明日晴れなくても(8)

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八・夢の途中  朝晩涼しくなってきたおかげで私の眠りが深くなったのか、ここ最近はあまり夢を見ることも少なくなった。夢を見たとしても、ぼんやりと夢らしきものを見たような気がするだけではっきりと内容まで覚えてはいなかった。  だから、今回玲良との夢の続きを見るのは本当に久し振りだった。  どうやら夢の中の私はその後も彼のいる図書館へ足繁く通っていた。それは翻って、夢の中でも私の夏休みの課題はまだ終わっていないことを示していた。  彼は一日中図書館にいる割には自販機のドリンク以外全く口にすることはなかった。 「何も食べなくてお腹空かないの?」  私は本に目を落としている玲良に向かって聞いた。 「うーん。食欲ってなんだかわからないんだよね」 「そういうの見ておいしそうだと思わない?」  彼が読んでいるレシピ本に載っていたポークピカタのカラー写真を指差した。 「確かにおいしそうだけど、頭の中でその料理の味を想像しているうちになんだか食べたような気になっちゃうんだ。それでもうお腹がいっぱいになるんだよ」  随分と便利な考え方だ。ダイエットには向いているかもしれないが、もし自分だったらお腹が空いて仕方がない。 「でも、ちゃんとご飯を食べないといけないわ」 「食べてるよ。朝と晩に」  小さい頃からお母さんに「どんなときでもちゃんと一日三食摂りなさい」と教えられてきた私にとって、昼食を抜くなんてことは考えられなかった。間違いなく夕飯までにガス欠で動けなくなってしまう。  翌日、私は自分の分と彼の分のお弁当を作って図書館に向かった。気が付けば私も夏休みの間中図書館に入り浸っている気がする。 「もしよかったら食べて。別に私と一緒じゃなくても構わないから」  お弁当箱の入った手提げの紙袋を前にして彼は目を丸くしていたが、すぐにニコッと微笑んで紙袋を受け取った。 「ありがとう。せっかくだから後で一緒に食べようよ」  現実世界では異性のためにお弁当を作るようなシチュエーションなど一度もないが、夢の中の私は意外と積極的なようだ。  彼が何冊も本を積み上げてひたすら読み耽るのを横目で見ながら、書架の間をぶらぶらと歩いては課題のための本を探しては読み、探しては読みというのを繰り返しているうちに午前中が平穏に終わっていった。  十二時を告げるチャイムが館内に鳴り響くと、彼は読みかけの本を閉じて私に声をかけた。 「よし、お昼にしよう」  二人は一階にある唯一飲食が可能な休憩コーナーでお弁当を広げた。 「いただきます」  彼は律儀に手を合わせてからお弁当箱を開けた。そしてひょいとおにぎりをつまみ上げると一口頬張った。 「うん。おいしい」  お弁当の中身はおにぎりに唐揚げと卵焼きという至ってシンプルなものだった。  唐揚げは前の晩にしっかりと下味を付けておいた。砂糖入りの卵焼きは焦がさないように火加減には十分に気を付けながら作った。  些細ではあるが私なりの努力が彼の一言で報われた気がして少し嬉しかった。  あっという間にお弁当を平らげた彼は私に向かって深々と頭を下げた。 「ごちそうさま。本当においしかった」  彼の満足げな顔を見て、私の口がつい滑った。 「そんなに喜んでくれるのなら、毎日作ってきてあげようか」  そう言ってから私は心の中でしまった、と呟いた。  できない約束はしてはいけない、とお母さんからよく注意されていたのをその時思い出した。  私は何をやっても長続きしない性格(たち)なのをうっかりしていた。  しかし彼は動揺する私の心情にはお構いなしに微笑んだ。 「本当に!? ぜひお願いしたいな」 「毎日は作れないかもしれないけど……」  今さらもう遅いと思いながらも取り敢えず予防線を張ってみた。 「毎日じゃなくても構わないよ。あ、そうだ。今度一緒に動物園に行こう。その時にお弁当作ってきて欲しいな。今動物図鑑を読んでいるんだけど、実際に見てみたい動物がいるんだ」  彼が喜々として話しているのを見て、もう後には引けないと腹をくくることにした。 「それで、見たい動物って何なの?」 「センザンコウとアルマジロさ。似ているようで全く違うこの動物を自分の目で確かめてみたいんだ」  センザンコウとアルマジロのどちらも全くイメージできなかった。私には空想上の生き物とほとんど大差なかった。  結局、二日後に彼と動物園に行く約束をした。  私はお母さんの助けを借りて前よりもゴージャスなお弁当をこしらえた。料理の苦労や手間など何一つなく立派なお弁当ができあがるところが夢の良いところだ。  その日、私は駅前で彼と待ち合わせをした。  図書館以外で彼と会うのは初めてだったので、何だか不思議な感じがした。それに服装もいつもの軽装ではなくて、久々にちゃんとした服装だ。  私が一目惚れして買った水色のワンピースを身に纏い、普段はしたことのない髪留めでヘアスタイルもちゃんと整えた。髪を乾かす目的以外でドライヤーを使ったのはいつ以来だろう。  駅前で彼を待っている間、家を出るときお母さんにからかわれたのを思い出した。 「今日は人生初のデートね!」 「そんなんじゃないよ」  とその時は反射的に答えたが、今冷静に考えてみるとこれはまさしくデートに相違ない。  今さらながら事の重大さに気付いて、急に膝に力が入らなくなった。足許がふらつき、履き慣れないパンプスのせいで転びそうになるのを必死に堪えながら、できるだけ直射日光を避けるように建物の影へと身を寄せた。  落ち着きを取り戻そうとスマホを取り出し、今日行く予定の動物園と動物園までのルートを確認した。  電車の乗り継ぎも駅から動物園までの道のりも概ね把握した。よし、問題ない。  ところが、彼は約束の時間になっても現れなかった。 「寝坊でもしたのかな」  と、最初はのんびりと構えていたのだが、十五分、三十分、そして一時間と時間が経って行くにつれてだんだんと不安になった。最初は私が約束の時間を間違えたのかとスマホでスケジュールを確認したがこの時間で間違いなかった。 「どこかで事故にでも遭ったのか、それともすっぽかされたのか……」  一応お互いの連絡先は教え合っていたので、何かあれば連絡をくれるはずだ。きっとバスの中にいて渋滞にでも巻き込まれて電話ができないのだろうか。  いや、電話ができなくてもショートメールを送るくらいはできるはずだ。  私はいても立ってもいられなくなって、自分から彼の携帯に電話をかけた。  呼び出し音が鳴っている間、私の心臓は百メートル走を終えたばかりときのように大きく脈打っていた。  なかなか出ない相手に、あと三回呼び出し音がしても出なかったらあきらめて切ろうと思っていたその時、電話が繋がった。  電話の向こうは無音だった。 「もしもし」  私は恐る恐る声をかけた。 「もしもし」  電話の向こうから返事があった。が、それは彼の声ではなかった。  女性の声だった。 「藤沢さんでしょうか?」  心臓はまだ早鐘のように鼓動していた。 「はい、そうです」  彼の携帯に電話をかけているのに彼の声が聞けないことへの言いようのない焦りを覚えていた。 「お近くに玲良さんはいらっしゃいますか?」  一体自分は誰の携帯に電話しているのだ、玲良の携帯じゃないのか、などと思いながらも、そう言うくらいしか思いつかない自分に少し苛立った。 「私、玲良の母ですが」  彼の電話に肉親が出ることは不自然ではなかった。ただ、どうして彼が電話に出られないのかが少しだけ心の片隅に引っかかった。  私が何かを言いかけようとしたのと同時に、玲良の母を名乗る女性が口を開いた。 「玲良は出掛ける直前に頭痛が酷くなって……今病院に緊急入院しているのよ」  なぜか電話の声は淡々としていた。  全く想像していない事態に言葉を失った。  図書館にいるときには頭痛に悩まされたり、薬を飲んでいるような素振りは全く見せなかったから、舞依や紀子とは違って彼は大丈夫だと思っていた。 「……玲良さんは、大丈夫なんでしょうか?」  すぐに返事はなかった。そのことが彼の症状が重いと言うことを暗に示しているように思えた。 「まだはっきりしたことは言えないけど、取り敢えずはしばらく入院する必要があるみたい」  私の腕からお弁当の入ったバスケットがこぼれ落ちそうになった。慌ててバスケットの取っ手を強く握った。  まるでボウリングのボールでも持っているのかと思うほどバスケットが重たく感じ、手に力が入らなくなった。  いや、手だけじゃない。  腕を上げているのもスマホを持っているのも辛い。立っているのもやっとで、油断したら膝がカクンと折れ曲がってしまいそうだ。  夏の強い日差しが容赦なく照りつけても、その暑さすら感じられなくないほど感覚が麻痺していた。  耳障りなセミの声がどんどん遠くへ逃げていった。  胸許がざわざわとして息をするのが苦しくなった。私は大きく息を吸い込もうとしても空気が肺に入ってくるような感覚がなく、そのせいで頭が酸欠でクラクラしてきた。  突然目の前がパァッと真っ白になって周りの景色が全て消え去り、そして何も見えなくなった。 (つづく)
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