5.白昼夢の終着点

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屋根の下から眺める雨が細く細かくなって、カーテンのように視界を曇らせていた。 この世の綺麗な物だけを見ている人は、世間知らずのように揶揄されることもあるとしても、やはり透明な感受性を養うためには必要なことのように思われる。 そして綺麗じゃない物を見慣れている私は、ピアスを開ける痛みには耐えられるけれど、恋とか喪失とかで傷つくことだってあるにはあるのだ。 結局は弱い部分を護るのに精一杯で、自分のそんな状態さえもうまく言葉に表せない。折々に訪れる感情にはわざと名前をつけずに、蓋をして海に流してしまったから、今はもう、遠くに離れていて届かない。 いつかは多分好きだった人たちの声さえも、香りさえも上手く思い出せなくて、鼻の奥がツンと冷たくなる。 死なせてしまった親友は、私のこのどうしようもない欠落に、何か関係があるのだろうか。 それとも、伊吹が死ぬずっと前から、彼が私に意味のないキスをした夜のそのまた前から、私はずっとこうだったのだろうか。 まだ濁っていない雨が足下を流れていく様子を眺めながら物思いに耽っていると、真子が(おもむろ)に私のマスクに指を掛け、下向きに引っ張って顎の辺りまで下げた。 「……私ね、悪いひとが好きなの」 「うん」 知ってる。 「あとね、煙草吸ってるひととか、ピアスあいてるひと、ものすごーーく好きなの。性癖ど真ん中」 「それは……そんな具体的には知らなかった」 「……職場離れてると会いづらそうって言ったよね。同じ病院の人なら、どう?」 一瞬、屋根の下で雨が降ったのかと思った。 剥き出しの右の頬に、柔らかく湿った何かが優しく触れた。 「……え?」 驚いて真子の方を向くと、もう私から体を離した真子が、くすくすと悪戯っぽく笑っていた。 「職場内恋愛、意外とありなんじゃない?星羅。」 マスクを間抜けにぶら下げたままの私を置き去りにして、小雨のなか傘もささずに、病院の正面玄関まで歩いて行く。 ……おい、ちょっと。 ……いい感じになってた薬学部生とかは一体どうなったんだよ。 真子がなのを改めて思い出し、私は今世紀最大級の溜息をつきながら、真子の背中を追いかけて歩き始めた。 ちょっとだけ自分の口元が緩んでいるのに気付く。 慌ててマスクを鼻まで上げる私のことを、夕雨に染まる冬の空が見守っていた。
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