第一章 人魚

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第一章 人魚

 三階にある教室の窓の桟に、頬杖を付きながら空を見ていた。雲ひとつない空はまるで絵の具をベタ塗りしたように、とても窮屈だった。太陽の日差しが絵の具の空を突き抜けて肌を焼く。  現在、私、杉本慧(すぎもとけい)は放課後の気怠い時間を、彼氏の部活が終わるのをひとりで待っているのだ。友人たちは今日新しく販売されたバッグを見に行くと言って、さっさと帰ってしまった。いつもならダラダラと放課後もお喋りに付き合ってくれるのに、私よりもバッグの方が大事らしい。まあ、分からないわけではない。私もあのブランドのバッグは好きだ。パステルカラーやビビッドカラーのバッグは気分を高揚させる。私ももっとバイトを増やせば買えるのだろうけど、今は無理。彼氏とのデート代と化粧品や洋服に消えてしまう。  私ははあ、と深いため息を漏らすと、空にあった視線をずらした。教室から右手を見ると、別館がある。そこの屋上にはプールがあり、夏休み間近の七月は水泳部が必死に練習を重ねていた。 「水泳部かあ……。涼しそう」  なんとなく視線を水泳部に移すと、そこには紺色の水着に包まれた男女が代わる代わるプールの中に飛びこんでいく。別館は二階建てだから、ここから見るとプールの水が光に反射して青い鏡のように見える。そこに紺色と少し焼けた肌の生徒たちが飛びこんでいくのだ。プールを連なって泳ぐ様は、まるでトビウオのように思えた。  私はしばらくトビウオたちを見ていると、ひとり背の高い女子を見つけた。黒髪のショートヘアを水泳帽に全部すっぽりと被った、細長い彼女。浅黒い肌に、黒色のワンピース型の水着。背中は首元から腰にかけて開いていて、背骨がくっきりと見える。他の生徒と少し違う形の競技用水着だった。ここからでは顔まで良く見えないが、彼女のことは知っている。同じクラスの上野愛華(うえのあいか)だ。  彼女は水着のお尻のあたりを少し直すと、スタート台に立った。それから身体を半分に折りたたむと、ピーっという笛の音とともに、すうっと水に飛びこんだ。縮まった身体が一気に伸びて、青い鏡の中へと吸い込まれていった。しばらく水面は大人しくて、私は彼女が別の世界へ消えてしまったのではないかと懸命に水面を見つめた。眩しくて目を瞬く。すると、バシャリと音がして、彼女の長い手足が水を弾きだした。青い鏡だったプールの水が、泡を立てて彼女の身体を包んだ。どんどん進んでいく彼女はまるで水に溶けているようで、そのまま本当に泡になってしまうのではないかと心配してしまう儚さがあった。  二十五メートル進むと、壁をキックしてくるりと帰ってくる。箱の中で彼女は懸命に泳いでいる。彼女とはあまり話したことがない。教室にいるときも、泳いでいるときも、彼女は他の誰かとは違う不思議な雰囲気があった。それでも水の中にいるときの彼女は地に足が着いていない、という文字通り、どこかへ行ってしまうのではないかと思うほどの、哀愁のようなものを感じてしまった。  それから私は彼女をずっと目で追っていた。プールから出て、水泳帽を脱ぐと、髪を振っていた。水でしっとりと濡れた髪は彼女のくっきりとした目鼻立ちに沿うように張り付いていた。それから彼女はプールサイドに立つとぼんやりとフェンス越しに空を見上げていた。 「慧。お待たせ」  がらりと教室の扉が開く音がして私を呼ぶ低い声がした。私はぎくりとして慌ててその声の方を向く。 「り、遼太郎くん。早いね」 「うん。なんか基礎練ばっかでめんどくなって早退した」 「基礎練も大事なんじゃないの? そんなんでバスケ部のスタメンとか本当にウケる」 「うちのバスケ部は弱小だから」  ケタケタと笑う彼氏の馬渕遼太郎は、日に焼けたところも全くなく、筋肉質な肌を見せて私に近付いてくる。身長もバスケ部のセンターなだけあって高い。茶色に染めた短髪がうざったいほど端正な顔を際立たせている。  私は鞄を手に取ると、窓を閉めた。そっとプールの方へ視線を移した。が、そこには上野愛華の姿は見えなかった。なんだかほっとして私は笑顔を作った。 「じゃあ、帰ろうか」 「うん。今日は時間あるし、カラオケでも寄ってく?」 「別に良いけど。あんまりお金ないよ」 「一時間ならよくね?」 「はいはい。じゃあ行こ」  私たちは教室を後にした。セーラー服が身体にまとわりつく。さっきまでずっと窓から身体を太陽に晒していたせいで、汗をかいていたらしい。遼太郎が湿った手で私の右手を掴んだ。熱い手が私の手と絡みあって、更に熱っぽい。誰も通らない廊下をペタペタと上靴を鳴らしながら歩く。ちらりと遼太郎の顔を覗くと、汗の匂いと整髪料の匂いが混じって、顔が歪んで見えた。顔をすぐに逸らすと、後ろ髪を引かれるように、教室の方を見た。しかし、そこには誰もいるはずが無かった。
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