ストゥラグルの塔・第4幕・終章

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ストゥラグルの塔・第4幕・終章

               第4幕              第1章  秘密  とにかく辺りが騒々しかった。それに我慢が出来なくなるとボクは目を閉じる。目を閉じた世界は暗闇のようだけど、それが本当の暗闇ではないことをボクはすぐに知る。目の前に突然丸い光のようなものが現れるからだ。いや、突然現れるというのは少し違っている。それはずっとそこにあったのに、ボクがそれに気づかなかっただけなのだと思う。その光はとても強くてボクは目を閉じそうになるけど、それは不可能なことだ。ボクはいま目を閉じている。目を閉じた世界で起こる全ての物事から目を背けることは出来ない。その丸い光は一つだけのときもあれば複数の場合もある。大きさはバラバラで色も違っているけど、共通しているのはとても強く輝いているのにとても優しい光だということだ。ボクは黙ってその光たちを見ている。何か話しかけようとも思うけど、そんなのは馬鹿げている。光に話しかけるなんて。でも話しかけるとしたらボクは尋ねてみたい。人はなぜこの世界に生まれて来るのかと。ボクはなぜ生まれて来たのかと。目を開けると騒がしさは少し弱まっているけど、居心地の悪さはまだ続いている。目に映る色はどれも薄汚れていて、誰かがしゃべる声はキンキンと響き耳障りだし、何よりもボクの体に触れる手はとてもザラついていてしかも嫌な臭いがする。ボクは我慢できずにその手を振り払い大声で何かを叫ぶ。何を叫んだのか自分では覚えていないけど、たぶんボクはそうするべきでは無かった。その後ボクの周りは更に騒がしくなるから。そしてボクはまた目を閉じる。  その人は優しく語りかけ、その腕の中でボクは安心して眠る。ボクはいろんなことが嫌で嫌で仕方がなかったけど、怖いものはほとんど無かった。その人が何処か遠くへ行ってしまうこと以外には。大粒の涙を流しながらボクに向かって叫んでいるその言葉の意味がボクには理解できない。ただ怖かった。その人が怖かったわけではなく、ひとりぼっちになるのが。だからボクも泣いた。その人と同じことをすればきっと傍にいてくれると思ったから。でもそれが正しいことなのかボクには分からない。だから初めて丸い光に質問をした。ボクはいったいどうすればいいのかと。光は何も答えず、ただ優しくボクを照らしている。でも目を開けたとき、その答えはボクの中にあった。何も怖がらなくていい。ただ信じればいいと。  どうやらボクは他の人たちと少し違っているようだ。ボクは一度聞いた言葉はほとんど忘れないし、見たことのある色や形はだいたい正確に覚えている。そしてさらに、ボクが実際には聞いてはいない言葉をその場所にいる誰かが教えてくれることもあったし、ボクがいる場所からでは見えないものも代わりに誰かが見てくれて、その色や形を教えてくれたりもした。それはとても都合がよくて便利なときもあるけど、困ったことも起こる。理由はわかっている。ボクは自分で見たり聞いたりしたことと誰かに教えてもらったことの区別はだいたい出来ていたけど、そのどちらか分からないときもあった。ボクはそのどちらか分からないことは絶対に口にしないと決めていた。うっかり言ってしまった言葉で周りが大騒ぎになってしまうことが何度もあった。ボクは騒がしいのが嫌いだから。でも黙っていられないときもある。大勢の人に一度に何か言われたり、たくさんのことを次々に聞かれたりすると、ボクの中の境界線は曖昧になり、黙っていた方がいいということもすっかり忘れてしまう。そういうときにボクの発した言葉は完璧で力強く全てのものを圧倒した。あの頃はその様子をうまく説明することができなかった。でも今ならできる。大きな津波が海辺の街を襲うように一気に全てをのみ込み、住民たちは悲痛な叫びをあげながら逃げ惑い海岸線はその形を大きく歪めた。でもそれは現実の津波とは違う。海水が引いた後、街は何事もなかったように平穏を取り戻す。壊された家々は元に戻り、逃げ遅れて流されたはずの人や車はひとつの傷もなくそこにあった。そしてボクだけがその街から姿を消した。  たぶんボクには足りないものがたくさんあるのだろう。でもそれが何なのかが分からない。ボクがそう言うとその人はしばらく黙ってボクの顔を見た後で話し始めた。人間はみんな何かが足りない。それぞれ足りないものが違っているので、他人の足りないものが気にかかるし、ときには腹も立てる。でも腹を立てているその人も何かが足りなくて誰かを傷つけることだってある。そういう意味では人間はみんな同じ。それに気づいてさえいれば何の問題も無い。足りないものがあるから人は学ぼうとする。生活の中で起こるすべての物事から学べばいい。人間に何か違いがあるとしたら、それは学ぼうとするかしないかという一点だけ。白衣を着ていないその人は医師には見えず、しかもボクに話をしながらもその意識はどこか遠くに旅をしているようにも見えた。でも最後にその人が、君は大丈夫だよと言ってくれたとき、ボクはとても安心した。  16歳になったボクは自分のことをワタシと呼んでいる。もちろんそれは周りの人に対して使う言葉で、自分の中ではボクはボクだ。そのことがおそらく近い将来、何かしら深刻な問題になるのは自分でも予想出来る。何といってもボクはもう16歳なのだから。でも今それはあまり重要ではない。そんなことよりも先にやらなければならないことがボクにはある。助け出さなければならない大切な人がいる。そしてそれができるのはボクだけだ。理由を尋ねられても答えることは出来ない。根拠は無い。でもボクは百パーセントの確信をもっている。何故ならボクはそのことを既に知っているから。  ボクは時々お母さんの夢を見た。それがただの夢でないのは分かっていたけど、ボクの知っている言葉の中ではやはり夢というしかない。夢の中のお母さんはボクが一緒に暮らしているお母さんとほとんど同じに見えるけど、何かが決定的に違っていた。その違いに気づくのはたぶんボクだけだと思う。お母さんはいつも薄暗がりの中でじっと座っていて、それがどんな場所なのかボクには見当もつかなかったけど、どこかから入る僅かな光がお母さんを取り巻く状況をボクに伝える。硬いコンクリートのような床に膝を抱えて座っているお母さんの顔にはあまり表情が無くて、背を持たせかけたやはり硬そうな壁のひんやりとした感触がボクの身体の芯を冷やした。辺りは音もなくとても静かだけど、少し離れた場所で時々何かが動く気配がする。そこで生まれた音にならない程度の微かな空気の揺れが、お母さんの肌を通してしてボクに届いた。  お母さんはただじっとしたまま、ぼんやりとしている。ボクが感じた床の硬さも背中の壁の冷たさも、お母さんにとっては不快なものではなく、僅かな光しか届かない暗闇に近いその場所にいることをごく当たり前に受け入れているように見える。でもその場所が何処だとしても、お母さんにとってそれが居心地のいい所だとしても、これ以上そこに居てはいけない。ボクはそんな気がしてならなかった。やがて何か大きな力がお母さんを呑み込んでどこかに連れ去ってしまう。とても遠いどこかへ。ボクのそんな予感はいつもその通りになる。だからそうなる前にお母さんを助け出さなければ。雨の降る寒い朝、ボクはひとり電車に乗った。学校とは反対の方角にある見知らぬ街に行くために。  初めて行く場所や初めて会う人がボクはとても苦手だった。ボクはとても緊張して自分の中の境界線がまた曖昧になる。だからボクを理事長室に案内してくれたあの背の小さい女の人が、本当に存在していたのかどうかは未だにボクには分からない。それでも別れ際に彼女の言った言葉はボクをとても安心させた。だから、緊張感に圧し潰されそうになりながらも勇気を出して理事長室の扉をノックすることができたのだと思う。  《アタシがいろいろとうまくやっとくから大丈夫よ》  秘書さんの顔を見た瞬間、ボクはとても不思議な感覚におちいる。そこにはいろいろな思いが混ざり合っていた。初対面の人に全く緊張していない自分への驚きと、たぶんその理由になっている何とも言えない懐かしさ。そして何よりボクはその人の顔がとても好きだった。世界中の全ての顔からいちばんを選ぶとしたら、何の迷いもなく彼女を選ぶだろう。それほどボクにとって完璧な顔だった。でもボクを最も戸惑わせたのは別の感覚だ。はっきりとしたボクの境界線の中で彼女は間違いなく現実に存在しているのに、その存在はとても不安定で曖昧だった。でもそんな違和感も彼女と話をするうちに自然と消え、尋ねるべき人物を間違っていなかったという確信と、彼女もボクのことを信用してくれているという安心感が拡がっていった。彼女はとても親切にしてくれたけど、ボクは彼女がとても冷たい人間だということを知っていた。彼女に言ったとおり、ボクは他人の心が読めるわけでは無いけど、人間の持つ冷徹さや残酷な部分にはとても敏感だった。それが、ボクが小さい頃ほとんどの人が信用できなかった理由のひとつでもあるけど、誰にでもそういう部分があると分かってからはあまり気にならなくなった。ただ、彼女の冷たさは今まで会った誰のものとも違い、それは完璧なシミひとつないものだった。でもそれは大した問題では無い。それがボクに危害を加えることの無いものだという確信があったから。だからボクは約束した通り、隠し事なく正直に彼女と話をした。彼女と並んであの川の流れを見るまでは。あのときボクには自分が向かうべき場所がはっきりと分かった。そして初めて彼女に嘘をついた。               第2章  深く降りる  夜明け前の大学の構内は静まり返っていた。緩やかな風が池の水の表面を撫でる音すら聞こえてきそうなその静寂を乱さぬよう、ボクは靴底に意識を集中しながら防犯カメラに映らない場所を慎重に選んでそこへ向かう。地下一階駐車場奥の特別車両待機スペースの横にそのドアはある。ドアのレバーに手をかけてみたけど、思っていた通り開くはずは無く、ここから先のプランは何も無い。でも必ず何かが起こるという確信がボクにはあった。《地下共同溝・地下水位調整水槽連絡通路入り口・関係者以外立ち入り禁止》と書かれているそのドアの前にどれくらい立っていたのだろう。ふと後ろに人の気配を感じて振り返ると、ヘルメットを被った作業服姿の人が立っている。背の低い小太りの男で、マスクをしているために顔は良く分からない。 「あなたここに入りたいんでしょう。私が案内してあげるわ」  そう言われて初めてその作業員が女性だと分かった。しかもそれはあの時ボクを理事長室に案内し、次の日にボクの写真を撮った事務員さんにそっくりだ。 「あの・・事務員さんですよね」  ボクが戸惑いながらそう言うと、その人はじれったそうに言った。 「事務員?何を言ってるか分からないけど、私は現場一筋30年よ。事務仕事なんて御免だわ。とにかく余計なことは考えなくていいの。あなたはあなたの目的を果たすことだけ考えればいいのよ」  彼女は作業ズボンのポケットからたくさんのカギが付いたリングを取り出すと、少しの迷いもなくその中から一つを選んでドアノブの下の鍵穴に差し込んだ。重い金属音がした。 「ついて来て」  彼女がそう言いながら重そうな鉄のドアを押し開けると、ひんやりとした空気がボクたちを包み、ボクが彼女に続いて中に入ると彼女は内側から鍵をかけた。 「かなり深くまで降りるけど大丈夫よね。セキュリティー会社にバレちゃうからエレベーターは使えないの。あなたをあそこに入れるのは規則違反だから」 「あなたはいったい・・」  と言いかけてやめた。余計なことは考えなくていいんだ。彼女の後に着いて長い通路を進む。ボクのスニーカーがコンクリートの床を踏むざらざらという音と彼女の作業靴の乾いた音が、壁の金属パネルと、細長い蛍光灯が等間隔にはめ込まれた低い天井に反響して不思議な音を生み出す。 「この共同溝は都内では最大規模よ。もちろん長さではもっと長いものはたくさんあるけど、私が言ってるのはキャパシティーのことね。分かる?つまり収容できるものの量って意味。よくある共同溝っていうのは電気やガスや通信の為のケーブルとか、いわゆるライフラインというものが収められているわけ。もちろん水道や下水なんかもね。ここのはそれだけじゃなくて、ごみ収集にも使われてるの。ここはほら、安全で美しい街ってことで、歩道にごみの集積所なんかがあったらちょっとまずいわけね。再開発以降に建てられた公共施設とか集合住宅なんかは、屋内のダストシュートから直接収集システムにつなげることが義務付けられたんだけど、それ以前からあった建物から出たごみは区画ごとに設置された共同のダストシュートを利用して集められてるの。だからこの街ではごみ収集車が道路を走ってるのを見たこと無いでしょ。まあ、同じような仕組みは他のところでも導入されてるし、全てが機械化されてるところもあるのね。風力で吹き飛ばしながら自動で分別して直結した焼却施設まで運ばれる。でもやっぱり無理があるのね。システムのあちこちで不具合が出て停止することがしょっちゅうで、結局効率が悪くなるし、その度に作業員が点検に入る手間だって相当なもんよ。だからここではその教訓から分別と運搬は人間がやるようになってるの。結局のところ普通は地上で行われていることを、地下でやってるってだけね。それにね、その地下通路は警察署と消防署に直結してるの。考えてみて。ごみ収集車や緊急車両が走り回れるような通路を地下に造るってかなりのもんでしょ。あ、そうそう大事なことがもうひとつ。この街の売りのひとつが水害対策でしょ。ほらここは大きな川に挟まれた街だから過去に何度も被害が出てるの。それで造られたのが巨大な地下調整水槽。つまり地下にある大きな貯水池ね。大雨で川の水位が上がるとそこに一旦水を流し込むの。そして水位が下がるのを待って川に戻す。それも大工事だわね。だからこの街の再開発は普通の倍くらいの期間がかかったのね」  そこまで一気に話すと彼女は歩きながら後ろを振り返った。ボクがついて来ているのを確認するとまた前に向き直って話を続けた。 「でもその地下の貯水池は一度も使われてないのね。幸いといえば幸いだけど、なんていうの、せっかく作ったのにね。まあそんなもんなのかしらね。準備万端整ってるときには何も起こらないくせに、ちょっと気を抜いた時にやられちゃうみたいな。ユーミンのデスティニー。今日に限って安いサンダル履いてたってあるでしょ。あー、あなたの歳じゃ知るわけないわね。ごめんなさいね。まあ何にしてもここの地下にはとんでもないものがいろいろあるってわけよ。だからこの通路もクソ長い。まったく、地下鉄ならひと駅分くらい歩いたわね。でももうすぐよ」  そう言う彼女の肩越しに鉄のドアが見えて来た。《地下共同溝入り口・関係者以外立入禁止》と書かれたそのドアの前で立ち止まると、 「ここがその共同溝の入り口よ。でも残念だわね。私たちの目的はここじゃないわよね。まあ、あなたも分かってるでしょうけどね」  そう言ってボクを見た。ボクが小さく頷くと、彼女は満足そうに大きく頷いた。 「さあ行くわよ。あとひと駅分」  そう言って共同溝入り口の前から横に延びた通路を急ぎ足で歩き出した。床も壁も照明も今までの通路と同じだけど、違うのはいくつもの分かれ道があることだった。何の表示も無いその分かれ道を、彼女は少しの迷いもなく選び何度も曲がった。曲がる度に湿度が少し変わった気がした。ボクは帰り道に備えて右、左と曲がった数を記憶し、ちょうど10回目を左に曲がったところで突然そのドアは現れた。《地下水位調整水槽入り口・関係者以外立ち入り禁止》と書かれた下にいくつか注意事項のようなものが見えたけど、ボクがそれを読む間もなく彼女はまた手際よく鍵を取り出してドアを開けた。目の前に広がった風景にボクは一瞬息をのむ。その巨大な筒状の空間は、いつか遊園地のアトラクションで観た宇宙ステーションの内部の映像を思い出させた。 「凄いでしょ。あなた高所恐怖症とかじゃないわよね。だったらあの手すりのとこまで行って下を覗いてみて」  ボクは5メートルほど前方の頑丈そうな鉄製の手すりまで行って下を覗き込んだ。足がすくみ、頭の芯の辺りに微かな痺れが走る。たしか宇宙ステーションではドジな操縦士か何かのせいで、ボクたちの乗った宇宙船がこんな果てしの無い巨大な穴の中に落下してしまったんだった。 「凄いでしょ。ここは第一縦抗っていうのよ。直径30メートル、深さは100メートル。あの自由の女神がスッポリ入る。地下工事の時にまずこのバカでかい竪穴を掘ってね、工事に使う機械なんかを降ろすわけよ。ほら、トンネルとか掘るのに使うやつ。あんなのを入れるんだから、この穴だってこれくらいないとね。それで工事が全部終わったら蓋をしちゃうってわけ。この上は駅前の公園よ。真ん中に芝生の広場があるでしょ。上で遊んでる人たちはまさか自分の足の下にこんなのがあるとは思わないでしょうね。もちろん秘密ってわけじゃないけど、誰もそんなこと気にしてないってことよ。良くも悪くもね」  そう言うと彼女は上の方を見上げたまま少し何かを考えていた。うるさいくらいにしゃべり続けていたせいか、僅かな沈黙がとても長い時間に思えた。 「さて、私が案内できるのはここまでよ。さっきも言ったけどそのエレベーターは使えないの」  そう言って彼女が目をやった先には、作業員や機材を運ぶ為の大きめのエレベーターがあり、脇にある操作パネルの何か所かにオレンジ色の明かりが点いていた。 「だからあの階段を使うしかないわね。かなりスリリングな階段だけど、高所恐怖症でなければ大丈夫。まあ今まで誰かが落っこちたなんて話も無いから安心して」  そう言うと彼女は巨大な筒状空間の壁面に沿ってつづら折りのように取り付けられた金属製の階段を指した。空間全体のスケールとの比較でそれはとても貧弱なものに見える。 「あ、それからね、あなたのお父さんがもうすぐこの街に来るわよ」 「お父さんが?あの時の写真ですね・・事務員さんが撮った」 「写真?何のことか分からないけど余計なことは気にしないの。あなたにあなたの目的があるように、お父さんにだって目的があるの。大丈夫よ。私がうまくやっとくから」  そう言うと彼女はまるでダンスのターンのように後ろに向き直り、さっき入ったドアの向こうに姿を消した。その軽やかで素早い動きに少し驚いていたボクはふと我に返り、こんな場所でひとりになったことに急に不安な気持ちになった。ボクはこれからどうすればいいのだろう?彼女は、自分の目的を果たすことだけを考えろと言った。今はその言葉に従うしかない。そう、かなり深くまで降りるんだ。  その階段は離れた場所から見た時の印象をはるかに超えてスリリングだった。踏み板も手摺りも頑丈な金属製で、たとえ小さな子供でも決してすり抜ける危険のない狭い間隔の柵がボクの胸の高さくらいまで脇をカバーしている。しかも小さな物でも落下させることが無いように階段全体が目の細かい網のようなもので覆われていて、自分で柵を乗り越えない限り落ちることは絶対にない。でもだからと言って恐怖が消えるわけでもない。頭の芯の痺れは後頭部の不快な冷たさに代わり、心臓が時々不規則に動いた。ボクは左手でしっかりと手すりを掴み、一段一段を踏みしめながら階段を下りた。途中で何度か足を止めて頭上を見上げ、首から上だけを柵から外に出して下の方に目をやった。その足がすくむような思い切った行為の甲斐もなく、自分がどれくらいこの巨大な筒の底に近づいているのかは分からなかった。ボクはペースを上げて一気に下まで降りることにした。自分が今いる場所も落ちる恐怖も、そしてこれから向かう未知の場所への漠然とした不安も、すべて意識から遠ざけボクは自分の足元に集中した。何度か足がもつれそうになり、ボクは足元を見るのをやめ、今度は2メートルくらい前方の空気を見ながらテンポ良く足を進めることにした。歌でも口ずさもうとしたけど、何のメロディも思い浮かばない。そしてやがて自分を取り巻く空気の温度が変わるのを感じる。それは深い海の底で温度の違う二つの海流が交わるような、急激で激しくしかも滑らか変化だ。その交わりはほんのひと時ボクを混乱させたけど、次の瞬間には柔らかな流れとなってボクを運ぶ。それは優しい陽だまりの中でのうたた寝のような時間だった。 第3章 消滅  我にかえるとボクは何もない広い場所に立っていた。下まで降りたようだ。上を見上げ自分が巨大な筒の底辺にいることを確認する。辺りを見渡したその時、今までとは違う種類の恐怖がボクの意識の隅をかすめた。その恐怖は漠然とした違和感から始まり、ものすごい速さで広がりながらボクを支配しようとしていた。その正体がわかるまでにほとんど時間はかからなかった。階段が無い。恐怖に駆られながら降りたあの階段はこの巨大な筒の壁につづら折りに取り付けられていた。とても貧弱なものに見えはしたけど、それは確かに存在していた。でなければボクはどうやってここまで降りて来たというのだろう。それだけじゃない。あの作業員に連れられて初めてこの巨大な空間を見た時、ボクはいろいろな光を目にした。壁面には等間隔に照明が取り付けられ、ボクが使うことが出来なかったあのエレベーターの表示をはじめ、オレンジ色や緑色の様々な機械的な明かりがいたるところに灯っていたのをボクははっきりと覚えている。そのすべてが消えてしまった。ボクは今、灰色のコンクリート以外何もない巨大な井戸のような筒の底にひとり佇んでいる。照明らしいものが何もないのに、自分が置かれている場所の様子をなんとなく知ることができるのは、きっとどこかに光の源のようなものがあるからだろう。でもそれがどこにあるのか見当もつかない。訳がわからなかった。ボクは取り乱しそうになるのを必死でこらえ心を落ち着かせようとした。そして目を閉じる。小さい頃のように。あの頃のように丸い光が現れて、言葉ではない言葉でボクの疑問に答えてくれることを期待した。でも光はどこにもなかった。あらゆる方向を探したけど。その代わりにボクが見たのは不思議な光景だった。薄暗いとても広いその場所には太い柱が何本もそそり立ち、遥か上の方の天井を支えている。それが実在の風景では無いことはすぐにわかる。何故なら目を開ければボクは何もないコンクリートの筒の底にもどるから。ボクは目を閉じてその古代ギリシャの神殿のような場所に戻り、辺りを見回す。でもどうすればいいのだろう。あの光が現れないなら、ボクは自分から答えを探さなければならない。視界には映るのは無限に続くかのような柱の並ぶ空間だけ。何かを探すにもどちらに進めばいいかも分からない。あの作業員の女性は、ただ深く降りればいいと言った。自分の目的に集中しろと言った。目的に。  ふと背後に何かの気配を感じて振り返ると二つほど先の柱のあたりに誰かが立っている。火の灯った燭台を手にゆっくりと近づいてきたその人物が老齢の男の人だと分かったのは、隣の柱のところに来た時だった。彼はそこで立ち止まり黙ってボクを見ていた。ボクもどうしていいか分からず、蝋燭の明かりに照らされたその顔をじっと見ていた。 「迷っているのかね」  彼は静かに言った。とても静かで、そして優しい声だった。 「はい。あなたは・・」  少し沈黙があった。 「私は大切な人との約束を破ってしまった。その人が開けてはいけないと言った扉を開けてしまった。その人が開けてはいけないと言ったなら、それは本当に開けてはいけないものなのだ。それはもちろん分かっていたが、仕方がなかった」 「どうしても開けなければいけない理由があったんですね。その扉を」 「ああ、私は彼を助けたかった。私が彼の期待していたものを持っていないと知ったうえで、彼は私と共に歩もうとしてくれた。だが今にして思えば彼を巻き込むべきでは無かった」 「その人とあなたは何をしようとしていたんですか?」  蝋燭の火が微かに揺れ、老人のすぐ後ろの柱に映る影の形を大きく変える。 「ただ世の中を良くしようと思っていただけだ。正しいことをしようとする者が報われ、悪い者が裁かれる。そんな当たり前の世の中。私たちは持てる限りの知識を持ちより、思いの全てを注いだ。考え得る限りの敵を想定し、あらゆる選択肢を用意したうえで行動を起こしたのだが、それを成すことは出来なかった」 「必ずしも正しいものが勝つとは限らないということはボクにも分かります。それに、何が正しいかということだって本当は誰にも分からない」  ボクは自分が発したその言葉に戸惑った。それは誰かほかの人のものに思えた。でもそれと同時にその言葉はボクのものになった。 「その通りだよ。正しさの定義というものは人それぞれだ。それはもはや定義とは言えない。定義とは他人との共通認識なのだから。私が正しいと思ったことが、例えば君にとっての悪である場合だって十分考えられる。でも今回のことはそういうことではなかった。敵は別の場所にいた」 「想定外の敵が現れたということですか?」 「明らかに敵対している者との闘いというのはそれほど難しくは無い。もちろん戦略や持続力は必要ではあるが。それよりも同じ方向を向いている者同士が僅かな認識の違いを克服することの方が遥かに困難だ。正しさの定義の階層を一段ずつ進めるごとに、それは細分化していく。だから同じ目的を持ちながらも厄介な敵になってしまうことも少なく無い」 「異端は異教より憎し」  また誰かがボクを通じて言葉を発し、それも同時にボク自身のものになる。 「その通りだ」 「つまりあなたたちの敵は、同じように世の中を良くしようという考えを持っている人ということですね。そしてそこには認識の違いがあった。正しさの定義のどこかの階層で」 「私が正しさについて考えるとき、人間は弱いものだということを忘れないようにしている。私たちは自らが持つ本質的な欲求に勝てないということだ。それが原因で起こるすべてを罪と考えることは私にはできない。完璧な人間などいないのだから。完璧であることを目指すのは素晴らしいがそれは不可能なのだ。しかしこれもまた私個人の考えに過ぎない」 「完璧なものにさらに完璧さを求める」 「そういう者もいる」  そう言うとその人は一瞬とても悲しそうな表情を浮かべた後で、すぐに厳しい顔でボクを見た。 「どうだね?少しは練習になったかな?」 「練習?」 「君も気づいているだろう。君は今私との会話の中で、君が知っているはずのない言葉を理解し、体験したことのない出来事の記憶を蘇らせていたことに」 「確かにその通りです。どうしてあなたにそれが?」 「私はすべてを見ていた。君が今までに生きて来たすべてを」 「あなたはいったい誰なんですか?」 「私はかつて医者だった。そして私にはそれ以前にも長い歴史がある。永遠と言えるような長い歴史だ。そして君に対して答えるなら、今の私は光だ。ただの光」 「光・・もしかしてあのときの?だってあれはボクがまだ小さい頃の、ずっと前の・・」 「全ての命は繋がっている。その繋がりには時間も場所も関係がない。今ここにいる私もあのときの光も同じものだ。そしてそれには、その命には君も含まれている」 「あなたの言っていることは難しくて、とてもボクには分かりません」 「理解する必要はない。大事なことは、あのときの君の質問の答えが今ここにあるということだ」 「ボクの質問?」 「君は聞いたね。人は何のために生まれて来るのかと。そして私はそれに答えた。だから今君はここにいる」 「あなたはお母さんの居場所を知っているんですね」  老人は小さく首を横に振った。 「それは君にしか分からない。そして君が彼女の居場所を探し当てるのは、それほど簡単ではない」 「ボクはどうすれば・・」 「助けを借りるのだ。私との会話の中で君は自分という枠を超えた。全ての命は繋がっている。君の目的は君だけのものではない。そして同時に誰かの目的のためには君が必要なのだ。その声を拒まないことだ。そして物事の本質を見る。一見美しく見えるものに騙されてはいけない。もがき苦しみながらも必死で前に進もうとする姿はぶざまで醜くもある。でもそれが生きる意味なのだ。世界に満ちている悲劇から目をそらすことは簡単だが、それは消えたわけでは無い。全ての現実をしっかりと見るのだ。君のその目で。君にも分かっているはずだ。もうあまり時間が無い」 「そうです。時間がない。早くしないと水が、暗いところを流れるたくさんの水がお母さんを連れて行ってしまう。とても遠くへ」 「急ぎなさい。水の音のする方へ」  そう言い終わると同時に蝋燭の火が消え、老人の姿も見えなくなった。ボクは耳を澄まし水の音を探した。ボクはいろいろな水の音を知っている。荒れた海の波の音、涼しげな渓流、用水路の段差に出来た小さな滝、蛇口から落ちる水滴、そして細く冷たい雨の音。ボクの意識は水音で満たされ混沌となる。ボクの記憶が生み出す過去の音が本物の音をかき消す。ボクは現実の音を探している。今、この瞬間にこのボクの鼓膜を震わせる現実の音を。ボクは目を開ける。静寂が戻り、この巨大なコンクリートの筒の奥底に佇むボクの鼓膜を微かな振動が撫でる。ボクは雄大に流れる大河を想う。その方向に目をやると、小さな入り口が見える。今まででボクの視界に入っていなかっただけなのか、そもそも存在していなかったのかは分からない。あの頑丈な階段や無数の灯りが突然消滅してしまうのだから、この小さな入り口が前触れもなく現れても何も不思議はない。その小さな入り口はボクに小学生のとき読んだ神話の迷路を思い出させる。牛の頭を持つ怪物を閉じ込めた迷路を勇敢に進む若い男。彼に恋をした娘が手渡した糸の玉。あの娘の名前は何だっけ?ボクには迷う理由も選択の余地もない。間違いなくこの先にお母さんがいる。それは人ひとりが通れるような狭い通路で、しかも本当に迷路のように複雑だった。やはりどこからか入る僅かな光がボクの前進を助ける。数メートル進むごとに出会う分かれ道でボクは耳を澄まし水の音のする方へ進む。お母さんに会うために。あの青年は怪物が待つと知りながら、どんな思いで迷路を進んだのだろう。角を曲がると突然牛の頭を持った大男が待ち受けているかもしれないのに。自分の強さに自信があったのだろうか。強さとは何なのか。ボクは決して強くは無い。でもボクに恐れは無かった。ボクを待っているのは怪物ではなくお母さんだから。あの時のボクの疑問の答えが今ここにある。ボクはその為に生まれて来た。 第4章 贋物  突然視界が開けてボクは見覚えのある広い場所に出た。太い柱が何本もそそり立ち遥か上の方の天井を支えている。ボクは混乱した。子供の頃のように。自分の目で見ている現実とそうでないものの境界線が曖昧になる。でもボクはすぐに確信を持つ。ボクは今、しっかりと目を開けてこの場所にいる。間違いのない現実の中に。そしてこの耳で水の音を聴いている。遠くて微かな音だけど確かにその水は流れている。その方向に目をやると、何かが動く気配を感じた。太い柱の影からまたあの老人が燭台を手に現れるような気がした。でも僕が目にしたのは柱に背をもたせ掛け床に座り込んだお母さんだった。あの時、通り過ぎるイメージの中でボクが目にしたお母さんの姿がそこにある。ボクはゆっくりとお母さんに近づいた。お母さんを驚かせてしまったら突然消えてしまいそうな、そんな気がしたから。 「お母さん」  小さい声が届きそうなところまで近づいてボクが優しく声をかけると、お母さんはゆっくりこちらを見て少し微笑んだ。薄暗がりの中ではっきりは見えないけど、それは本当の笑顔ではない気がした。困惑と恥ずかしさと、そして微かな怯えのようなものがその表情の中にある。 「お母さん、一緒に帰ろう」  ボクが言うと、お母さんは何も言わずにゆっくり立ち上がって自分の足元を見た。裸足だった。冷たい床の感触がお母さんの足を通してボクに伝わったけど、お母さんはそれを気にしている風は無く、優しい表情でボクを見た。 「出口なら知ってる。こっちよ」  お母さんはそう言うとゆっくり歩き出した。ボクは何を言っていいか分からず、黙ってその後についた。その歩き方はとても弱々しく見えた。いつもボクが見ているお母さんも決して強そうな人では無かったけど、それでもボクはお母さんといるととても安心することが出来た。たとえどんなことがあっても最後までボクを守ってくれると信じることが出来た。そんな信頼感が目の前を歩く後ろ姿には感じられない。 「わたしはね、ハルちゃん」  お母さんは変わらぬ歩調のまま後ろを振り向かずに言った。 「ちょっと疲れちゃったの。あの場所に長い間いたのよ。ほんとに長い間。でも不思議ね。最初はとても居心地が悪かったのに、だんだん慣れてきてね。あの硬い床も冷たい壁も、ぜんぜん気にならなくなったの。少ししか届かない光も静けさも嫌いじゃなかった。本当はこういう場所が好きなのかもって思った。好きって言うより、わたしに似合ってるんじゃないかって言う感じだったかな。だからこのままでいいかなって。ずっとね」  お母さんは少しの間黙っていた。歩く速さは変わらなかった。 「でもねハルちゃん。時々胸の中がザワザワするようになったの。暗がりの中でじっと座り込んでるわたしを誰かが揺さぶるみたいに。初めのうちはなんとなくそんな感じがするだけだった。でもだんだんその手の感触を感じるようになったの。その、わたしを揺さぶる手のね。それがすごく嫌だった。せっかく穏やかな気分でいるのに、邪魔しないでって。でもその手の力はだんだん強くなった。それで思ったの。もうこの場所にも居られないって。そんな時に水の音を聴いたの。わたしはその音に導かれるようにここまで来た。ほらあそこよ」  お母さんはそう言って前の方を指さした。10メートルほど先に3段くらいの階段があって、それを上ったところに背の低いコンクリートの壁のようなものが見える。ボクたちを取り巻く場所に届く光の量が増えたのか、それとも暗がりに目が慣れて来たのか分からないけど、その低い壁の素材も形もボクははっきりと捉えることが出来た。お母さんの歩調が少し早くなったような気がした。階段を上ってその腰のあたりの高さのコンクリートの壁の向こうを覗き込んだお母さんは、まだ階段の下にいるボクの方を振り返って手招きをした。 「ほらハルちゃん見て。とってもきれいな水よ」  ボクは階段を上ってお母さんの横に立った。水はボクたちの左方向から右へと流れていて、その水がお母さんの言うようにきれいなのかどうかはボクには分からない。それを判断するには明らかに光の量が不足している。ただその水の流れにボクは何か不思議な感覚を覚えた。その流れは速くもなく遅くもない。それは流れているようで留まり、止まっているようでその下の方では激しく流れている。そんな大河を思わせた。さっきボクを導いた水音はここから生まれたに違いない。そんなことを思ううちに、お母さんは何も言わずにその下流の方向へ歩き始めていた。その水路の壁に沿って1メートルくらいの幅の通路が続いている。お母さんは歩く速度を速めて無言で進み、ボクは早足でお母さんに追いつくとその後に続いた。通路の数か所には何段かの階段があってボクたちはそれを降りた。しばらく歩くと同じ段数の階段を上り元の高さに戻った。そんな箇所がいくつかあって、その度に水路のコンクリートの壁はボクたちの腰の高さと頭くらいの高さを行ったり来たりした。その間お母さんは何も喋らなかった。ボクは何か話しかけようとしたけど何を言っていいか分からず黙ったままお母さんの後を歩いた。その背中にはどんな言葉も受け付けないというような頑なな感じがあった。 「ほら、あそこ。もうすぐ出口よ」  お母さんの言葉に先の方を見ると、強い光が点のように見えているのが分かった。歩くうちにその光は次第に大きくなり、やがてトンネルの出口のようにくっきりとした形になった。お母さんの歩く速度は一層早くなり、それはもう小走りのようになっていた。そしてボクたちは通路の終点に並んで立ちその光景を目にした。 「ハルちゃん、きれいでしょ」 「うん。すごい」  それは息を呑むほどに美しい景色だった。ボクたちの左側の用水路はそこで終わり、その水は陽の光をキラキラと反射させながら、大小の岩が作り出した緩やかな斜面を静かに降り、新緑の葉で彩られた林に囲まれた湖へと流れ込んでいる。湖水はどこまでも透き通り、頭上に広がる青い空とそこに浮かぶ幾すじかの白い雲を水面に映す。何種類もの花々が咲く畔では水草の緑色が水と陸との境目を曖昧にしていた。お母さんは小さく深呼吸をすると、表面の粗い石造りの階段を3段ほど降りてこちらを振り返った。明るい場所で見たお母さんの顔は、暗がりで見た時の印象通りやはり生気を欠いている。美しい景色を背景にしたその顔を見た時、何かがボクの意識の隅をかすめた。それが何なのか分かるのに数秒かかった。 「待って!行っちゃダメだよお母さん!」 「どうしたのハルちゃん。ほら早く」  そう言いながらお母さんは前に向き直り更に階段を降り始めた。ボクはお母さんのところまで駆け降りてその腕をつかんだ。郊外とはいえ東京の地下のとても深い場所にこんな世界があるはずはない。ここに出口があること自体不自然なことなのだから。 「これは偽物だよ!だからダメ!戻ろう!」 「何言ってるのハルちゃん。私はやっと決心したの。今までずっと迷ってたけど、でもハルちゃんと一緒なら大丈夫って。だから早く一緒に・・」 「お母さん、ボクを信じて!ボクの言うことを聞いて!」 「ハルちゃん?変よ、ボクって・・男の子みたいに。どうしたの?ハルちゃんじゃないみたい」 「ボクはボクだよ、お母さん。お母さんは男の子が欲しいって言ってたでしょ」 「男の子?ああ・・お父さんに聞いたのね。だからって今そんな冗談言わなくても・・」 「とにかく信じて!ボクのことを。ボクが小さい頃みたいに」 「小さい頃・・」 「ボクは知ってたよ。お母さんがいつもボクを信じてくれてたこと。たとえ世界中の人がボクのことを悪者だと言っても、お母さんだけは分かっていてくれるって。はじめはそれが分からなくてすごく不安だった。クラスの子の家で頭を下げて謝っているお母さんの隣でボクは泣いてた。悲しいわけでも悔しいわけでもなかった。ただ不安だった。だってお母さんに見放されたらボクはこの世界でひとりぼっちだから。そんなひとりぼっちの世界にボクはなぜ生まれて来たのかって。何の為にって思った。でも分かったんだ。どうしてそれが分かったかはよく憶えていないけど。だからそれからは安心して生きて来れた。相変わらずボクは周りの人とあまりうまくはやれないけど、お母さんがボクを信じてくれてるだけで大丈夫だった。だから、だからボクを信じて。この景色は偽物だよ。ここでお母さんは幸せにはなれない。絶対に。たくさんの人たちがボクにそれを教えてくれてる。だからお母さん、ボクを信じて」  疑わしそうな面持ちでボクを見ていたお母さんの顔に少し赤みが差し、その目から大粒の涙が零れ落ちた。 「ハルちゃん」  お母さんはボクを抱きしめ、その涙はボクの首の後ろの辺りを温かく濡らす。お母さんの腕の中でボクは安心感に包まれていた。小さい頃のように。時間が巻き戻りそこで止まった。ボクもお母さんの背中に手を廻し、このままずっとこうしていたいと思った。微かな雷鳴がボクの耳に届くまでは。 「雨。雨になる。激しい雨」 「ハルちゃん?」 「お母さん、急いで戻ろう!早くしないと水が、ものすごい量の水が来る」  ボクはお母さんの手を取って石段を上り、さっきの通路の出口まで戻った。そこで振り返ったボクたちは真実の風景を目にした。厚く垂れこめた雲が空一面に拡がっている。それはもはや空と呼べず、まるで誰かが湿気を含んだ薄汚れた厚い布を世界全体に覆い被せたようだった。茶色く濁った湖の淵には大小さまざまな廃棄物の残骸がたまり、有毒なガスを含んだ泡のようなものにまみれている。その濁った水の底深くにはきっと、すべての生命を呑み込もうと触手を延ばしたグロテスクな巨大生物が息をひそめているに違いない。 「ハルちゃん・・」  お母さんの身体が小刻みに震えている。ボクはお母さんの手を強く握って頷いた。 「急いで戻ろう」  ボクたちがするべきことはひとつしかなかった。さっきの場所に戻って、そしてボクが来た道順を辿って地上に出るしかない。ボクが下りたあの階段は消滅してしまったけど、何か方法はあるはずだ。いずれにしてもそれ以外のことは思いつかない。ボクはお母さんの手を引いて急ぎ足で水路脇の通路を戻った。あの迷路でボクはいくつもの角を曲がったけど、幸いボクは一度通った道を覚える能力には長けている。そこにはパン屑もアリアドネの糸も必要ない。アリアドネ・・そう、あの娘の名前はアリアドネ。ボクはお母さんの手を引いて早足で歩きながら、小学校の図書室で読んだ神話のことを考えていた。そしてあの司書の先生のことを。 「ねえハルちゃん」 「あ、ちょっと速すぎる?」  ボクは少し速度を落とした。 「そうじゃない。大丈夫。あのね、今思い出したの。図書室の先生いたでしょ。司書の。彼女と電話で話したことがあったの。ハルちゃんが中学に入ったころ。ハルちゃんには言わなかったんだけどね。交通事故で亡くなった娘さんのこととか、いろいろ話してくれた。その時わたし大泣きしたの。涙が止まらなくてしばらく話が出来なかった。でもね、なんであんなに泣いたのかどうしても思い出せなかったの。とっても大切なことに気付いたはずなのよ。その時にね。それが何だったのかを今思い出した」  お母さんはそう言うとボクの手を強く握った。ボクたちはちょうどさっきまでお母さんがうずくまっていた場所まで戻ったところだった。あの冷たい床に座り込んでいたお母さんはもういない。今ボクの手の中にあるのは、温かくて強くて、そしてとても優しい懐かしい感触だった。ボクは小さい頃のように安心感に包まれた。でもその空気をかき消すようにボクの耳に届いたのは水の音だった。 第5章 扉 その激しい水音は僕たちがこれから戻ろうとしている迷路のような通路の方から聞こえる。そしてボクには見えた。大量の水がものすごい勢いでこちらに迫っている。それは徐々にこの地下空間を満たしていくような穏やかなものではなく、巨大な水瓶が魔人の手によって倒されたかような容赦のないものだ。それが本当の光景なのか、それとも今までボクを苦しめ、時には救ってくれたこの不思議な能力が見せているものなのか区別はつかない。でもそれはどうでもよかった。確かなのは、このまま戻ったとしても絶対に間に合わないということ。ボクたちは洪水のような流れに呑み込まれ、さっきの偽物の出口から外へ押し流されてしまう。あのグロテスクな世界はボクとお母さんを完全に包み込み、湖底の巨大生物の触手が直ぐにボクたちを捕らえるだろう。 「だめだ!間に合わない!ねえお母さん、どこか他に出口は無いの?さっきのとは別に」  お母さんはほんの少し考えて何かに思い当たったようだった。 「あるにはあるけど・・」 「けど、何?」 「わたし、あそこは好きじゃない。とても気味が悪くて・・」 「そんなこと言ってる場合じゃないよ。助かるにはそこしかない。とにかく行ってみよう!場所は分かる?」 「うん。さっきの水路のところを左。上流の方に行ったところ」  ボクはお母さんの手を強く握って水路の方向に急いだ。お母さんの足取りは少し重いようだった。 「ねえお母さん。気味が悪いってどんな風に?そのもうひとつの出口。何が見えるの?」 「洞窟の入り口みたいなところ。中はここよりももっと暗くて、でもずっと奥の方で光が揺れてる・・蝋燭の火みたいな」 「途中までは入ってみたんだね」 「ううん。重そうな扉が、鉄みたいな扉がある」 「扉?その扉を開けたんだね」  ボクたちはちょうど水路のところまで来ていた。お母さんの手はボクの手の中で小さく震えている。 「ハルちゃん、私どうしても近づけなかった。扉に。だから・・」 「じゃあ開けてはいないの?でもさっき中のこと、蝋燭の火とか、どうしてわかるの?」 「その扉は模様でできてるの。気味の悪い模様。わたしあの扉大嫌い。その模様の隙間からあっち側が見える。なんとなくだけど」  模様。ボクの頭の中で何かが音を立て、確信が満ちる。ボクはお母さんの手を引いて速足で水路の上流に向かった。この地下深くに降りてからかなり体力を消耗していたけど、ボクは自分の中に気力が沸き上がって来るのを感じた。それとは逆にお母さんの足取りは更に重くなっているようだった。僕の耳に届く水音は次第に大きくなり、水が近くまで迫っているのを教えている。 「ねえお母さん、ボクを信じて。その扉が、今向かっているその扉が間違いなく本当の出口だよ。ボクには分かるんだ。だから信じて!一緒に走って!もうすぐそこまで水が来てるんだ!」  ボクの手の中のお母さんの手が力強さを取り戻すのがはっきりと感じられた。でも走り出して間もなく突然お母さんの足取りが重くなり、そして動けなくなってしまった。お母さんの視線を追えばその理由は明らかだ。その扉はすぐ目の前にあった。  大小無数の渦巻きのようなものが折り重なり複雑に絡み合っている。それは蠢く蛇の群れのように見えたし、一度巻き込まれたら決して抜け出すことの出来ない渦巻きのようにも見える。その模様はボクが6Bの鉛筆で描いたものとそっくりだったけど、鉄のようなものでできたその扉は、それとは桁違いの不気味さと迫力でボクを威圧した。お母さんが怯えるのも無理はない。背後に迫る大量の水と目の前に立ちはだかる鉄の扉の間でボクが行き場を失いかけた時、ボクの背中に隠れるように寄り添っていたお母さんが小さな声で言った。 「ハルちゃん、私この扉を開けたい。ううん、開けなくちゃいけない。私、今度こそ」  お母さんは僕の背中をゆっくりと離れ扉に近づいて、蛇の尾のような形のレバーハンドルに手をかけた。その姿は恐怖に怯えてはいたけど、この地下深くで会ってから今までで一番たくましく見えた。 「だめだよハルちゃん、開かない。やっぱり開かない。あの時も、あの時も開かなかった。だから彼女は・・」  お母さんはそう言うと扉の前でしゃがみ込んでしまった。ボクはお母さんに代わってレバーに手をかけた。やはりだめだった。どちらの方向にどんなに力をかけても、それは僅かに鉄の塊を揺らしただけ。水はもうそこまで迫っている。僕達にはもう逃げ場がない。しゃがみ込んだままのお母さんの傍らに膝をついて、その背中に手を置いた時、ボクの意識を何かがかすめる。それはほんの一瞬の映像だった。それはあまりにも短すぎてボクはその内容を認識することが出来なかったけど、ボクの中にはひとつの確信が残された。ボクはこれを開けたことがある。いつ?どこで?それは分からない。でもそれは間違いのない事実なんだ。ボクはもう一度立ち上がって扉の前に立った。 「ハルちゃん、やっぱり駄目だね」  お母さんが力なく言う。 「ねえお母さん。ボクはこの扉を開けたことがあるんだ。でもボクひとりじゃダメだ。お母さんの力を貸して欲しい。ボクを信じて欲しい」  ボクがそう言って手を差し出すと、お母さんは立ち上がってボクの手を取った。ボクはそのぬくもりを感じながら、その気味の悪い模様を見つめた。ボクの中に何かが流れ込んでくるのが分かる。小さな波が乾いた砂浜に寄せるように。その波は砂浜を濃い色に染め、そこに小さな貝殻を残し引いて行った。高価な贈り物をそっとテーブルに置くように。ボクは蠢く蛇のような渦巻きの隙間に手を差し込んだ。肘のあたりまで腕を入れたところで、身体を大きくひねると指先が何かに触れた。ボクは手首から先に更に力を入れると中指の第一関節に力を込めてその冷たい金属を押し下げた。微かに金属のきしむ音がした。 「お母さん、ゆっくりレバーを引いて!」  重い音をたてて扉がこちら側に開いた。 「そのまま抑えていて!」  ボクはゆっくりと腕を抜いて、お母さんと一緒にレバーを引いて扉を大きく開けると、ふたりで抱き合うように内側に倒れ込む。水は今まさに僕たちに到達しようとしていた。ボクは急いで立ち上がり、力を振り絞って重い扉を引いた。鈍い音とともに扉が閉じるのとほぼ同時に激しい水流が扉に襲い掛かる。金属と岩が擦れるような不気味な音を立てながら揺れる扉の模様の無数の隙間から、放水車の水のような勢いの水しぶきが降りかかる。ボクとお母さんは抱き合うようにして地面に倒れ込んだ。一瞬気を失った感覚があった。我にかえると、水しぶきは止まり扉を揺らす音も聞こえない。 「お母さん、大丈夫?」 「うん、わたしは大丈夫。ハルちゃん、怪我してない?」  ボク達が足元にできた水たまりの中に座り込んだまま抱き合っていると、小さな灯をともした燭台を手にして誰かが近づいて来た。ボクは一瞬あの老人だと思ったけど、近づいた明かりが照らすその顔に見覚えは無い。それはもっと若い男の人だった。 「次の水が来る。急がないとここはもうすぐ水の底になってしまう」  それはとても静かだけど力強い声だった。ボクはその人が誰かを訪ねようとしたけど、その間もなく彼は言った。 「さあ早く。出口はこっちだ」  この人を信じていいのだろうか?判断できずに戸惑っているボクの耳にひとつの言葉が届いた。それはとてもか細く弱々しい声だったけど、とても説得力のあるものだった。それはどこか遠くの方から聞こえるようでもあり、ボクの耳元で囁いているようにも思えた。根拠は無かったけど、ボクはその声に従うことにした。それは言葉というものの枠を超えた祈りのようだった。誰かが最後の力を振り絞ってボクに届けた命そのもののように思えた。  《彼を信じてついていきなさい》  ボクはお母さんの手を握り、その人の後について少しごつごつした地面を踏みしめながら歩いた。お母さんが裸足だったことを思い出して声を掛けると、お母さんは大丈夫だよと言うように黙って頷きながら僕の手を強く握り返した。しばらく歩き、通路が二股に分かれている所で彼は立ち止まり、振り向いてお母さんを見つめた。 「分かっていますね。あなたがやるべきことは」  燭台の明かりに照らされたお母さんの表情はとても自信に満ちていて、彼の言葉にゆっくり頷くとボクの方を見た。 「ありがとう、ハルちゃん。扉を開けてくれて。それからハルちゃんのこの手がとっても温かくて、安心する。自分が小さい頃に戻ったみたいに。でもここからはひとりで大丈夫」  そう言って握っていたボクの手を静かに離した。 「お母さん。どこ行くの?一緒に家に帰ろう」 「私はもう大丈夫だから心配しないで。今度こそ本当に大丈夫。ハルちゃんはもうお家に帰って」 「お母さんはどうするの?」 「わたしも帰るわよ。でもその前に合わなきゃならない人がいるの」  ボクは何と言ったらいいか分からず男の人を見た。優しい表情で頷くその顔を見て不思議なことに気付いた。顔には全く覚えがないのに、その表情には懐かしさを感じる。いつもそばにいた誰かの表情に似ているのかもしれないけど、それが誰なのかは思い出せなかった。そんなことを考えていてふと気づくとお母さんの姿が見当たらない。 「え?お母さん!」 「彼女も言った通り、ここからは彼女一人で行かなければならない。心配ない。もう水に呑み込まれることは無いのだから。そして君がついているから。離れていても君はいつも彼女のそばにいることが出来る」 「良く分かりません。ボクはどうすれば・・」 「何もしなくていい。君はただ存在していればいいんだよ」  その意味は全く分からなかったけど、その言葉にボクはとても安心した気持ちになった。ボクは存在していればいいんだ。それと同時にふと思い当たってその人に尋ねた。 「もしかしてあなたは秘書さんのご主人ですか?」  その人は黙って少しの間何かを考えていた。そして小さく頷いた。 「彼女と私はいろいろと複雑な事情があって今は離れた場所にいる。でも私はたとえどんなに離れていても彼女に寄り添っているつもりだ」 「どうしてあなたはこんな所にいるんですか?秘書さんはとても心配しています。突然姿を消してしまったって」 「それはとても長い話だ」  ボクはそれが聞きたいというように大きく頷いた。その人はしばらく間をおいてからゆっくりと話を始めた。 「彼女の中に私という人格が生まれたのは彼女が生まれて初めての挫折を体験した時だった。優秀だった彼女は幼いころから全てにおいてトップを走り続け、その実績に裏付けられた自信は彼女に穏やかさや寛容さを与え、他方で強固な使命感を芽生えさせた。尊敬する父親ですら困難を強いられていた正しい世界を創るという理想も自分になら実現できると信じ、長期的な戦略を練り丁寧に人脈を構築していったが、結果的にその道は閉ざされることになる。彼女の精神は危機的状態に陥り、その破綻を避けるためにもうひとつの人格が創り出された。バトンは私に手渡されべつのルートからのアプローチが始められたが同じことだ。どの道を登ろうと険しさに変わりはない。彼女の疲弊は頂点に達し、そして選んではいけない道に踏み込んだ。破滅へと続く道へ」 「破滅?」 「正しさの定義は無数にある。しかし大前提としてそこには人間の存在と言うものが無ければいけない。それを否定してしまったら元も子もない。そして人間は完璧ではなく欠点だらけなんだ。ほとんどの人間が持っている欠点とは弱さだよ。様々な欲望に勝てないというね」 「欲望に勝てない弱さ。その話を別の人にも聞きました。ほんの少し前に」 「知っているよ。君が話をしたその人は私を同志として受け入れてくれた。私は彼の業績の裏に隠された特別な力のようなものに近づこうとした。それを利用するためにね。だがそんなものは存在しなかった。彼が困難を乗り越えて成し得たことは、彼が地道に積み重ねたもの以外の何ものでもない。その事実は私を目覚めさせたが、彼女にとってそれは受け入れ難いことだった。だから彼女は決断し、私をここに閉じ込めた。私に邪魔されないようにね」 「邪魔?あの人は何を?」 「彼女は自分が理想とする世界をひとつの街に組み込もうとした。悪事の芽は早期に摘み取られ、それを企てる人間は人知れず排除される。善人だけが穏やかに暮らす悪人のいない世界。しかしそれは不可能なんだ」 「人間は完璧ではない」 「だから私たちは自らの過ちに苦しみ、そこから学びながらこの世界を少しずつ良いものに変えていくしかない。しかし先を急いだ彼女は極めて冷徹で残忍な道を選んだ。彼女は新しい監視社会の構想を立て、古くから親交のあった官僚や政治家たちに協力を仰いだが、彼らの誰もまともに取り合おうとはしなかった。彼女の中で今まで築きあげて来たものが音を立てて崩壊し、そして彼女は深い妄想の迷路に入り込む。その中では危険な計画が綿密に構築され、実行部隊が組織された。日々、悪人の排除が行われ、善人だけが穏やかに暮らす理想の世界が完成した。しかし自身のその妄想は更に彼女を苦しめることになる。彼女が幼いころから抱き続けた正義感の記憶、そして彼女の中に僅かに残った私という人格の一部が、その世界に疑問を感じ始めた」 「これは本当に正しい世界なのか・・」 「その疑問は次第に大きくなり、彼女は決意をする。この間違った世界を正さなければと」 「自分が創り出した世界を、自ら正す?」 「妄想の中で矛盾は補正される。それは既に彼女の手を離れ、憎むべき間違った世界として彼女の前に現れた。そしてそれを告発するために自分の家族たちに役割を与えた。現実の家族に」  。 「家族?無くなってしまったご両親に?」 「彼女の家族はみな生きているよ。彼女の中ではすでに現実と妄想の境界は消えてしまっている」 「家族のことを忘れてしまった?」 「彼女の祖父は現代の西洋医学に異を唱え代替医療の道を選び、娘である彼女の母親とともに診療所を開いた。そして既得権益を守ろうとする立場のものからの妨害工作に対抗するために、彼女の父親は検事を辞め弁護士としてその診療所を守ろうとしていたが、彼は病に倒れ療養を余儀なくされてしまう。巧みに仕組まれた風評の操作にその前途は多難を極め、診療所の閉鎖を覚悟する場面も幾度かあった。その窮地を救ったのが彼女の妹たちだった」 「妹さん?」 「彼女が小学生のときに生まれた双子の妹だ。ふたりともとても優秀で、ひとりは医学者に、もう一人は情報技術の道に進み、それぞれに天才的な能力を開花させた。そのふたりが診療所の活動に加わったことで事態は好転する。画期的な治療法はさらに多くの命を救い、情報戦を闘う技術は妨害者のそれをはるかに凌いだ。ひとりの富豪から受けた資金や診療所としての場所の提供が支えになったのも事実だが、それを含めた全てが家族の力で地道に築いたものに他ならない」 「でもあの人はそれを受け入れられなくて、あなたを。そして家族のことを・・」 「彼女の中で私は失踪した夫であり、診療所は医療業界の不正を告発する活動の拠点。その診療所の家族はもう家族ではなかった。現実と妄想の境界は複雑に入り組み、妄想の計画を暴くために現実の大学に入り込む。診療所と大学を結びつける人物として創り出した架空の理事長は、おそらく療養中の父親の投影だったのだろう。彼女は家族それぞれに現実の役割を与え、架空の計画の告発にとりかかる」 「お母さんたちはどうしたんですか?」 「彼女の言う通りに役割を務める演技をしたんだ。もちろん悩んだ末に選んだ道だった。彼女の妄想の中で生きながら、彼女を現実に引き戻そうとした。しかしそれは事態をさらに悪化させる」 「存在しない計画は暴きようがない」 「進展しない状況に彼女の精神は疲弊していく。家族たちは限界を察し、最後の望みにすがった」 「最後の?」 「私だよ。彼女の中に私を呼び戻すことができれば何かが起きるかもしれないと考えた」 「そんなことができるんですか?」 「いや、それは不可能だ。切り離した人格を取り戻すことはできるが、この場所に閉じ込められてしまったらもう無理だ。ここはそういう場所なのだ。しかし彼女の中に残った私の一部を大きくすることはできる。彼女の現実の中に私の存在を強く感じさせることができれば」 「どうやってそれを?」 「妹の技術で彼女に入る情報を操作して架空の贈収賄事件を創り上げた。以前彼女が私という人格で取り組んできた告発の成果を思わせるその事件は、確実に彼女の何かを刺激し変化を起こした。彼女自身にはその自覚は無く、失踪した夫の行方が分かるかもしれないという期待感を身の回りの些細な変化から感じるに過ぎなかったが」 「些細な変化・・」 「それはもちろん彼女の中でだけ起きている変化だった。記憶の現実味が薄れ、夢との区別がつかなくなり、鮮明な記憶は他人のもののように思われる。既視感の頻度は増し、初対面の人に明確な懐かしさを覚える。そういうものはすべて妄想と現実の境界線が揺らいでいることの現れだった」 「あの人は現実を取り戻しつつあるということですね」 「少しずつではあるが」 「ボクに何かできることはありませんか?」 「君は既に彼女を救い出してくれたよ。君と過ごす時間が彼女に大きな変化を与えた。君は何と言うか、特別だから」 「特別?それはボクが時々感じる、あの変わった感覚のことですか?」 「もっと本質的なことだよ。君の存在自体のね」 「存在・・」 「人は皆それぞれに使命を持って生まれて来る。しかしそれを忘れてしまう。だから多くの人が目的意識を持てずに迷い悩みながら生きて行くことになる。逆に言えばそれが生きる意味でもある。しかし君はそれを感覚的に知っていた。だからこそ何の迷いもなく行動し、彼女を訪ねた。彼女はひと目見た瞬間に君が自分にとって特別な人間だと感じたんだ。そして自分の存在自体に向き合い始めた。自分の使命感、理想としている世界、そして自分は何者なのかと。それを確かめる為に彼女は今ここに向かっている。君のお父さんと一緒に。彼女は自分ひとりではここに入れないと知っている。彼女がその為の条件を満たしていないことをね」 「条件?お父さんがその条件を?」 「闘うために絶対に必要なものがある。もちろんある種の正義感や勇敢さもそのひとつだが、それでは足りない。いちばん大事なものは目的だよ」 「目的」 「人は弱いものだ。強い正義感を持っていたとしても、闘いに敗れ逃げ出してしまうことだってある。闘いさえしないことも。それは仕方のないことだ。ただ問題なのは本人がそれに気付いていないと言うことだ。闘ってさえいないことにね。何故だと思う?」 「それが目的」 「そう。人は目的も無く闘うことは出来ない。自分では全力で闘ったつもりでも、それは闘いのための闘いでしかない。それはどこにも行き着くことは無い。君のお父さんはまさに今それに気が付き、本当に闘うということの意味を考えている。何のために闘うのかということを。そしてそれもまた君が生まれた意味なのだ」 「お父さんが一緒なら、あの人はあなたと会えるんですね。あなたたちはこれからどうなるんですか?」 「それは彼女と私の問題だよ。だから君は・・」 「そんなことない。あの人にはそんなひどいことになって欲しくない。だってボクはあの人が・・」  そう言いかけた時ボクのイメージの中に激しい水流が押し寄せた。 「水が・・」 「心配はいらない。君がこの水を恐れる必要は無い。これは君をいるべき場所へ導く水だ。ただその身を委ねればいい。いずれ全てが明らかになる」  激しい流れがボクを包み上下も左右も見失なった。それは凄まじい速さでボクをどこかに運びながら、僅かな苦痛もひと時の息苦しさも与えない。ボクは羊水に浮かぶ胎児のように保護され、そしてひとつの場所を目指した。気が付くとボクの目の前にあの丸い光があった。幼いあの時と同じようにそれはとても明るく輝いていて、それなのに全然眩しくない。  《やり遂げたね》  光は優しい声で言った。いや、実際に声が聞こえたわけじゃない。光は声を持たないしボクも声を発する必要は無い。ボクの思いはすべて光に伝わり、光はそれに答えた。  《かつてこの場所にいた若い画家は自分の意に反して描いた贋作でその才能の開花を見た。だが本人も気付かぬうちにその行為は彼の精神に異変をもたらす。彼の中では二つの人格がせめぎ合い、敗者はこの場所に追いやられ閉じ込められ、それ以来この場所は同じような人格の逃げ場所となった。慣れてしまえばとても居心地のいい場所だが、ここは決して安住の地ではない。その時が来れば二度と戻れない所に押し流されてしまう。抗うことの出来ない圧倒的な力によって》  しばらくの沈黙の後、ボクの疑問に答えるように光が輝いた。  《その勝者は真の勝者ではない。彼らの中には切り離したはずの思いの破片のようなものが残り、死の時までそれに苦しめられながら生きて行かなければならない。時にそれは激痛を伴い肉体をも蝕む。耐えきれず自ら命を絶つこともある。それがその時だ。それは既に決められたことなのだ。そう、君のような存在が起こす例外を別にすれば》  さっき別れたお母さんのことがとても心配だった。  《君が出来るのはここまでだ。ここからは彼女自身の問題なのだ。心配はいらない。彼女のところに水はとどかない。彼女はとても高い場所に向かっている。君はただ信じればいい。かつて君がそうしてもらったように》  ボクは急に眠気に襲われた。それは深い泥の中に引きずり込まれるような容赦のないものだ。ボクは秘書さんを思う。世界一好きな彼女の顔を思う。  《彼女はやがて思い出すだろう。自らも無意識のうちに書き換えてしまった家族の歴史を。いつも彼女の傍に母親がいることを。過ちを悔い、迷い悩みながらも彼女を救い出そうとしていた家族の真実を知れば、彼女はきっと立ち直れる。我が子の狂気をも包み込む。それが母というものなのだから》  ボクはまだ光に尋ねたいことがたくさんあるのに、もう光はどこにも見えなかった。ボクは薄れゆく意識の中で叫んだ。 「お父さん!助けて!」               第6章   脱出  西の空にわずかに残っていた朱色も気がつけば薄い紫に変わり、今日という日の一幕が終ろうとしている。田園地帯から次の街に近付くにつれ増えて来た家々の灯りは、名前も知らない人たちの日々の暮らしを優しく包んでいる。頬杖をついて列車の窓から見えるそんな風景を眺めていたボクは、ふと思い当たってお父さんの顔を見た。 「ねえお父さん、人はどうして人を殺してはいけないんだと思う?」 「それはたぶん、誰にも愛されていない人間なんていないからじゃないかな」  早くお母さんに会いたかった。 「結局あの秘書の女性には会えなかったな。何にしてもハルが世話になったことについてはちゃんとお礼が言いたかったんだけど。しかし不思議な人だった」 「うん、あの人の中にはたくさんの人がいる」 「ああ、確かにあの人、その時によって印象がだいぶ変わる感じがしたな」 「あの人はね、どんな人も創り出せるの」 「創り出せる?」 「うまく説明できないからいいや」  人間だけじゃなく、建物も山も川も街も彼女は創り出すことができる。それがまったく存在していなかったとしても。大学の理事長室で初めてあの人に会った時ボクが感じた違和感の意味が今では良く分かる。彼女の存在がとても不安定で、ボクの中の境界線のあちらとこちらを行き来していたのは、彼女が自分の人格の一部を強引に切り離し遠ざけていたから。そして架空の人物を創り出し、彼を取り巻く世界も新しく創り出さなければならなかった。でもそれは現実の世界を大きく歪めることになる。彼女自身がその行為をどこまで自覚していたのかはボクには分からない。いったいどこまでが現実で、どこからが彼女の創り出した世界の中の話だったのだろう。ボクはお父さんに背負われて地上に戻る間、そんなことを考えていた。でもあの治療院のソファで横になって手を握ってもらった時、もうそんなことはどうでもいいと思った。高いところにある窓からきれいな星空が見え、救急車のサイレンの音が遠くに聞こえると、ボクはまた吸い込まれるように眠った。とても深い眠りだった。翌日の夜明け前、病院のベッドで目を覚ますと枕元の椅子に心配そうなお父さんの姿があった。駆けつけた医師の診察でボクの身体に異常が見られないことが分かると、看護師の女性が検査時刻の説明をして病室を出ていった。 「ずっとお母さんの夢を見ていたの」 「お母さんにはまだ連絡してないんだ。ハルが目覚めるまではどう説明したらいいか分からなくてね。すぐに連絡するよ」 「お父さん、お母さんに知らせるのはもうちょっと待って。夜が明けるまで。きっとお母さん、今よく眠ってるから」 「そう、分かった。でも昨日のことはいったい何だったのか、いまだに混乱してる。あの理事長秘書の女性とも地下のあの不可思議な場所で別れてから会ってないしね。あの時の彼女はとても具合が悪そうだったから心配してるんだ。ハルを背負ってあの治療院の部屋に戻る時にも彼女の姿はどこにも見えなかった」  ボクにも分からないことがたくさんある。いずれ全てが明らかになると彼は言っていたけど。 「ねえお父さん、あの秘書さんからどんな話を聞いたの?」 「いろんなことを聞いたよ。あの治療院の地下の秘密めいた歴史やら、この街で進行している恐ろしい計画やらね。でも正直言って理解できていないことがたくさんあるんだ。彼女や彼女のご主人があの治療院の人たちと何をしていたのかも結局分からなかった。ハルを助けるために突然急いで地下に降りることになって。激しい雨が降るとかでね」  お父さんは小さくため息をついた。 「そういう感じだから、彼女から聞いた話をうまく伝えられるか分からないけど」  そう言ってお父さんが自信なさそうにしてくれた長い話を、おそらくボクは語っているお父さん自身よりも遥かに正確に理解できたと思う。ボクの中でその物語ははっきりとふたつの部分に分けることができた。現実に起きたことと、彼女が創り出した世界のことに。ボクは地下のあの場所で彼に聞いたことを思い出しながら境界線のあちらとこちらに話を振り分け、それぞれの物語を組み立ててみた。ふたつの物語はところどころで干渉し合いながらも全く別々に展開して行く。ひととおり自分の知っていることを話し終えると、お父さんはますます混乱しているような複雑な顔で言った。 「まったくどの話も理解を超えてる。でもあの地下施設については実際にこの目で見たことだし、彼女が言った通りあのワインセラーの奥の扉の先には巨大な洞窟があって、そこでハルに会えた。すべてが現実だったんだ。この街の恐ろしい計画のことだって、実際に自分が危険な目に遭ってるから、何かしら異常なことが起こっているのは確かだと思う。だから彼女の話を信じていないわけじゃない。でも釈然としないことがいろいろあるんだ」 「どんなこと?」 「彼女が言っていた贈収賄事件。そんな事件には全く覚えが無くて、それで昨夜ハルが眠っている間にいろいろ調べてみたけど、情報が見当たらない。何人も逮捕者が出て大臣が責任を取って辞任した。そんな大事件、すぐに見つかるはずだけど。それからあの大学の理事長のこと。その人物についても極端に情報が少ないんだ。大学の設立に際しても実際に人前に姿を出したという記録は無い。まあ彼女の言うように病気療養を隠すために何かしらの細工がしてあるのかもしれないけど。ただアーティストとしての実績については詳しい資料を見つけたよ。偶然だけど、お母さんの出身校の仕事もしていて驚いた。世界中で活躍していたのにある時を境にパタリと活動を辞めたらしい。おそらくそれが彼女が聞いた才能が枯渇したという時期なんだろうけど、それ以降のことはまるで分らない」  お父さんが混乱するのも無理は無い。ボクの振り分けが正しいとすれば、お父さんが聞いた話の殆どは彼女の頭の中でだけ起きている。優秀な彼女でも、その世界を現実の中に落とし込めばところどころに矛盾が生まれるのは当然のこと。ボクはお父さんの疑問の殆どを解決してあげることができるけど、それはさらにお父さんを混乱させるだろう。 「ねえハル、他のことはさておき、ハルの書き置きにあった、助けなければならない人というのがお母さんだっていうのは本当なのかな?全く意味が分からないけど」 「そのことは大丈夫。お母さんはもうわかってると思うから」 「ますます意味が分からない。父親なんてそんなもんかな」  そう言ってため息をついているお父さんはどこか嬉しそうだった。 「ねえお父さん、あんな地下の深いところにワタシが何をしに行ったのかって聞かないの?」 「聞いたところで、きっと理解できないんだろうから。もういいさ」 「ありがとう。助けに来てくれて。ワタシずっとそれを待ってた気がする。最後にはお父さんが助けに来てくれるって」 「父親だからね。でも本当のことを言うと地下に降りると聞いたときはすごく怖かった。地下とか狭いところとかダメなんだ。昔からね。小さいときに年上のいとこと遊んでいて、よく布団の中に閉じ込められた。きっとそのトラウマだね。あの洞窟に入った時は本当に気が狂いそうだった」 「でも助けに来てくれた」 「それどころじゃなかった。あの秘書の女性も必死だったし。ご主人のことで。そのご主人に会ったらと伝言を頼まれたんだけど、結局会えなかった。あの場所にはハルしかいなかったから」 「伝言ってどんな?」 「私が間違ってた・・・だったかな」  そのメッセージが彼に伝わっていることをボクは願った。そして彼女が傍にいる母親を思い出すことを願った。双子の妹の存在も、そして父親が生きていることも。朝を待ってお母さんに連絡をした。お母さんは電話口で泣いていたけど、その声はとても力強かった。そして最後に言った。 「ハルちゃん、ありがとう。終わったよ」  念のために受けた検査でも異常は無く、昼過ぎに退院してボクとお父さんはあの治療院に向かった。しかしドアには鍵がかかり何の応答もない。お父さんの話ではきのう確かにそこに掲げられていた治療院の看板も取り外され、その痕すら残っていない。その足で大学を訪ねたけど警備員に呼び止められ理事長室に辿りつくことはできなかった。駆けつけた事務長によれば、今朝文科省の役人から連絡があり、彼女の辞職の申し出を伝えられ、事務局はそれを受理したということだった。 「全く役人っていうのは勝手なもんですよ。彼女が秘書に就任するときも強引で、辞めるときも有無を言わせずですから。ま、学校法人っていうのは文科省に頭あがりませんからね」  そう言いながらも自分がまた理事長秘書になったと言って満足そうな笑みを浮かべた。他に彼女を探す術がないボクたちは仕方なく大学を後にして駅への道を歩いた。大学にいる間はもちろんのこと、お父さんは病院を出てからずっと周囲を気にしていた。この街の秘密の計画を思えば、またいつ危険な目に遭うか分からないと。ボクはその心配は無いと教えてあげたかった。そもそもその計画は存在していないのだと。お父さんが警官に銃を向けられた話の真相はボクにも分からない。それは恐怖心が生み出した妄想だったのかもしれないし、行き過ぎた使命感がひとりの警官を狂気に走らせた現実なのかもしれない。地下で彼が言っていたように、ボクたちは自分の過ちに苦しみ、そこから学びながらこの世界を少しずつ良いものに変えていくしかない。この街の平穏が意味するものは、気の遠くなるほど長い時間の中の僅かな前進なのかもしれない。 「お父さん、もう家に帰ろう。早くお母さんに会いたい」 「そうだな」  列車はボクたちをお母さんが待つ街へと運ぶ。少しずつ近づいて来る西の稜線と空との境界は間もなく完全に失われるだろう。ボクは遠い場所で見知らぬ人たちが迎える朝を想う。宇宙に浮かび静かに回り続けるこの惑星を想う。いずれ全てが明らかになる。いずれ。 「そう言えば朝のお母さんとの電話のとき、最後にお父さんに代わったでしょ。どうしても言いたいことがあるって。お母さん、なんて言ってたの?」 「ハッピーエンドにしてくれてありがとうって」                  終章  浄水場へと続く用水路はその途中で小さな川を渡った。分厚いコンクリートで蓋をされたその用水路は川を渡る部分だけが頑丈そうな鉄でできていて、長さはだいたい10メートルくらいだろう。造られた時にはおそらく鮮やかな赤い色だった幅50センチほどの四角い鉄の筒は、塗装の剥がれた部分から始まった錆の浸食によりその精気を失いつつあった。上部には人が歩けるように目の粗い鉄製の網のような蓋がはめ込まれ、片側にだけ大人の腰の高さくらいの手摺りが付けられていた。手摺をしっかりと掴んで鉄の網の上に立ち辺りを見渡す。上流に目を向けると、川は思っていたよりも鋭い角度で折れ曲がりながら深い森の中へと続いている。下流の方向に森は次第に拓け、川は少しずつその幅を広げながら街の中心をなす温泉街に向かっている。  水深が適度に深く流れが緩やかなその溜まりのような場所は、夏休みの少年たちの格好の遊び場になっていた。彼らは母親が作ってくれたおにぎりと麦茶の入った水筒とプール用の大きなタオルを自転車の籠に入れて、汗だくになりながら登り坂を漕いだ。大人たちが子供の冒険心のようなものを尊重していた頃の話であり、余計な心配をしている余裕のなかった社会の話でもある。いずれにしても、山肌をけずり相次いでゴルフ場が建設されたことで川の水は危険なものとなり、そんな少年たちの夏休みは過去の情景としてのみ記憶されることになった。  川を渡る鉄の用水路は下から見上げると大きな河川に架けられた鉄橋のように見えた。高さはそれ程でもなく、少年たちの度胸試しに使われた。5人にふたりは躊躇なく川面に飛び降り、ふたりは直前で降参し、ひとりは登る前に諦めた。その程度の高さだ。そしてそれはその場所でのリーダーを決める暗黙の儀式でもあった。あるものはそれを素直に受け入れ、あるものは悔しさを覚え密かに逆転を夢見た。水遊びに飽きた少年たちの好奇心は当然のことながら用水路の上流へと向かい、未知の世界への探索が始まることになる。森は次第に深くなり、少年たちが目印として辿ったコンクリート製の蓋は徐々に地面に埋まりやがて消えた。水場のリーダーが提案した探索のうち切りに反対する者はいなかった。舞台が変わったのを契機に逆転を試みたひとりの少年を除いては。賛同者を持たない彼はひとりで道しるべの無い探索を続けることになった。宝物を持ち帰った自分を皆が勇者として讃えるのを夢見て。ところが彼がそこで得たものは宝物でも称賛でもなく、その後の人生に影を落とす呪いのようなものだった。その日以来彼は、先頭を歩くことを望まず、未踏の地へ進む選択を避けた。彼の本来の素性が幾度もそこからの脱却を試みたが、気付けばその場所へ引き戻された。そして閉所で発狂する悪夢にうなされ続けた。  木々は折り重なるように葉の色を濃くし、まだ高いはずの日の光を遮った。僅かに生き物の足跡を感じさせる道とは言えぬ木々の切れ目と、その脇に落とされた紙屑やビニール袋の類だけが彼の不安を和らげた。帰り道を見失う恐怖にパン屑や糸巻きを想ったが、彼の手には何もなかった。やがて恐怖心が暗雲のように少年の心を支配し始め、僅かに残る好奇心を呑み込もうとしたところでその建物は現れた。薄汚れたモルタル塗りの壁には無数のヒビが入り、その壁づたいに這わされた雨どいは地面に到達するだいぶ前の部分で抜け落ちている。不安の極限に近い状態で現れたその建物は、少年にとって恐怖と救済が複雑に混ざり合ったものだった。少年の恐怖を増す材料になったのが、全ての窓につけられた鉄格子だったことは間違いない。しかし少年は限られた選択肢から、更に建物に近づくことを選び、やっと背の届く窓から中を覗き込んだ。  白衣を着た医師のような男と女がひとりずつ。パイプベッドに寝かせた小さな男の子を押さえつけている。ふたりは何か言い争っているように見えたが、やがて女の方が手に持った注射器を身をよじって抵抗する男の子の肩に当てた。少年は怖くなりすぐにでもその場から離れたかったが体は全く動かなかった。その光景から目をそらすことすらできない。少しすると男の子の体の動きが止まり、少年の覗いている窓の方にその顔だけを向けた。そして涙に潤んだ目で少年を見た。その瞳は少年を捉えて離さなかった。再び体を大きくよじって何かを叫びながら医師たちに抵抗し始めてからも、その目は少年を見据えていた。猿ぐつわのようなもので口を塞がれたその叫びはほとんど空気を振動させることが出来ず、もごもごと籠った小さな唸りに過ぎなかったが、少年の耳には鮮明な言葉となって届いた。 「助けて・・お父さん」                                    終
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