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【2】08
黒部がトイレに入ってきた。それはなんにも不思議なことではないのだ。しかし不自然な角度に口角をあげて微笑んでいたから、俺の心臓は故障したみたいに鳴り響いていた。
「お、おう……黒部か。授業は? 行かなくていいの?」
「や、俺いまは空きコマっすね」
「へ、へぇー……」
「伊勢さんって声かわいいんですねー」
「は、え……なに……」
黒部は横に並んで、蛇口をひねった。何を言っているのかわからなかった。正確には、わかろうとも理解したくなかったのだ。顔を見ることができず、けれど表情を確認したいので、鏡越しにうつむく黒部を見た。
「ああいうとき、けっこう声変わるタイプなんすねぇ」
あまりにも強い衝撃は人を白痴にする。これほどに簡単な言葉の、意味がまったく分からなかった。そんなふりがいつまでも出来ればまだましなのだが、理解してしまったとき、一瞬にして頭の先まで熱くなるのが分かった。
「ちょ、待っ……」
「学校なんかでしない方がいいっすよ、どこに誰いるかわかんねぇんだし責任とれないでしょ」
黒部は冷静で、言葉は正しい。鏡越しに見た瞳はガラスを裂くほどにするどいので、とっさにごまかすことができなくなる。じょうずな嘘をつけないまま、正しい黒部の前でさらに未熟なものになる。
「あ……いや、あの」
「ふつう男女のカップルだってそんな簡単にやらないと思いますよー、スリルある方が好きなんすかー?」
何か言わなくてはいけない。黙るのは認めることと同じだ。そう思うたび焦りばかりが募り、くちびるはすこしも動かない。黒部は爽やかに笑った。
「そんな真っ青にならないでくださいよ」
「お前……このこと誰かに言ったり」
「そんなことしないからだいじょうぶですよ、安心してください」
冷静な対応だ。そこで思い出した。高岡さんは、黒部のことをゲイだろうと言っていた。ということは、もしかしたら黒部は、俺達の関係に対し理解があるのかもしれない。一番恐ろしいのは、気持ち悪いありえないと噂になってしまうことだ。黒部は常識があってやさしい後輩だ。よく気遣いもできるし、他人を傷つけることもない。他の人にバレてしまうことより、ずっと安全なのではないだろうか。
「ほ、ほんと……?」
「ほんとですよー、安心してくださいよ」
「まじか……良かった……いや、良くないんだけど……でもお前で良かったかも……」
「そうですよ、俺べつにそれで引いたりしないですし、噂とかにもしませんよ」
「そっか……」
「まぁ口止め料くらいはほしいですけどねー」
「いやーもう勘弁して。俺ほんといまだに心臓ばくばくしてるから」
「はは、そんなら学校の中でなんかヤらなきゃいいのに」
「いやそうなんだけど! あれは勝手に高岡さんが……」
「やだー、カップルのノロケ話ききたくないー」
「ノロケじゃないって! ほんとに高岡さんが……っ」
「いやノロケ話マジいいから」
黒部は急に真顔になった。狭いトイレの時間が止まった気がした。
「それより、ね? 伊勢さん」
「……は? なんだよ」
「いやーわかるっしょ、口止め料的なあれですよ」
「なに、どれ」
「とぼけないでくださいよ。わかるでしょ? 黙っててほしいんだったら、ね?」
ばかみたいな金髪がそれでもよく似合っていて、悔しくなるような長身。サークルでは紳士的なプレーをするしよく気がきく。ただの後輩だった男の印象が、着実に変わっていく。
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