もが権限を持った人間の顔色だけを見て仕事をし、自分の居場所を守ることに注力していた。悪人が立場を利用して私欲を満たし、不正に対し勇敢に立ち向かう者は巧みに崖の淵に追いやられた。彼らにはいつの間にかネガティブなレッテルが貼られ、気がつけば社内には一人の味方もいなくなっていた。その巧妙な印象操作に彼らはみな戦意すら無くし、あきらめ顔で会社を去った。それはいじめの構造に似ていた。子供の頃、教室の僕は常に傍観者だった。あの頃僕はそんな自分に少し苛立ちを覚えながらも、いじめられている人間を心のどこかで嘲笑っていたのかもしれない。自分の中の正義感のようなものの扱い方を完全に見失ってしまった僕は、新しい職場でまたそんな傍観者に戻った。手の中にあった正しさの破片は、砂粒のように指の間をすり抜けた。  職業的な理想や情熱は内に留め、時々湧き起こる正義感は意識の外へ解放した。まるで核シェルターの中にいるような気分だった。外では世界が終るかのような激しい戦闘が続き、おびただしい量の血が流れている。地鳴りを生む爆音も闇を裂く閃光も、ここにいると微かなざわめきを感じるにすぎない。これが本当の平穏でないことはもちろん分かっているが、武器を手に外へ飛び出したところで、闘う相手すら分からないだろう。僕は仕事と生活を切り離して生きるようになり、休みの日には本を読み映画を観て音楽を聴いた。時々押し寄せる虚しさのような感情はフィクションの中に逃げ込むことでやり過ごした。おそらく多くの人間がこうやって自分を保っているのだろう。それが良い方法かどうかは判らないが、それはそれでひとつの正しさなのだ。  そんな時に出会ったのが妻だった。ある日僕は上司に呼ばれ、加盟企業が主催するパーティに出席するように言われた。本来なら編集か営業の人間が出るのだがどうしても都合がつかないので、というのが上司の説明だった。妻は健康志向の婦人雑誌の編集の仕事をしていて、食品関連の特集記事の情報を集めるためにそのパーティに来ていた。僕たちは初めからとても話が合った。趣味も似ていたし、年齢が同じというのも親しみを感じた理由のひとつだろう。育った場所は遠く離れていても、同じ年ごろに同じ時代を生きたというだけで連帯感のようなものは生まれるのかもしれない。ふたりが距離を縮めるのにそれほど時間はかからなかった。 「変なふうに思わないで欲しいんだけど、こうして抱き合ってるとあなたの内臓のことがとても気になるの」 「内臓?」 「内臓っていうか、なんていうか、その中身」 「内臓の、中身?」 「たとえばね、さっき食べたピザにのってたベーコンとかマッシュルームとか、海老とか」 「うん、食べたね、海老」 「その海老がね、わかってるのよ、あなたがのみ込む時にはもうあの海老の形はしてないし、もちろん今あなたのお腹の中ではもっと違うものになってるのはね。でもその海老がね、元気にしてるのよ。あなたの中で」  初めて妻を抱いた時、ぼくの腕の中で彼女はそんな話をした。妻は自分のことを平凡でつまらない人間だと言っていたが、僕は独特の世界観をもった彼女の発想がとても好きだった。 「どうしてわざわざこんな悲しいエンディングにするのかしら?途中でどんなに大変なことがあってもいいけど、最後くらいハッピーでいいじゃない」  最後に主人公が死んでしまうと、彼女は決まってそう言って、楽しそうに続編の物語づくりを始める。奇跡が起きて主人公は生き返り、別れてしまった恋人たちは再び愛し合うようになった。 「めでたしめでたし」  そう言って満足そうに笑った。妻はとても朗らかで、良く喋り良く笑った。その頃の僕はあまり感情を表には出さず、少し冷めたことばかり言っていた。正反対に見えるこのふたりの感情の根っこのようなものが、実は同じものに繋がっていると知るのはそれから10数年後のことになる。  僕たちは結婚をして、1年後には娘が生まれた。ふたりが33歳の春。人生は生活の為のものとなり、世界の見え方が少し変わった。かつて僕が予想していたものと違い、それはとても居心地が良かった。娘のことで心配は絶えなかったが、それでも家族3人の暮らしは喜ぶべきことも多くあった。記念日や旅行の予定がカレンダーに書き込まれ、思い出を切り取った写真のフォルダーは増え続け、それは生きて来た証のように大切に保存された。もしも今いる場所を俯瞰で見たならば、それは大海原に浮かべた小舟のように危なっかしいものに違いない。しかし僕はあえてその視点を放棄したのだった。ここは船の甲板でも大海の上でもなく、揺らがぬ大地なのだと。それは僕が生き延びる為に有効な策ではあったが、問題の根本を解決するものでは無かった。見方を変えることで世界をまるで違ったものにすることは出来るが、それでも僕たちは決して抗えない何か大きな力による支配を感じることがある。そしてそれは自分自身の内側の薄暗い場所からじっとこちらを見つめているのだ。 「あなたは男だから分からないかもしれないけど、母親たちの世界って難しいのよ。正しいとか間違ってるとか、そんなことが通るものじゃないの。ハルがクラスの子たちとうまくやって行くにはあのお母さんたちを怒らせちゃダメなのよ」  娘がトラブルを起こした子の家に謝罪に行く道で妻は半ば諦め顔でそう言った。 「でも、あっちにだって問題はあるんだから主張すべきことはしないと・・」 「とにかくあなたは黙って頭を下げていて」  妻とそういう話をする度に僕の心はざわついた。でもその原因は妻でもなく、相手の母親でもなく、もちろん娘でもなかった。僕が感じている不快な心のざわつきは、間違いなく僕自身の過去によるものだった。正しき主張を放棄し、傍観者として生きている人間が正義感のようなものを振りかざせる立場に無いことは自分がいちばんよく分かっていた。  《あなたはそんなこと言えるような生き方をしているの?》  そんな自分に対する嫌悪感は思春期の頃のような激しいものではなく、ひたひたと忍び寄る薄暗い影のようだった。そしてそれは細かい雪が積もるように僕の中のどこかの部分を満たした。会社が提案した早期希望退職制度を利用して僕は会社を辞めたが、それで世界が変わるわけではない。もう50歳になろうというのに、僕は何者にもなれていないどころか、どう生きて行けば良いかすら分からずにいた。そしてそのひと月後ハルが姿を消した。                第4章  記憶  ハルがいなくなった時、妻はすぐに実家に連絡をした。僕の両親は既に他界していたし他に身内と呼べる存在は無かったので、ハルが自宅以外に身を寄せる場所は他には考えられなかった。妻の母親はひどく驚き取り乱していた。 「気をしっかりと持って、とにかく何か分かったら連絡しなさい」  母親に代わって電話口に出た父親の声にも動揺の色が見えた。 「うん。お父さん、私は大丈夫。お母さんのことお願いね」 「ああ、大丈夫だ」  妻が幼い頃から父親はほとんど家に居ることは無かった。中規模の建設会社の経営者であった彼は、まさに寝る間もなく飛びまわって仕事をしていた。妻の祖父が始めた小さな工務店は2代目を継いだ彼の行動力と堅実な仕事ぶりで大きく成長し、県内では名の通った優良企業になった。ある大規模な公共事業にからむ談合事件で多くの建設会社の名前が挙がる中でも、関わりの無かった数少ない企業として株を上げた。摘発された企業の幹部やその家族に自殺者が出たこともあり、当初その談合事件は連日マスコミを騒がせたが、やがて火が消えるように静かになった。ある大物政治家の関与が噂され始めたことで事態が変わったようだ。そして本来であれば名誉となるはずのその出来事が、妻の父親と彼の会社に暗い影を落とすことになる。摘発された企業の多くは、表面的には業界の体質改善のムードを演出してはいたものの、水面下では数少ない正しき企業の締め出し工作に躍起になっていた。根も葉もない悪い噂が流され受注した工事が突然キャンセルされ、社長である彼はもとより、家族や社員への悪質な嫌がらせも続いた。もちろん警察にも相談したが担当者の対応は驚くほど冷たく、そこに何か大きな力が介在しているのは明らかだった。事の経緯に関心を持った一部のジャーナリズムが告発を試みたが、その灯もいつしか消し去られた。当時高校生だった妻の身にも影響は及び、陰湿なイジメの被害を受けしばらくの間学校に行けない日々が続いた。なぜ正しいことをした父親やその周囲の人間がこのような不遇を受けるのかという疑問と失意の日々が、彼女のその後の人生に影響しないはずは無かった。  妻は大学を出ると小さな出版社に就職した。明るい性格と、育ちの良さから来ているであろう屈託のなさは取材先にも受けがよく、女性スタッフが多いその職場でも人気者だったようだ。僕がその談合事件と妻の受けたいじめの話を聴いたのは、ハルのことで初めて小学校に呼び出された日の夜。出会ってから10年になろうとしていたが、妻がその体験について語るのは初めてで、妻の記憶によればそのいじめはそれほど長くは続かなかった。ただ、その辛い状況を自分で切り抜けたのか、誰かが救い出してくれたのかがまったく思い出せないということだった。 「あの時からずっとね、嫌われないようにって、それだけ考えて生きて来た気がするの。あの時に考えたの。真剣にね。どうしたら嫌われないかって。どんな子が嫌われるのかなって」  そう話す妻の表情は今までに見たことのないものだった。そこからは何の感情も読み取ることが出来なかった。悔しさも悲しさも、もちろん懐かしさも。ただ自分の通って来た経路を辿っている。そんな印象だった。 「真剣に研究したのよ。学校中のいじめられてる感じの子のこと。見た目の特徴とか言動とかをね。そしてそういういじめられる要素のようなものを自分の中から無くしていったの。もうあんな体験は絶対にしたくなかったから」  そう言うと妻はしばらく黙った。自分の記憶に間違いがないか慎重に検証しているようにも見えた。妻は忘れてしまいたい過去としてその記憶を封印していたようだったが、ハルが学校でトラブルを起こす度に、嫌でもその自分の体験を思い起こすことになる。そしてその頃から妻は時々嫌な夢を見るようになった。 「すごく暗い感じの建物を私は見てる。そう、ただ見てるだけなの」  夜中にうなされている妻を起こすと、しばらく天井を見つめて息を整えてからそう言った。 「すごく気味が悪くて、私はそこから離れたいのに体が動かない。空は今にも雨が降り出しそうに真っ暗で、しかも誰かが、誰かが私を見てる。そう、その建物の中から」  妻はその夢のことをだいぶ気にしていたが、僕はあまり深刻に考えない方がいいと言った。嫌な夢を続けてみることは誰にもあるし、状況が変われば自然に解消されると思ったからだった。僕は自分が時々みる、狭い場所に閉じ込められて身動きが取れない悪夢の話をしたが、妻は小さく首を振って言った。 「これはただの夢だとは思えないの」  ハルの学校での様子は少しずつ良い方向に向かい、中学を卒業する頃にはトラブルもほとんど無くなっていた。少数ではあるが気を許せる友達もでき、系列の高校にそのまま進むことにも不安はなかった。 「彼女自身の状態は本質的には変わっていないのだと思います。しかし彼女は経験によって常に学習しているのです。良い人間関係の作り方を自分の感情を客観視しながら論理的に理解している。まさに知能の高さゆえと言えるでしょう」  定期的にカウンセリングを続けてくれていた精神科医はそう分析した。親子の会話も増え家庭の空気は明るいものになっていった。娘自身の心の状態は本人にしか分からないものだったが、少なくとも僕と妻の中には長いトンネルを抜け出たような安堵感があった。ハルは高校生になり、16歳の誕生日を家族で祝った。しかし妻の悪夢は相変わらず続いていて、頻度はむしろ増え、その内容は妻を更に苦しめるものに変化していく。夜中に妻が苦しそうにしていると、僕は彼女を起こし額の汗をタオルで拭いた。 「いつも同じ夢。長い廊下を私は歩いてる。なんだか薄暗くてじめっとした廊下なの。たぶん、たぶん私は誰かを探してる。違う。探してるんじゃなくて後をつけているんだわ」  そこまで話すと妻は小さく深呼吸をした。自分の気持ちが高ぶって来たことに気がついたのだろう。僕は黙って話の続きを待つ。 「何だか不思議。夢の話って誰かに話しているうちにだんだんズレて来るじゃない。本当はこんなじゃ無かったなとか。そのうちに自分でもどんな夢だったか分からなくなる。だけどこの夢、話してるとだんだん鮮明になって来るの。細かい所がはっきりして来る。まるで忘れてた記憶が蘇るみたいに」  妻は目を閉じてしばらく黙っていた。 「学校だわ。そう、学校の、高校の校舎の廊下。あのじめっとした感じの北校舎の廊下だわ。突き当たりにあの気味の悪い鉄の扉があるの」  妻の出た学校は中学と高校が同じ敷地にあり、広い中庭を囲むようにロの字型に3階建ての校舎が建っていた。南校舎を中学生が使い北校舎は高校生の教室だった。東側の建物には職員室や校長室、事務室などがあり、西校舎には音楽室や美術室、実験室などの技術系の教室と文科系のクラブの部室が入っていた。そして中庭にはチャペルを備えた小さなホールがあり、集会などに使われた。建物全体はすっきりとしたデザインでまとめられていたが、校門をはじめ所どころに配された鉄製の飾りには特徴があった。学校設立当時に海外で注目され始めていた若手の日本人作家の作品で、学校の理事長のたっての希望を受けて彼が特別にデザインしたものだった。独特の世界観があり賛否は分かれたが、生徒たちの評価の大半は、気味が悪いというものだった。 「そういえば前に嫌な感じの建物の夢を見るって言ってたよね。それってその学校だったのかな?」  妻は目を閉じて記憶を辿り、小さく首を振った。 「分からない。本物の学校とは違う。何となく似てるような気もするけど、良く分からない」  娘の学校での問題と、それを機に妻が対峙することになった自分のいじめの体験がその夢の原因であるという想像は容易に出来た。僕たちは妻がその夢から逃れる方法を真剣に考えたがそこに出口は無かった。所詮は夢の話なのだ。ハルの状態の変化によって暮らしは平穏を取り戻しつつあり、悪夢からもやがて解放されるものと思っていた。しかしそんな矢先の娘の家出が僕たち夫婦をさらに苦しめる。ひと月近くが過ぎたがハルからは何の連絡も無く、警察からもこれといった情報は無い。僕は自分なりに調べた方法で手掛かりを探したが、成果は見られなかった。進展の無いまま過ぎて行く時間は苦痛に満ち、妻は体調を崩し会社を休んだ。病院で検査も受けたが特に異常は見つからず、ストレス性の適応障害というのが医師の診断だった。 「ストレス要因の解決が回復への早道ですが、可能であればしばらく仕事を休んで自宅で静養して頂いた方がいいと思います」  若い医師はせりふを読むようにそう言った。会社に事情を説明し、妻はやりかけの仕事の引き継ぎを済ませ長期の休暇を取った。              第5章  街  新宿から私鉄電車の快速に乗り西へ向かうと、20分程で川を渡る鉄橋にさしかかる。23区と市部を隔てる幅の広い川だ。20年以上前、通勤の為に毎日のように渡った橋から見る景色は僕の記憶にあるものとだいぶ違っていた。当時は背の高い草が生い茂り、何かの事件現場として登場しそうな雰囲気だった川辺。そこには遊歩道が整備され、散歩を楽しむ老夫婦やジョギングをする人の姿が見える。ベビーカーを押した母親と小さな女の子を肩車した父親の姿は、まるで穏やかな風景のサンプルのようだ。まだ梅雨に入る前の初夏を想わせる晴天の午後、陽光をキラキラと返し流れる水も、心なしか以前より澄んでいるように見えた。ハルの行方が分からなくなってひと月半が経過していた。警察に期待ができないと感じ、興信所か何かに調査依頼をしようかと話し始めた時それは起きた。自宅で静養していた妻が偶然見つけたネットのニュース記事の一枚の写真。大学のキャンパスの風景に写っていたハルの姿。そしてその写真が撮られたのは僕にとって特別な場所だった。  橋を渡ると間もなく電車は駅のホームに滑り込む。3年ほど前におこなわれたこの街の再開発の際に、特急を除く全ての電車がこの駅に停まるようになったらしい。本当にこの街にハルはいるのだろうか?僕が20代の日々を過ごしたこの街で、自分の娘がいま息をしていることを思うと、説明し難い不思議な感覚になる。時間と空間が微かな音を立てて軋み、そして何かの均衡が僅かに崩れるようなそんな気配を感じる。この街で暮らした10年間は、僕を何処から何処へ運んだのだろう。そしてあれから20年の歳月が過ぎた今、まるで何かに導かれるように僕はまたこの場所に戻ることになった。ここに家出をした娘がいるとしたら、それは偶然と思えるはずがない。書き置きにあった『助けなければいけない人』とは僕と関係のある人物なのだろうか。どんなに想像をめぐらせてみても物語のしっぽすら見つけられなかった。いずれにしても、今はこのただひとつの手掛かりに賭けるしかないのだ。妻が見つけたハルの写真に。  その街はすっかり様相を変えていた。各駅停車しか停まらない小さな駅。鉄道会社が沿線の各駅前に展開する中規模のスーパーマーケットから続く昔ながらの商店街を抜け、築年数の古いアパートと戸建て住宅のエリアをすぎてしまうと、そこはもう田舎の風景と変わらない。それが僕の記憶にある街の姿だ。畑と空き地が広がる中に、建設会社の資材置き場や食品会社の倉庫、打ち捨てられたような古い空き家や使われていない小さな工場が点在するやや治安の悪そうな場所だった。20年という時間は、風景もそこに漂う空気も通りを行きかう人の表情さえも大きく変えてしまうものだった。ある美術系の大学の誘致を核にした大規模な再開発が行われたのが3年ほど前。国と都からの補助金を使っていくつかの文化的な箱ものが建設され道路も整備された。行政サービスのいくつかの部分には画期的な新システムが導入され、特に防犯と防災においては大きな予算が充てられた。近年全国的に増加した水害対策用の大規模な地下施設の建設のため、この再開発には通常の倍近い期間を要したという。駅前には都会的で清潔なイメージのコーヒー専門店が出店し、計画的に配置された樹木やセンスのいいベンチが置かれた広場は、美術館の中庭のように見える。駅から少し離れた所には、経営難に陥っていた古くから続く大型の家具店をベースにした複合的なショッピングモールが作られた。生活の利便性と学園都市というイメージ。そして再開発のテーマである清潔で安全な街というコンセプトはファミリー層の転入増加も生んだ。古い空き家や倉庫を利用した個性的なカフェやレストラン、ショップが開店し、芸術の街という空気が漂う。様々なジャンルの芸術系イベントが頻繁に催され、発表や創作の場としてこの街を拠点とするアーティストの卵たちは年々増加していった。ここまで大胆で個性的な再開発がメディァで話題にならなかったはずはない。僕は無意識のうちにその情報を拒んでいたのだろうか。ここは僕にとって特別な場所でありながら、その存在を心のどこかで自分の人生とは切り離していたのかもしれない。まるで物語の中の架空の街のように。  街の変貌と歳月の流れは僕を感傷的にせずには置かなかったが、目的を見失っている場合ではない。ハルを探すのだ。写真が撮られた場所がこの街の再開発の核となった大学の構内だということは分かっていた。駅前からの案内表示はどれも見やすく必要な場所に正しく設置され、とても分かり易く僕を導く。この優れたサイン計画と共に特徴的なのは防犯カメラの数だが、一見するとそれと気づかない物も多いためか、それほどの威圧感もなく、安全安心をスローガンにうたったこの街には必要と思える範囲のものでもあった。中央に大きな芝生の広場がある駅前の公園を抜けてハナミズキの並木道をしばらく歩くと、右手に煉瓦風の塀が見えて来た。塀の上部には黒っぽいアイアンの飾りが配され、それはその先にある大学の名前のプレートがはめ込まれた鉄製の門扉へと繋がっている。デザインは美しかったが、そこにはこれと言った主張のようなものが感じられなかった。建物の規模は思っていたほど大きくなく、レンガ風の外観のものとコンクリート打ち放しのものとが数棟ずつバランスよく配置され、とても落ち着いた佇まいを醸している。高層の建物は無く、どれも2階建てか3階建て。外壁のコンクリートは品の良い色合いの仕上がりで、レンガ風の方も無垢のレンガを積み上げたような奥行きを感じさせ、素人目にも質の良い建築と分かるものだった。  校門脇の警備員室らしい小さな建物に人の姿は無く、防犯カメラだけが斜め上から僕を睨んでいた。窓口のガラス戸は閉まっていて、その前には《本学の学生及び職員以外の方は必ず事務局で入館手続きを行ってください》と書かれた白いアクリル板が立てられ、窓口の横の壁には事務局までの経路図が張られていた。経路図の案内に従って、中央に鉄製のオブジェのある小さな池の脇を通り、幅の広いコンクリートの階段を数段上って管理棟という建物に入る。日曜日の為、構内にいる学生はまばらだったうえに、管理棟に入ってしまうと全く人影もなくシンと静まり返り、なんとなく後ろめたさを感じるような不思議な気分になった。通路を進み、事務局というプレートの掛けられた窓口から中を覗き込んでみたが、見える範囲に人影は無い。窓口の脇にある呼び出し用のチャイムに手を延ばそうとした時、不意に背後から声をかけられた。 「何か?」  驚いて振り返ると度の強そうなメタルフレームの眼鏡をかけた男性が不審そうな面持ちで立っている。年齢はたぶん僕と同じくらいだろう。 「あ、すみません。あの、ここで入館手続きをと、あの外の守衛室のところに・・」 「それで何か?今日は日曜日で、ここは私ともうひとり事務員がいるだけで、そのもうひとりは今食事に出てますから、私がご用件を伺いますが」  男性は僕に一歩近づいてそう言った。微かに煙草の匂いがした。首から下げたネームプレートには大学名と事務長という肩書が書かれている。僕は家出をした娘を探していて、ネットニュースで見つけた娘の写った写真が、おそらくこの大学の中で撮られたものだということを正直に説明して、鞄からプリントアウトした写真を取り出した。 「この写真の場所がここかどうか確かめたいんです。あと、この子を見かけたことが無いかと」  事務長は僕が手渡した写真と僕の顔を交互に眺めながら、 「確かに撮られたのはこの大学の中のようですが、このお嬢さんには覚えがないですね。でも、ほんとにあなたお父さんですか?この子の」  事務長は不審そうにもう一度僕の顔とその写真を交互に見比べた。僕は携帯電話を取り出していちばんはっきりした写真を選んで画面を彼に向けた。ついこの前、高校の入学式に親子3人で撮ったその写真をじっと見てから、何故か少し残念そうに言った。 「まあ、本当らしいですねえ。ただ先ほども言いましたが、この写真のお嬢さんには心当たりが無いですね。確かに撮られた場所はここに間違いは無いようですが」 「少し館内を見させてもらうことは出来ませんか?」 「それは難しいですねえ。入館の目的に人探しという項目は無いんですよ」 「項目って、たとえば何があるんですか?」 「ええとですね・・面会、視察、見学・・」 「では見学ということでお願いします」 「今さら見学と言われてもあなた、もう事情を伺ってしまってますからねえ。どうでしょう。まず警察に行かれてみては。先ほどのお話では捜索願いは出されている様ですし、こうやってひとりで来られたということは、ここの警察には相談なさって無い訳ですよねぇ。警察からの要請と言うことになれば、こちらとしてもそれなりの対応がねぇ」 「もちろんそれも考えました。でも出来るならあまり大騒ぎにはしたくないんです。いきなり警察がというより、私が直接探し出したいんです。その辺の気持ちお分かりいただけないでしょうか?それに今回良く分かったんですけど、この手のことで警察というのは本気でなんか動いてくれませんよ。だからここにも直接来たんです」 「そんなことは無いでしょう」  事務長の表情がにわかに険しくなった。 「少なくともこの街の警察はそんなことはありません。ご存じ無いかも知れませんが、ここは安全で平和な街として有名なんですよ。その治安を守っているのがこの街の警察です」 「別にここの警察を非難しているわけでは無いんです。私はただ・・」 「あなたこれ以上ここに居座るようなら別の理由でこちらが警察に通報することになりますよ。それがお嫌ならこれでお引き取りください」  僕の話を遮るように厳しい表情で彼は言った。僕を拒否するにしても、もう少し違った言い方が出来ないものかと腹立たしく思いながらも、僕はあきらめて事務局を後にした。何か他の方法を考えて出直した方が良さそうだった。さっき来た順路を辿って屋外に出たところでまた後ろから誰かに呼び止められた。振り返ると今度は小柄な中年の女性が立っている。 「あなたの娘さんのこと、きっと秘書さんが何か知ってるわよ」  厚めの化粧のその女性は小走りで僕に近づくと小声で言った。 「秘書さん?」  僕も小声になる。 「そう、理事長の秘書さん。たぶん今なら理事長室にいるはずよ」 「理事長室って・・」 「ついて来て」  女性は満足そうな笑みを浮かべると、建物の軒下づたいに裏手に出た。 「あの茶色い建物の3階がビップのフロア。理事長室は一番奥よ。ここを通って行けば人目につかないし、あそこに見える裏口から入れば防犯カメラには写らない。表から入るには入館証が要るからあそこから入るしかないの」 「でも突然押し掛けて大丈夫なのかな?警察でも呼ばれたら・・」 「秘書さん、最近何かコソコソやってるの。そういう時って騒ぎは起こしたくないものでしょ。」 「ほんとに大丈夫かな?」  女性は小さくため息をついた。 「あなた男でしょ。娘さん探してるんでしょ。だったら当たって砕けろよ。目的を忘れちゃだめ。前進あるのみよ。入るとすぐ左側に階段があるから。3階よ、理事長室。」 「分かりましたよ。ところであなたは?」 「あなたの味方」 「僕の?」 「事務長の敵は私の味方よ。あのパワハラじじい、いつか殺してやるわ」  小声でそう吐き捨てるように言うと女性はまた軒下づたいに戻って行った。その姿が視界から消えてしまうと、彼女の出現にも行動にも現実味が感じられなくなり、彼女が本当に存在していたのか確信が持てなくなってしまった。しかしそんなことはこの際どうでもいい。彼女が何者であれ、諦めかけていた線がまた繋がったのだ。  教えられた裏口までは10メートルほどの距離があり、日当たりが良くないせいで辺りの空気はじめっとしている。僕は人目が無いか様子をうかがいながら湿った地面を慎重に進む間、彼女の言ったビップという言葉を思い返していた。バブル時代のディスコの情景が浮かび、あの小柄な女性がお立ち台の上で扇子を振っている。  裏口のドアは木製で、ちょうど大人の顔のあたりの高さに20センチ四方くらいのガラスがはめ込まれていたが、磨りガラスなので中の様子は全く分からない。ドアノブに手を掛けてそっと引くと音も立てずにドアが開いた。中を覗き誰もいないことを確認して素早く身を滑らせドアをそっと閉めると、外部の喧騒が消えシンとした空気の中で僕の心臓だけが高鳴るのが分かった。自分が何かしらの法律に触れているのではないかという不安がよぎる。気持ちを落ち着かせる為に置かれた状況を整理してみたが、考えてみれば大したことでは無い。別に人を傷つけたり物を奪ったりした訳ではないのだから。もし仮に警察に通報されて取り調べを受けたとしても、事情を説明すればおそらく無罪放免になるレベルだろう。この程度の行為で死ぬまで牢屋に閉じ込められたり、全財産を没収されたりはしない。そう思ったらだいぶ気持ちが軽くなった。落ち着いてあたりを見回すと建物の外部と同じでとても上品で、木の床も漆喰塗りのような壁も質感があり色合いも良い。さっきの女性が言っていた左手の階段を上がり3階へ向かった。幸い底の柔らかい靴を履いていたので、慎重に歩けば物音は殆んど立たない。踊り場の高窓のステンドグラスに散りばめられた大小の円形の淡い色がとても美しかった。  理事長室の場所はすぐに分かった。特別会議室というプレートのついたドアの前を通り過ぎ、来賓控室というドアの先のその部屋の前に立つと、一度はやり過ごした緊張感が戻って来る。ここに辿り着くまで、見渡せる場所はもちろんどの部屋の内側にも人の気配は感じられなかったし、防犯カメラらしいものも確認できなかったが、その静けさは逆に、何処からか誰かに見られているという感覚を増幅させた。その秘書という人物は本当に理事長室にいるのだろうか。考えてみれば僕はその理事長秘書の年齢も、そして性別すら知らないのだ。秘書と聞いて勝手に女性と思い込んでいたが、世の中には男性の秘書というのも数多く存在する。女性だとしても、派手な服装の若い秘書もいれば眼鏡をかけた厳しい表情の年配の人もいる。そんな答えの出ないことに思いを巡らせていると、あの小柄な女性の言葉が脳裏をよぎる。  《あなた男でしょ。娘さん探してるんでしょ。当たって砕けろよ》  彼女はお立ち台の上で体形のはっきりとわかる派手な色の服を着ている。世の中が好景気に浮かれていたあの頃、僕はこの街で暮らしていたが、時代の恩恵のようなものを受けたという記憶はあまりない。どちらかと言うとそういうものを少し離れた場所から斜に構えて眺めているような若者だった。たぶん何かが怖かったのだろう。ドアをノックしようと右手に力を入れた瞬間、目の前のドアがゆっくりとあちら側に開き始めた。微かな物音も人の気配もなかったので、僕は何が起きているか把握できないまま立ち尽くしていた。 「どうぞ」  ドアを開けた女性はそう言って僕に中に入るように促した。 「あ、僕はその、怪しい者では無くて、あの、人を探していて・・」 「分かっています。どうぞ中へ」  慌てている僕とは対照的に冷静な声で彼女は言った。年齢は30代の半ば。髪はストレートで長く、優しそうな顔立ちの中に意志の強さのようなものがはっきりとうかがえる。僕が中に入ると彼女は静かにドアを閉め、さらに奥の部屋へ進むようにと言った。開いたままになっている扉から中に入るとそこが理事長室のようだった。正面に大きくとられた窓からの自然光で十分に部屋は明るく、点いている照明はわずかだ。執務デスクは、理事長室という言葉から想像されるような仰々しいものではなく、質素な中にも質の良さが漂いとても良い色をしている。 「どうぞお掛けになって下さい」  僕が部屋の中を見渡していると彼女はそう言って濃い茶色の革張りのソファを手で示し、自分は向かい側のシートに腰を下ろした。柔らかい表情だが決して笑顔ではない。とても座り心地の良いソファだったが、ふたりが向かい合った状態で訪れた僅かな沈黙がとても長く感じた。僕は自分から話を切り出そうか迷ったが、彼女の言葉を待つことにした。立場的には完全にアウェイなのだ。彼女はこの場の主でありこちらは不審者。僕は状況を把握できていないのに彼女は《分かっている》のだ。おそらく事務局からの連絡か何かで僕のことを知ったのだろう。そして僕の行動はすべてどこかで見られていた。そうなるとあの小柄な女性もグルだったのかもしれない。あの時彼女に声を掛けられなければ僕はあのままここを去るしかなかったのだ。となると、理事長秘書と思われるこの女性が意図的に僕をここに案内させたということなのだろうか。僕を中に招き入れた時の様子から見てもそう考えるのが妥当なようだ。 「この街はある意味で特殊な街なんです」  しばらく黙って僕の顔を見ていた彼女が最初に発した言葉は予想外のものだった。僕はその意図がはかれずに黙ったまま続きを待ったが彼女が口を開く様子はなく、どうやら僕の順番のようだ。会話になっていないのを承知で僕は尋ねた。 「さっき分かっていると仰っていましたが、僕がここに来ることをご存じだったという意味でしょうか?」 「はい。その通りです」 「やはり事務局の方から連絡が来ていたんですね。そしてあの女性も意図的に僕をここに案内した。そういうことですね」  彼女は少し不思議そうな表情をした後で口を開いた。 「事務局やその女性については私にはよく分かりませんが、あなたが訪ねて来ることは分かっていました。そしてその目的も」 「いずれにしても事情をご存じなら話は早いです。娘の居場所をご存じなんですね?」 「申し訳ありませんがあなたの娘さんの現在の居場所は分かりません。でも心当たりはあります」 「どこなんですか?その心当たりというのは。教えていただけませんか」 「その話の前に、あなたに聞いていただきたいことがあります。先ほども言いましたが、ここは特殊な街なんです」  そもそも彼女の話はそこから始まったのだ。ここは焦らずにじっくりとことを進めなければならない。眼の前のこの女性は今の僕にとって重要な人物なのだから。 「分かりました。まずはその話から始める必要があるようですね。特殊というのは具体的にどういうことでしょうか?」 「あなたは常に監視されています。もちろんあなただけでなくこの街のすべての人が、ということですけど」 「監視?どういう意味でしょう」 「この街に来て何か感じませんでしたか?」 「僕は20年以上前にこの街に住んでいましたけど、今日ここへ来てあまりの変わりように驚きました。ここへ来る前にいろいろと調べたつもりです。3年ほど前の再開発は当時だいぶ話題になったようですね。街並みの美しさや芸術の街というイメージの良さで転入者が急増した。犯罪の少ない安全な街ということで、国や都からいくつかの表彰も受けている。実は僕はその話を全く知らなかった。気になったのは防犯カメラが多いということくらいですけど、まあ安全対策という意味では必要なものなんだと思いました。」 「そうですか。ではその監視カメラというのは何のためにあると思いますか?」 「何のためって、それは犯罪の証拠を記録するということと、もうひとつは犯罪の抑制ということでしょうね。カメラに映る可能性がある場所でわざわざ悪いことをしようという人間はまずいませんから。違いますか?」 「その通りです。どちらかと言えば後者の方が役割としては重要です。つまり抑止力です。では防犯カメラだけでその抑止力を完全なものにすることは出来ると思いますか?」 「それは不可能でしょう。そんなことをしたら街中がカメラだらけになってしまう。景観としても住民感情としても耐え難いものだと思いますよ」 「ではどうしてだと思いますか?ご存知の通りこの街の犯罪発生率は全国的に見ても大変低い。東京都内では最も優秀でしかも群を抜いています。しかしあなたはこの街に来て、防犯カメラが多めだということ以外に特に気になったことは無い。この街で犯罪が起きない理由は何だと思いますか?」 「それは、警察の見回りの頻度とか、あとたとえば住民同士が協力して防犯意識を高めているとか。あくまで想像ですけど、そう言うことでしょうか」 「確かにそういう方法で犯罪が減っている自治体もあるようですけど、ここではそういう動きは見かけられません。あくまでも自然に、平和なのです」 「つまりおっしゃりたいことは、自然に平和だというのは逆に不自然だということでしょうか?」 「的確な表現ですね。その通りです。今この世界で大きな戦争が起こらないのは武力の均衡がある程度保たれているからです」 「ずいぶん大袈裟な話のようですが、その武力の均衡とこの街の安全とどんな関係があるのかが良く分からないですね」 「自然に平和が保たれるという世界は存在しないということです」 「なるほど、なんとなく分かってきました。平和を保つために何かしらの大きな力が働いているということですね。でも僕の知る限りではユートピアみたいなその世界の実態は、恐ろしい管理社会でしかない。小説や映画でしか知りませんが、お互いに監視し合う密告社会。でもまさかこの街がそういうことで平和を保っているなんて言わないですよね」 「そんな街にあなたは住みたいと思いますか?」 「まさか。多少危なっかしくても普通の街の方がよっぽどマシでしょう。だからユートピアなんていうのは成り立たない。必ず抵抗するものが出てきて大混乱になる。映画では」 「映画じゃなくてもそうなりますね。では一体どんな方法があるかしら」 「ちょっと待ってください。あなたと話していると、なんだか試験を受けているようですね。試されているというか。ご存知なんでしょう。この街で犯罪が起きない理由を。勿体ぶらずに教えてもらえませんか。そもそもこんな問答をするためにここに来たわけじゃないんです。僕はただ娘を捜しに・・」 「監視には」  僕の言葉を遮るように彼女はそう言った。 「監視というものには、大きく分けて2種類があります。ひとつは先ほどあなたがおっしゃったような管理システムによるもの。人々は抑圧と疑心暗鬼の中で怯えるように生活をする。監視者が誰なのかすら分からないこの状態はやがて、たとえ監視者が不在でも十分な効果を発揮する合理的な仕組みをも作り上げる。しかしこれは刑務所のような特殊な場所でしか成立しない。反乱を企てる人間は死角を探し盲点を突こうとする。最終手段としては強行突破を考える。いずれにしてもことは起きてしまうんです。永続的な監視社会を作り上げるには、監視されている者がそれに気づかない状態が不可欠なんです。それがもうひとつの監視です」  そう言うと彼女はボクの顔を見た。 「その監視がこの街で行われていると?」  彼女は小さく頷いた。 「この街の人は皆監視されています。しかし誰もそれに気づいてはいない」 「それは論理的に成り立たないと思います。たとえどんな種類の監視にせよ、摘発された悪事は表面化して裁かれる。それは同時に監視自体が表に出ることでもある。いったいどうやって・・」  と僕が言いかけたところで執務机の電話機が鳴った。彼女は失礼と言って席を立ち受話器を上げた。短いやり取りの後受話器を置き僕の向かいのシートに戻った。 「申し訳ありませんが急用ですぐに出かけなければなりません。明日またお会いできればと思います。場所はここではなく他のところで」  そういうと彼女はメモに簡単な地図を描いて僕に渡した。 「明日の午前9時にここに来てください」  僕は焦った。僕の目的は娘を探すことなのに、こんな意味不明な会話だけでこの機会を逃すわけにはいかない。明日のことなどどうなるか分からないのだ。 「娘の居場所の心当たりというのは?それだけでも教えてもらえませんか。あなたはいったいどこまで娘のことをご存じなんですか?あの子は無事なんでしょうね?」  秘書の女性は手のひらを僕の前に向け制すように言った。 「落ち着いてください。簡単に説明できることではないんです。彼女がこの街に来た目的も、そして今彼女がいると思われる場所も。それ以外にもあなたに聞いていただきたいことがあります。とても長い話になりますので明日ということで。とにかく気を付けてください。監視されているというのは本当です。くれぐれも人目のない場所には入り込まないように。できれば一旦この街の外に出た方がいいでしょう。夜は特に危険ですから」  この人が危険だと言うならそれは本当に危険なのだ。そう思わせるような切実な響きがその言葉にはあった。僕はもどかしい気持ちのまま、簡単に身支度を済ませた彼女の後について理事長室を出てエレベーターで1階に降りた。来た時と違うルートで1階に戻ったことで僕の方向の感覚はほぼ失われていた。さっき侵入した裏口や昇った階段の位置も確認できなかった。もし仮に何かのトリックで全く別の場所でエレベーターを降ろされたとしても、僕はたぶんそれに気づかないだろう。そんなことを考えながら彼女の少し後ろを歩いて建物の外へ出た。入口の《受付》と書かれた窓口に人影はなく、天井の埋め込み型の監視カメラだけが僕らの姿を捉えていた。時刻は午後6時を少し過ぎていたが、日没までにはまだ時間があるようだった。初夏を思わせる夕暮れの風は心地よく、美しく整備された大学の構内はまるで避暑地の公園のようだ。娘のことについて尋ねたいことは山ほどあるのに、このまま彼女と別れてしまっていいのだろうか。もっと強引に彼女に問いただすべきなのかもしれないとも思ったが、今彼女の気分を害することはおそらく得策ではない。後ろ髪をひかれながらも校門を出たところで彼女と別れ、僕は駅の方角に歩いた。ここへ来た時と同じ道を戻っているのに、目に映る景色はまるで違っていた。彼女の《監視されている》という言葉が僕を支配しているのだろう。それは誰かが僕の後を音もたてずに着いて来ているというものではなく、こちらからは見えない無数の目があらゆる角度から僕を凝視しているという感覚だった。  駅に着いてしまうと僕はこれからどうしたらいいか全くわからなくなってしまった。ハルを探すという目的はあの理事長秘書に会えたことで一歩前進したものの、明日の朝まで保留の状態にある。他のルートを当ろうにもあの写真以外には何の手掛かりも無い。家にいる妻に連絡をしてひととおりの状況を説明した。余計な心配をさせたくなかったので、秘書から聞いた監視についてのくだりはもちろん省いた。家を出るとき妻は最後まで一緒に行きたいと言っていたが、体調は思わしくなく、留守中にハルが帰って来る可能性も考えて自宅で待機することになった。妻の歯がゆさが、その声の調子から伝わって来る。電話を切ってしまうと僕にはやるべきことは無かった。秘書の言う通り夜になる前に一旦この街を出ようかとも思ったが、そう焦ることもない。その監視の話が事実だとしても、その目的は防犯なのだから、やましいところのない人間は何も恐れることはない。さっき大学の建物に無断で入りはしたが、結果的に僕は招かれた客だったのだ。僕は少し街を歩いてみることにした。大きく変貌してしまったとは言え、僕はここで10年のあいだ暮らしていた。思い出の場所だって少しは残っているだろうし、もしかしたら偶然ハルの手掛かりに出くわすかもしれない。僕はそんな期待をしながら商店街を歩いた。かつては毎日のように歩いた場所なのに懐かしさを感じるようなものは何一つ無い。よく通っていた定食屋はイタリア料理の店になり、古本屋は携帯ショップに代わっていた。日没を迎え街路灯が灯り始めるなか、商店街をぬけて当時住んでいたアパートへ向かった。20年前この街を離れてから、僕はこの街の記憶を意識的に遠ざけてきた気がする。良い思い出も無いわけではないが、あの日々を振り返るとき僕はとても暗い気持ちになり、みぞおちの辺りに不快な違和感が走る。僕はいったいあの頃何をしていたのだろう。この街で暮らし始めた頃、思春期に抱えていた劣等感から僕はすでに抜け出していた。あの日当たりの悪い狭い部屋にあっても、僕は希望の光のようなものに包まれ、季節は春だった。でもそれは長くは続かなかった。あの地下鉄のベンチでの彼女の言葉が、僕を抜け出せない迷路に放り込むことになる。  《だからあなたはダメなのよ》  アパートが建っていた区画は見事に消滅し、ショッピングモールの第3駐車場という名がつけられた広大なアスファルトの大地と化していた。僕の部屋のあった2階部分には、街灯に照らされた小さな埃の舞う空気しか存在していない。断片的な思い出がほんのひと時中空に浮かび、そして消えた。駐車場の金網沿いに駅へ戻る道を歩きながら、僕はどうしようもない無力感に襲われる。知らない間に世界はどんどん変化しているのに、僕だけが同じ場所に留まっていることがはっきりと分かった。あの凄まじい劣等感も、僕は決して克服したわけではなく目をそらし忘れようとしただけなのだ。大学生の時、僕がただひとつの拠り所にした揺らがない正しささえも、組織に組み込まれた瞬間に意味を失くし、そこからも逃げ出した。そう、僕はただもがいているだけで何とも闘っていなかったのだ。いじめを傍観していた小学校の教室からずっと。  《あなた全然変わらないわね》  気がつくと僕は泣いていた。涙が身体の中心から湧きあがりとめどなく溢れ頬を伝う。胃のあたりを締め付ける鈍い痛みはやがて嗚咽に変わり、僕は金網にすがりつくようにその場にひざまずいた。自分の中に次々に沸き起こる感情を制御できず把握すらできない。様々な光景が意識の隅をかすめ、後悔と自責と無力感が交互に僕を襲う。それらはやがて混沌となり激しい怒りへと姿を変える。その怒りには対象物が無く、それは出口を持たない。鎮めることも出来ず吐き出すことも出来ない怒りは僕の全身を震わせ、うまく呼吸が出来ない。死の恐怖と収まらない感情の嵐に発狂しそうになりながらも、ほんの僅かな理性が自分に語りかけ、記憶の片隅にある言葉を指し示す。  《怒りは二次的な感情なのだ》  誰の言葉だっただろう?  《その前には必ず違う感情がある》  ハルを診てくれていた医師だろうか?彼とそんな話をした覚えはないけど。  《その怒りを生む感情を探すのだ》  もっとずっと前に聞いたような。思い出せないくらい昔に。僕は深く息を吸いゆっくりと吐き出す。血液に送り込まれる酸素を思う。震えが小さくなり息苦しさが和らぐ。怒りを生む感情・・虚しさだ。過ぎてしまった歳月。決して戻せぬ時間。どんなに悔やんでも変えられない過去。過ぎ去った時間を誰も責めることは出来ない。そもそも時間に罪などないのだから。渦巻いていた嵐のような感情は、電源を抜かれたファンのように急速に勢いを失い、余韻を残しながらどこかに去っていった。  《目的を忘れちゃだめ。前進あるのみよ》  お立ち台の上で小柄の女性が言う。時間は戻せないのだ。僕は鞄を開けティッシュペーパーで鼻をかみ、ハンカチで汗を拭った。そして秘書から渡された地図を取り出した。彼女に言われるままに明日まで待つ必要は無い。ハルの居場所の手掛かりがあるとすれば、この場所しかないのだから。地図の示した場所は駅の反対側だった。さっきの身体の異変の名残りで全身に気だるさは残っていたが、不思議と足取りは軽く夜風は爽やかだった。地下の連絡通路を通って北口に出ると静かな住宅地が広がっている。南口の喧騒も届かず少し寂しい感じだが、タクシー乗り場とその脇の交番の明かりが辺りを照らし不安を幾分和らげてくれる。交番の前に立っている制服の警官と一瞬目があった気がした。  《この街の治安を守っているのは警察です》  大学のあの事務長の言葉が思い出され、僕は急に不安な気持ちになる。あの警官には僕が不審者に映っているかもしれない。そんなことを考えながら僕は線路沿いの通りを西に向かい、目印になっている動物病院まで歩いた。地図によれば動物病院の脇の路地を入ったところにその場所はあるはずだが、それらしい路地が見当たらない。位置を確認しようと携帯を取り出したところで背後に人の気配を感じた。 「ちょっとあなた」  慌てて振り返ると制服姿の警官が立っている。 「ここで何をしているんですか?」  警官の声はとても冷ややかで、僕を不審者だと思っているのがはっきりと分かった。 「あ、あのこの地図の場所を探していて・・」  僕がそう言いながら地図を見せようとすると、警官はそれを制すように、僕に一歩近づいた。 「身分を証明できるものは?」 「あ、はい」  僕が運転免許証の入った財布を取り出そうと鞄に手を入れると、耳元で微かな金属音がした。顔を上げると僕の目の前に銃口が向けられている。驚きのあまり声も出ない。 「鞄から手を出して両手を上にあげなさい。そうしないと撃ちます」  僕は状況が把握できないまま言われた通りにする。 「凶器を隠し持っている疑いがある。この場で緊急逮捕します。抵抗すれば公務執行妨害罪で射殺します」  僕の身体は恐怖で震えた。拳銃を向けられることなど想像したことも無いのだ。されるがままになるしかないと思ったところで、警官の後ろから人影が近づいてきた。警官はそれに気づくと無言で立ち去った。警官の姿が見えなくなっても僕の身体はまだ小さく震えている。辺りを見回したが、さっき近づいてきた人も見当たらない。もうどこかの路地にでも入ってしまったのだろうか。  《夜は特に危険です》  秘書はそう言っていた。  《この街の外に出た方がいいでしょう》  またあの警官が現れるのではないかという不安を抱えながら、僕は住宅街の細い路地を抜け広い通りを探した。一体あの警官は何なんだ。この日本で何の抵抗もしてない人間にあんな風に銃を向けるなんてあり得ない。  《ここは特殊な街なんです》  自分の身に何が起こっているのかは見当もつかなかったが、実際に危険な目にあったことで、彼女の言葉すべてに信憑性が持てた。どうやら彼女の指示通りに動くことが懸命のようだ。タクシーのシートに身を沈めてボクはそう思っていた。              第6章  治療院  地図の書かれたメモを手に僕は半信半疑でタクシーを降りた。目印になっている動物病院の脇には地図通りに路地が存在している。ゆうべ僕は何か勘違いをしていたのだろうか。あの警官のことを思うとまた恐怖が蘇る。急いでその細い路地に入ると、20メートルほど先に建物が見えた。両脇の背の低いブロック塀からはみ出した木々の枝葉が頭上近くまで迫り、まるでそこを通る者を選別しているかのような威圧感を醸している。明け方まで降っていた雨も上がり、見上げればそこには晴天を予感させる空が広がっているのに、目の前の深緑色に湿った葉が、まるで不穏な予言のように視界を遮った。  その建物はかなり古く、モルタル塗りの外壁は大部分が汚れかカビで黒ずみ、ところどころにヒビが入っている。清潔で安全な街として生まれ変わったこの場所には似つかわしくない建物だ。辺りに点在する古い建物を利用したカフェやショップとも明らかに違う空気感がそこにはあった。入り口の茶色い木製のドアは色あせ、真鍮製と思われるドアノブのつけねのあたりは緑色に変色している。ドアの脇の「中国漢方治療院」と書かれた表札が魔除けのお札のようだった。重そうに見えた木製のドアは思いのほか滑らかに内側に開いた。まるでタイミングよく誰かがドアを引いて僕を招き入れてくれたかのように。建物の内部は外観から受けた印象ほど傷んではおらず、厚みのある木の床材は手入れが行き届いていて高級感さえ感じさせた。窓が少ないせいで外光があまり入らず薄暗かったが、趣味の良い照明器具が優しく辺りを照らしている。置かれているソファやサイドテーブルも、年代物だが上質のものであるのがわかる。《薬局》と書かれた窓口が無ければ自分が何処に居るのかを忘れてしまうところだ。窓口の中では白衣を着たふたりの女性が慌ただしく働いているのが見えた。ひとりは優しそうな顔立ちの中年の女性で、もうひとりはとても若く、黒縁のメガネをかけたやや神経質そうな印象だった。僕はその中年の女性に以前どこかで会ったような気がしたが記憶を辿っている余裕は無かった。ふたりとも僕の存在に気付いていないか、あるいは気にしていないといった感じで作業に集中している。薬局窓口の脇はショウウインドウのようになっていて、漢方薬のパッケージがところ狭しと並び、その隣の《受付・会計》と書かれた窓口のところには、若い女性がキーボードを叩きながら、まるで何かに戦いを挑んでいるかの様な表情でパソコンの画面を睨んでいた。彼女もやはり僕の存在を気にしている風は無い。一瞬自分が透明人間になった気がした。 「あの、すみません」  僕が声をかけると彼女は画面から目を離して微笑んだ。とても素敵な笑顔だった。人間とは表情でこれほどに印象が変わるものなのだ。 「あ、ええと、大学の・・」  と言いかけたところでそれを遮った。 「伺っております。あちらの突き当たりの部屋にお入り下さい」  彼女が指したのは《第1施術室》と書かれたドアだった。僕は不安になった。本当に分かっているのだろうか?治療を受けに来たわけではないのだ。僕が一瞬躊躇していると、それを察したように彼女は、 「大丈夫です。中でお待ちです」  と言って微笑んだ。やはりとても素敵な笑顔だった。第1施術室のドアも内側に音も無く開いた。この建物は全体の古びた印象からは想像できないくらい、どの部分もしっかりとした建てつけになっているようだ。部屋の中はドアを開ける直前まで僕が想像していた施術室のイメージとは全く異なり、まるで応接室のようだ。受付のあったホールと同様に窓は少なく、床や壁に配された間接照明が自然光の不足を補っている。部屋はかなりの広さがありそうだが、何箇所かに木製の間仕切りが置かれていて全体を見渡すことは出来ない。視界に入る範囲に秘書の姿が無かったので、僕は控えめに「すみません」と声をかけながらゆっくりと奥へ進んだ。奥のほうでドアが閉まるような物音がし、少し遅れてひんやりとした空気が僕の頬を撫でた。風というにはあまりにも弱いその空気の流れは微かに何か古臭い匂いを含んでいた。 「お待たせしてしまったかしら」  そう言いながら部屋の奥から現れた秘書は、昨日のスーツ姿とは違い、ジーンズにTシャツのラフな服装で、髪は後ろでひとつに縛っている。 「昨日は失礼しました。話の途中であんな風になってしまって。あの後は大丈夫でした?」 「ええ、あ、いえ、実はゆうべ危ない目に遭いまして」 「危ない目・・まあ立ち話もなんですから、どうぞ掛けて下さい。冷たいお茶でいいかしら?」  服装のせいかもしれないが、彼女の印象はきのう理事長室で会った時とは別人のように柔らかく、表情も話し方も違う。まるでよく似た別人のようだ。僕はそんなことを思いながら黙って頷いて、近くにあった深緑色の布張りのソファに座った。グラスに入れた麦茶をテーブルに置いて向かい側に座った彼女に昨夜の出来事を話すと、 「そうですか、とにかく大事に至らなくてよかったです。でもこれできのう私が言ったことの意味が分かってもらえたかしら?」  彼女は驚いた様子も無く、僕の思いを察するかのようにそう言った。 「ええ、まあそうですね。そしていったいここは何なんですか?普通の治療院とは思えません。この部屋だってどう見ても施術室のはずは無いし。白衣の女性たちは忙しそうにしていたけど患者らしい人は全く見当たらなくて、どこをとっても不自然としか言えない。それにあなただって、どう見たってここの関係者のようにしか見えない」 「それはそうね。外部の人間が冷蔵庫から麦茶を出したりしないわよね」  彼女はテーブルの上のグラスを見ながら楽しそうな表情を浮かべた。やはりきのう理事長室で監視について語っていた彼女とは別人にしか見えない。グラスの中の氷が微かな音を立てた。 「この治療院と大学とは深い繋がりがあるの。その関係で私もここに出入りしている。まあ私にとっては第2の職場みたいなものね。それにね、私の夫もここの関係者なの」 「あなたのご主人?ご主人はお医者さんか何かなんですか?」 「いえ、彼は製薬会社の研究員なんだけど、実は夫は3か月ほど前から行方が分からなくなってるの。まったく連絡もなく、もちろん会社にも行っていない。一応休職扱いにはしてくれているけど」  深刻な問題であるはずなのに、彼女の言葉にも表情にもそれが感じられず、僕はどう反応していいか分からなかった。 「そうなんだ。警察には届けたの?」  彼女に合わせて僕の話し方も打ち解けた感じになる。 「いいえ、無駄よ。それはあなたも知ってるでしょ。そこであなたにお願いがあるの。夫を捜すためにあなたの力を借りたいの」 「僕に?ご主人を心配する気持ちは痛いほどわかるよ。娘を探してる僕にとっては他人事とは思えない。でも昨日も言ったけど、僕はただ娘を探しに来ただけなんだ。今日ここに来たのもあなたから娘の話を聞くためで、申し訳ないけど他人のことを心配している余裕はないんだ」 「それはじゅうぶん理解しています。でももし、娘さんのことと私の夫の失踪に関連性があるとしたらどうかしら。そしてあなた自身もそれに関わっているとしたら」 「どういうこと?言っている意味が良く分からない。そもそも娘はどうしてあなたのところに来たんでしょう?あなたはどこまで娘のことを・・」 「不思議だと思わない?あなたが若い頃に暮らしていた街に、家出をした娘さんがやって来た。ここには何かしらの意味があると思うのが普通でしょ」  彼女の言う通り、僕だってただの偶然とは思っていない。この街で撮られたハルの写真を見た時、書置きにあった『助けなければいけない人』というのが僕と無関係であるはずは無いと思った。この街と娘を結びつけるものは僕という人間しか無いのだから。そしておそらく、この秘書はそれが誰なのかを知っている。今までの彼女の態度から僕はそう確信した。 「もちろんさ。娘が残した書置きには、助けなくてはいけない人がいると書いてあった。でもそれが誰なのかいくら考えても思い当たらない。そろそろ教えてくれないかな。あなたは娘がこの街に来た目的を知っているんでしょう?娘があなたを訪ねたということは、その誰かというのをあなたは・・まさかそれがあなたのご主人だとでも?それでさっき関連があると?」  彼女は小さく首を振った。 「そうではありません。あなたの言う通り、私は彼女が誰を助ける為にここに来たのかを知っていますが、それは私の夫ではない。おそらくあなたは混乱すると思うけど、結論から言えば、娘さんの言うその人は彼女のお母さん、つまりあなたの奥さまです」 「僕の妻?どういうことです?妻は今自宅にいて・・」 「ですから、昨日も言ったはずです。長い話になると」  彼女の言った通り僕はとても混乱した。彼女の言っていることの意味は分からなかったが、昨夜の警官のこともあり、全くのでたらめとも思えなかった。いずれにしてもハルの行方に関していちばん情報を持っているのが、いま目の前にいる彼女であるのは確かだ。 「分かりました。その話というのを聞かせてください」 「もちろんです。その為に来てもらったんですから。ただ、弱みにつけ込むわけではありませんが、さっきの私の夫の話、協力してもらえますか?」 「もし僕に出来ることがあるのならば」  彼女は満足そうに小さく頷いた。 「2か月ほど前、夫の消息を知る手掛かりになるような事件がありました。それを機に状況が一気に動き出しそうな気配を私は感じていた。ちょうどそんな時です。娘さんが私の前に現れたのは」  そう言って彼女はグラスのお茶をひとくち飲んだ。      ≪第2幕  ・   第1章 少女  へ続く≫                
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