ストゥラグルの塔・第3幕

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ストゥラグルの塔・第3幕

               第3幕             第1章  善人の村  正しい者が常に勝つのならば、そこには何の解説も説得も必要は無い。もしかしたら来世のようなものの存在に期待する人の数も少なくなるのかもしれない。しかし現実には、善人の村が焼き払われ悪人がその場所に砦を築くというような光景を、わたしたちは頻繁に目にしている。  その朝の教室は異様な空気に包まれていた。わたしはいつものように仲のいい友達に挨拶をしながら自分の席に着いたけど、クラスの皆の視線がこちらに向けられていることはすぐに分かった。無理もない。地元紙はもちろんのこと、ほとんどの全国紙が一面のトップで報じた談合事件は、この地方都市に大きな揺れをもたらしていた。比較的裕福な家庭の娘が多く通うこの学校には、事件報道で名の上がった建設会社の経営者や幹部クラスの家の生徒も多く、単に大人の社会の出来事として傍観できるものでは無かった。 「お父さんの会社はこの事件には関わっていなかったんだから、何も気にすることは無いの。堂々としていなさい」  家を出る時、母はわたしの手をとってそう言った。その日の一時限目は通常の授業が中止になり、中学と高校の全ての生徒が中庭に建てられたホール棟に集められ、緊急の全校集会が開かれた。集会の目的は無用の騒ぎを抑止するためのものだった。しかし当然のことながらそれは逆の効果を生む。生徒たちの間ではその日のうちに事件の関係者を親に持つ生徒がリストアップされ、数日のうちには報道の情報をもとに彼女たちは次々と噂の餌食となって行った。わたしの父の会社は摘発された会社のリストではなく、逆に談合の実態と政治家との癒着を告発した側に名前があった。常識的に考えれば、父もそしてわたしたち家族も、称賛されることはあれ非難を受ける道理は無い。しかし物事はそれほど単純では無かった。  事件報道が一段落し学校内もやや落ち着きを取り戻した頃、わたしには《密告者の娘》というレッテルが張られ、それが陰湿ないじめの始まりとなる。初めのうちはかばってくれていた友達も徐々に態度が変わり、気がつけばクラス全員があちら側にいた。担任に相談をしても状況は変わらず、わたしは学校に行けなくなった。おばあちゃんが生きていてくれたら、と思った。祖母はとても優しくて、そして物知りだった。仕事で忙しかった両親に代わって、祖母が小さい頃のわたしと兄の面倒を見てくれた。今思えばたくさんの大切なことを祖母から教わった。正直に生きること、他人を助けること、そして感謝を忘れないこと。わしが子供ながらに困難に出会うと、祖母はいつも言っていた。 「大丈夫だよ。おてんとうさまが見てるから」 「ねぇおばあちゃん、お父さんは正しいことをしたのに、どうしてこんな目に逢わなきゃならないの?」  でも祖母はもう答えてはくれなかった。祖母が倒れた夜、父は出張で留守だった。わたしが初めに異変に気づいて母に知らせ、母が救急車を呼んで病院に運んだ。しかし意識は戻らないまま翌日の明け方に亡くなった。葬儀の席では、運んだ病院の選択や救急車が来るまでの手当てのことで母を責める声が囁かれた。東京に嫁いでいた父の姉も、何故すぐ連絡をくれなかったのかと母に言いながら泣いていた。祖母が死んでしまった悲しみと母が責められている悔しさに、まだ小学生だったわたしは何も言えず、ずっと暗い部屋で泣いていた。 「みんな勝手なことばかり言って。おばあちゃんのこと、お母さんにまかせっきりで、こんな時だけお母さんのせいにして」  本当はそう言ってやりたかった。事件のことでわたしが学校を休んでいたのは二週間ほどだったと思う。どのような経緯で学校に復帰できたのかはあまりよく憶えていない。たしか、数人の生徒が担任に連れられてわたしの家に来て謝罪をした。その時に交わされたやり取りの断片はかすかに記憶に残っている。ただその子たちが誰だったのかが全く思い出せない。思い出そうとしてもどの顔にもモヤがかかり、頭の芯のあたりが微かに痛んだ。その体験はその後のわたしの生き方のようなものに大きく影響した。それ以降わたしはとにかく嫌われないように、周囲から疎外されないように細心の注意を払うようになった。その為なら居心地の悪い集団に属すことにも耐えたし、自分の本心に蓋をして歩調を合わせもした。ときどき湧き上がる正義感のようなものは、偽善という名につけ換えてどこか奥深くにしまい込んだ。それが正しいとか間違っているとかを判断できる状態ではなかった。その時のわたしに他に選択肢は無く、慣れてしまえば煩わしさは減り安心感のようなものは増していった。大人になってからもそうやって私は周囲との関係を築いてきた。その努力さえ怠らなければ人間関係のトラブルのようなものとは無縁の生活を送ることができた。しかし娘が学校で起こす問題の数々が私をある地点に引き戻す。 「どうしてお友達と仲良く出来ないの?」 「どうして先生の言うことが聞けないの?」 「どうしてお母さんを困らせることばっかり、ねぇどうして?どうして?」  その時の私はいつもハルを責めた。ごめんなさいと言って泣いている幼い子をわたしは責め続けた。そして泣き疲れて眠るハルの柔らかな髪を撫でながらわたしは泣いた。 「ごめんね。でも、お母さんどうしたらいいかわからないの」  娘の平穏な日々を願うわたしの気持ちを夫は理解してくれてはいた。彼の言う通り、主張すべきことはした方がいいというのも、もちろんわたしにも分かっていた。しかしそれが事態を悪化させることも明らかだ。我が子を思う母親の気持ちというものは、他に比較するものを持たないほどの熱量を帯びている。子供同士のことですら感情的になっているところへ親がそういう態度をとれば、どんなレッテルを貼られるかは目に見えていた。少しでもハルの環境を良くする為に、親としては必死で謝罪するしかない。しかしそんなわたしの思いをよそにトラブルの頻度は増していき、周囲との関係の修復はもはや不可能になった。わたしは人に会うことが怖くなり、学校行事への参加はもちろんのこと、近所への外出すら困難になる。あの時の記憶が、忘れてしまいたいあの教室の空気が蘇る。どうしてみんな私を責めるの?私は何も悪いことなんかしてないのに。お父さんは正しいことをしたのに。わたしは体調を崩し心療内科で治療を受け、その頃から嫌な夢を見るようになった。あの気味の悪い建物の夢。灰色の空の下、まるで悪意の塊のように威圧するその建物の前で、わたしは一歩も動けず声も出せない。 「どうしてなの?ハルちゃん」 「どうしてお母さんをそんなに苦しめるの?」 「お母さんは何か悪いことをしたの?」  永遠に続くかのように思えたその問いにヒントをくれたのは、ハルが小学生の時に唯一信用していた図書室司書の女性だった。ハルの卒業と機を同じに小学校を辞め遠方に越してしまった彼女から突然の連絡があったのは、ハルが中学生になってしばらくした頃だった。 「一度ゆっくりお話がしたいと思っていたんです」  何度か会っただけなので彼女の顔を正確に思い出すことは出来なかった。しかし常に口元に笑みをたたえたその表情ははっきりと蘇ってくる。ハルの近況についての話が済むと、彼女は交通事故で亡くなった娘さんの話を始めた。 「私が娘を連れて暴力をふるう夫の元を離れることが出来たのは、娘のおかげだったと思います。ただ私はそのことについて長い間大きな勘違いをしていたと気づいたんです。娘を事故で亡くした少し後でした」  失われてしまった幼い娘の命を慈しみながらも、口元に優しそうな笑みを浮かべているのが想像できた。 「私はずっとこの子を守らなければと思っていました。自分はどうなってもいいからこの子だけは夫の暴力から守らなければと。私は夫にそれだけを懇願し暴力に耐えました。家を出ることも何度も考えましたが、生活面の不安もありましたし、夫から逃げきれるという自信もありませんでした。今にして思えば方法はいくつもあったんです。ただ私に勇気が足りなかっただけで。私は家を出ない言い訳をいくつも考えました。夫にも優しい面があって、そっちの方が本当の彼の姿なんだと思うようにしました。彼を怒らせているのは私に悪いところがあるからだと。そしていつか夫の暴力も止み平穏な暮らしが送れるようになると。今思えば本当に馬鹿げた話なのに、その時の私はそんなありもしない期待を理由に行動することを避けていたんです」  彼女はその後、夫の暴力が娘さんにまで及び始めたのを見て家を出る決心をする。しかるべき相談窓口を通して警察にも協力してもらうことが出来た。支援団体からの経済的な援助と行政上の優遇措置でなんとか生活のめども立った。他の家庭に比べれば生活は苦しかったし、夫から完全に逃げ切れるかどうかという不安はゼロでは無かった。それでも暴力に怯えて暮らす日々から解放されたことは、母子にとって人生が大きく好転した瞬間だった。しかしその数か月後、彼女は娘さんを失った。 「私は絶望の中にいました。本物の絶望というのは本当に何もないんですね。娘の死を知った時、私は錯乱状態に陥りました。事故の相手を恨み、守れなかった私自身に憤り、そして神なのか運命なのか、そういったものに対する怒りで私の身体は張り裂けそうでした。時間を戻せるなら戻して、身代わりになれるなら喜んでこの命を捧げるのに。こんなことになるなら、あの暴力夫のもとで怯えている方がまだ良かったなどと考えてしまうほど私は取り乱していたんです。しかし何日も続いたそんな感情の嵐のようなものが去ってしまうと、次に訪れたのは全く空っぽの状態でした」  彼女は娘さんの写真を胸に抱いてただぼんやりと数日を過ごした。ほとんど何も食べず、人にも会わずに時間だけが過ぎていった。体力的にも限界に近づいていた彼女の中ではひとつの疑問が繰り返される。 「あの子はいったい何の為にこの世に生まれて来たのだろう?私はそのことばかり考えていました。日々目の前で繰り返される暴力に怯え、貧しい暮らしに耐えたあげく無残な事故でその短い人生に終わりが来た。まだ10歳にもなっていないのに。彼女に生まれた意味があったのだろうかって。意味があるならどうして・・どうしてこんなに短い時間で人生が終わってしまったのかって」  彼女は一瞬言葉を詰まらせた。その目からは涙が溢れていることだろう。そして小さな深呼吸が聞こえた。 「そして私は思いました。娘のところへ行こうと。死ねばあの子に会える。そう思いました。娘の生まれた意味と同じように、私がこれから生きていく意味も分かりませんでした。娘が生まれてからずっと、私はこの子を守る為だけに生きて来たんです。それなのにその必要がもう無くなってしまった。方法は簡単でした。このまま何も食べずに横になっていればいいんだと。でも人間はそう簡単に死なないものだとわかりました。何度も夢の中で娘に会いました。そして目が覚める。でも何度目を覚ましても、そこはあの子のいない世界なんです。そんな風にして何日が過ぎた頃でしょう。私はあの子に会えたんです。あれは夢じゃない。少なくともあの時はそう確信できました」  彼女はそのとき娘さんに尋ねた。あなたはどうしてこんなに早く死んでしまったのか?辛いことしかなかった短い人生にどんな意味があったのか? 「娘がどんな言葉でそれを私に伝えたのかははっきり憶えていません。もしかしたらそこには何の言葉も無かったのかもしれない。でも私はあの子からのメッセージをしっかりと受け取ることができたんです。そして私にははっきりと理解できた。私はずっと自分がこの子を守らなければと思っていたけど、本当は逆にこの子の方が私を救い出す為に私の娘として生まれてくれたんだということが」  それを機に彼女は立ち直り、資格を取り司書の職に就いた。命より大切なものを失い何を目的に生きればいいかも分からず、別れた夫の影に怯える気持ちもゼロにはならなかった。でも彼女はもう大丈夫だった。 「私はずっと他人に合わせて生きてきたことに気がつきました。争いごとを避けて、いつも周りの意見に賛同するふりをして。自分の意見が無いわけじゃないんです。だからいつも後になって悔しい思いをする。本当は私は違うのにって。子供のころからそんな自分が嫌でした。でも成長するにつれてその悔しい思いは薄れていきました。大人になるというのはそういうことなんだと。誰もがそうやって人間関係を保っているんだから、別に恥じる必要は無いと」  自分のことのようにその話を聞いていたわたしに、彼女はとても優しい声で言った。 「でもそれは間違いだったと思うんです。今私は、あの時娘から受け取ったメッセージをいつも胸に抱いて生きています。時に人は闘わなければならないということを。大切なものを守るために」  ハルのことで途方に暮れていた私の中でその時何かが音を立てた。そして次の瞬間、大粒の涙が頬をつたい、私は声を上げて泣いた。しばらくそれを止めることが出来なかった。お母さんは一体どうしたらいいの?そう問い続けた日々だった。今にして思えば、わたしは初めからその答えを知っていたのかもしれない。わたしは怖くて、それに向き合うのが怖くて気がつかないふりをしていた。もしもハルが普通の子だったら、わたしは相変わらず周囲とただうまくやることしか考えなかっただろう。ハルが起こすトラブルはあの子の問題ではなく、わたし自身の問題なのだとはっきり分かった瞬間だった。号泣してしまったことを彼女に謝り、お礼を言って電話を切った。その日からわたしたちを取り巻く状況に少しずつ変化が現れはじめた。取るに足らないささやかな出来事の中に希望のようなものが見えた。わたし自身についての何が変わったのかは分からない。でも自分の中に今まで無かった何かが芽生えていることにふと気がついた。うまく言い表すことが出来ないその感覚をあえて言葉にするなら、それは覚悟のようなものだろうか。学校でのトラブルの頻度は徐々に下がり、ハルが友達の話をするようになった。彼女がカウンセリングを受けていた精神科の医師の見解も、もう心配ないというものだった。中学を卒業し何の不安もなく系列の高校に進学する頃には、わたしたち家族は長いトンネルを抜けたような安心感の中にいた。しかしわたしが時々見るあの悪夢だけは止むことが無かった。そしてある雨の朝、ハルが姿を消した。                第2章  真実  またあの夢だった。目を開けると夫が心配そうにわたしを見ていた。ハルの家出からひと月、わたしが夢で見る光景はとても断片的でしかもフラッシュバックのように一瞬にして消え去っていく。あの暗い廊下とあの気味の悪い鉄の扉。前を歩く彼女の長い髪が歩に合わせて揺れている。場面は教室に変わり、悪意に満ちた囁きが彼女を包む。 「思い出した。そう、あの時わたしがいじめから解放されたのは彼女がわたしの身代わりになってくれたから。なぜそうなったんだろう。わたしへの攻撃はピタリと止まり、教室中の悪意みたいなものが彼女に向かった」 「その彼女って、誰のことかはわかってるの?」 「思い出せない・・でも、彼女とわたしは特に親しかったわけでもなくて、正直なところわたしは彼女について殆んど何も知らない・・そんな人だったと思う。誰だろう・・とにかく、その時いじめられていたのは彼女だった。でもわたしは彼女を助けなかった。また自分がいじめられるのが怖かった。だから知らん顔して」  わたしはあの時彼女と話をするべきだった。たとえ彼女を助けられなかったとしても。わたしがまたいじめられることになったとしても。でもそれが出来なかったのは、自分を守ることの方が大事だったから。そして彼女を追いこんだ。あの扉の向こう側へ。あの時わたしには彼女が何をしようとしているのかすぐにわかった。だからわたしは彼女を止めようとした。でも扉は開かなかった。その鉄の扉にはいつも鍵がかかっていて、彼女がどうやってあちら側に行けたのかは分からない。 「わたしは彼女の名前を叫んだの。背中に向かって大声で・・いえ、違う。声が出なかった。そうじゃない。出さなかった。彼女が何をするつもりかわかっていたから。怖かった。わたしには関係ないことにしたかった。彼女が一瞬振り返ってわたしを見た時でさえ、わたしは黙って、ただ黙って彼女を見ていた。あの扉のこちら側から。そして彼女はわたしの視界から消えてしまった・・」 「ちょっと落ち着いて、深呼吸」  取り乱しかけたわたしに夫はそう言って手を握った。 「ごめんなさい。ありがとう。もう大丈夫。でも・・でも私はあの時どんなことをしても彼女を止めるべきだった。勇気がなかった」 「その・・彼女はどうなったの?」  落ち着きを取り戻したわたしを見て夫が静かに言った。きっと聞くべきか迷った末の言葉だっただろう。 「死んだの。屋上から飛び降りて。わたし・・なんで今まで忘れてたんだろう?そんな大事なこと。わたしがいじめられてたことなんかより何十倍も何百倍も大きなことなのに・・」  涙が溢れて止まらなかった。あの時彼女を止めようとせず、しかも今までそれを忘れていた自分を責める気持ちで胸が締め付けられる。しばらくしてわたしが泣き止むのを待って夫が言った。 「あまりに大きすぎたから、憶えていたらとても耐えられないから、忘れるしかなかったんじゃないかな。きっと僕たちにはそういうことが起こるんだよ。誰にでも。だからそんなに自分を責めなくていいと思うよ」  彼に促され、わたしはもう一度眠った。感情の昂ぶりに反してとても静かに眠りは訪れ、翌朝の目覚めはとても心地の良いものだった。それはとても不思議な感覚だった。記憶が蘇ったことで辛い気持ちはもちろんあった。しかしその一方で安堵感のようなものを感じていたのも事実だった。それからも時々彼女の夢を見た。でもわたしはそれを恐れず、まだはっきりしない記憶がそれによって明らかになることを期待すらしていた。数日後、わたしはネット記事でハルの写った写真を見つけ、夫はそれを手掛かりに東京に行くことになった。夢でうなされることの続く私を心配して、夫は留守中実家の母親に来てもらうように頼んだ。夫から手掛かりになりそうな人に会えたという連絡があって、わたしと母はささやかな期待感の中にいた。母と二人でゆっくりと話をしたのは久しぶりだった。わたしは自殺した彼女のことに繋がるような話題を避け、母もその頃の話はせずにわたしが小さかった時の話をした。 「あなたが生まれた夜、お父さん大泣きしてたのよ。おばあちゃんが話してくれたの。あんな姿を見たのは後にも先にもあの時だけだって」 「大泣きしてたって、そんなに残念だったの?男の子じゃなかったのが」 「そうじゃないのよ。お父さん、本当に女の子が欲しかったんだから。お兄ちゃんの時だって女の子がいいってずっと言ってたんだもの」 「うそでしょ。だって私が生まれたとき、病院に顔も見せなかったってお母さんが・・」 「病院でそんな大泣きしたらほら、狭い街だもの。すぐに噂になるでしょ。お父さんそういうのだめだから。東京のお姉さんの話では、お父さん小さい頃は泣き虫で有名だったんだって。それでだいぶからかわれたらしいから、そういうのもあるんじゃない」 「あのお父さんが泣き虫ねえ、なんだか信じられない」 「これ、お父さんには内緒よ。お姉さんにもそう言われたしね」 「東京の叔母さんか・・私あの人嫌いよ。お母さんのこといじめて。おばあちゃんのお葬式のときは本当に腹が立った。お母さんのせいでおばあちゃんが助からなかったみたいに」 「ああ、あれはそうじゃないの。あの人が怒ってたのはね、私の立場を思ってのことなの」 「どういうこと?だって、自分に連絡しないで勝手に判断したからおばあちゃんが・・みたいに」 「違うの。田舎だからね。ほら、いろんな人がいろんなことを言うのよ。嫌なことをね。だからね、自分に連絡をしてくれてれば、こうなった時に私だけが責められなくて済むでしょ」 「そんな・・わたしずっと叔母さんのことを誤解してた。何十年も。どうしよう」 「いいじゃない。今その誤解が解けたんだから。今度会ったらその話してみたら。たぶん叔母さん笑うだけだと思う。そういう人だから」 「うん、そうしてみる。でもどうしてお父さんはそんなに女の子が欲しかったんだろう」 「さあ、わからないけど、そういうのって理由なんか無いのかもね。あなたは男の子がいいって言ってたけど、どう?何か理由があったの?」 「そう言われると特には・・そうね、なんとなくだね。でも妊娠が分かった時は絶対に男の子だと思ったんだけどね。何ていうか、確信があったの。まあ根拠は無かったし、結果的には女の子だったわけだしね。でも・・」  母親との昔話にほんの少し現実を離れていたわたしは、ハルの話題で現実に引き戻され思わず言葉を詰まらせた。母は私の手を取って言った。 「心配しないで連絡を待ちましょ。あの子にはきっとちゃんとした目的があるのよ。書いてあったんでしょ。終わったら戻るって。信じてちょうだい。私の孫を」  わたしは少し笑った。その夜は幼い頃のように母と手を繋いで寝た。そしてとても長い夢を見た。               第3章  長い夢  壁に沿って取り付けられた幅の狭い階段を上っている。自分が今いる場所の全体像を知るには光の量が不足していた。照明らしいものは無く、どこからか入る僅かな光だけが、手足に触れる物の形や空間の拡がりをおぼろげに知らせている。左手の壁はコンクリートのような手触りで、その冷たさはわたしの体の中心にまで届いた。足元の金属製の階段は堅い靴底の音を空間全体に響かせ、ここが比較的広い場所であるのを示している。わたしはやはりこれも金属製と思われる細い手すりに右手を這わしながら、慎重に階段を上った。存在を確認する為にときどき左手で触れる壁の、そのひんやりとした手触りは不思議と私の気持ちを落ち着かせた。ゆっくりと歩を進めるうちに、少しずつ辺りの様子がはっきりとしてきた。暗い場所に目が慣れて来たのか、それとも何かの事情で光の量が増したのか。いずれにしても自分が置かれている状況を把握できることはとてもありがたかく、そこに牙をむいた巨大な怪物や気味の悪い無数の生き物が存在しないことは、ひとまずわたしを安心させた。ここはかなり大きな筒状の空間の中のようだ。壁は極めて緩やかに弧を描き、それに沿って取り付けられた階段は、結果的に大きな螺旋を描きながら上方へと続く。目を凝らすとその螺旋は上へ行くにつれ径を狭めているように見える。しかしそれが遠近法のなせることなのか、それともこの筒状に見える空間が実際には細長い円錐のような形のものなのかは、更に歩を進めなければ判断が出来ない。やや速度を速めて一段ずつ確実に階段を上るわたしの意識を、幾度となく同じ疑問がよぎる。ここはいったい何処で、わたしはなぜここに居るのだろう?そもそもわたしは何のために上へ上へと登り続けているのだろう?しかし本来ならば極めて重要なその疑問は、訪れるそばから何処かへ消え去って行く。自分にとってこの行動が必要不可欠なものだという確信はどのような疑問も寄せ付けはしなかった。  《大丈夫・・》  気のせいかもしれない。靴底が階段を踏みしめる乾いた音に混じって微かに聞える。  《・・まだ間に合う》  遠くの方で、いいえ、すぐ耳元で。  《きっと・・追いつける》  それは実際の空気を振動させて何処からかわたしの耳に届いた声なのか、それとも意識の片隅をよぎった記憶の切れ端にすぎないのか。いずれにしても、それはわたしに何かを届けた。その証拠に、次の瞬間わたしはその理由を既に知っている。この得体の知れない薄暗い空間の中で、疑問にも恐れにも惑わされずにひたすら上を目指す理由を。そして私のものではないもうひとつの靴音が、その理由を言葉に変える。  《彼女だ。彼女を止めなければ》  わたしは彼女を追ってここまで来たんだ。あの廊下から、あのじめっとした北校舎の廊下から、そう、あの気味の悪い鉄の扉を通って。扉?でも、あの扉は・・開かなかった。鍵がかかっていて・・。わたしの足が止まり、彼女の靴音が次第に遠のいて行く。  《大丈夫・・追いつける》  誰の声?聞き覚えのある声。  《急いで》  わたしは迷いを振り切り今までにない速さで階段を駆け上がる。彼女の靴音のする螺旋の上方に向かって。彼女を止めるんだ。上に行くにつれて辺りの様子が更にはっきりとしてくる。僅かな光の源はこの螺旋の先にあるようだ。そしてわたしは、そして彼女も今、そこを目指してこの階段を上り続けている。急がなければ。彼女がその場所に辿り着く前に彼女に追いつかなければ。この機会を逃したら、もう二度と彼女に会うことは出来ない。わたしは彼女に会って、そして謝らなければならない。あの日のことを。筒状に感じたこの場所はやはり円錐形のようにその径を狭めていく。上って来た長さと靴音を響かせたあの空間の広さを考え合わせ、わたしは想像する。ここは巨大な塔のようなものの内側なのかもしれない。塔・・そうだ、何度も夢に見たあの気味の悪い建物。そこには大きな塔が建っていた。濃い灰色をした重々しく冷たそうな、そして奇妙な形をした塔だ。わたしは今、あの塔の中に居る。そう思ったとたんに足がすくんだ。高さに怯えた訳ではない。そんな分かりやすい恐怖とは比べ物にならないものがわたしを襲う。それは形のない重い塊となってのしかかり、わたしはその場にうずくまったまま動けない。あの夢の中で身動きが取れなくなってしまったあのときのように。  《頑張って・・》  誰?  《立ち上がって・・お母さん・・》 「ハル?」 「ハルちゃんなの?」 「どこにいるの?」  《・・いつもお母さんと一緒だよ・・だから・・大丈夫・・頑張って》  わたしは立ち上がり階段を駆け上がる。さっきまで重くのしかかっていたものは姿を消し、体の中に力がみなぎっていた。わたしは独りじゃない。恐れるものは何もない。螺旋は更に径を狭め、その先にある光のもとは次第に明るく大きくなっていく。わたしの耳に届く彼女の靴音は次第に大きくなり、二人の距離が確実に近付いていることを確信させた。そしてわたしが彼女の姿をとらえた時、彼女はまさにその光に到達しようとしていた。 「待って!」  叫んだわたしの声は不思議な響き方をした。円錐の内側の頂点に近い場所で生まれた空気の揺れは足元の巨大な空間に拡がりながら、一方で彼女の傍らにある光の中に吸い込まれていく。そして次の瞬間、何かがその光を遮り辺りは暗闇に包まれ、次に光が射した時、そこに彼女の姿は無かった。階段を登りきった場所には小さなスペースがあり、それはおとぎ話に出てくる天井の低い屋根裏部屋を連想させた。その頭上にはナイフで切り取られたような綺麗な正方形の穴があけられている。人間がひとりやっと通れるくらいの大きさの、天窓のようなその穴にはガラスのようなものは何も取り付けられておらず、螺旋階段の手すりと同じような素材の梯子が立て掛けられている。さっき訪れた一瞬の暗闇は、彼女がここから外へ出た時に出来たものに違いなかった。この梯子を上って彼女に会わなければ。梯子に手をかけたわたしをまた恐怖が襲う。頭上の正方形の穴から見えるその暗い灰色の空には見覚えがあった。夢の中のあの塔の上に広がっていた絶望的な空。外に出てあの空に包まれたなら、わたしはきっと押し潰されてしまう。両手で鉄の梯子を掴んだまま動けない。  《見ているよ》  誰?  《・・どんなに雲があっても・・》  ハルの声じゃない。誰の声?  《見ているよ》  ・・おばあちゃん?  《おてんとうさまが・・見ているよ》 「おばあちゃん!」  梯子の次の段に手を掛ける。わたしは上を見上げ、重く垂れこめる灰色の空に挑むように一段ずつ登った。怯えは無い。天窓から頭を出す直前によぎった未知の風景に対する緊張感も、次の瞬間には大きな好奇心へと姿を変えていた。  重苦しい空の下で吹く風はそれとは不釣り合いに優しく、さほど広くはない平らなスペースの際に立つ制服姿の彼女の長い髪の一本一本を慈しむように揺らしている。私はゆっくりと彼女に近寄り傍らに並んだ。手摺も何もなく、普通なら足がすくんでしまうような高い場所で、わたしはまったく恐怖というものを感じない。彼女の髪を揺らす風がわたしの頬をそっと撫でると、私の中のとても深い場所で微かなざわめきが起きた。それはとても懐かしく、同時にこれから訪れる未来に対する期待や不安をはらんだ複雑なものだ。誰かにそんな風の話を聞いたことがある気がした。でも良く思い出せなかった。 「久しぶりね」  彼女は私の方を見ずに静かに言った。 「うん・・」  わたしは何を言ったらいいか分からず言葉を詰まらせた。 「大丈夫だよ。私のことは気にしなくて。あなたはあなた自身の為に今ここにいる。あなたの目的を果たすことだけを考えればいいの」 「私の・・目的」 「そう、それはあなたにしか分からないものでしょ」  わたしは彼女を止めようと、その為に必死で階段を上ってきた。でも今こうして彼女を前にして、わたしは絶望的な無力感の中にいる。もうすべては起こってしまった。あの日彼女が死んでしまった瞬間に、彼女の死は彼女のものではなく私の問題になった。でもわたしはそのことに向き合うことが出来ず、それを記憶から消して今まで生きて来たんだ。あの夢がわたしにそれを思い出させるまで長い間ずっと。今更わたしに何が出来るというのだろう。わたしは謝ることしか思いつかなかった。 「ごめんなさい、わたし・・わたしはあなたの後を追ってあの扉を開けようとしたけどダメだった。いつものようにカギが掛っていて扉はびくともしなかった」  彼女は黙ったまま何かを考えているようだった。そして小さく頷くとゆっくりと話し始めた。 「謝らなければいけないのは私の方ね。結果的にあなたを苦しめることになった。考えてみて。あのクラスの子たちの中で、私が死んだことについて責任みたいなものを感じている人が何人いると思う?たぶん、あなた以外には誰もいないわ。でもそれでいいの。私はあの子たちの誰も傷つけるつもりは無かった。だからあの計画を立てたの」 「計画?」 「完璧な計画だと思ったけど、ひとつだけミスがあった。私はあなたの中の正しさを軽く見ていたようね。だからあなたをこんな場所まで来させてしまった」 「計画って何?それにここはどういう場所なの?」 「いま私たちは同じ場所に居るように見えるけど、本当はそうじゃない。今見ている景色もさっき上って来た階段も、あなたのそれと私のそれは別々のものなの」 「なんだかよく分からない。哲学書を読んでるみたいね」 「あなたはあの扉を通ってないからよ。あなたはあそこを通らずに今ここに居る。それはね、とても珍しいことなの。特別なことよ」 「ますます分からなくなった。ここはどういう場所で、あの扉はいったい何なの?そしてわたしはどうしてその特別なことが出来たの?」 「それは知らなくていいの。あなたは凄く頑張った。もう十分よ。だから早く帰った方がいい。あまり長くここにいてはいけないの」 「それは出来ない。私にはまだ思い出さなきゃならないことがあるの。それに、たとえ手遅れだとしても、今更だとしても、わたしはあなたをひとりにすることは出来ない。あの時みたいなのはもう嫌なの」  彼女はわたしを見て優しく微笑んだあと灰色の空を見上げた。 「恐怖というのは全くなかった。飛び降りる瞬間、私はほんとに空を飛べる気がしたの。高く跳びあがってそのまま空高く羽ばたいて、あの厚い雲を掻き分けて行けばきっと、きっとそこには蒼くて広い空があるって思った。だからこうやって・・」  彼女は両手を広げて鳥が羽ばたくようにそれを上下に揺らせた。わたしはその滑稽な動きに少し笑って彼女の顔をみた。そしてハッとした。彼女の表情から笑顔は消え、その頬を大粒の涙がつたっていた。 「ねえ待って・・」  彼女の腕を掴もうととっさに伸ばした私の手は僅かに届かず空を切った。落ちて行く彼女の姿がスローモーションのように遠ざかって行く。わたしは少しの迷いも無く彼女を追ってコンクリートの床を蹴った。                         第4章  償い  水の流れる気配に目を覚ます。川がある。音を聴いたわけではない。幅の広い川が緩やかに流れ、水面が僅かに波立つ時の空気の揺れが振動となり、わたしの五感以外のどこかに触れる。仰向けに横たわっているわたしの視界には灰色の空が拡がっている。ゆっくりと上半身を起こしてその流れの方角に目を向けると、五十メートルほど先の突き当たりが小さな土手のようになっているのが見える。目を凝らすとその土手の上に人影があった。彼女だ。わたしは起き上がりそこへ向かって歩き出した。土手に近づくにつれて彼女の姿の輪郭がぼやけ始め、彼女の向こう側から照らすオレンジ色の夕日がその姿を暗いシルエットにする。暗い灰色の空と眩しい夕日が共存する不自然な状況を気にも留めずにわたしは急いだ。とにかく彼女のところに行かなくては。夕日のオレンジ色はどんどん明るくなり、その眩しさにわたしは目を閉じた。目を開けるとわたしは土手の草の上に座っていた。眼下には夕日を反射してキラキラと光り、緩やかに流れる大きな川が広がっている。 「大丈夫?」  すぐ隣に座っている彼女が声をかける。彼女の顔も夕日の色に染まっている。 「ごめんね。わたし、またあなたを止められなかった」 「そんなことないわ。あなたは私を追って何の迷いもなく飛び降りた。普通は怖くて出来ないわ」 「誰かが勇気をくれた。そんな気がするの」  彼女は川の方を見てしばらく黙っていた。 「私ずっといじめられてたの、小学校の時から。平気だったの、何をされても。雑巾のバケツの水を飲まされても、消しゴムのカスを給食に入れられても、ランドセルの中身をぜんぶ焼却炉に捨てられてもね」 「そんなひどいこと・・」 「本当にそれはいいの、たいしたことじゃない。あの子たちは私の手の届くところにいたから。あの気味の悪い笑い方も変な響き方をする声も私の髪を引っ張るざらついた手も、私が手を伸ばせばそこにあった。私がナイフを突き立てればあの子たちは呻き声をあげてそこに倒れ込むの。私が火を放てば悲鳴をあげて転げまわるの。もちろんそんなことはしなかったけど。誰も助けてはくれなかったし、先生だってあちら側にいた。それでも平気だった。別に強がってるわけじゃない。本当にどうってことなかったの。だから両親にも何も言わなかった。でも、中学に入ってから私は本当にひとりになった。ねぇ、想像してみて」  彼女は目の前を流れる川の方を指して言った。 「みんなは川の向こう岸にいて私はこちら側から声をかける。川幅はそれほど広くはなくて辺りは騒音も無いから、私の声はみんなに届いているはず。その証拠に私が投げかけた問いに対するみんなの答えは私の耳に届いている。問題はここからなの。単語も知っているし、文法にも誤りは無い。でも全く理解できないの。全部知っている言葉なのに、全然意味が分からない。全然よ」  わたしはその状況を想像しようとしたけど、うまくできなかった。 「ごめん、ちょっとよく分からない」  彼女はわたしを見て優しく微笑んだ。大丈夫だよ、分からないのが普通だから。と言っているようだった。 「小学校でいじめられていた時、私は何度も死のうと思った。いじめられることが辛かったわけじゃないけど、周りに居る人間すべてが嫌いで、とにかく何もかもが面倒だった。誰もいない世界に行きたかったの。でも死ななかった。死ねなかった訳じゃないのよ。苦しまずに死ねる方法なんていくらだってあるんだもの。簡単よ。好きなのを選んでスイッチを押すだけ」  彼女は自動販売機のペットボトルを選ぶように人差指を顔の前に掲げてボタンを押すふりをした。 「でもそうしなかったのは、まだそこに希望のようなものがあったからなの。でもそれはね、いざとなったらナイフやライターの火であの子たちに反撃をするというような前向きなものではなかったし、いずれはこの人たちも反省をして私に謝って、仲のいい友達になってくれるというまぬけな妄想でもなかった。あの時あの子たちの生活の中には私がいたの。忌み嫌い、罵り攻撃する対象だとしても、みんな私のことを意識せずにはいられなかった。先生だってそう。立場を守るためには私みたいなのは邪魔だった。だって、私がどんなことをされたって、そこにいじめが存在してはいけない訳だから。だから面倒な存在としていつでも私のことを気にしていなくちゃならなかった。どういう理由であれ、あの時私はそこにいた」  夕日に照らされた彼女の横顔は少し満足そうだった。 「でも中学に入ってから誰も私をいじめなくなった。そう、いじめてさえくれなくなったの。変でしょ。だったら普通に友達を作って仲良くなればいいじゃないって思うわよね。でもダメだったの。ねえ憶えてる?入学してすぐ、あなたは私に声をかけてくれたのよ。名前とか家はどことか、その程度の会話だったけど」  私にはまったく憶えが無かった。その会話どころか中学の間の彼女に関する記憶というものは何ひとつ蘇らなかった。必死に記憶を辿ってもどの風景の中にも彼女を見つけることは出来ない。 「ごめん・・」 「いいの。あなただけじゃない。声をかけてくれた人はたくさんいたの。でも友達と呼べる様な人はひとりも出来なかった。きっと私の方に問題があるのよ。それはわかっていたけど、でもどうすることも出来なかった。小学校の頃が懐かしかった。あのいじめられていた頃が。バカみたいでしょ。そしてこうも思ったの。このままじゃ死ねないって。こんな独りぼっちじゃ死ねないって。あの時ね、あなたがいじめられてたあの時、私はあなたが羨ましかったの」 「羨ましかった?納得のできない理由でみんなから非難されて、独りぼっちで居場所もなくて・・」 「みんな分かっていたのよ。あなたのお父さんがしたことは正しかった。責められるようなことは何もないって。もちろんあなた自身にも何の落ち度もない。でもあの時、教室中の悪意があなたに向けられた。密告者というキーワードを使ったいくつものストーリーによって、あなたを攻撃する理由が次々と作り出された。私はそんなあなたの姿を教室の隅で黙って見ていた。でもね、想像できないとは思うけど、私はあの時あなた以上に孤独だったの。そして私は思った。あなたになりたいって。そして私はあなたになる為の計画を立てた」 「わたしになる?」 「そう、そしてあなたが学校を休むようになった時、その計画を実行に移したの。覚えているかしら?担任に連れられてあなたの家に謝罪に行った子たちのこと」  そう言って彼女は私の顔を覗き込んだ。今までモヤがかかったようにはっきりしなかった情景が鮮明に蘇る。学校を休んでいる私の家に来て謝罪をしたクラスの子たちの姿が。 「あなたも居たわ。あの子たちの中に。しかも・・」 「そう、いじめのリーダーとしてね。私がみんなをけしかけてあなたを攻撃したと言って、担任に続いて謝ったわ。もちろん嘘よ。あの時リーダーなんて居なかった。そもそもそんなもの必要ないのよ。ただ風が吹くだけ。風の吹く方向に誰もが流されるだけなの」  わたしは話の展開が良く分からず、黙って続きを待った。 「あなたが学校に来なくなって10日くらい過ぎたお昼の時間に、私は唐突に立ち上がってみんなに呼び掛けたの。あなたの家に謝りに行こうって。もういじめはしないから学校に来てって言いに行こうって。みんな驚いたわ。だって普段ほとんど口を開かない私が突然そんなこと言ったら驚かないはずはないものね。そしてその驚きが一段落すると、私に対する罵りが始まった。頭がおかしいとか死ねとかお前も学校辞めろとか、まあそんなお決まりやつね。そして私は続けたの。みんなが毎日あなたに投げつけた言葉はすべて私がカセットテープに録音してあるってね。そして小さな録音装置をポケットから取り出して見せたの。教室中が騒然となったわ。今でも忘れない、みんなのあの驚いた顔を。そしてあなたに謝罪に行くという提案は、私が主犯という役を演じることを条件に承諾され実行された」  わたしはその時の光景を鮮明に思い出すことができた。昼のニュースが西日本の豪雨の被害を報じ、予報によれば雨のエリアは夜にはこちらに移動してくるということだった。梅雨の時期特有の重たい空気に誰もが微かな息苦しさを感じる夕暮れの時間、担任教師に連れられた数人の女子生徒が神妙な面持ちで並んでいた。地方の古い造りの玄関の広い土間で、私は母親に寄り添う形で彼女たちと対面した。開けたままになっている引き戸の外に咲いているアジサイの薄紫色がとても奇麗だったのを憶えている。その時交わされた言葉のほとんどが嘘だった。まず担任教師がいじめの存在に気が付かず監督責任を果たせなかったことを詫び、続いて主犯格を名乗る彼女が謝罪をした。動機は彼女の家庭の事情や成績のことによるストレスだという担任の説明が加えられた。他の生徒は主犯の彼女に逆らえず仕方なく同調したか、あるいは私をかばわず傍観していたという極めて消極的な罪の主として反省の弁を述べた。違和感の中わたしは何の言葉も発することが出来ず、ただ黙って彼女たちの足元のあたりを見ていた。お揃いの革靴と白いソックスが妙に偽善的に思えた。隣の母が私に代わって口を開き、いくつかの軽い嫌味と謝罪に来てくれたことへの礼を述べ、これからのことは娘とよく話をしてみると言った。わたしは登校してほしいという担任教師の言葉に小さく頷くのが精一杯だった。 「あの日あなたたちが帰った後、わたしはかなり混乱したの。わたしはあなたに何かされた覚えは無かったし、あなたが後ろで糸を引いているような話も釈然としなかった。でも母にはそのことは話さずにいたの。これ以上話を複雑にしたくは無かったし、心配もかけたくは無かったから。それでわたしは翌日から学校に行くことを決めたの」  彼女は優しく微笑んでから夕陽に光る川面を見つめた。 「私もそうだった。両親に心配をかけるのが一番いやだった。だからひどい目にあっても、大したことじゃ無いと思うようにしたし、自分で何とかしようとも思った。始めのうちはね。そしてだんだんすべてがどうでもよくなって、何も感じなくなった。バカな話よね、いちばん助けてくれそうな人に助けてって言えないなんて。私は最後まで、結局最後のあの日まで親には何も言えなかった」  最後のあの日という彼女の言葉がわたしの記憶をさらに蘇らせる。二週間ぶりに登校したわたしを待ち受けていたのは奇妙な光景だった。まるで映画の一場面のように時間が巻き戻り全てが事件の前に戻ったよう。誰もが少し気まずそうな表情を浮かべながらも笑顔でわたしに接し、いじめのこともあの謝罪劇についても触れることは無かった。その状態はわたしを居心地悪くさせただけでなくある不安を増大させる。突然みんなの態度が豹変して、また私への攻撃が始まるのではないかという気配が、その不自然な空気の中にはあった。いじめの主犯を演じた彼女も以前と同じ無口で目立たない存在に戻っていた。 「あの時わたしはあなたと話がしたかった。事の真相を知るにはとにかくあなたと話をする必要があると思ったから。でもわたしは怖かったの。私があなたに近づくことで、不自然ながらも平穏を保っている小さな社会が一変して、また酷いことが起こるんじゃないかって」  彼女は小さく首を振った。 「あの時あなたに対するいじめが再発する可能性は無かったわ。だって全部仕方なく行われたんだから。私という主犯にすべての責任があったわけだし、そもそもあなたには何の落ち度もなかった。それにあなたがいじめられる必要性もなくなったの」 「必要性?」 「誰でもいいということよ。他にターゲットが出来れば、いじめられ役としてのあなたはもう必要ない。あなたが学校に来るようになってから、私は密かにある噂を広めたの。私が録音テープなんて持っていないという噂をね。そう、みんながあなたをいじめていた証拠のテープ。もちろんそんなテープなんてもともと無かったんだから、その噂は真実なんだけどね。そしてもうひとつの噂。私の父親が例の談合事件に加担した建設会社の社員だという話。これも本当なの。まあ父は末端の人間だったから直接的な罪に問われた訳じゃないし、あの事件に関わった会社はたくさんあったから、そのことで私たち家族が攻撃を受けることなんて無かったけどね。いずれにしてもこれでひとつのストーリーが完成する」 「ストーリー?」  蘇ってきた記憶と彼女の話でわたしの思考は混乱し始めていた。 「あなたのお父さんは私の父親の勤めていた会社の悪事を告発し、その社会的制裁は私たち家族にも及んだ。それを逆恨みした私はあなたに密告者の娘というレッテルを貼り、クラスの皆を先導してあなたを攻撃した。どう?私ってすごく嫌な人間ということになるでしょ」 「確かにそうだけど、でもそれは本当ではないでしょ?あなたはわたしへのいじめを先導してはいないし、それどころか加わってもいない。もちろんクラスの子たちはそれを知っている。あの嘘だらけの謝罪劇は、みんながあなたの脅しも含めた不可思議な提案に仕方なく乗る形で行われた。結果的にそのおかげであの子たちは罪を逃れることになった。だからと言って真実を知っていればそのストーリーは成り立たないと思うけど」 「真実か。真実なんて何の意味もないのよ。みんな誰かを攻撃したいだけ。そしてこのストーリーは私を攻撃する為の格好の材料になった。でもそれだけじゃ不十分なの。ねぇ、攻撃されない為にはどうしたらいいと思う?強い武器を持つことよ。腕力でもいいし権力でもいい。一本のカセットテープでもね。だから私はその武器を手放す必要があった。そうしないと私はあなたになれないものね」 「それで録音テープなんて無いっていう噂を?でもそんなに簡単にいくものかしら。みんなの気持ちがそんな思った通りに動くなんて」 「私はずっといじめられてきたの。いじめられっ子としてはベテランよ。ありもしない話をでっちあげられて、否定的なレッテルを貼られて、それがものすごい速度で広まっていくのを何度も体験したわ。本当も嘘も関係ないの。自分にとって都合のいいことがその人にとっての真実になる。そして多数派を占めた真実に基づいて人は行動し始める」  彼女の話に沿って私の記憶が鮮明になっていく。教室の様子がにわかに変わり始め、日に日に彼女への攻撃が増していく。静かに、しかも激しく。わたしはそんな彼女を複雑な気持ちで見ている。彼女がいじめの主犯格だという話をわたしはどうしても受け入れられなかった。でもそんなわたしの思いも、多数派が作り出した風のようなものに今にも吹き消されようとしていた。 「だからわたしは真実を確かめたかった。あなたとふたりで話がしたかった。でも出来なかった。勇気がなくて。わたし本当に勇気がなくて・・」 「いいのよ。それが普通だわ。それにもしふたりで話す機会があったとしても、私は本当のことは決して言わなかった。だってあなたを悪者にするわけにはいかなかったから。だから結果的にあなたをこんなに苦しめることになって、本当に悪いことをしたと思う。この計画でいちばん重要なのはね、最終的には悪役を作らないことなの。だって私は誰かを恨んでいた訳じゃないし、むしろクラスのみんなに感謝してるくらいよ。もちろんあなたにも。 「感謝って・・」 「だって、みんなのおかげで私は本当の孤独から抜け出すことが出来たんだから。少なくともあの時、私はあの場所に存在していた。信じられないでしょうけど、あの時私は幸せだったのよ。私は満足だった。あとはその時が来るのを待つだけだった。私の小学校時代のことまで話題になって、事の始まりがあなたに対するいじめだというのも忘れ去られ、誰もが私に対する嫌悪感だけに支配された。私への攻撃に関わった全ての人が等しく大勢の中の一人になったあの時、すべてを終わりにしようと決めたの」 「それでもわたしはあなたと話をするべきだった。そうすればあんなことにならずに済んだかもしれない」  わたしがそう言うと、彼女はとても優しい目でわたしを見た後で沈んでいく夕陽に目を向けた。 「いずれにしても結果は変わらなかった。もう私には他に行く場所はなかったの。あの鉄の扉のこちら側以外には。あの扉ね。あの評判の悪かったやつ。みんなは気味が悪いって言ってたけど、私けっこう好きだったのよ。何ていうか、世界のあちらとこちらを分けているような感じがして。だからあなたがあの扉を開けられなかったのは仕方がないの」 「でもわたしはあの扉を通らずに今ここにいるんだよね。まだ良く分からないんだけど、何故わたしにそれが出来たんだろう」 「それは私にも分からない。きっとあなたにとって必要なことだったからじゃないかしら。そしてあなたはあちら側に帰る。それもあなたに必要なことだから」 「帰る・・でも、どうやって?」 「もう少しで日が沈むわ。あなたはただ目を閉じるだけ」  僅かに残った夕陽を見つめる彼女の横顔はとても満足そうに見えた。 「希望。飛び降りる瞬間私は希望で一杯だったの。あんな清々しい気分は生まれて初めてだった。だからあなたは何も気にすることは無いの。ありがとう。私に会いに来てくれて」  そう言って彼女はわたしの手をとった。わたしの眼から涙があふれ頬をつたう。目を閉じると、静かに流れる河の音にならない気配と、彼女の手のぬくもりがわたしを優しく包んでいった。目を開けると見慣れた部屋の窓のカーテンの隙間から日が射し、台所で母が朝食を作っている音が聞こえる。幼い頃に毎朝聞いていた懐かしい音だった。
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