ストゥラグルの塔  第2幕

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ストゥラグルの塔  第2幕

               第2幕              第1章  少女  理事長室の窓から見える桜の木はすっかり葉桜になり、4月の半ばにしては少し冷たすぎる風に震えているようにも見えた。ノックの音がした時、私はそんな風景をぼんやりと眺めながら、ここ数日の間に身の回りに起こった微細な変化について考えていた。 「どうぞ」  この部屋を訪れる人間はごく限られていたので、ドアを開けた見知らぬ少女を見て私は僅かに身構えた。大学の構内にはこのくらいの年頃の女子学生はたくさんいるけれど、彼女たちがこの建物に入ることはほとんど無かった。何かの事情で私に面会する際は事務局を通してアポイントを取り、首から入館証をさげて約束の時間通りにドアをたたいた。 「何かしら?」  心なしか声が上ずった。 「あの、ここへ来るように言われたんです。あなたを探していたら」  少女は一見落ち着いている感じだったけれど、自分自身のしていることに少し戸惑っているようにもみえた。黒っぽい細身のジーンズに紺色のスニーカー。フードのついたカーキ色の上着の下のTシャツには何か英語の文字が書かれている。髪は短めで、ガールズバンドのボーカルのような印象だった。 「誰に言われたのかしら?」 「あの・・背の低い、女の人に」  背の低い女性に心あたりはあったけれど、いずれにしても少女の訪問には違和感があった。しかし、不審者として追い返すのが妥当な状況なのにもかかわらず、何かがそれを押し留めた。彼女は来るべくしてここに来た。そんな気がしてならなかった。さらに言えば、顔を合わせてからの僅かな時間で私はこの少女を信用してしまったようだった。時々そういうことはある。初めて会った瞬間にこの人は信用できると分かる人が今までにもいた。そして記憶している限りその判断に誤りがあったことは1度も無い。 「私に間違いは無いのかしら?あなたが探しているのは」 「はい」  ドアの近くに立ったままでいる彼女を招き入れソファに座らせた。北欧製のヴィンテージ物の革張りソファは、見た目の印象をいい意味で裏切り座るものの体を優しく包みこむ。手に持っていた小ぶりのリュックを足元の床に置いて、彼女は少し居心地悪そうにしながらもその感触を楽しんでいるようだった。私はテーブルをはさんで、そんな彼女の向かい側に座った。 「それで、私にどんな用件があるのかしら?」 「人を探しているんです」  とその少女は言った。それは間違いなく私に向けられた言葉なのに、何か他のものを経由して届いたような不思議な響きがあった。 「あなたがその手掛かりを持っていると思うんです」  とてもよく顔の印象が変わる娘だった。表情が豊かというのとは違う。どちらかというと彼女は一貫して疑わしそうな表情をしていた。にもかかわらず、いったん目をそらしてまた彼女を見た時、さっきまでとは別の人物がそこに座っているといった感覚があった。 「もう一度聞くけど、人違いということは無いのね?」 「はい。間違いではありません」  短めにカットした前髪の下のふたつの瞳がまっすぐに私を見た。彼女が思いつきや成り行きで私を尋ねて来たのではないことは、その眼差しが物語っていた。 「分かったわ。あなたの役に立てるか分からないけど、話を聴くわ」  少女はごく小さく深呼吸をすると静かに話し始めた。まだ幼さの残るその印象のわりにきちんとした言葉を使えることに少し驚いた。論旨は明快で無駄がなく、選ぶ単語も的確で語彙の豊富さを感じさせる。文法的な誤りも見当たらず、大人でさえ間違いの多い敬語も上手に使いこなした。おそらく徹底的に言葉の教育を受けたか、あるいは膨大な量の本を読んだかのどちらかだろう。この若さでここまで完璧な言葉を身につけるにはそれ以外に方法はない。あえて注文をつけるなら、そこには話し言葉に必要な柔らかさと適度な間のとり方が不足していたが、それがむしろ私にとっては安心材料となった。もしそうでなければ、私は彼女に対して必要以上の警戒心を持つことになっただろう。彼女のその利発さと時折感じられる未成熟な部分の微妙なアンバランスさが、ややもすれば妄想として片づけられてしまうようなその話に現実味と信憑性を持たせた。ひと通り彼女の話を聴き終わると、私は難解なその内容を自分なりに頭の中で整理した。彼女が話し始めた時、要点を書き留めようと手に持ったペンはついにひとつの文字も記号も記すことはなかった。彼女の言葉は記録する必要もなく私の中にすべて浸み込んでいた。 「つまりあなたは16歳の高校1年生で、ある人を助け出す為にこの街にやって来た。そのある人というのはあなたのお母さんで、ただしそれは現実のお母さんそのものではなく、彼女が過去に置き去りにして来た、何と言ったかしら、そう封印して来たものなのね。そしてあなたはこの大学にやって来て私を訪ねた。それはこの私が現実では無い方のお母さん、と言ったらいいのかしら、彼女を探す為の手掛かりを持っているから。そしてその点については、根拠は全く無いけれど100パーセントの確信をあなたは持っている。そしてあなたは今朝、ご両親宛に書置きを残し家出同然にここへ向かった。そして思いを果たすまで家に帰るつもりは無い。ということで間違いないかしら?」 「はい、そのとおりです」 「そう、よかったわ。でもここでひとつ問題があるわね。私はあなたのことを全く知らないし、さっきあなたが言っていたお母さんのお名前にもプロフィールにも全く思い当たる部分が無いの。それでも私はあなたの手助けができるのかしら?」 「はい」 「そう、そしてやはりそこにも根拠は無いわけね。でも100パーセントの確信が?」 「あります」  私は小さく深呼吸をした。自分でもため息と区別がつかないような短いものだったが、悪い気分はしなかった。私の中で生まれた小さな好奇心は急速に大きくなり、それはある種の覚悟のようなものを伴うものだった。 「それで、私はまず何をすればいいのかしら?あなたのお母さんについて全く心当たりのない私は」 「こういう形のものに心あたりはありませんか?」  彼女は上着のポケットから小さな紙片を取り出して私に見せながらそう言った。そのノートの切れ端のような白い紙に描かれていたのは幾何学的な模様だった。柔らかそうな黒の鉛筆で描かれたものらしく、全体的に少し擦れていた。一瞬、ほんの一瞬だけれど私の中の何かがその形に反応したような気がした。しかしその微弱な電流のようなものは検証する間もなく遠くへ過ぎ去っていた。 「心あたりというのは無いけど、なんだか不思議な感じの形ね。ちょっと気味が悪い気もするけど。これはあなたが描いたの?」 「はい、たぶん」 「たぶん?と言うと?」 「時々あるんです、そう言うこと」 「無意識に描いた・・みたいな意味かしら?」 「はい。でも自分のノートに描いてあって、たぶん私の6Bの鉛筆だと思うし」 「6Bか。そうね。あなた絵を描いたりするの?普通はデッサンとかにしか使わないでしょ。そんな柔らかい鉛筆なんて」 「いいえ、ただ好きなんです。子供の頃、たまたま母に買ってもらってから好きになって」 「そうなのね」 「気持ちがいいんです。書き心地。私、変なことにこだわりが多くて」 「そう、でもこだわりって大事よ。それでこれが、この形があなたのお母さんとどういう関係があるのかしら?」 「それは・・すみません、分かりません」 「そう、どうやらかなりの難問らしいわね」  時刻は午後1時を過ぎたところだった。太陽が出ていれば、ちょうど理事長の執務デスクの辺りに陽だまりを作っている時間だったけれど、今日の理事長室は朝と同じ色調のまま夕暮れを迎えるのだろう。 「ところであなたお腹はすいてない?ちょうどいい時間だからお昼ご飯でも食べない?もちろん嫌じゃなければだけど」 「お腹はすいています。嫌ではありません」 「じゃ、話の続きは食事しながら聞くわね。お母さんの話をもっと詳しく聴かせて欲しい」  私は理事長室と廊下の間にある小部屋のデスクでバッグを取り、彼女を連れて部屋を出るとエレベーターで1階に降りた。玄関脇のセキュリティーチェックの窓口の男性事務員に手振りで外出することを伝え、彼は会釈で返した。 「そう言えば、ここを通る時呼び止められなかった?彼に。その女の人、背の低い、その人も一緒だったの?」  少女は少し不思議そうに首をかしげ、「ここは通りませんでした。あっちの入口から入ったので。あの女の人にそう言われて」と言って裏口の方を指差した。裏口は常に施錠されていて入れるはずは無かった。あの背の低い女性はいったい何者なのだろう。そしてこの少女の訪問。いろいろなことが複雑にからみ始める気配があった。  理事長室の窓から見た印象通り、曇り空の下で吹く風は冷たかった。私は念のために持ってきた薄手のコートをスーツの上に羽織った。新入生のオリエンテーションが終わり、サークルやクラブ活動の勧誘も一段落した大学の構内は、寒さのせいもあり比較的静かだった。鉄製のオブジェが中央に配された小さな池の脇を通り正門から外へ出た。少女はそのオブジェを見て何か言いたそうな表情を浮かべたけれど、言葉は何も発しなかった。 「食べ物は何が好きかしら?ダメなものとか何かある?」 「お肉は苦手です。他は何でも大丈夫です。野菜が特に好きです」 「そう、いいわね。ちょうどいいお店があるわ。おいしい野菜を食べさせてくれるの」  その店は大学の近くにあるけれど、価格的に学生向けではなく、客層の中心は比較的余裕のある近隣の主婦たちや、思想的にやや偏りのある自称アーティスト達だった。満席のことが多い人気店だけれど、ランチタイムのピークを過ぎているためか空席がいくつかあった。席に着き、若い女性の店員が水とメニューを置いていくと、私は少女に小声で言った。 「私ここのお客たちが嫌いなのよね。健康志向みたいなこと言いながら上品ぶってるけど、家ではカップ麺とか食べてるのよ。きっとね。それに地球環境が危ないからナチュラルに暮らしてます、みたいな人たちもね」  少女は少し驚いたようすで私を見ていた。 「ごめんなさいね。言いたいこと言ってから食べるとごはんが何倍もおいしくなるのよ。私はただ美味しいからここで食事をする。それだけ」  少女は何も言わなかったけれど、表情を見るかぎり気を悪くしてはいないようだった。私は店員を呼んでプリフィックスのランチコースをふたつ注文し、選択肢の中からそれぞれがいくつかを選んだ。 「そう言えばさっき聞いたあなたの名前。ハルさんだったわね。どんな字を書くの?」  店員が注文を復唱してテーブルを離れると、彼女にそう尋ねた。 「片仮名です。片仮名でハル」 「片仮名か。いろいろに解釈できて楽しいわね。季節の春に遥か彼方のハル。韓国語ではたしか1日という意味だったわ。それから、どこかの外国にハルというきれいな街があったはずよ」 「たぶん、季節の春だと思います。小さい頃お父さんがそんな話をしてくれました。春は人を無条件に幸せな気持ちにさせてくれる季節だって。でも、私はダメなんです」 「ダメ?」 「幸せにするどころか、迷惑をかけてばかり、困らせてばかりで」  最初の料理が運ばれてきた。 「いろいろあるのね。まずは食べましょう」  私は豆と生野菜のサラダを食べた。薄くスライスした生のビーツのピンク色がとても奇麗だった。少女は小魚を野菜と一緒にマリネにしたものを食べ、満足そうな表情をした。 「私も春という季節がとても好きよ。あなたのお父さんの言うとおり何故か幸せな気分になる。でもその一方で何とも言えない切ない気持ちにもなるの。私の場合はね。やはり環境が大きく変わる季節だからかしらね。出会いの季節ではあるけど、同時に別れの季節でもあるわけだし」  その何とも言えない切ない気持の正体について、私は子供の頃から考え続けて来た。思い出せそうで思い出せない遥か昔の記憶のように、懐かしいようで少し怖くもある。今まで大勢の人にそれを伝えようとしたけれど、誰ひとりとして理解してはもらえなかった。もちろんそれは相手のせいでは無く、私に伝える力が足りなかったからだと思う。 「ところでハルさん。あなたはどう認識しているか分からないけど、状況的にあなたは今、家出をしていると言うことになる。16歳の家出少女をそれと知りながら連れまわしたとなると、私はとてもまずい立場に置かれることになるの。分かるかしら?」 「考えたことは無かったですけど、言っている意味は分かります」 「本来私の取るべき行動は、今すぐあなたを警察に引き渡してご両親の元に還すということなんだけど、実を言うと私は今とても迷っているの。法的にどうとか、何が正しいとかということよりも、今の私には他に考えるべきことがあるような気がするのよ」  少女は手に持ったスープスプーンを見つめて何かを考えていた。店員が空になった牛蒡のポタージュの器を下げに来たことに気づくと慌ててそれを器に戻した。 「ご判断にお任せします。でも警察に連れて行くのはやめて下さい。私も誰かに迷惑をかけるのは嫌なんです。でもいま家に還されたらお母さんを助けられない。だからもしご迷惑ならこの場で私のことは忘れて下さい」  店員がテーブルを離れると、ハルは真剣な面持ちでそう言った。しかしその表情には不安も懸念も含まれてはいなかった。 「なるほどね。あなたにはかなわない。私があなたに協力するというのはもう決まっていることなのね。だから100パーセントの確信を持って私を訪ねた。そうでしょ」 「はい」 「分かったわ、でも約束して。私はあなたのお母さんを助ける為に出来る限りの協力をする。だからお母さんのことについては全部教えて欲しい。隠し事は無しよ」 「約束します」  主菜が運ばれてきた。魚のグリルにローストした根菜類が添えられている。バルサミコの香りのソースがとてもよく合っていた。食べている間、私たちはほとんど話をしなかった。私は深海に潜む魚のことを考えていた。もしかしたら少女は土の中で眠る野菜を思っていたのかもしれない。 「いくつか質問させて。さっきのあなたの話、言っていることは理解したつもりだけど、それが何を意味しているのかは正直なところ全く分かってないの。あなたの言う過去のお母さんというのが実際の人間として存在しているとは考えづらいでしょ。だからそのお母さんはある種の概念として存在している。この街のどこかに。分かるかしら」  皿が下げられ食後の飲み物が運ばれてくると私はそう言った。私はハーブティー、少女はほうじ茶ミルクだった。 「はい。分かります」 「あなたはとても頭がよさそうだから大丈夫ね。もし私の話で分からない所があったら遠慮しないで言ってね」 「はい。そうします」 「残念ながら私たち普通の人間は概念のように形のないものを探すことは出来ないから、それが有形のものに姿を変えたところを捉えるしかない。例えばそれはさっき見せてくれたメモの模様だったりするわけよね。私たちはあの模様と関連のあるもの。もちろんそれは物質的な意味でのモノね。その何かしらのモノを見つけ出せればファーストステージクリア。そしてセカンドステージ。その見つけ出したモノをどう処理するかということね。それをどこかに移動するとか、ぎゅっと抱きしめるとか、あるいは粉々に破壊するとか。いずれにしても私たちは持てる限りの知恵と勇気を使って目的に近づいていくしかない。これが一般的な考え方ね。ここまではいい?」 「はい、とても分かりやすいです」 「そう、よかったわ。でもこれはさっきも言ったけど一般的な方法。普通の人間はこうするしかない。つまりその物理的なモノを見つけない限り先へは進めない。でも世の中には特殊な能力を持った人が少なからず存在する。例えば超能力者とか霊能者とか呼ばれる人たちね。もし仮にあなたが概念として存在しているお母さんを見ることが出来るなら、あるいは視覚的に見えないとしても何らかの形で認識出来るならちょっと違う話になる。ここであなたに質問よ。今言ったようなことにおいて、あなたには特殊な能力があるのかしら?」 「そういうものは、たぶん無いと思います」  少女はそう言いながら、何かに思いを巡らせているようだった。 「何でもいいのよ。思ったことがあったら言って」 「小学校の時に読んだ本にこんな話があったんです。私たちの意識っていうのは脳の中にあるんじゃなく、遥か宇宙の果てみたいな遠い場所にあって、脳というのはその遠くにある意識と交信するための道具に過ぎない。そしてその場所には私の意識だけじゃなくて、他の人の意識も一緒に保管されてるの。もしそれが本当のことなら、私がずっと不思議に思っていたことが一つ解決するんです」 「どんなこと?」 「私、なぜか知っていることがあるんです。もちろん少しずついろんなことを覚えて大きくなってきて、今でも毎日いろいろと見たり聞いたりして、そういう知識みたいなものは増えているとは思うけど、そういうのとは違って、なんていうか・・」 「知っているはずの無いことを知っている?」 「そう、そういう感じです」 「さっき初めに言っていた、私がお母さんを探すための手掛かりみたいなものを持っているというのもそのひとつなのかしら?」 「そうです。この街の、あの学校の、そしてあなたに合えば何かがわかる。それを私は、既に知っていた。でも、いつどこでそれを知ったのかはぜんぜん覚えがない」 「なるほど。そのなぜか知っていることというのが、さっきの話の意識の保管されている場所であなたが仕入れた情報というわけね。でもそれは誰にでも出来ることではないはずよね。だってみんなが他人の意識を共有してしまったら、この世界は大混乱に陥るわ」 「もちろんそうだと思います。私だって時々そういうことがあるだけで、自分でもどうしてそうなるか分からない。分かっているのは、私にとってそれはいつもとても大切なことで、そして決して間違っていないということだけです」 「根拠は無いけど100パーセントの確信があると言っていたのはそういうことね」 「きちんと説明できないことばかりでごめんなさい。私、そのことで子供の頃から揉め事ばかり起こして、いろんな人を困らせた。お母さんはそれで病気にまでなった」 「そう。でもいちばん苦しんだのはあなた自身じゃない?私には想像することしか出来ないけど、もし自分にそんな能力が・・能力という言葉は適切じゃないかも知れないけど、そういうことが起こったらすごく混乱すると思う」 「最近ではもう慣れたっていうか、自分の中でうまく整理できるようになったけど、小さい頃は大変だった。クラスの子が私の悪口を言う。だから私は文句を言って言い返す。でもその子は、そんなことは言ってないと言い、周りの子たちもそう証言をする。先生も私が嘘をついていると判断する。そういうのが何度かあれば、私には嘘つきというレッテルが張られる」 「考えただけで大変そうね。ものすごく辛かったでしょう」 「私は一切余計な話をしなくなった。それでも教室にいると厄介なことが起こるので、授業時間以外は図書室で過ごすようになったの。図書室の司書の先生がとても素敵な人で、いろんな本を薦めてくれて、面白い本ばかりだった。すごい量の本を読んだから、さっきの何故か知っているということのほとんどは本で読んだのかもしれないって今では思ってます」 「でも少なくとも私を訪ねたことに限って言えば、本や何かから得られる類の知識とは本質的に違うわね・・ところで、確認なんだけど、相手の考えていることが分かる、つまり、他人の心が読めるというのとは違うのよね」 「そういうのとは違います。私にわかるのは、なんていうか事実だけ。小学校の時の悪口の話も、あの時にその子が考えたことが分かったんじゃなくて、誰かに私のことを悪く言っている姿を感じ取ったんだと思う。もちろんその時はそれが分からずにすごく混乱したけど。だから今こうやって向かい合って話をしていても決して心が読めるとかじゃない。だから気味悪く思わないで欲しいんです」 「大丈夫、そんなことは心配してないの。もちろん心を読まれたりしたら居心地が悪いのは確かだけど、今のところ私はあなたに対して悪意のようなものは持っていないから、それはべつに深刻な問題でもないわ。少なくとも私はあなたのお母さんについて何も知らないから、そのことであなたに嘘をついたり出来ないしね。でも私があなたのお母さん探しで役に立てるということについては・・」 「100パーセント間違いのない事実」  私と少女は少し笑った。初めて見せた彼女の笑顔はとても素敵だった。そしてそれは私の中の奥深い場所にそっと何かを届けた。そんな気がした。 「あなた自身はそのことをどう解釈しているのかしら?」 「解釈・・ですか?」 「つまり、何故そういうことがあなたの身に起こり、そしてあなたのその特殊な体験はあなたの生活にどんな影響を及ぼすものだと思っているのかということなんだけど」 「それは私もずっと考えて来ました。どうしてそういうことが起こるかというのはもちろん見当もつかないですけど、今までを振り返ると、それは私に何かの危険を知らせるメッセージなんじゃないかと思うんです」 「危険なことか・・例えばどんな?」 「地震、とか」 「地震を予知したということ?」 「結果的には。まだ小さかったからよく憶えてないですけど、お母さんが話してくれたんです。居間の食器棚が倒れるって私が騒いで、あまりうるさいのでお父さんが補強してくれて、その日の夕食の時間に大きな地震があった。もちろん、ただの偶然かもしれないですけど、些細なことを含めればそういうことが何度もありました」 「なるほど。そしてお母さんを助けるということにおいて今の時点であなたが持っている手がかりは、私という人間とさっき見せてくれたあの模様だけということね」 「はい。それからあの学校」 「学校?私のいるあの大学のこと?それじゃあ私個人だけじゃなくて大学自体が何か関係しているということ?あなたのお母さんに」 「たぶん、はい、そう思います」 「どうやらあなたのお母さんのことは私にとっても他人事ではなさそうね。お母さんについてもう少し詳しく聞きたいわ。どんな人なのかしら」  少女はしばらく黙って空になったほうじ茶ミルクのカップを見つめていた。私は店員の女性を呼んでお水のお代わりを頼んだ。 「さっき話したようなことで、私は小さい頃から周りとうまくやれなくてお母さんに迷惑ばかりかけていた。友達に怪我をさせたり物を壊したりして。お母さんはその度にいろんな人に頭を下げて・・今になって振り返ってみれば、私のせいで辛い思いをさせて悪いことをしたと本当に心から思うんです。でもあの時、必死に頭を下げているお母さんの横で泣いていた私は、怒りに震えていたんです。お母さんは私を守ってくれるはずなのに、私の見方のはずなのに、どうして私のことを悪く言うのって。私にだって言いたいことはたくさんあるのにって。だから謝ってばかりいるお母おさんに腹が立ったんだと思います。もちろん今は分かっています。あの時はお母さんも精一杯闘っていたんだっていうことが」 「そう、お母さんも大変だったでしょうね。でも母親っていうのは、なんて言うか、特別なものよね。私の母は私がまだ小さい頃に倒れてそのまま亡くなってしまったから、母についての記憶は断片的にしか残ってはいない。でもとにかくいつでも私のことを思っていてくれたんだなって、そんな気がするのね。だからその時のお母さんの行動のすべては、あなたを思ってのことだったんでしょうね。もちろんそれが正しいとは限らないし、お母さん自身も確信があったわけじゃないかもしれないけど。あなたの言う通り、お母さんのその時の精一杯だったんだと思う。小さい頃のあなたには理解できるはずもなかったでしょうけどね。それで、そのあなたの怒りみたいなものは長く続いたの?お母さんに対しての」 「中学生になってから私は病院に通い始めたんです。精神科の。最初はとても嫌だった。自分が精神病だなんて考えたくもなかった。だって私はちょっと他人と違うところがあるだけで、普通の人間なんだから。でもそこの先生と話をするようになって、だんだん気持ちが楽になったんです。その先生は白衣も着てなくて、ぜんぜんお医者さんに見えなかったし、先生の話はとても面白かった。人間はみんな他人から見れば変わり者なんだって言ってた。それはもう病気と言えるレベルだって。だから世の中の人は全員が精神病院にいくべきだって。面白いでしょ」  少女はとても楽しそうな表情を浮かべた。 「でもその通りね。みんながそんな風に思えたら世の中の争い事はだいぶ少なくなるでしょうね。自分も含めてみんな病気なんだから仕方ないよねっていう感じで。とても素敵な世界かもね。それでその頃からお母さんに対する見方も変わったということ?」 「はい。何がどう変わったかと聞かれるとうまく言えないんですけど、なんて言うか、すごく変な言い方なんですけど、私がお母さんを守らなきゃならない・・みたいな」 「守るって言うと、例えば何から?お母さんが頭を下げて謝っていたその相手とか?」 「いえ、そういう現実的なものじゃなくて・・すみません、自分でもよく分からないんです。本当にただ何となくで。でも中学を卒業する頃になって、私の中に一つのイメージみたいなものが浮かぶようになったんです。そしてそれはだんだん大きくなった」 「イメージ・・それはどんな?何かの形で表現できるようなものなのかしら?例えば・・言葉とか、映像とか」  少女はしばらく黙って考え込んでいた。 「たぶん、駄目だと思います。言葉にすることも絵にかくことも、そうしようと思えばできると思う。でもそうしない方がいいような気がします。少なくとも今はまだ」 「そう。あなたがそう思うならきっとそれが正解ね。とにかくあなたはそのイメージが膨らんだことでお母さんを助ける為の行動に出たわけね」 「高校生になって間もない頃、私のノートの中に覚えのない図形を見つけたんです。さっきお見せしたものです。それを見た瞬間に、今自分がやるべきことがはっきりわかったんです。その為にまず何をするべきかも」 「そして今あなたはここにいる、ということね」 「はい」 第2章 雷鳴  私はハルを連れて大学の理事長室に戻った。窓から見える空の雲はいっそう厚くなり、予報では夜遅くから雨になるということだった。宿泊先のあてのない少女に私の部屋に泊まることを提案し、彼女もそれを希望した。私は理事長室と同じフロアにあるゲストルームに寝泊りしていた。遠方からの来客用に用意されたその部屋は、広めのリビングダイニングにツインの寝室がふたつと、簡単な調理ができる小さなキッチンが付いた立派なものだったが、開校以来一度も使われたことが無く、現在実質的には私が占有していた。 「この部屋は自由に使って。トイレとシャワーも付いてるわ。キッチンとバスルームは私と共有よ」  空いている寝室に案内してそう言うと、少女は部屋を見渡して満足そうに頷いた。 「いい部屋でしょ。ちょっとしたホテル並みよ。ルームサービスは無いけどね」  彼女の方はどう思っているのか分からないし、彼女の母親探しにどれくらいの時間がかかるのか見当もつかなかったけれど、私はこの不思議な家出少女との共同生活の始まりに心躍るものを感じていた。彼女の両親の心中を察すれば胸は痛んだし、倫理的にも法的にも自分が間違ったことをしているという自覚はあったけれど、私のこの選択に迷いのようなものは無かった。そこにあるのは社会通念を超えた使命感のようなものだった。 「学校の関係者にはあなたは私の姪ということにしておくから、もしも誰かに聞かれたら話を合わせておいてね。そうね、歳は18歳で、東京に仕事を探しに来たというのはどう?」 「18歳」 「大丈夫よ。あなた時々すごく大人っぽく見えるから」 「分かりました」  そう言うと少女は少しの間目を閉じた。与えられた設定に自分を馴染ませているようだった。その夜は冷蔵庫にあった材料で簡単に夕食を済ませ、早めに眠ることにした。私がベッドで本を読んでいると、ノックの音がして少女が入って来た。 「ごめんなさい。今夜だけここで寝てもいいですか?なんだか眠れなくて」  考えてみれば無理もなかった。16歳の少女が家出をして初めての夜なのだから、不安で眠れないのは自然のことだろう。私は空いている隣のベッドに彼女を寝かせた。 「今日あなたのお母さんの話を聞いていて、私も亡くなった母のことを考えてた。母を思う時、私は風を感じるの。春風のような優しい風。その時私が感じるものは間違いなく懐かしさなの。遠く離れてしまった家族のような、ちょうどいい暖かさみたいなね。でも同時に私は違和感のようなものを感じる。それは私の知っている家族とは違うの。何か違う、そう、何か違う種類の結び付きを感じるものなの。その風はとてつもなく遠い場所から吹いて来るようにも思えるし、その場所は私のすぐ近く、すぐ手の届くところにあるようにも感じられる。それは不意に突然やって来る。そしてその風は長くは続かないの。ほんの一瞬なの。そして私は思う。帰りたいって」 「風、ですか?」 「何でもないの。遅いからもう寝ましょうね。おやすみ」 「おやすみなさい」  予報の通り外では雨が降り始めたようだった。外の音は殆んど聞こえないけれど、私は細い雨が桜の木を濡らし地面に吸い込まれていくのを感じた。子供の頃から雨には敏感だった。雨の朝はカーテンを開ける前からそれは分かったし、晴れた午後でも雨になる日はそれが分かった。そこには特有の匂いがある。雨の匂い。目を閉じて幼いころに感じた雨の匂いを思い出していると、隣のベッドの少女が静かに話し始めた。 「雨は好き。なんだか世界が止まってる感じで安心する。べつに焦らなくっていいんだなって。ちょっと一休みしててもいいんだなって。いろんな雨があってどれも好き。しとしとっていうのもいいし、すごく激しいのも好き。もっと強くなれって思う。あとね、夕立とかの前に急に天気があやしくなるでしょ。あっちの方の空がだんだん暗くなってそれがすごい速さで拡がってあっという間に私の上まで来て。あぁそろそろ来るって思った瞬間にはもう大粒の雨が降り始めて」  少女が突然雨の話を始めたことを私は不思議に思わなかった。幼いころ、母はよく私の考えていることを言い当てた。今になれば、そこにはいくつかのカラクリのようなものがあったのが分かるけれど、その時の私は本当に思っていた。自分と母とはどこかでしっかりと繋がっているのだと。そして母が亡くなって長い時間が過ぎた今、幼い私が感じたものが真実だったと確信している。少女は他人の心が読めるわけでは無いと言った。それは嘘ではないだろう。彼女と私は何か違う方法で繋がっているのかもしれない。そんな気がした。そして彼女が雨について語るその声の響きに、私の身体の奥深くで何かが疼くのを感じた。 「あなた、セックスの経験はあるの?」  そう私が尋ねると、暗がりの中で少女が少し戸惑っているのが分かった。 「そういうのは、ありませんけど。何でですか?」 「そう、なんとなくね。あなたの雨の話を聞いてたら、ちょっとそんなこと考えちゃっただけ」 「雨?」 「なんでもないの。気にしないで。おやすみ」 「おやすみなさい」  少しして少女の静かな寝息が聞こえてきた。私はなかなか寝つけずに、薄暗がりの天井をぼんやり見ていた。目を閉じると灰色の空の遠くが微かに光り、少し遅れて雷鳴が届いた。真夜中の雷はいつも私をあの場所へと連れていく。幼い私は耳を塞ぎ台所の隅でうずくまる。父親はいつも仕事で家にはおらず、いるはずの母親も見当たらない。私はどうすることも出来ずただ雷鳴が遠のくのをじっと待っている。私がベッドで目を覚ました時には雨も上がり、そこには雷の痕跡さえ残ってはいない。夢と記憶との境界線は定まらず、記憶が自分のものである確信すら持てない。あの時台所の隅でうずくまっていたのは私ではなく亡くなった母のような気がしてならなかった。                   母が倒れたのは私が小学校の2年生の時。授業中の教室に教頭先生が入ってきて担任に小声で何かを言っていた。担任は私のところに来ると、すぐに家に帰るように言った。あの時の教室のざわめきを今でもよく覚えている。医師として職場でも高い評価を得ていた母は、父との結婚を機にそのキャリアをすべて捨て父を支える人生を選んだ。検事として出世の道を上っていたその父の人生も母の急逝で大きな転換を迎える。悲しみのなか私との暮らしを考え、検事を辞め自宅の一部を改築して小さな弁護士事務所を開いた。出来るだけ私との時間をとり、共有している母の思い出を温めながら私を育てた。再婚を勧める声も多かったようだけれど全て断った。まだ母のことを愛しているからと言う理由は嘘ではないとしても、年頃の私へ配慮してのことだったと思う。  私の通っていた高校は誰もが知るエリート校で、卒業生の多くが東大に進んだ。成績の上位者に名のあった私は、中学生の頃から父の事務所の手伝いをしていることが周知されていたこともあり、周囲からは法曹の道へ進むものと思われていた。しかし私はその予想を裏切り中堅どころの私立大学の文学部に進学した。東京都内とはいえ、都心からだいぶ距離のある自然豊かな場所にあるせいか、あまり派手さの無い大学だった。法学部だけが他の学部に比べとびぬけて偏差値が高く、大学の看板になっていた。 「法律関係は父の手伝いだけでじゅうぶんだわ。それに私、田舎のほうが性に合ってるみたい。本当はどこか地方の山の中とかの大学がよかったんだけど、父が心配するから自宅から通える所じゃないと」  理由を尋ねられると私は決まってそう答えたけれど、それは真実ではなく、その決定には私なりの長期的な戦略のようなものがあった。大学では西洋美術史を専攻した。父親の影響で子供のころから絵画を観る機会が多く、高校生の頃は休日を美術館で過ごすことも珍しくなかった。大学2年になると私は、入学してから親しくなった文学部の女子学生数名を誘ってひとつのサークルを立ち上げる。ヨーロッパ近代美術の歴史と政治や社会との関係を主なテーマとするその研究会には、法学部を中心に多くの男子学生が入会した。 「近代美術の歴史は常に権力と共にありました。時の権力者は皆、自分の威勢を誇示する為にそれを象徴する作品を作らせ、画家たちの方も権力におもねることで自分の作品を世に出そうとした。そこに登場するわけです。保守的な画壇のしきたりに逆らい、反権力ともいえる作品を生み出す画家たちが・・・」  そんな話で始まった入会勧誘説明会での私の演説に興味を持った男子も少しはいたようだけれど、私が集めた女子たちが魅力的だったことが入会の主な動機であることは明らかだった。少人数から始まったそのサークルは私が卒業する頃には大きな規模になり、卒業後もその交流は続いた。男性の多くは法曹界に進んだけれど、政治家を志す者や官僚の道を選んだ者も少なくなく、定期的にひらかれる同窓会の話題は、回を追うごとにそれぞれの野心や出世が中心になっていった。卒業後、出身高校の世界史の教師になっていた私は、その中の何人かに結婚を申し込まれたけれど、価値観の違いを理由に断った。そして私が結婚相手に選んだのは小さな製薬会社の研究員だった。  彼は薬学部を出ると中堅の製薬会社に入った。世間の人は名前も聞いたことが無い小さな会社で、テレビコマーシャルも無く薬の箱にも名前は載らない。一般にはあまり知られていないことだけれど、大手の製薬会社は薬の開発はほとんどせず、夫の会社のような小さなところが開発した薬の権利を買い叩いて製品化し大々的に売り出す。夫の言葉を借りれば、彼らの仕事は様々な利権と結び付いてシェアと利益を貪ることだった。そんなことに興味が無かった彼は条件の良い誘いを断り、あえてその会社を選んだ。しかし彼の理想は、いとも簡単に打ち砕かれることになる。  夫がまずやらされたのは営業職だった。専門知識が必要なその仕事は誰にでも出来る訳ではないけれど、日々やることは他の営業職と同じで、ゴルフやら高級クラブやらの接待の毎日。それは規則に反した行為だったけれど、抜け道はいくらでもあった。3年後、開発部門の内勤になる頃には夫の意識はだいぶ変わっていた。その間の営業職で業界の実情を知り、良い薬をつくれば多くの人を助けられると言うのは幻想であることを思い知らされた。目的を失って失意の中にいた彼は、やがて自分の中に何か熱い思いが芽生えていることに気づく。夫の業界に対する不信感は特に向精神薬の処方に向けられていた。複雑な利権構造の中で夫の志は前途多難だったけれど、彼は諦めず密かに同志を集め、告発に向けてある程度の準備を整えた。しかし事はそう簡単ではなかった。闘う相手が大き過ぎたのかもしれない。夫たちの活動がある程度の成果を見せ始めたところで必ず邪魔が入る。ただそれは決して乱暴なものではなく、そよ風がロウソクの火をそっと吹き消すみたいなもの。その風はどこから吹いて来るのか分からず、それどころか風が吹いたことにすら気がつかない。だから炎を守る隙も無く、気がついた時にはもう既に消えてしまっている。そこには世論というものの特性を知り尽くした巧みさがある。彼はそんな風に言っていた。戦略を変えた夫はもっと深いところに切り込む何か特別なルートを探し始め、ある人物に辿り着く。中国漢方治療院。その場所にその人はいた。                 第3章   芸術家  行方の分からなくなった夫の居場所を知る手掛かりの手紙を手に私がその差出人を訪ねたのは、まだ暑さの残る9月の中頃だった。車両とホームの間には20センチほどの隙間があり、それは隙間というより、もはや穴というべきものだった。わずか1メートルあまり下には石粒を敷き詰めた地面が存在しているはずなのに、そこには無限に続くかのような暗闇が広がっている。採算のとれていない田舎の単線の駅とはいえ、この危険な状態が放置されていいはずは無い。そんなことを考えながら私は一両編成の電車を降りた。ホームに屋根は無く、辺りの景色は午後の陽ざしに包まれ、その明るさと足もとの暗闇との対比に軽いめまいを覚えた。改札を抜け小さな駅舎を出ると、いかにも寂れた温泉街という印象の風景が広がり、それは私を奇妙な気持ちにさせた。私はここに来たことがある。しかしそんなはずは無い。どう記憶を辿っても私はこの場所には縁もゆかりも無いのだから。  駅前の小さなロータリーの中央には水の涸れた円形の噴水があった。それを囲むような形で造られた階段状の花壇のタイルのほとんどは剥がれ、土台のセメントが露出している。噴水の向こうには小さな観光案内所とタクシー会社の事務所があり、その横に立てられた大きな周辺案内図はまさに風化の途を辿っていた。隣の長屋風に建てられた3軒の店舗のうち中央にはシャッターが下り、両脇の土産物店と喫茶店は、かろうじて営業しているとわかる程度に灯りをともしている。事務所の前に停めてあるタクシーに運転手の姿は無かった。事務所をたずねようかと思っていると隣の観光案内所から小柄の中年の女性が勢いよく出て来た。 「お嬢さん、タクシー乗るかい?」  派手目の化粧にひと昔前のバスガイドのようないでたちのその女性はそう言うと、私の答えを待たずにサッと身を翻して喫茶店に向かった。ドアを引いて顔だけを店の中に入れて声をかけると小走りで戻って来た。 「すぐ来るから」  なぜか小声でそう言うと案内所に戻って行った。特徴的な女性の動きに少し戸惑いながらその後ろ姿を見ていると、喫茶店から運転手らしい男が出て来た。 「いやぁ悪いね。お待たせ」  右手に持った運転手帽を軽く掲げながらそう言うと、ニヤッと笑った。あまり印象の良い笑顔では無かった。良く日に焼けた60歳くらいの痩せた男で、白い前歯がやけに目立った。あのねずみ男の衣装を脱がせて運転手の格好をさせたらきっとこんな姿になるだろう。後部座席に座り私が行き先を告げると、運転手はルームミラー越しにこちらを見てから微妙な間をおいて言った。 「仕事?それとも面会か何か?」  不吉な予言について恐る恐る尋ねるような妙な響きがある。 「ちょっと人に会いに」  私の答えに無言で軽く頷くとギヤをドライブに入れ、タクシーはロータリーを半周すると《ようこそ》と書かれた温泉街のアーチの下を通って狭い道に入った。人通りが殆んど無いとはいえ、道幅の割にスピードが速い。 「この辺、よく来るのかい?」  運転手はまたルームミラー越しにこちらを見た。 「いえ、初めてです」  運転に集中して欲しかった私は手短かにそう答えた。つき当りにある神社の赤い鳥居の手前を右に曲がると急な下り坂になり、短い坂を下りきった辺りで運転手は左側を指差した。 「ここは昔ストリップ小屋でね。ほら、昔の温泉街にはたいてい1軒ぐらいこういうのがあったでしょ。あ、お客さんまだ若いから知らないかもしれないけど、浴衣着たオヤジたちが下駄鳴らしてハダカ見に来てさ。それにご婦人方もけっこうくっついて来てたよ。女ってのもまあホントは好きだからね、そういうの。おっと、女性にこんなこと言ったらセクハラかな」  私は何も答えなかったが、運転手はおかまいなしに話を続けた。 「アタシが中学の頃に潰れちまったから中に入ったことは無いけどね。もう大昔の話だよ。そうそう、ひとつ上の先輩にあのストリップ小屋の息子がいて、だいぶそのことでいじめられてたんだよ。小屋が潰れた時に家族ごと何処かに行っちまったんだけど、その後そいつはヤクザになって、昔いじめた奴らを片っ端から半殺しにして廻ってさ。新聞にも載った事件だよ。それもこの街に残ってた相手だけじゃなくて、日本中廻ってそれやったんだから、映画みたいな話だよね」  タクシーは温泉街を抜けると短い橋を渡り、さっき下った分くらいの坂を上りしばらく走ってから信号機のある交差点で止まった。赤信号を待っているとまた運転手が話し始めた。このねずみ男は沈黙が嫌いらしい。 「この辺りにはゴルフ場が五つもあってね。ひと昔、いやふた昔前までは結構ゴルフ客で賑やかだったよ。ゴルフやって温泉入って夜はどんちゃん騒ぎ。いい時代だったね。ゴルフ場も今やってるのは二つだけになっちゃって、他の三つどうなったと思います?ソーラーですよ。ソーラー発電所。ゴルフ場が次々に閉鎖になったと思ったら、あのパネルですよ。気持ち悪いパネル。まあみんな生き残るために必死だから、しょうがないんだけどね。何でもゴルフ場ってのはソーラーにはちょうどいいらしいね。土地の造成は済んでるし、なんたって管理用の通路、ほら軽トラックとかが通れるやつ。あれがもともと付いてるんだから。その気になったら今日の明日でパネルが並べられるってわけさ」  タクシーは交差点を直進すると緩やかな上り坂を道なりに進んだ。次第に人家が少なくなり木々の緑が深くなる。ねずみ男の話は続いていた。 「でもあのソーラーってのはどうなんだろうねえ?アタシには難しいことは分かんないけど、本当は地面に当たるはずの太陽を横取りしちまうわけだから。人間の勝手でさ。ほら、生き物とか居るわけでしょ、その下に。なんかただじゃ済まない気がするんだよね。いつか仕返しに来たりしてね、あのヤクザみたいにさ。ははっ」  さっきの話とうまく繋がったのが嬉しかったのか、ねずみ男は小さく笑った。人家は全くなくなり、タクシーは急なカーブをいくつか曲がりながら坂道を上った。 「もうちょっとでひと山越えるからそうしたらもうすぐだよ。この辺りも紅葉の季節には・・」  と言いかけてねずみ男は左側を指差した。 「ほら、あれだよ、ソーラー。気持ち悪いでしょ」  谷をひとつ隔てた向こう側の山には、太陽光発電所へと姿を変えたかつてのゴルフ場が見える。山肌を埋め尽くしたパネル群は午後の陽ざしを受けて、青とも黒ともつかない色に輝いている。それは山を這い登り、地上のもの全てを飲み込もうとしている得体の知れない巨大生物のようにも見えた。 「この先世の中はどうなるんだろうねえ。まあアタシたちは老い先短いから別にいいんだけど。このまえ孫も生まれたからね」  長い歴史を振り返れば、世界は確実に良い方向に向かっているのだと思う。それなのに日々私たちの身の回りに起こることは不満や不安に充ち溢れているのは何故なのだろう。かつてこの山を切り開いてゴルフ場が造られた時、人々は嘆き、不快感を訴えたことだろう。いつの日か私たちはこのパネル群を懐かしく思う日が来るのかもしれない。  タクシーはまたいくつかの急なカーブを曲がりながら今度は少しずつ坂を下った。その間ねずみ男は無言だった。生まれたばかりの孫の行く末を憂いているのかもしれない。間もなく木々の間から白い建物が見え隠れし始めた。 「もうすぐ着くよ。でも何でこんな不便なところに造ったんだろうね。まあ我々土地の者にとっちゃその方がありがたいけどね」  ねずみ男の声の調子が心なしか変わった気がした。 「お客さんは関係者みたいだからこんなこと言っちゃ悪いけど、あんまり良いもんじゃないからね。こういう病院は」  玄関前でタクシーを降りた。料金を払う時、用事がすぐ済むなら待っているという運転手に、いつ帰れるか分からないと告げて断った。彼は少し残念そうにまたニヤッと笑った。初めの印象ほど悪い感じはしなかった。その病院の外観は白を基調とした無機質な印象だった。建てられてからそれほど経っていないらしく、傷みも少なくとても清潔そうだったけれど、視界に入る限りの全ての窓に取り付けられた金属製の格子が、ある種の威圧感を放っている。受付の女性に名前と要件を告げると、内線電話をかけた後で席を立った。 「ご案内します」  カウンターから出て来た受付の女性はスタイルがよく歩き方もとても綺麗だった。彼女は私の先に立って歩きながら、 「理事長は別棟に居りますので」  と言った。優雅に歩くシャム猫のような後ろ姿に見とれていた私は、 「あ、はい」  と気の抜けた返事をしただけだった。考えてみれば、私は手紙の主の名前しか知らされておらず、理事長という言葉にやや戸惑った。長い廊下の突き当たりの扉を開け、連絡通路を通り同じように無機質な印象の別棟に入った。別棟と言ってもごく小さなもので、屋敷の離れや茶室といった規模のものだ。受付の女性はノックをし、返事を待ってからドアを開けた。微かに消毒液の匂いがした。部屋の中は想像したものとは違い病室そのものだった。白いパイプベッドの脇には計測機材が置かれ、点滴用のポールが立っている。ベッド脇の大きな窓には金属の格子は無く、外には深い森が広がっている。背を起こしたベッドにその人の姿はあった。 「こんな格好ですまんね」  受付の女性がお辞儀をして部屋を出ていくと、手に持っていた本を脇の小さなテーブルに置いて彼はそう言った。時間をかけてたくわえたと思われる白髪交じりの髭が顔の下半分を覆っているせいで年齢の見当はつけ辛かったけれど、おそらくこの前亡くなった私の父と同じくらいだろう。父は私が結婚した1年後に肺がんで亡くなった。手術と抗癌剤治療の末、3か月間苦しみ痩せ細って死んだ。亡くなる日までの最後の2日間、私は片時も離れず父の傍らにいて、骨と皮だけのようになってしまった手を握り声をかけ続けた。私の声が届いているかどうかは分からなかった。父は時々小さくかすれた声を発したけれど、それは手を握る私へと言うよりも、今見ている夢の中の誰かに向けたもののように感じられた。そのほとんどは聞き取れず、僅かに理解できた言葉の断片を繋ぎ合わせてみても、それはまったく意味をなさない。しかし最後のひとことだけははっきりと分かった。  《彼を信じてついていきなさい》  結婚して間もない私たち夫婦の行く先を案じていたのだろう。父を失い、私が頼れるのは夫だけになった。しかしやがてその夫は私の前から姿を消してしまうことになる。 「ご病気なんですか?」  私はベッドから少し離れた位置に立ったまま、その理事長と呼ばれる人物に尋ねた。 「病気というか、まあ、若い頃の無理がたたったんだろう。免疫が極端に落ちてしまってね。しばらくはこの部屋の外には出られないんだよ。心配しなくていい。君にうつるような種類のものじゃないからね」  私がどう答えたらよいのか分からず黙っていると、理事長はベッドの足元から少し離れた所に置かれた小さなソファセットを指して手振りで掛けるように勧めた。私がベッドの彼と向き合うような位置に座ると、彼はベッドの上から黙って私を見つめていた。 「早速で申し訳ないのですが、私の夫についてご存知のことがあると手紙に書かれていましたが、それはどういうことでしょうか?」  あちらから話を始める気配が無いのを見て私がそう言うと、彼はベッドの上で少し体を起こした。 「その前に、私が何者か知っておいた方がいいと思うんだが、どうだね?その方が君のご亭主が置かれた状況についてもだいぶ理解しやすくなると思うがね」 「はい、そうですね、ぜひ伺いたいです。この病院の理事長さんだということくらいしか知りませんので」  私がそう答えると、理事長は声を出さずに笑ったような表情を浮かべて言った。 「残念ながらその唯一の情報にも誤りがある」 「誤り?」 「私は医者ではないのでね。病院の理事長というのは医師免許を持っている者以外にはなることが出来ない」 「でも、先ほどの女性が理事長と・・」 「ああ、そうだったな。彼女は間違ったことは言っていないんだよ。私は学校法人を運営していてね。その理事長なんだ。もっとも父親があんな風にならなければ私も医者になっていたかもしれないがね」 「あなたの、お父様?」 「私の父は医者でね。勤務医だったが子供の頃私はずいぶん贅沢をさせてもらったんだ。母親は教育熱心でいろいろと習い事もさせられた。絵画やらピアノやら、空手の道場まで通わされたんだ。でも私は決して嫌ではなかった。当時そんな子供は珍しかったから周りの見る目も違っていて、優越感のようなものさえ感じていたんだ。他人と違うことでいじめられもしなかった。体格も良かったし空手もやっていたからね。子供なんて単純なものだ。自分より強い者はいじめない。まあ、大人になっても同じだがね」  理事長の話はとても長いものだったけれど、その決して平凡とは言えない履歴に私は聞き入った。彼が中学生になった頃、医師である父親の様子に変化が起きる。対症療法に偏った現代の西洋医学対する疑念から勤めていた病院を辞め代替医療のほうへ傾倒していく。母親はそれを気が狂ったと表現し全く理解を示さず、家庭は崩壊し父親は家を出た。浪費家だった母親の散財で預金は底をつき、ほどなくして自宅は他人の手に渡る。母親は理事長と2歳年下の妹さんを連れて実家に身を寄せた。 「私はもういろんなことが嫌になってね。高校を辞めてアメリカに渡った。子供の頃ずっと絵画を習っていた先生がニューヨークに移住していたから彼を頼って行ったんだ」  彼はその先生の助手をしながら本格的にアートの勉強を始め、才能を認められつつあったけれど、自身の仕事の行き詰まりから薬物依存に陥った先生との生活はやがて破綻する。その後もトラブルが続き、彼はニューヨークを離れヒッチハイクで南部に向かった。途中で同年代の彫金アート作家の男性と意気投合し、彼の仕事を手伝うことになる。 「体力仕事のアルバイトをしながら作った作品を観光客に売って細々と暮らしたよ。金は無かったが、ふたりとも20歳そこそこでまだ若かったからね。それはそれで楽しかったんだが、いつまでもそうしてるわけにはいかないことはもちろん分かっていた」  理事長はしばらく黙って自分の手のひらを見ていたが、何かを決心したような表情で話を続けた。 「その頃の話だよ。夢を見たんだ。だがそれはただの夢と片付けてしまうにはあまりにもリアルなものだった。薄暗い倉庫の中には巨大な木製の樽が並んでいる。等間隔で吊り下げられた照明器具は何かの採掘現場のそれのように、極めて実用的で飾り気のないものだ。私がなぜそんな場所に居るのかは分からなかったが、それを不思議にも思わなかった。その時私が感じたものは、ひとことでいえば威圧感のようなものだった。それも圧倒的なね。私はその力に押し潰されそうになりながら巨大な樽の間の通路を進んだ。その先に何があるのかは想像もつかなかったが、そうせずにはいられなかった。どれくらいの距離を進んだのか、私がその威圧感に耐えられなくなりそうになった時、突き当りに扉が見えてきた。得体の知れない場所で経験したことのない重圧に耐える私にとって、その更なる未知の世界との接点は恐怖と救済とが混ざり合ったものだった。私は意を決してその扉を開けようとドアノブに手をかけたが、それはビクともしなかった。でもその瞬間、私の中に何かのイメージが激しい勢いで入り込んで来たんだ。そのイメージは私の身体を貫き、意識を粉々に砕いた。汗をぐっしょりとかきベッドで目覚めた私は、自分の中にこれまでにない創作意欲が溢れていることに気づいた」  その時以来彼は夢の中で度々その場所を訪れ、そこで得たインスピレーションのようなものをモチーフに作品を作り始める。彼が起こしたデザインを彫金作家のパートナーが立体的なものにし、それは小さなアクセサリーから始まりやがてかなりの大きさのアイアンワークにまで広がって行く。メディアをうまく使ったパートナーの才覚で知名度も上がり、20代の後半になる頃には彼らはアメリカとヨーロッパで名の通ったアーティストとなっていた。 「日本ではまだあまり知られてはいなかったんだが、コアなファンもいてね。新設の学校のアイアンワークを全て任されたこともあった。その仕事をきっかけに日本での知名度も上がり始め、私の作家としてのキャリアもさらに豊かなものになっていった」  理事長は満足そうに小さく頷いてからしばらくの間目を閉じた。そして今度は首を小さく横に振り目を開けた。 「しかしその時は突然訪れた。夢の中で私はまたあの場所にいた。今にして思えばその時確かな違和感があったんだ。いつも私を支配していた耐え難い威圧感が幾分和らいでいることに気がついてはいたが、それをあまり気にせずにいつものようにあのドアノブに手をかけた。私は焦っていたのかもしれない。ドアノブが微かな金属音を立て動いた時ですら、私はその異変に気が付かなかった。事の大きさに気づいた時私はすでに勢いよく手前に開いた扉に弾き飛ばされ、同時に押し寄せた大量の水に呑み込まれていた。私は水の勢いに揉まれ方向の感覚を失い、大量の水を飲んだ。ベッドで目覚めた時私を支配していたものは虚無感だった。そして気づいた。全てが消え去ってしまったことに。私のアーティストとしての才能は完全に枯渇してしまったんだ。私の名は既に売れていたから、ごまかしながら仕事を続けることも出来ただろうが、どうしてもそういう気にはなれなかった。あの時あの場所で私が感じた圧倒的な威圧感がそれを許さなかったのかもしれない。私はパートナーの彼と決別し日本に帰って来た」  理事長は長い話になってしまったことを私に詫び、サイドテーブルのお茶をひとくち飲んだ。 「そろそろ君のご亭主の話をしないとな」  理事長はそう言って小さく咳払いをした。私は小さく頷いた。 「帰国した私はまず妹を訪ねた。向こうにいるときから私たちはときどき連絡を取り合っていたから、大体の様子は分かっていたんだ。その頃妹は父と一緒に仕事をしていた。子供の時に自分たちを捨てて家を出て行った父を恨んでいた妹は、父親への反発からあえて同じ医学の道を選んだ。母親の浪費のせいで経済的には窮地に立たされていたが、猛勉強をしてほとんど学費免除の状態で医者になった。彼女を駆り立てたものは復讐心だ。父が否定した現代の医療を肯定し極めることで、自分を捨てた父を否定しようとしたんだが、皮肉なもので結果的には妹も父と同じ道を辿ることになる」  その頃理事長の父親は日本の代替医療界の第一人者になっていた。漢方と食事療法を主眼に置いたその治療で余命宣告をされた多くの患者の命を救ったということで、全国から彼のもとへ身を寄せる患者は後を絶たなかった。現代の西洋医学は外傷を含めた急性の疾患には有効だが、慢性的な病にはかえって害悪になっているという彼の考えは、当然のことながら医学界や薬品業界からの反感を買い、凄まじい圧力を受けることになる。結果として多くの場合この種の代替医療への取り組みは実を結ばず、志なかばでとん挫してしまう。否定的な情報が流され信用を失墜させられ、患者の家族が騒ぎ裁判沙汰になる例も少なくなかった。資金的な事情で継続できなくなるケースもあれば、突然方針を転換してしまう医師もいた。そんな中、彼の父親の診療所は着実に結果を積み上げ信用を築いていく。 「夫はあなたのお父様を頼って行ったのですね。彼はその手のあらゆる正しい活動が巧妙に葬られていくのを嫌というほど見せつけられて挫折しかかっていましたから」  目の前にいるこの人物からの手紙に期待をかけ、ここを訪れてからも半信半疑だった夫の消息を知る手掛かりを感じた私は、嬉しさから思わず口を挟んだ。 「そうだな。彼にとって私の父はまさに最後の砦だったようだ」 「では夫は今、お父様と一緒に?」 「そうだったんだが、今現在のことについては私もわからんのだよ。いや、決して隠しているわけではない。妹の話ではひと月ほど前から父と連絡が取れなくなったそうだ」  高齢になった父親に代わり現在では理事長の妹さんが診療所を継ぎ、彼は別の場所で研究に専念しているという。しかし研究室として使っている場所に父親はおらず、電話も繋がらない。私の夫も同じ頃から診療所に姿を見せていないらしい。ふたりの身に何か大変なことが起こっているのではないかという不安が私を襲う。 「診療所は東京の郊外にある。一度そこを訪ねてみてはもらえないだろうか?」  理事長は私の不安を察したようにそう言った。 「是非そうさせて下さい。今の私にとっては夫に繋がる唯一の場所ですから。すぐにでも伺います」 「妹には話しておくから好きな時に行けばいい。それから、ついでと言っては何だが、その時に私が理事長をしている大学にも行ってほしいんだ。同じ街にあるんだよ。診療所と」 「そうなんですか。もちろん行くことは構いませんが、でもなぜ私が?」 「君にはそこで働いてほしいんだ。私の秘書としてね」 「え?何を言ってるんですか?そんなこと勝手に・・」  理事長は私を制するように手の平をこちらに向け、何度か小さく頷いた。 「何はともあれ一度行ってみてくれないか。そしてそこで君が何も感じなければ、この話は無かったことにしてもらっていい。でももし何か思うところがあったなら、その時はその思いに忠実であって欲しい」 「あの、感じるとか思いとか、おっしゃっている意味が良く分かりませんが、いったいどういう・・」 「すまんが今日はもう疲れた。こんなに話をしたのは久しぶりだ。大学の事務局には話を通しておく。君はただ名前を言うだけで」  そう言うと理事長はサイドテーブルのカップから静かにお茶を飲んだ。                 第4章 計画  第1施術室の高い位置にある窓からはきれいな青空が見える。その窓から射す日差しがちょうど、私たちが向かい合って座っている辺りを明るく照らしていた。 「この治療院と大学の関係は大体わかりました。あなたやあなたのご主人のことも。確かに興味深い話ではあるけど、僕の疑問は何ひとつ解決していない。この街の秘密も、この治療院のことも、そして昨夜の警官の件。何よりも娘が今どこにいるのか。あなたは心当たりがあると言いましたよね。それはどこなんですか?そして娘が助けようとしているのが母親、つまり僕の妻だという。どういうことか全く意味が分からない」  黙って私の話を聞いていた彼は、すっかり氷の解けてしまったグラスのお茶をひとくち飲んでから、苛立ちを隠しきれない様子でそう言った。 「彼女を心配される気持ちはもちろん良く分かります。でもあなたの言う通り話の核心はこれからです。この街の秘密。そしてあなたの奥さまのお話」  彼は少し乗り出した体をソファに戻し、小さく深呼吸をした。 「わかりました。続きを聞かせてください」  私はグラスのお茶をひとくち飲んだ。 「エリート官僚たちのお遊び。ただのお遊びから始まったことなの。彼らのほとんどはエゴとライバル意識のかたまりよ。他人を蹴落とすことしか考えないで育ってきた人たちだから。でも何にでも例外って言うのはあるものね。東大出のエリート3人が同期で官僚になる。もちろんキャリア組よ」  学生時代から交流があった3人はそれぞれ別の官庁に配属された。普通ならその友人関係はだんだん疎遠になっていく。新人の仕事は多忙を極め、立場を守る為にはなりふり構わず働くしかない。出世の速さや官庁間の格差なども手伝って、友人関係の様相にも変化が現れる。ところが彼らは違った。それぞれの職場でがむしゃらに仕事をこなしながらもまともな心を失わず、正義感や良心を持っていれば耐えられないような上司の指示にも上手に立ちまわり、ライバル心むき出しの同僚たちの心さえ掴んで行った。彼らは知能だけではなく人格的にも優れていたのかもしれないけれど、そこには人格を超えた巧みさのようなものがあった。 「高い知能によって作り上げられた人格」  彼はつぶやくようにそう言った。的確な表現だった。 「知り合いの精神科医から聞いたことがある。今あなたの言った知能が高くてそのうえ人格者みたいな人たちのことを。この一見何の問題も無さそうな人たちは、かなりの確率で将来的にひどい結果に至っているという話だった」  まさにその実例のように話は展開する。彼らはそれぞれの場所で出世への足場を固めていった。その間も定期的に集まり様々な意見交換をした。20年が経過し、幾度か与党が入れ替わり、8人の総理大臣が誕生した。政治の混乱と官庁の再編などに翻弄されながらも3人とも要職に就き、広範囲の決裁権を持つまでになっていた。継続された秘密の会合を経て彼らの関係は更に親密さを増し、集まる度にテーマを決めてこの国の未来の形についての計画を立てた。自分たちが国を動かせる立場ならどんなことが出来るかと。若い頃は夢物語だったその計画も、彼らの出世により現実味を帯びてくることになる。 「そのひとつがこの街で実行されたという訳なの。私がこの街の秘密と言っているのがその計画」 「なるほど。でもひとついいかな。そもそも何故あなたはその経緯を知っているの?彼らが秘密裏に行ってきた会合のことも。この街で実行されたその計画について知っている人間は限られているだろうし」 「当然の疑問よね」  私は表紙に【P計画】と書かれている分厚いファイルを鞄から取り出した。 「父の遺品を整理していてこれを見つけたの。父は危機管理上の理由で重要な仕事についてのアナログファイルを保管していたの。秘密の場所にね。この中にさっき言ったこの街の秘密が全て書かれているわ。かなり物騒な話」 「つまりあなたのお父さんがそのことに関わっていると言うこと?」 「そうね、可能性として考えられるのはふたつ。彼らは自分たちの計画について法律面から検証する必要があって、それを父に依頼したということ。自分たちに違法性が無いというのが最後の逃げ場所だったようだから。彼らだってお遊びで人生を棒に振るわけにはいかないものね。これがひとつめ。そしてその逆の立場の場合。父は何らかの経緯でこの計画を知り、それを告発するために証拠資料を集めてこのファイルにまとめた」 「後者であって欲しいね」 「もちろん私もそう信じてる。私なりに調べてみたけど、彼らと父との間には東大の法学部卒ということぐらいしか共通点は無くて、他にこれといった接点は見つからなかった。そしてこれは娘としての希望でしかないけど、とにかく父はこんな酷いことに加担するような人じゃないわ。その議事録のところを読んでみて。事の概要を知るにはそれがいちばん早いと思う」  私はそう言って彼にファイルを手渡した。彼は付箋のついたページを開いた。                【犯罪の無い完全に美しい街】計画・議事録(録音音声文字起こし)  A:その街では、法を犯した者はそれがどんな軽微なものであっても直ちに摘発され排除される。そして、法を犯す可能性のある者も同様に扱われる。  B:法を犯す可能性なんて誰にでもある。ほとんど可能性の無い者からギリギリみたいな者までいるが、どこかで線を引かないと全員が対象者になってしまう。  C:犯罪を犯す可能性を測るシステムでもあるとか?  A:それじゃまるで近未来映画の世界だ。それはもちろん具体的な行為があった場合に限られる。ストーカー行為や脅迫的な発言といった犯罪の前兆とみなされる行為があれば対象者となる。これは現行の法律では判断の難しい部分だが、これらは全て摘発される。多くの犯罪には必ず前兆のようなものがある。あの時点でくい止めておけばと後になって皆言う。もちろん、頭の中で計画しただけで摘発できれば最高だが、それは無理だ。  B:結局は法整備の問題になる。いちばん時間がかかるパターンだ。  A:もちろん、課題は山ほどある。普通では出来ない。でも俺たちに出来ないことは無い。  C:具体的なプランは?  A:誰も気がつかない。ここが1番大事だ。一見すればただの街だが、その辺のどこにでもある街とは違う。安全で暮らしやすいおしゃれな街。都市型アートタウンのニューモデルだ。駅の改札を出ると、その清潔で明るい風景にみな驚く。石畳風の通りには紙屑ひとつなく、派手派手しい看板も見当たらない。広場には計画的に配置された木々とセンスのいいベンチ。だが別にテーマパークのような人工的なものをイメージしている訳じゃない。そこは普通に人間が生活する街。駅前には商店街がある。肉屋があり八百屋がありクリーニング屋がある。不動産屋があり定食屋だってある。およそ普通の街にあるものはほとんど揃っている。ただし全てから不潔なものや下品なイメージのものを完璧にそぎ落とす。そしてそこには犯罪や不正といった不安要素も無い。そういったものを徹底的に取り除く仕組みが出来ている。  C:それは極めて左翼的な世界観だ。言うなれば、ユートピア的世界観。ここではない何処かにある理想郷。  B:ユートピアは必ず破綻するという点については?その理想郷というのは完全なる管理統制社会を意味するものだ。体制に逆らえばそれで終わり。人々はみな監視され密告に怯え疑心暗鬼に陥る。牧歌的で穏やかなユートピアというのは成立しない概念だ。  C:ユートピアはそれ自体がすでにデストピアである。  B:ジョージ・オーウェルの『1984年』。  A:完全な管理統制社会。人々はみな監視され、犯罪や不正行為はすぐに通報され排除される。でも誰もそれに気付いていないとしたら?そもそも我々が考えているのは、犯罪や不正の無い安心して暮らせる街だ。『1984年』の世界とはそもそも違う。何も思想や学問や恋愛まで管理される訳ではない。犯罪や不正を絶対に許さない為の監視社会。やましいことがない人間にとっては何も怖れることは無い。防犯カメラは犯罪者にとっては脅威だが、まともな人間にとっては安心材料だ。そもそも、善良な住人たちは監視されてることに気づかない。  B:そこには矛盾が生じる。監視社会には密告制度が必須になる。当局だけで監視の網を張るには限界がある。仮に強行すれば、防犯カメラにしても警官や警備員にしても尋常じゃない数になり、街は物騒な感じになる。穏やかな暮らしとは明らかに逆行するイメージだし、そもそもプライベートな空間まで監視するのは不可能だ。  A:今やテロ計画のほとんどが未然に阻止され、大国間ではお互いの軍事機密にまで侵入し合っている。ハッキングを防御する方法は現時点では無いに等しいから、いたちごっこの情報戦が全世界で巻き起こっている。独裁国家の中には顔認証の技術と監視体制で、特定個人の行動を完全にトレースできるようになっているところもあり、電子的な通信は100パーセント管理されている。プライバシ―なんて過去の遺物だ。  C:情報を監視すれば密告者など不必要だと。  B:世界規模と比較すれば範囲は極めて狭いが、街全体に完全な諜報の網を張るにはかなりの数の技術者が必要だ。  A:すべてはこの手の中だ。我が国の諜報組織は管轄が入り組み統一されていない。そこをうまく利用して秘密裏に事を進める。  B:監視がうまく行くとして摘発は?人間をひとり逮捕し取り調べて送検し、起訴して裁判だ。その過程で大勢の人間が関わる。計画通り小さな犯罪までを対象にした場合、この街の摘発件数は尋常ではない。当然大騒ぎになる。そもそも違法に得た証拠は裁判で採用されないから、警察の段階でアウトだ。逮捕状の請求すら無理だ。  A:ここからがこの計画の重要部分だ。俺たちは全く新しい概念の街を作ろうとしている。既存の仕組みを一旦ぜんぶ忘れる。この街は日本であってもはや日本では無い。  C:日本の法体系を無視する?  A:違法なことはもちろん無しだ。その点には細心の注意を払う。実際に法律を作っている俺たちなら、法の穴も網の目も自由自在にくぐり抜けられる。  C:街の中を完璧に監視できたとしても、この街には絶えず大勢の人が出入りしている。外から来た者がいきなり犯罪行為に及ぶこともあり得る。  A:街に入って来る人間に関しては徹底的に監視体制をしく。  B:ここは絶海の孤島ではない。それは不可能だ。  A:国境をつくればいい。見えない国境を。誰もそこに国境があると気付かない。幸いこの街は大きな2本の川に挟まれ、北側はかなり広い国有地。北隣りの市にある自衛隊の施設に接続する保安用地だ。そして南側には高速道路が走り、隣りの市との境界線にもなっている。  C:確かに外部からの人の出入りに関して監視しやすい立地ではある。東西の数か所の橋と電車の駅。そして南側の高速周辺。北側から入る経路も限られている。  A:この数か所には最新の監視システムを設置する。近未来映画のようにはいかないが、その初期版みたいなものだ。海外では実際に空港に設置されテロ対策に功を奏した事例もある。危機管理上の問題もあって一般には公表されてはいないが。  B:監視体制に関しては実現が可能だとして、問題はその後だ。たとえザル法でも法律の範囲内で人間ひとりを排除する方法は?ここは美しくて暮らしやすい街。騒ぎが大きくなれば本末転倒だ。  A:都心の秘密の地下通路については既知の事実だ。この秘密の地下通路は都心だけじゃなく東京郊外にも数多く存在する。そのひとつがこの街の下を通っている。街の北側の自衛隊施設はかつての軍需工場の跡地で、戦時中は秘密裏に物資を運ぶ経路としてここに地下通路が造られたという話だ。  C:その話は聞いたことがあるが、まさかその通路を使って犯罪者を秘密裏に運び出すと?武器や弾薬を運び出したように。  A:そんな古いものは危険すぎて使えないし、入り口は既に封鎖されているという話だ。重要なのは地盤の状態。地下通路を造るには水脈やら岩盤やらクリアしなくてはならない条件が山積みだ。つまりここの地下はそれが可能ということだ。  B:この計画の中でのその地下の役割は?  A:ディズニーランドの地下通路。それは通路というより街だ。物資の搬入搬出やゴミ出し用の通路以外にも、衣装の縫製や舞台装置の工場、従業員の福利厚生施設もそこにある。食堂に床屋に。来園者に見せたくないものは全てそこに納めている。でも殆どの人はそんな地下のことなど気付きもせずに楽しんでる。それでいい。気がつかない間に面倒なことは誰かが済ませてくれて、一般人は平和に暮らせる。スマートだ。その仕組みをこの街に作る。  C:この街の地下にその為の施設をつくると?そしてそこを使って秘密裏に人間を処分する。そっとゴミを搬出するみたいに。  A:処分する訳じゃない。他の場所に移ってもらうだけだ。合法的に。もちろん命を奪うわけじゃない。そっと吹き消す。人の存在を。  B:刑務所以外に人間を合法的に収容する場所がどこに?どこかの国みたいに大規模な強制収容所がある訳でもない。  A:措置入院。言わば強制入院だ。人権上の問題も多く指摘されているが、現状では指定された2人の精神科医の見解が一致すれば実質的には執行が可能だ。手続きはいたってシンプル。  C:他の場所とは精神病院?しかし突然精神異常だと言われても家族や周囲の人間が黙ってないのでは?  A:これは居場所が突き止められた場合の身内に対する最終的な説明の為だ。事件性の無い行方不明者の捜索願いに、警察はほとんど動かない。私的な調査機関でも、この計画に沿えば足どりを追うことは難しい。  C:行方不明者の多い街として騒ぎになってしまうのでは?  A:その為に芸術系大学を誘致して、イベント開催用の箱モノを造る。人の出入りが多く、自由でハイセンスな街。日常が上品なお祭りのように華やかだ。もちろん人間が一人消えれば騒ぎになることもあるだろうが、おそらく普通の街と比較すれば極めて少ない。それが芸術家の街にする理由だ。  B:その面において不確定要素はあるが、それもいかにスマートにことを運ぶかという点にかかって来る。問題はオペレーションだ。対象者を周囲に気付かれずに精神病院に移送することは容易ではない。本人の抵抗もあるし、合法的に行うには少なくとも措置入院の手続きは必須だ。  A:対象者を特定した後のオペレーションの詳細はマニュアルにまとめるが、大まかな流れを説明する。まず対象者の行動を徹底的に監視。人目のない場所でひとりになる瞬間を狙い複数の警察官が接触。待機している車両に対象者を乗せ、精神科医の待機する場所に移送。その過程で抵抗した場合は公務執行妨害で緊急逮捕。移送後、措置入院が必要との診断書を作成。その時には薬剤の投与が必要。対象者はほぼ眠った状態で再度移送され病院のベッドの上で目覚める。  B:その場合、諜報、拘束、診断、移送、受け入れ、この5つのセクションからなるチームの編成が必要になる。なかなかのプロジェクトだが、身辺調査を徹底したメンバーの選定と内部告発の抑止対策が必須だ。  A:技術が進歩して世の中がどんなに変わろうとも、人間の本質は変わらない。旧来通りの飴と鞭だ。  B:その精神科医を待機させる場所というのは?  A:大学だ。  彼はファイルを閉じてため息をついた。 「これは本当の話なんだね?この街でこの計画が今まさに実行されている。そして昨夜のあの警官はそのプランに沿って僕を、その精神病院に送ろうとしたということなんだね?僕がどういう理由で犯罪者扱いされたかは知らないけど、彼らの言葉を借りれば僕という人間は抹消されるところだったという訳だ。それにこれによれば大学も、つまり君の職場もこの計画に加担しているということになる。そうしたらその理事長はそいつらの仲間ということになるわけだろう?」 「話の大筋としたらその通りだけど、現状について正確にいえば少し違うの。その計画は確かに実行されていた。2か月前まではね。でもある事件をきっかけに状況がおおきくかわったの。それから理事長のことだけど、彼はこの計画について何も知らなかった。理事長はもともと大学の運営みたいなものには興味も関心も無かったんだけど、この街の再開発プロジェクトの中で名前があがった。かつて欧米で一世を風靡した日本人アーティストということで誰かが強く推薦したみたいね。理事長自身も作家としての人生に既に幕を引いていて、これから先の生き方ついて模索しているところだった。だから自分が大学の看板としてのみ必要とされているのを承知の上で依頼を引き受けた。法人の運営自体は他の人間がすべて取り仕切ることを条件にね」 「つまり大学関係者の誰かが理事長の知らぬところで事を起こしていたと?」 「あなたも昨日会ったでしょ。あの事務長に。彼は私の前任者で、私が着任するまでは彼が理事長の秘書を兼ねていたの。理事長はこの計画については全く知らなかったけど、事務長が何かしら不正めいたことをしていると直感的に感じ取っていた。それが私に秘書の任を依頼した理由だと、着任してから聞かされたわ」 「ではこの計画についてもあの男が?」 「証拠は無い。私はずっと彼の行動を監視しながら、学生時代から続いている人脈も駆使して水面下で起きていることを探った。怪しい出来事についての断片的な情報は数多く入って来るけど、決定的なものは無いの」 「それで、状況が変わったというのは?2か月前の事件って言ってたけど」 「私のもとにある情報を繋ぎ合わせて推測するしかないけど、おそらく事態はそれ以前より悪化している。そしてこのままいけば大変なことになる」  この街で進行していた秘密の計画は、ひとつの汚職事件で大きな転換を迎えた。収賄側の中心人物だった厚労省の上級役人の身辺捜査上に措置入院に関する不自然な動きが浮かび、それはこの計画が露呈する可能性を帯びていた。即座に緊急時対応がとられ、全ての仕組みが停止し、証拠隠滅作業が迅速かつ機械的に行われた。全てはマニュアル通りに遂行され、これでうまくいく計画だった。しかし人間は予想を超えて複雑でそして愚かだ。諜報から対象者の受け入れまでの各行程の中で、緊急時マニュアルに従って動きを止めたのは診断書を作る医師と受け入れ病院だけだった。その後も犯罪予備者はリストアップされ監視され続け、警官による身柄拘束は続いた。措置入院の手続きを伴わないこの行為にはもちろん法的正当性は無く、それは単なる暴行と強引な拉致に過ぎなかった。しかし他人の人生を抹消する快感に溺れていた彼らにとって、善悪の判断はもはや無用のものだった。 「そんな酷いことに・・もう一度聞くけど、娘がそれに巻き込まれているということは無いんだね?」 「それは絶対にないわ。私が保証します」 「本当は娘の居場所を知っているんでしょう?でなければそんな風に断言はできないと思うけど」 「あいまいな答え方で悪いけど、イエスともノーとも言えないの。私は彼女の居場所を正確には把握してはいない。でも彼女はそんな地上のゴタゴタに巻き込まれるような所には居ないんです」 「どういうこと?地上って・・」 「これからそのお話をします」                 第5章  地下    あの山の中の病院で理事長に会った翌日、私は彼に言われた通り治療院を訪ねた。事前に連絡を取り自分の名を告げると、電話口の妹さんはすべて承知しているという風に快く応対してくれた。実際に会った彼女は聞いていた年齢よりもだいぶ若く見えた。彼女の顔を見たときとても懐かしい気持ちになったのは、私の母が生きていれば同じくらいの歳だからなのかもしれない。後ろでひとつに束ねた長めの髪には白いものが少し混じってはいるけれど、肌の張りも良く、とても還暦近い女性には見えない。そう言うと彼女は、ありがとうと言って優しく微笑んで、ちょうどお茶をいれて持って来てくれた白衣を着た真面目そうな若い女性に目をやった。 「毎日この娘と仕事をしているからかしら。この娘はね、この診療所で育ったの。父親が余命3か月の宣告をされてここに駆け込んできた。その父親は結果的には亡くなってしまったんだけど、いろいろ事情があって今は一緒に仕事をしているの。あそこにいる彼女とは双子の姉妹よ」  妹さんの視線の先の窓口には、もうひとりの若い女性がパソコンのモニター画面に向かっている。私は何と言ったらいいか分からず、黙って頷いて白衣の彼女が入れてくれたお茶を一口飲んだ。 「ごめんなさい。そんなことよりご主人の話をしないといけないわね。そのためにここへ来たわけでしょうから」  妹さんは申し訳なさそうに言った。 「はい、お兄様から伺ったところでは、お父様と連絡が取れなくなって以来、主人もここには姿を見せていないとか」 「そうね、タイミング的にはそうなるわね。それまでは時々顔を見せて私たちを手伝ってくれていたから、パタリと顔を出さなくなるというのは不自然な話なの」 「単刀直入に伺います。主人はここで何をしようとしていたんですか?あなた達と一緒に。彼の目指しているものは大体わかってはいましたが、詳しいことは何も教えてはくれなかった。でも彼の今までの話からかなり危険な活動だというのはわかります。ここはただの治療院ではないということですね」 「あなたのことはご主人から聞いていたわ。とても優秀な人で、高校の先生をなさっていたと。そしてあなたが教師になった目的も」 「優秀なんてとんでもないです。それに結果的には何もできなかった。教育から世の中を変えるという思いは全く実を結ばず、自分の無力さを思い知らされて私は教師を辞めました」  私は今のこの社会のおかしな部分というのは間違いなく教育が生み出していると思った。私の出身高校の卒業生の多くは東大に進み、上級官僚や政治家や経済界のトップに名を連ねている。高校に入学すると私たちは彼らに倣って国を動かす人材になれと指導され、自分たちは特別に選ばれた人間だと、半ば洗脳のような教育を受ける。そんなことが連綿と受け継がれた結果が、今ある腐敗と茶番に満ちたこの国の姿に他ならない。私はその教育から変えなければならないと思い、その出身校の教師になった。しかし事はそう簡単では無く、10年以上かけても状況は全く動くことは無かった。それはおそらく、私が味わった初めての挫折感だった。 「アプローチは違ってもあなたとご主人は同じことを考えていたということね。世の中を変えるという」 「彼はいつも私を勇気づけてくれました。でも私は思いを貫くことは出来なかった。だから私は彼の活動を手伝わせて欲しいと何度も頼みました。私には学生時代からの知人をはじめとして役人関係や政治家にも結構つてがあって、それを使えばきっと役に立つ情報が手に入れられると。でも彼はその話をいっさい受け付けなかった。もちろんそれは私の身の安全を考えて。だから私はせめて精神的に彼を支えることで自分自身を保とうと思ったんです。でも彼との連絡が途絶えてしまって、私はただ待つことしかできなかった。そして先日、お兄様から連絡をもらったんです」 「兄も本当はあなたに接触するつもりは無かったの。ご主人が自分の活動にあなたを巻き込みたくないと思っているのを知っていたから。でも父と連絡が取れなくなり、ご主人も姿を見せなくなった。おそらく何かが起こっている。あなたにも察しがついている通り、今ここは診療所としての機能を停止して、ある活動の拠点となっています。そして私達は目指す場所までもうあと一歩と言うところまで来ている。兄はこれ以上、ただ待つという状態で時が過ぎていくことに耐えられなかった。それで僅かな望みをかけてあなたを呼んだのね」 「連絡をもらえて本当に良かったです。でも先ほども言った通り、主人の活動にについて詳しいことは全く知らないんです。お父様のことはもちろんですが、主人のことですらどう見ても私がいちばん分かっていません」 「それは兄も承知の上だったと思います。兄が期待をかけたのはあなたのお父様です」 「私の父?父が何か関係しているということですか?主人たちの活動のことに。それに父は一年前に亡くなっています。いったいどういうことでしょう?」 「私たちはあなたのご主人から、この街の秘密についての話を聞いたの。この街の再開発に乗じてとてつもなく恐ろしいことが計画され実行されているというものだった。ご存知だと思うけど、ご主人は医療と薬品の業界の腐敗を告発しようとしていた。様々な情報源に食い込んでいく中で、たまたま入手した情報からさらに調べていったところにその恐ろしい計画があった。彼も詳しい内容までは分かっていなくて、これから調べると言っていたんだけど・・ただその時に彼はこんなことも言っていたの。あなたのお父様がそのことに関わっているようだと。ご主人にも確証があったわけではないみたい。でも彼は何の根拠もなくそんな重要なことを口に出すような人ではないと思うの。そうでしょう?」  思ってもみなかった話に私は動揺して言葉を失い、彼女の問いかけに黙って頷くのが精いっぱいだった。 「いやな話だと思うけど、ひとつの可能性として受け止めてほしいの。そしてそれが事実だとしたら、あなたのお父様の残したものの中に何か、今の状況に繋がる何かがあるかもしれない。あくまでも可能性として」  私は混乱していた。あの病院で会った理事長も、そして今目の前にいる妹さんも、味方だという保証は無い。彼らが私に与えた夫に関する情報もすべてが作り話だということも考えられるし、その得体のしれないこの街の計画も父の話も私を動揺させる為の嘘かもしれない。この人たちの目的が何なのかは見当もつかないけれど、世の中で信用していい人間がごく僅かだということは経験的に私も知っている。しかし今の私には限られた選択肢しかなく、夫に繋がるたった一つの糸を手繰り続ける為には彼らの懐に飛び込むしかない。たとえそれがどんなに危険な場所であっても。 「分かりました。私に出来ることでしたら協力します」 「とても辛いことに出会うかもしれないけど」 「真実がどんなに残酷なものだとしても私はそれが知りたいです」 「ありがとう。私達を信じてくれて。だからと言う訳ではないけど、私もあなたを信じて重要な秘密を打ち明けるわ」 「秘密?」 「父が籠って研究をしている場所と言うのはこの下にあるの。この建物の地下に」 「地下室があるということですか?」 「地下室・・そういう規模のものでは無いの」  そう言って彼女は自分の足元の床に目を落としてからゆっくりと話を始めた。100年近い時間を遡った地下世界にまつわるとても長い話だった。  終戦と同時に重要文書のほとんどは廃棄されたか、半永久的に表に出ない場所に保管された。当時ことに携わった人の大半は既にこの世を去り、真実を知る術はごく限られたものになっている。地下に通路や施設の建設が始められたのは江戸時代のこと。有事の際の要人の避難や移動、戦闘物資の移送や人員の移動を秘密裏に行う為のもので、その規模は土木建設技術の進歩と運搬車両の変化によって大きくなり、構造は複雑化していった。大戦が始まる頃には、線路が敷かれ現在の地下鉄のように電車が走るルートまで作られた。この街の北隣にある自衛隊の施設はかつての軍需工場跡地に作られた。その地下通路はこの治療院の真下を通り街の南の高速道路のところまで延び、そこからは現在の高速沿いに進み東側の川の下を潜って都心方面に延びている。かつてどこまでそれが繋がっていたのかは不明だけれど、その間のいくつかの地点で地上に出るための仕組みが作られていた。公的な建物の地下駐車場を経て、その車両のまま一般道へと交わることができる大掛かりなものをはじめとして、地下に繋がる連絡通路を備えた建物がいくつか造られた。 「そのポイントのひとつがこの建物だったと言う訳なの」  理事長の妹さんと私は治療院のロビーの長椅子に並んで座っていた。椅子自体はかなりの年代物のようで、長い歳月を同じ場所から見守り続けて来た威厳のようなものを醸している。張地はごく最近張り替えられたもので、その若草色の印象通りの生命力に満ちた手触りだった。 「ここはいったいどんな所だったんですか?軍の施設とかにしてはずいぶんこじんまりとしていますね」 「この建物が建てられたのは戦後だいぶ経ってからで、すでに地下通路の軍事目的での使用は行われていなかったから、そういう種類のものではないの。当時ここはね、ある画家がアトリエとして使っていたの。彼にはスポンサーがいたんだけど、その人は何というか、ただ者ではない人物だった」 「ただ者ではない・・」 「そうね。漠然とした言い方になってしまうけど、この国の意思決定がごく少数の限られた人間によって行われているとしたら、そこに極めて近い人物だった。彼は名画の収集家であると同時に若い才能の発掘にとても意欲的で、無名の若い画家をひとりここに住まわせて絵を描かせていたの。その人物は時々様子を見るためにアトリエに通う必要があったわけだけど、何といっても特別な立場の人物だから表立った行動は制限されていた。要するにこの場所に秘密裏に通う為にここに建物を造ったと言う訳。どこかの地点で地下に降りて秘密の通路を使ってこのアトリエに来ていたの」 「その人は地下通路を自由に使える立場にあったということですね。国とか軍が造ったものを。敗戦で間接的にせよ外国に支配されている中にあっても」 「まあ、国家とかそういったものの更に上にいる人物だということね」 「私には想像の及ばない世界ですね」 「私だってそうよ。世界は私たちの知らない所にある大きな仕組みが動かしているのかもしれないわね」  その若い画家は才能があるにもかかわらず、なかなか世に出られずにいた。彼自身もそんな状況に行き詰まりを感じていたし、スポンサーであるその人物にも焦燥感が芽生えてきていた。普通ならば彼に見切りをつけ新しい才能に乗り換えるところだけれど、どうしてもそういう気になれなかった。それは自分の見込み違いを受け入れられないというプライドのようなものではなく、その若者が絶対に何かを持っているという確信からだった。そしてその確信はある試みによって具現化することになる。 「あなた、絵画には詳しかったわね」 「はい、大学では西洋美術史を専攻していました」 「では、メーヘレンという画家はご存知ね」 「ええ、ハン・ファン・メーヘレン。世界一有名な贋作画家です。特にフェルメールの贋作にまつわる話は歴史的な大事件です」  メーヘレンは17世紀のオランダの画家フェルメールの贋作を描いたことで世界的に有名になった。もう一人のフェルメールと呼ばれるほどのその贋作技術は当時の美術界を完璧に欺いた。彼はヒトラーのナチスドイツを騙して、自分の作品をフェルメールのものとして売り渡し、結果的にはナチスが奪ったオランダの財産ともいえる多数の絵画を取り戻した。国家の宝と言われたフェルメールの作品をナチスに売り渡したとして反逆罪で逮捕された詐欺師が、一転してオランダの英雄となった瞬間だった。類稀な才能を持ちながら、彼をそこまで贋作に没頭させたものは、自分を否定した美術界の権威への抵抗だった。いや、抵抗というレベルではなく復讐そのものだった。 「その人物はメーヘレンに特別な思い入れがあったようね」 「その若い画家に贋作を描かせたということですか?」 「そう、彼が持っている何かをそこに見出したのね。思った通り彼の贋作は完璧だった。もちろんその人物は誰かを騙してそれをお金に換えるようなことはしなかった。もともとそれが目的だったわけでは無いし、そもそも詐欺のようなことをしてお金を得る必要など無かった。彼は有名どころの鑑定家やコレクターに作品を見せて、彼らが見事に騙される姿を見た後は作品をすべて地下のワインセラーに保管したの」 「ワインセラーですか」 「その人物はワインの収集家でもあってね、この地下に大きな貯蔵庫を造ったの。自宅にも巨大なのがあったらしいけど、ここにも数千本のワインが保管されていたらしいわ」 「すごい数ですね。私の想像する地下のワインセラーとだいぶイメージが違います」 「それだけじゃないわ。そのワインを振る舞うパーティ用のホールや、日本非公開の映画なんかを上映する劇場もあった。それから・・」 「ちょっと待ってください。それはここの地下の話ですよね。この建物の下の」 「そうね、無理もないわ。私も実際に見るまでは信じられなかった。この下にあるものは、おそらくあなたの想像をはるかに超えたものなの」 「どうやらそのようですね」 「今から一緒に降りてみましょう。その前にどういう経緯で父がここを診療所として使うことになったか話しておくわ」  その初老の紳士は、ひと目見ただけでその持っている物の全てが桁違いであることがわかる、そんな風貌の人物だった。同年代の中では長身といえるその体は過不足のない筋肉をまとい、年齢を重ねいくらか余分な脂肪がついてはいるものの、かつては一点の非をうつ個所のないものだったことが伺い知れる。黒に近い濃いグレーの仕立ての良いスーツは、彼が着ることによってその価値を数倍に高めているようだった。短めの髪は半分ほどが白くなり、それより少し白いものの比率が多い髭が口元を覆っている。血色の良い肌は肉体の持つエネルギーをあらわし、柔らかい表情はいかなる状況下でも揺らがない彼の余裕のようなものを物語っていた。  様々な誹謗中傷や妨害行為に悩みながらも、独自の理念を崩さずに重い病を抱えた人たちを救うために日々戦っているひとりの医師にとって、その人物との出会いは厚い黒雲の切れ目に奇跡的に垣間見えた青空のようだった。その人物は余命宣告を受けたひとり娘の命を救えたなら、医師に対してどのような報酬をも支払う用意があることを伝え、医師は報酬の大小によって他の患者と区別をするつもりの無いことと、患者本人が自分の治療方針を信じて完全に指示に従うことが条件だと伝えた。半年後、その人物の娘は健康を取り戻し治療を終える。医師には多額の現金が支払われたうえ、今後医師の活動に対して向けられるいかなる妨害も瞬時に消し去られることが約束された。そしてその人物はある特別な場所を医師の活動の場として提供した。医師がその場所について受けた説明はとても抽象的なものであり、暗示に満ちていた。  《高いところから俯瞰して物を見ろと言う人間がいる。成功した実業家の中には高層階に執務の場や居を構える者も多い。それを否定するつもりはないがそれだけでは不十分なのだ。実際に目に映るものというのはこの世界のごく一部にすぎない。本質的なものを見る為には逆に地底に向けて穴を掘って行くような作業が必要になる。もちろん比喩的な意味でだが。そして深く深く穴を掘り進めながら意識は逆方向に、つまりより高く上へと登って行く。大切なのは心の眼で見るということだ。そして穴を掘る場所も重要になる。この世界には穴を掘るべき場所というものがあるのだ》  医師は診療活動の拠点をその場所に移した。それ以来その紳士は医師の前に姿を現すことは無かったが、約束された通り医師の活動を妨害するような行為はなりを潜めた。時にはその兆候のようなものが見えはしたが、それはいつもほどなく消え去った。医師は提供された場所で活動を続け、やがて代替医療の世界での第一人者になっていった。               第6章  掘るべき場所  地下への入り口は第1施術室という部屋の奥にある。施術室と聞いて抱くイメージとは様相の違う、サロンか応接室という雰囲気の場所だった。妹さんの話では、それはかつて若い画家が絵を描いていた部屋であり、あの人物が訪れた際には、この部屋で画家の創作している姿を眺めたり、彼と話をしていたということだ。 「その若い画家と言うのはその後どうなったのですか?贋作でどんなに才能を発揮したところで世に出ることは出来ないでしょう」 「父もそれが気になっていろいろと調べたらしいけど、結局はっきりしたことは分からなかった。何せ古い話だし、事の経緯が辿れないような仕掛けもされていたみたい。ただ噂の域を出ない情報としてひとつだけ分かったことがあった。その若い画家は自分の描いた贋作の山に油をかけて燃やし、そして自らの身体に火を放った。この下のワインセラーで」 「そんな・・」 「あくまでも噂よ」  そう言いながら彼女が第1施術室の奥にあるドアを開けると、ひんやりした空気が私の頬のあたりをかすめた。なんとなく懐かしい匂いを含んだその微かな風は、いくつかの記憶の断片を私の脳裏に蘇らせた。ドアの向こうは3畳間ほどの小部屋になっていて、その何もないガランとした空間の突き当りにやや小さいサイズのドアがある。一見するとそれと分からないよう意図的にデザインされた、壁と同じ素材と色のドアだった。 「ここで実際に診療をしていた頃は隠し扉だったの。このスペースは物置みたいにしておいてね。患者さんがうっかり見つけてしまうと騒ぎになるでしょ」  そう言いながら彼女は車のドアを開けるように指先を差し込んでそれを引き開けた。 「少し急な階段になってるから気をつけて。手摺りをしっかり掴んでね」  彼女の肩越しにかなり長い階段が続いているのが見える。壁に埋め込まれている照明の光量は十分で視界はクリアだった。幅は広くないけれど頭上には余裕があるために圧迫感は無く、手摺りに頼れば勾配も気にはならない程度のものだった。私は足元に気をつけながら無言で彼女の少し後に続いて階段を下りた。うなじのあたりで束ねた彼女の髪の毛が歩に合わせて揺れた。途中にある小さな踊り場で折り返し、合計で30段ほどの長い階段を降りるとやはり3畳ほどのスペースになっていた。階段の勾配を考えるとおそらく地下3階くらいの場所まで降りた感じになるのだろう。 「ここが地下通路の入り口よ」  彼女が正面の重そうなドアの取っ手に手をかけてゆっくりと引くと、少しひんやりとした空気が流れ込んだ。階段の上で感じたのと同じ懐かしい匂いがした。 「もっと暗くてジメっとした所をイメージしていましたけど、ぜんぜん違いますね。ちょっと古めかしい雰囲気はありますけど、こんなにしっかりとしたものだとは」 「百年近く前に最初にこの地下道が作られた時には、まさに洞窟のようなものだったでしょうね。戦時中にここの重要度が増して大掛かりな改修と補強工事が行われ小型の車両が通れるようになった」 「その頃は武器や弾薬を積んだ車がここを行き来していた訳ですね。なんだか映画の中の話みたいです」 「そうね。でも僅か70数年前の現実の話よ。日本の敗戦によって軍が解体されて、総司令部の指揮の元で戦後処理が行われた。当然この北側にあった軍需工場も閉鎖されて、その時にこの通路のことも問題になったはずなの。都心にも多くの秘密の地下通路があって、そのほとんどがその時に閉鎖されたという話だから。でも意図的に残されたものもあった」 「ここをお父様に譲ったその人物の力でここが例外的に手つかずで残されたということなんでしょうか?」 「彼の年齢を考えるとそれは無いわね。でも何らかの経緯で彼がこの地下を管理するようになり、そしてその財力でこれを造ったということだと思う。それに手つかずと言う訳ではないの。この通路は北側の軍需工場、つまり今の防衛省の施設からここを通って南に延びていた。その話はさっきしたわよね」 「はい。そしていま高速道路が通っている場所で東に折れ、川の下をくぐって都心方面に向かっていたんですよね」 「ええ、そして現在はここから北、つまり元の軍需工場までの区間は完全に閉鎖されていて、南側も高速道路のところまでで止まっているということなの。北側に関しては戦後まもなく潰されたらしいけど、南側は川からの浸水が大きくなってこのままでは危険だという理由で、30数年前に閉じられたそうよ。そしてその後も補修や補強工事を繰り返しながら残されたこの区間を維持してきた。巨額な資金を投じてね」 「どうしてその人は、そこまでしてこの地下にこだわったんでしょうか?」 「父もそのあたりの詳しい話は聞かなかったみたい。まさか東京郊外の何の変哲もない場所の地下にこんなものがあるなんて思わないから、とにかく驚いてしまって」 「映画館にパーティホールに巨大なワインセラー、でしたね」  その地下通路には所々に細い脇道のようなものがあり、その突き当りには扉があった。最初に案内されたのは映画を上映する部屋だった。学校の教室程度のこじんまりとしたものだが、正面のスクリーンに向かって緩やかに傾斜した床に30席ほどのシートが備え付けられている。経年劣化による傷みが激しかったけれど、当時は品の良いミニシアターと言った感じだったのだろう。いくつか案内された部屋の全ては予想外の質の高さで、作った人のこだわりが強烈に伝わって来るものだった。 「次はワインセラーよ。私はここがいちばん好きなの。父もそう言ってたわ」  とても興味があったけれど、若い画家の焼身自殺を思うと少し気味が悪い気がした。そのせいか、彼女が扉を開けると他の場所とは明らかに違う空気がそこにはあった。湿気、匂い、光、そのすべてが特別だった。そこで私は奇妙な体験をした。その空気の中で私は意識が遠のいていく感覚に襲われ、そして自分の中に存在するあらゆる感情と対峙することになる。喜び、怒り、嫉妬、憧れ、孤独、私は少女に還り、次の瞬間には老婆へと姿を変える。断崖絶壁に立ち、果てしない草原に横たわり誰かを待つ。誰かを。遥か上空から青い地球を眺め、深い泥の中にゆっくりと沈む。深く深く。そして私は確信を持つ。間違いなくここはあの場所だ。理事長が若い頃見た夢の中で創作のインスピレーションを得た場所。私は今その同じ場所にいる。巨大な木製の樽が並び、実用的で飾り気のない照明器具が等間隔で吊り下げられている。ただひとつ決定的に違っているのは、その威圧感というようなものが無いことだ。理事長が感じたという耐えられないほどの威圧感。そういうものは全く感じられなかった。ただ様々な感情が私の中を通り過ぎ、目まぐるしく変わる風景の中で私はどの場所にも定まることが出来ない。気が付くと私はあの扉の前に立っている。それが現実の扉なのかそれとも私のイメージの中にのみ存在するものなのか、私は判断することが出来ない。そしてドアノブに手を伸ばした時、それが現実の扉であることを知る。 「その扉は開かないわ」  彼女の言葉に私は我に返る。 「大丈夫?様子が変だったわよ」  彼女が心配そうに私の顔を覗き込んだ。 「大丈夫です。あの、私どうしたんでしょう」 「ここに入ったら、あなたひとりでどんどん歩いて行っちゃうし、私の声も聞こえてないみたいで」  辺りを見渡すとそこはついさっきまで私が見ていたものとは違っていた。巨大な樽もなく照明もごく普通の蛍光灯に替わっている。そもそもそこはそれほど大きな空間ではない。10畳ほどのスペースに比較的大きな木製の机が置かれ、その上には書類のファイルや分厚い本などが乱雑に置かれていた。 「すみません私、どうかしてて。あの、ここはワインセラーでは?」 「ええ、ここは関係書類や資料なんかの管理用のスペースだと思う。そしてこの扉、あなたが開けようとしたこの扉の向こうがワインセラーのはずよ」 「はず?」 「実は私この中には入ったことが無いのよ。私だけじゃないわ。誰も入ったことは無い。もちろん父も。父がここを譲り受けた時、すでにここは封鎖されていたの。例の人物からはこの向こう側がワインセラーで、危険だから決して無理に開けようとしないようにと言われたそうよ。父はその言いつけをきちんと守っていたわ。あの人がそう言うならそれは開けてはいけないものなんだと言ってね」 「そうですか。理事長さんもここに来たことがあるんですよね?」  私はさっきの異常な体験が気になって妹さんにそう尋ねた。 「それがね。実は兄はこの地下の存在を知らないの。それが父からの言いつけだった。どんなことがあっても兄をここに入れてはいけないと。理由を聞いても教えてはくれなかったの」  私は理事長から聞いた夢の話と、ついさっき自分が体験した奇妙な状態について打ち明けようとして思い直した。父親としてのその判断には特別な事情があるはずで、それは私が立ち入ることではない。それに今は出来るだけ現実的に考えを進めるべきだという気がした。 「いつもここで仕事をしていたお父様が姿を消したということは、もしかしたらこの扉からあちら側に行ったというのは考えられませんか?何かの方法でこの扉を開けて」 「もちろんそれは私も考えたわ。それ以外には考えられないもの。でもこの扉はしっかりと固定されていてノブはピクリとも動かないし、鍵穴らしいものも見当たらない。まるで壁に描かれた絵みたいにね。  さっき降りた急な階段を上って第一施術室に戻ると、高い位置にある窓から明るい陽光が射し、壁に掛けられた時計は午後1時を示していた。私は妹さんにお礼を言い、父の残したものを調べる約束をして、理事長からの指示通りに大学に向かった。あのとき理事長から持ち掛けられた意味の分からない強引な話が、妹さんからいろいろな話を聞いたことで現実味を帯び始め、夫の行方を知るためにもこの流れに身を委ねるべきなのかもしれないという思いが私のなかに拡がっていった。もちろんその時点で私は、この街で秘密裏に実行されている恐ろしい計画の内容について知る由もなかった。  大学の事務局を訪ねると、理事長の秘書を名乗る男性が対応した。彼の表情には私に対する不信感ややり場のない苛立ちのようなものが滲み出ていた。おそらく理事長から秘書の交代の話がすでに来ているのだろう。 「それで・・ここにはいつから?」  諦め顔で彼はそう言うと、わざとらしくため息をついた。 「またご連絡します」  私はそう答えて大学を後にした。自宅に戻り数日かけて父の遺品からファイルを見つけ、その恐ろしい計画を知った私は、自分が後戻りできないところまで来ていると実感する。その計画と夫が現在おかれている状況との関連は未知のものだけれど、そのルートを辿れば彼に近づけるという確信が私にはあった。当面は私独自の方法で計画の実態を掴もうと、理事長や妹さんにはそのファイルの存在を伏せたまま、秘書として大学に入り込む決心をした。                 第7章 気配  早朝、私のもとに届いた事件報道。夫との連絡が途絶えてからすでに半年が経とうとしていたけれど、その事件に何らかの形で夫が関わっていることは、彼の今までの話を振り返ってみれば明らかだった。大手製薬会社が開発した新薬の認可をめぐる贈収賄。そこには様々な利権が絡み、大きな額の金銭が動いた。逮捕者は製薬会社の幹部と厚労省の役人に留まらず、臨床データの改ざんの為に複数の大学の研究室に入り込んだ製薬会社の研究員と、それを黙認したと思われる数人の大学教授にも捜査の手が入った。ある大物政治家の関与も噂の域を超えていた。 「ほとんどのことは誰かがシナリオを書いているんだ」  夫と連絡が取れなくなる前の晩、彼は悔しさと希望が入り混じったような複雑な表情でそう言った。 「善人も悪人も、権力者も一般市民も、金持ちも貧乏人も誰もがその筋書き通りに動かされている。誰かの手のひらの上で踊らされてるだけなんだ。結局のところ、世の中を変えるにはそこにアクセスするしかない。この世界のおおもとみたいな部分にね」  最後に夫はこう言った。 「もう一歩のところまで来ているんだ」  その事件はしばらくメディアを騒がせ、数人の逮捕者の立件と大臣の引責辞任で一旦の終息を見たものの、製薬業界への不信感とそこから派生した医療業界と権力側の癒着に世間の関心が向かった。事件の発端となったのが向精神薬だったこともあり、新聞やテレビでも精神疾患の患者への薬の処方などに関する批判的な特集が組まれた。ほとんどのメディアのスポンサーに多くの製薬会社が名を連ね、多数の政治家が医師の団体からの献金を受け取っている現状にあって、その展開は極めて意外な出来事だ。歯車の組み合わせが切り替わり、装置がそれまでと違う動きを始めたようだった。誰かがレバーを引いたのかもしれない。静かに、圧倒的な力をもって。  そして私の周辺で微細な変化が起こり始める。もちろん、自分の夫が関わったであろう大事件は表面的には終息を見たものの、その余震のようなものが水面下で私のもとに何らかの影響を及ぼすことは十分覚悟していた。だから私はそれがもたらす不穏な気配を恐れることは無く、むしろ喜んで受け入れた。いまだ消息の知れない彼の現在の状態を知るためなら、どんな物事も受け入れる準備はできていたから。 「ここのところ兄と連絡が取れないのよ。携帯は繋がらないし、病院に電話しても何かしらの理由で今は取り継げないみたいな対応でね」  治療院を訪ねると理事長の妹さんは心配そうに言った。私も連絡を取ろうとしたけれど、長いコール音の後電話に出た男性は、今は検査中のため、ご本人は電話に出られないと説明した。伝言を残して電話を切った後、何とも言えない違和感が残った。あの日訪ねた山の中の病院が幻のように思えた。ねずみ男のようなタクシー運転手もシャム猫のような受付の女性も、実際に存在していたという確信が持てない。この何とも言えない気持ちのざわつきは私に何かを予感させ、そしてその少女が私の前に現れた。人の道から外れていると分かりながら、私が十六歳の家出少女のことを受け入れて彼女に協力しようと決めたのは、彼女のその不思議な魅力に惹かれたことだけが理由ではない。母親に関する妄想的な話の意味は全く理解できなかったけれど、それが私の感じている何かの気配と関係していると直感した。それが私にとって必要なことなのだと。                 第8章 水流              「この下にはとてつもない世界が広がっているということですね」  彼は自分の足元に目をやり、ため息混じりにそう言った後しばらくの間黙っていた。おそらく様々な思いが交錯する中で、状況を整理しているのだろう。 「娘があなたを訪ねた時点で連絡が欲しかった。今更とは言え、とても腹立たしい。それが父親としての正直な気持ちです。でもそれはそれとして、確認したいことがいくつかあります」  彼の意識が短い旅を終え帰って来たような、そんな雰囲気の言葉だった。私は、どうぞという感じで軽くうなずいた。 「第一はもちろん娘のことです。あなたは娘の居場所がわかると言った。地上がどうとか。そして今の地下の話。つまり娘が今いるのはこの地下ということですか?だとしたらますます心配になる。だってその計画によれば、警官に拉致された人は地下施設を使って運び出されてるわけで、決して安全な場所ではない。ふたつ目は、娘が助けようとしているのが自分の母親だというけど、その意味についてあなたはどこまで理解しているのか。今の話を聞いても僕には全く意味が分からないから。そしてもうひとつ。その恐ろしい計画がそんな中途半端に実行されているということは、あなたもかなり危険な状態にあるわけですよね。そして僕も。あの事務長にとってあなたはもともと邪魔な存在だし、ボクは実際に昨夜あんな危険な目に遭った。正直言ってボクはいま怖くて仕方がない。娘のことが無ければ今すぐこんな街から逃げ出したい。あなたは怖くないのかな?ずいぶん冷静に見えるけど」 「私の母はまだ私が子供の頃に突然亡くなりました。父も昨年癌で死にました。そして主人が私の前から姿を消した。私はいったい何を恐れればいいのでしょうか?あなたからは私は強い人間に見えるのかもしれないけど、強さとは恐れが無いということとは違う。本当に強いのはあなたのような人だと思います」 「僕は強くなんかない。ずっと逃げ回ってきた気がする。うまく言えないけど、20年ぶりにこの街に来てやっと分かった。なんだかんだ言い訳しながらずっと逃げて来た。子供の頃からずっと。いろんなものから逃げ続けて来た」 「でも今は逃げずにここにいるわ」 「父親だからね。こんな人間でも」 「さあ、ハルちゃんの話をしましょう。お父さん」  彼女を私の部屋に泊めた翌朝、私は久しぶりに晴れやかな気分で目を覚ました。夜明け前に雨は止んだらしく、湿った桜の葉が朝日を反射して輝いていた。私は冷蔵庫にあるもので簡単な朝食をつくり、彼女も手伝った。 「あの後は眠れた?」 「はい、ありがとうございました」  朝の光の中の彼女は昨日より少し幼く見えた。 「さあ、とりあえず何から始めたらいいかしらね。あなたのお母さん探し」 「少しここの中を見て回りたいんですけど」 「そうね。この大学自体に何かお母さんに繋がるものがあるなら、その辺りから始めるしかないわね。私も今日は特に何もないからあなたに付き合うことも出来るけど、どうする?あなた一人の方がいい?」 「できれば一緒に。お願いできますか?」 「分かったわ。食べたらすぐ出かけましょう。ところで昨日見せてくれたあの模様、もう一度見せてくれる?」  彼女は立ち上がってハンガーに掛けてある上着のポケットから紙片を取り出して私に手渡した。 「きのうは見覚えがないと言ったけど、実はほんの少しだけ気になったの。どこかで見たことがあるようなって。でも今こうしてじっくり見てみても、やはり思い出せることは何もないわね。ただ何となく気になるというだけで。あなた自身もこれの意味するところは分からないのよね?」 「はい。ごめんなさい、自分で描いておいて」 「いいのよ、大丈夫。私もまた何か思い出すかもしれないしね。ところであなた、携帯は持ってないの?」 「持ってないです」 「そうなのね。じゃあこれを持っていてくれる。いつも一緒にいるわけにもいかないから、私との連絡用にね。ここを押してからシャープ1を押すと私の携帯にかかる。バッテリーはかなり長持ちするけど、この部屋にいる時はここで充電しておいてね」  私はそう言って、充電器から外した来客貸し出し用の電話を彼女に手渡した。午前九時の大学の構内は、1限目の講義を受ける学生で賑わい始め、その空気には猶予期間という特権を与えられた者だけが持つ独特なエネルギーが含まれている。16歳の家出少女の目にその風景はどんな風に映っているのだろう。彼女の表情からはこれと言った感情は読み取れず、ただそこにあるものをそのまま受け取っているように見える。その横顔を見て気づいた。出会ってからまだ丸一日も経っていないのに、私はこの少女に親密さのようなものを抱いていると。それは、長く離れていた親友に会う時と似ている。初めは少しの緊張感と居心地の悪さを感じるけれど、間を置かずしてその違和感は消え、空白の時間は無いものになる。そんなことを考えながら歩いていると背後から不意に声をかけられた。 「秘書さんに会えたのね。よかったわ」  振り返るとあの小柄な女性が立っている。彼女は少女にそう声をかけると、私を見て大袈裟に微笑んでお辞儀をした。半月前くらいから事務局で働き始めたその女性はいつも忙しそうに構内を動き回っていた。彼女が何をそんなに急いでいるのかは全く分からなかったけれど、そのコミカルな特徴のある動き方には不思議と好感が持てた。 「はい。昨日はありがとうございました・・」  少女がそう言い終わらないうちに、その女性は首から下げたデジタルカメラを自分の顔のあたりに掲げて話し始めた。 「あなた写真撮らせてくれる?事務長から急に言われてね。何でもいいから写真撮って来いって。キャンパスの風景っていうタイトルに合うやつをね。まったくあのジジイ腹立つわ。出勤したら急によ。お茶の1杯くらい飲ませろっての。それでさっきから駆け回ってあれこれ撮ってるんだけど、なんか今ひとつなのよ。なにかこう、つまらないって言うか、そうそう、躍動感みたいなものが無いわけね。それで考えてみたんだけど、やっぱ学生さんの顔が写ってないからだって思ったのよ。だったら適当に学生さんを写しちゃえばいいって思うでしょ。それがだめなのよ。最近はほら、肖像権がどうとか個人情報が何とかって言って、下手に写真なんか撮ったら訴えられたりして大変なんだって。だから撮れるのは後ろ姿くらいね。事務長からもきつく言われてるのよ。学生さん撮るときは前もって許可を得て、それで大学の広報目的に使っていいか確認しろって。しかもよ。口頭じゃだめで必ず書面でサインまで貰っとけって。バカでしょ。そんな風にして撮った写真に躍動感が出ると思う?だいいちそんなことやってたら日が暮れるわ。でしょ。だから人の顔が写りこまないようにって苦労して撮ってんの。で、結果、躍動感が無いわけよ。だけどさ考えてもみてよ。キャンパスの風景に学生の笑い顔とかが写ってないってどうなのよ。そんなのその辺の公園と変わらないわ。だからほら、よく大学のパンフレットなんかに載ってる学生さんってみんなプロのモデルさんなんだって。モデルさんとカメラマン雇って、もちろんお金払ってね。それが結構なお値段らしいのよ。あのドケチな事務長がそんなことする訳ないでしょ。だから私がこんなに苦労してるってわけ。ね、私ってかわいそうでしょ。だからお願い。協力して」 「あ、いえ、写真はちょっと・・」  彼女の勢いに押されながらも、少女がそう言って断ろうとしたけれど、それを遮るように話は続いた。私は口を挟もうかと思ったけれど、やめておいた。なんとなく、彼女の話には聞く価値があるように思えたからだった。 「あのね、私写真の腕には結構自信があるのよ。こう見えても高校時代は新聞部の部長だったのよ。そして写真も私の担当。編集長兼カメラマンよ。まあ部員が3人しかいなかったから必然的にそうなるわね。その頃の私の夢はね、新聞記者になることだった。そして世の中の不正を暴くの。でもダメだった。全部落ちたの新聞社。どこも私を必要としなかった。でもね、今ではそれでよかったと思ってるの。これ負け惜しみじゃないのよ。だって今の新聞見てみてよ。あ、あなた新聞なんて読む?今の若者は読まないわよね。でもそれ正解よ。だってほんとのことなんて全然書いてないじゃない。でも嘘も書いてない。ね、ややこしいわよね。さすがに嘘を書いたらまずいでしょ。だから奴らも知恵を絞った。それでほんとのことを書かないようにした。そうするとあーら不思議よ。嘘がほんとのように広まるのね。名付けて報道しない自由作戦。正義を愛する私としてはそんな仕事はごめんだわ。ということで今はしがない事務員さんってわけ・・。で、なんだっけ。あ、そうそうだから安心して写真を撮らせて。うまい具合に撮ってあなただって判らないようにするから。テーマは躍動感よ」  少女は彼女が手に持っているカメラを見つめながら何かを考えていた。長い話の中から自分に関係のある部分を拾って、考えを整理しているようにも見えたし、ただ単に戸惑っているようにも見えた。そして口を開いた。 「分かりました。私の写真を撮ってください。べつに私だってわかっても構わないです」  女性はカメラから手を放して両手で少女の手を取った。 「ありがとう。あなたとってもいい人ね。これであのジジイに小言いわれなくて済むわ・・あ、それで撮った写真なんだけど・・」 「好きに使ってもらって構わないです」 「ありがとう。大丈夫よ。私がいろいろとうまくやっとくから」  少女にそう言うと、私に了解を求めるように少し首をかしげた。私は彼女がそう言うなら問題ないという風に軽くうなずいた。撮影は数分で終わり、女性は満足そうに建物の中に入っていった。 「なんだかおかしな人ね。でも良かったの?写真」  私がそう言うと、少女は大丈夫と言う風に小さくうなずいた。少女がその女性に不信感のようなものを持っていないのが分かったし、私も同じように感じていた。ずっと昔に会ったことがあるような、そんな懐かしさを感じさせるところのある人だった。彼女が去った後、私たちは午前中いっぱい大学内を見て回った。お昼には大学を出て前日に行った店で昼食をとり、午後も大学の中を少し歩いた。そんな日が数日続き、必要な際には打ち合わせ通りに彼女は私の姪を演じた。初めに予感したとおり、彼女との奇妙な共同生活は私にとって刺激的なものになった。少女の口数も次第に増え、私たちは年の離れた姉妹のようにいろいろな話をした。 「好きな男の子とかいるの?」 「そういうのはいません。何て言うか、あまり興味が無いし」 「あらそう。いちばん憧れる年頃だと思うけどな。そういうことに」 「周りではみんな騒いでるけど、あまり良く分からなくて。そういう気持ちが」 「まあ人それぞれね。何も問題は無いわ。私もどちらかと言えばそうだったかな。結婚したのも遅い方だったしね」 「結婚?してるんですか?」 「ええ、話してなかったわね。まあいろいろあって、けっこう複雑なの」  私は少女に夫のプロフィールと、今は彼の行方が分からないことを話した。16歳の高校生にどこまでの話をしようか迷ったけれど、結局はほぼすべての事情を話すことになった。この子にはあまり隠し事をしない方がいいように思えた。私が話し終わると、少女はしばらく黙って何かを考えていた。夫の失踪の話は彼女にとっては重すぎたのかもしれない。 「ごめんね。何か暗い話で」 「いえ、そんなことないです。ただなんとなく、結婚してるっていう感じが全然しなくて」 「そう?」 「旦那さんのこと、心配ですか?」  しばらくして少女が言った。私は、もちろんと言うように大きくうなずいた。 「どう?あなたの特別なその感覚で夫の居場所がわかったりするかしら」  私がそう言うと、少女は驚いたような表情で私を見た。 「ごめんなさい。冗談よ。嫌なこと言っちゃったわね。ほんとにごめんなさい」 「いいんです。大丈夫」  少女はべつに気分を悪くしたわけでは無いようだった。ただ一瞬何か特別な感情が彼女の中に生まれたのは確かだった。私は空気を変える為に何か面白い話をしようと思った。 「私これでもかなりモテたのよ。高校でも大学でも結構優秀な男性が周りにいてね。卒業した後も彼らとの交流は続いていて、年頃になるとそのうちの何人かが私に結婚を申し込んだ。みんな将来の社会的な地位みたいなものを約束された人ばかりだったから、誰を選んでも周りからは祝福されたと思う。でも私は誰のプロポーズも受けなかったの。自分では全くそんなつもりは無かったけど友人たちからは魔性の女呼ばわりだったわ。いろんな男性を翻弄して楽しんでるみたいに」 「魅力的な人がいなかったとういうことですか?」 「そう言う訳じゃないの。みんなそれぞれに素敵だった。中でもひとり本気で結婚を考えた男性もいたわ。彼は東大を出て官僚になった。しかも有能で出世も間違いないって言われてたの。人格的にも問題なかった。たくさんのものを持っているのに、それをひけらかすような所のない人。エリートには珍しいタイプよ」 「でも結局その人を選ばなかったのは?」 「彼はひとつ大きなミスを犯したの」 「ミス?」 「ずかんそくねつ・・っていう言葉は知ってるでしょう?」 「はい。頭寒足熱、知ってます」 「その彼はね、それを、とうかんそくねつって読んだの。ねえ、信じられる?東大を出て官僚になって出世を約束された男が、とうかんそくねつって。私は許せなかった」 「もしかしてミスって・・」 「そう」 「それが結婚しなかった理由?」 「そうよ。おかしいでしょ。でも私は許せなかったの。普通の人がそんなこと間違えたって笑って教えてあげるわ。間違いよ。恥ずかしいから覚えなさいってね。でも彼がそれを言った時、私は言葉が出なかった。私の中に物凄い怒りが込み上げて、殺意さえおぼえたの」 「殺意・・」 「冗談よ。でもそれが理由で断ったのは本当。そして今の夫と結婚したの」 「もしも旦那さんが同じ間違いをしたら?そのとうかんそくねつの」 「もちろん笑って指摘してあげるわ。私思うのよ。他人を許すっていうことが人間にとっていちばん大事なんじゃないかって」 「でも許せない人もいる・・」 「そういうことね」  少女の母親探しには全く進展が見られなかった。大学の敷地内はくまなく回った。それも何度も。しかしヒントのようなものにすら出会うことは無く、彼女の希望もあって私たちは街を歩いてみることにした。この街の秘密を考えれば、それはとても危険な行為だというのは分かっている。家出した未成年者をそれと知りながら隠避しているのだから、法的には誘拐罪が適用されることさえある。しかし、行き詰った状況で気分転換が必要なことも確かだった。 「あなたの好きに行動していいけど、絶対に私の傍を離れないようにね。何かの加減で警官に職務質問とかされて家出してるのがバレたらまずいでしょ」 「分かりました」  彼女は素直にそう答えた。私達は少女の思うままに歩き、彼女が立ち止まると私も止まった。時々興味深そうに何かを見つめたりもしたけれど、発見と言えるようなものは無いようだった。駅前のコーヒーショップは賑わっていて、テラス席は学生たちで満席だった。 「ここで飲み物でも買って公園で一休みする?」  私の提案に彼女は小さく首を振った。 「でも公園には行きたいです」  私達は駅前の石畳を横切って公園に向かった。その中央にある芝生の広場のところで少女が立ち止まり、しばらく足元を見つめていた。その時間が長かったので私が声をかけると、今度はそのままの場所で空を見上げ、目を閉じた。 「水」 「水?」 「たくさんの水。真っ暗なところを流れる水」 「流れる水・・川か何か?」 「川・・」 「暗いところというのは・・夜の川。それとも・・・地下水とか」 「地下水」  彼女は地下水という言葉に何かを感じたようだった。私はすぐに治療院の地下のことを思い浮かべたけれど、それを彼女に話すつもりは無かった。得体の知れないあの場所のことにこの少女を巻き込むわけにはいかない。私はもうひとつの地下の話をすることにした。この街の再開発の際に造られた地下施設。街の美観を守るための大規模な共同溝があり、ごみの収集や緊急車両の移動にも使われていることや、水害対策としての巨大な地下貯水槽によって河川の氾濫を防ぐ仕組みになっていることを。もちろん、その共同溝があの恐ろしい計画に利用されている可能性については話さなかった。 「その地下の共同溝っていうのは誰でも入れるんですか?」 「誰でもは無理ね。設備の保守点検の業者さんとか、ごみ収集の関係者。あとは警察とか消防とかかな。何か気になる?さっきの水の話?」 「はい・・いえ、ただ何となく」 「共同溝には水道や下水も通ってるから、水は流れてはいるけど・・」 「その、大きな貯水槽っていうのは入れるんですか?」 「そっちの方は誰も入れないわね。緊急時には水でいっぱいになるらしいから、簡単に人が入れたら大きな事故になるでしょ。でも私は入ったことがあるの。年に二回くらい見学会みたいなイベントがあって、抽選に当たると入れるのよ。まあ私は関係者ということで入れてもらったんだけどね。大学の地下に共同溝への連絡通路がある関係で」 「大学の地下ですか?」 「そう。でもそこからは入れないわ。あくまでも緊急用の出入り口ということで、大学関係者も鍵は持ってないの」  少女はまたしばらく黙って足元の芝生を見つめていた。彼女の意識はここでは無くどこか遠くにあるように思えた。それは遥か宇宙にある意識の保管場所なのか、暗い地下深くを流れる水の畔なのかは分からなかったけれど。私はしばらく待ってから少女に声をかけ、どこか行きたい場所はあるかと尋ねた。川が見たいという彼女を連れ、堤防を越え川岸に整備された遊歩道に降りると、彼女は鉄製のフェンスに手をかけてきらきらと光りながら揺れる水面を見つめていた。私も彼女の横に立って水の流れを眺め、ふとその横顔に目をやった時に私は確信する。二人が見ているのは決して同じ景色では無いと。時々彼女は独り言のように何かを呟いたけれど、それはまるで複雑な暗号のようにまったく理解できないものだった。私たちは川沿いに少し歩いてから大学の部屋に戻った。夕食を済ませると、少女は少し疲れたと言っていつもより早くベッドに入った。私も早めに床に就いたけれどなかなか眠れずに、最近自分の中に起こっている不可解な変化について思いを巡らせていた。少女と過ごす日々の中で今まで体験したことのない状態を体感することが増えていた。自分の中に何か強いイメージのようなものが沸き起こり、僅かな時間で消える。それは短い映像のようではあるけれど、はっきりしたものではなく、古い映写機が埃まみれのスクリーンに映し出すモノクロ映画のように、はかなく頼りないものだった。少女の持つ特殊な能力に触発された私が無意識のうちに自ら作り出したものなのかもしれない。それが消えてしまうと私は画像の中身を全く覚えていない。しかし私の中には何か強烈なイメージのようなものが残される。そのイメージの中心にいるのは間違いなく夫の姿だった。彼は薄暗い場所にいて私に何かを語りかけていた。静かに。そして力強く。その内容は分からないけれど、彼が今居る場所が私にははっきりと分かった。私は眠りにおちながらその場所を強く感じた。  翌朝私が目覚めた時には少女の姿は無く、ベッドの足元にはあの気味の悪い模様の描かれた紙片が落ちていた。玄関を確認すると彼女のスニーカーは見当たらず、就寝前に充電器に置いた携帯電話も無く、すぐにかけてみたけれど応答は無い。その後何度コールしてみてもやはり同じだった。                第9章  接点 「それが昨日の朝のことです」  そう言うと、彼は驚いた表情で私を見た。 「それじゃ娘の居場所は分からないということじゃないですか。あなたはさっき・・」 「居場所は分かっています。彼女に持たせた電話には追跡用の発信機が入っているの。そして彼女の靴や上着にも居場所がわかるような仕掛けをしておいた。だから居場所は分かります」 「まるでスパイ映画だ」 「さっきあなたが言った通り、彼女は今、ここの地下にいます」 「ほんとに?あの子はそんなところで何をしているんだ?あなたは知っているんでしょう?」 「彼女の目的は母親を助けることだけです」 「じゃあ母親・・つまり僕の妻もその地下にいるということ?ああ、もう全く意味が分からない。でもとにかくこの地下に降りればあの子に会えるんだね」 「それがそういうわけではないの。昨日の朝彼女が姿を消してからずっと追跡システムで動きを追っているけど、彼女は大学の地下から共同溝を経由して調整水槽に降りた。でもそれは本来不可能なの。共同溝はともかくとして、調整水槽には厳重なセキュリティーがかかっていて絶対に入ることは出来ない。でもとにかく彼女はそこにいて、長い間動きを止めた」 「調整・・水槽って、その大量の水を流し込むっていう・・そんな危険な場所にひとりで行かせるなんて、どうかしてる」 「もちろんそんなつもりは無かったわ。彼女は突然いなくなった。電波を追ったらそこに降りたことが分かったの」 「分かった時にすぐに追いかけることだってできたでしょう。昨日の朝っていうことは、もう丸一日以上経ってるんだ。すぐに助けに行かないと」 「落ち着いて。もう彼女はそこには居ないの」 「どういうこと?」 「動きがあったのは昨日の夕方。あなたが理事長室に来ていた時よ。電話があったでしょう。彼女の信号が突然消えたという連絡だったの。だから私は慌ててここへ来た」 「信号が消えた?じゃああの子の居場所は・・」 「大丈夫。信号はすぐに戻ったわ。そしてその示す場所は、ここの真下だった」 「つまりその調整水槽っていうのはこの地下と繋がってるということ?」 「だったら話は早いけど、それはありえない」 「どういうことか全くわからない。だいたいその追跡システムというのは信頼できるのかな?」 「私たちの追跡システムは完璧よ。間違いない。天才が作ったんだから」 「天才だか何だか知らないけど・・」 「受付のところに若い女の子がいたでしょ。あの子がその天才よ。この狂った計画の中で私たちが何とか活動できているのはあの子のおかげなの。張り巡らされた監視の網から私たちを守っている。この街の全ての監視カメラをモニターし、電子的な通信はほぼ完全にトレースできる。それから、きのう私はあなたが訪ねて来るのを知っていたと言ったでしょ。娘さんから聞いた僅かな情報だけであなたの動きは丸見えになる」 「なるほど、恐ろしい時代だ。それは分かった。一応そのシステムを信じるよ。だとしたら娘はこの下にいる。でもあの子に会えないというのはどういうこと?お願いだから全部話してくれないかな。娘の命がかかってるんだ」 「分かってるわ。もちろんそのつもり。かなりややこしい話になるけど」  この街の再開発事業は計画通りに進められ土木工事が始められた。当初は順調に見えた工事だったけれど、事前の調査では分からなかった大きな空洞が地下にあることがわかり一時中断される。再調査の結果を受けて大幅な設計変更が行われ工事は再開されたけれど、その為に半年以上工期が伸びた。その空洞は治療院の下の地下施設から更に20メートル程深い場所にあり、超音波を使った調査によれば大きさは小ぶりの体育館がすっぽり入る程度で、その八割程までが水で満たされていた。その水が地下水なのか、それともどこからか流入したものなのかは分からないけれど、調整水槽の工事は浸水の可能性を考慮して、その空洞から距離を置いた位置に設計変更がなされ再開された。そ後は大きなトラブルもなく、巨大な調整水槽が地底深くに完成する。不可解なのは、工事完了後の再調査で、その空洞に溜まっていた水が全て無くなっているのが分かったことだった。そしてその後の定期的な調査でも水の存在が確認されたことは無い。 「つまり、娘はいまその空洞にいる。その得体の知れない場所に。そして今までの話の感じでは、僕たちはその場所に入ることが出来ない。違う?」 「その通りね。少なくとも今のところは」 「今のところって・・」 「彼女は今そこにいる。そして私の夫も」 「あなたのご主人?どういうことか全く意味が分からない」 「私は確信しているんです。ワインセラーにつながるあの開かない扉。夫はあそこからあちら側に行ったと」 「扉?だとして、いったいどうするつもり?その扉はどうやっても開かないと・・」 「だから、あなたの力を借りたいと言ったでしょ」 「よく分からないな。僕は別に怪力の持ち主ではないし、扉を開けるプロでもない。役に立てるとは思えないけど」 「私にも確証があるわけでは無いの。でもね、娘さんと話していて感じたの。あなたの奥さん、もちろんそれは本当の奥さんとは別なわけだけど、その人を助け出すためには最後にはあなたの、父親としてのあなたの力が必要なんだと」 「悪いけど、僕にはその、娘が助けようとしている母親という話についてもほとんど意味が分からないんだ。だから僕の助けがどうのと言われても何のことかさっぱり分からないよ」 「この際それは分からなくていいわ。とにかくあの子はあなたの助けを求めてる。だからあなたをここに呼んだんだと思う」 「娘が僕を呼んだって?それは違うよ。妻が偶然写真を見つけたんだ。ネットの記事で。僕はそれを手掛かりにここに来ただけさ。これ以上混乱させないで欲しい」 「そうね。それも私の直感みたいなものだから、そのことは忘れて。とにかく、私はあなたならあの扉を開けられると信じているの」 「なんだかよく分からないけど、ここでぐずぐずしているわけにはいかない。それで僕はまずどうしたらいいのかな?」 「やることはひとつ。深く降りるだけよ。今すぐ私とこの地下に降りて。急がないと雨になる」 「雨?だってさっきまであんなに良い天気で・・」  彼はそう言って高い位置にある窓を見上げた。窓から見える青空には僅かに雲がかかっているだけだった。 「私わかるの。雨の気配。それも激しい雨。止まない雨。雷の音」 「その雨とこの地下と何か関係が?」 「繋がっているの。全てが。とにかく急ぎましょう」  私はクローゼットからふたつのリュックを出して中身を点検した。手動発電機付きの懐中電灯、小さく折りたたんだ防寒着、金属製のフックが付いたロープ、厚手の手袋。彼はそんな私の姿を黙って見ていた。 「まるで登山にでも行くようだね」 「そうね。進む方向は正反対だけど、本質的には同じことかもしれないわね」 「哲学的な意味?」 「違うわ。現実的な問題よ。どちらも恐怖を伴う行為だもの。上に上がれば上がるほど落下の恐怖は大きくなるし、深く降りれば降りるほど圧し潰される恐怖は増すわ」 「どちらかと言うと落ちる方がいいかな。実は狭いところは大嫌いなんだ」 「そう。じゃあきっといい経験になるわね」  地下通路はいつもより湿度が高いように感じた。始めてここに降りた時の私のように、彼の表情は驚きと好奇心に満ちていた。 「想像をはるかに超えているよ。これほどの物とは思わなかった」 「時間がないわ。ワインセラーはこっちよ」  ドアを開け私が中に入り彼が後に続いた。デスクの上の本や書類は前回来た時と同じ配置にあって、誰かがここに来た気配は全くない。いつもと違うのはやはり湿度だった。さっき通路で感じたよりもさらに空気は湿気を含み不快なほどに肌にまとわりついた。もしここが今もワインセラーとして使われていたなら、状態としては最悪なものだろう。 「なんだか蒸し暑いね」 「変だわ。いつもはこんなことないのに。何かが起こっているのかも。その扉の向こうで」 「扉・・あれがその?」 「そう。あの向こうにきっと」 「娘がいるんだね?」 「ええ。彼女のいる場所にきっと繋がってるわ。だから・・」 「分かったよ。開ければいいんだね。やってみる」  彼は意を決した表情でドアに近づくと、ノブのレバーに手をかけた。蝶つがいが微かな金属音を立ててゆっくりとドアが開いた。今まで何度試してもビクともしなかったドアが当たり前のように開くのを見て私は混乱した。それはあの時と同じだった。理事長に会うために行ったあの寂れた温泉地の駅前の景色を見たあの時と。私はこのドアを開けたことがある。でもそんなはずは無い。理事長の妹さんと初めてここに来た時も、そしてその後何度も試したけれど開く気配すら無かった。まるで自分の記憶に誰かの記憶が割り込んだような、不快な感覚に戸惑った。 「開いたよ。どうすればいい?入ってもいいのかな?」  彼の声に我に返り、その肩越しに見えるドアの向こう側の風景に私は確信した。それは理事長がかつて夢の中でしばしば訪れ、創作の為のインスピレーションを受けたという、あの場所だと。 「ええ、入りましょう」  私の声は微かに震えていた。彼に続いて入った私は更に確信を強くした。薄暗い倉庫のような場所。通路の脇に並ぶ巨大な木製の樽。吊り下げられた飾り気のない照明器具。そして感じる圧し潰されそうな威圧感。 「これは・・ワインセラーと言うレベルのものじゃないね。まるで醸造所の貯蔵庫だよ。どうしてここにこんなものが」  驚いてはいるものの平然としている彼の様子に、この得体の知れない重圧を感じているのは私だけだということが分かる。それは私にだけ重くのしかかり、喉元を締め付け、胃の中に重い塊をねじ込んだ。足元から無数の手が私の体を這い上がり床の中に引き入れようとしている。もう立っていることすらできずしゃがみ込んだ。 「大丈夫?具合が悪そうだけど」  私の異変に気付いて彼が心配そうに言う。自分のものとは思えない記憶が、途切れ途切れの映像となって意識の隅を通り過ぎる。私に背を向け遠ざかっていく夫の背中。私の身体を揺さぶる年老いた手。その手は私を離れ彼を追う。そしてふたりの姿は私の視界から消えた。その先の、彼らの目に映る情景が私の意識に投影される。そのごつごつとした岩肌の手触りも、まるで今この手で触れているようにリアルに感じる。そして微かに耳に届く水の音。 「私・・これ以上は進めないみたい。ひとりで・・ここから先はあなたひとりで行って」 「じゃあ一緒に戻ろう。そんな状態じゃ・・」 「いいから!私は大丈夫だから、早く!あの子を・・」 「分かった。でも、この先どうすれば・・」 「このまま行くともうひとつドアがある。それを・・開けて・・その先に道がある。そしてあの子に・・会える」 「分かったよ。行ってみる。でもほんとにあなたは大丈夫?」 「大丈夫。だから急いで・・早く・・それから、彼に・・もし彼に会ったら、私が間違ってたって‥伝えて・・。」 「ご主人だね」  私はうなずいて早く行くようにと前方を指さした。彼は立ち上がり、私を気に掛けながら前に向き直って先へ進んだ。目で追うその背中がかすみながら大きく歪み私の視界から消え、高い天井から下がる照明の明かりが見えた。きっと私は床にあおむけに倒れこんだのだろう。そんなことを思いながら薄れゆく意識の中で様々な情景が現れた。森の中の白い病院。逃げ惑う鼠の群れ。無数の猫の死骸。微かな雷鳴。そして死の床の父のやせ細った手。幸せそうな家族の写真。父と母と私とそしてよく似た顔のふたりの小さな女の子。私は僅かに残った力を振り絞り叫んだ。 「お母さん、助けて」
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