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【1】04
一個人の憂鬱などまるで気にせずに朝がくる。そんな日に限って、街中に太陽の匂いが広がり、青く澄んだ爽快な朝だった。二日酔いで頭は痛いし、胃はキリキリするし、頭のすみに泥のように残る気がかりもある。それでも時間がくれば授業がはじまり、終わり、腹も鳴って、日常生活に引き戻されるのだった。
「あー伊勢生きてんだ」
「どういう意味すか」
やつれた状態で学食へ足を運ぶと、昨日のメンバーの一人に声をかけられた。
「いや、昨日ラーメン屋で待ってたのに全然こねぇから、死んだかと思ってた」
「まじ容赦ないっすよね、リアルに死ぬとこでしたよ」
「あの後どうした?」
「帰りましたよ、ふつーに」
「一人で?」
「ひとっ……た、たか、おかさんと、です」
言いよどむ必要などなかったのに、触れたくないその話題を強制的に持ち出されたようで、思わず言葉が乱れた。そんな俺を怪しむこともなく、先輩は俺の背後に向かって手を振る。
「あ、ちょうどいいとこに。たかおかー」
心臓が一度破裂して、再び再生するまでのあいだに振り返る。食券を求める人が集まった学食前で、ひときわ目を惹くサイケデリックな赤色のパーカー。
「……おす」
高岡さんの表情は読めない。寝不足と言われれば納得するし、いつも通りだと言われても納得するような死んだ目で、小さく返事をしてこっちへ向かってきた。分厚い膜をまとうような所作は、しかしそれこそいつも通りなのかもしれない。
「何、ちょうどいいとこって」
「いや、今ちょうど高岡のウワサ話してたから」
「ちょ、ち、違いますよ! 別にふつーに、昨日なんでラーメン屋こなかったの、みたいな話してただけで!」
先輩の他愛ない冗談にも焦って、思わず訂正をしてしまう。我ながらわざとらしい訂正だ。しかし高岡さんはぼんやりと返事をした。
「あー。俺ラーメンあんま好きじゃないんだよね。しかもあの時間に食いたいか? 金もねぇし。なあ?」
言葉の最後には、一緒に抜け出した俺への同意を求める。気を悪くしたようでもない対応に安心し、俺は先輩の方を向いて頷く。
「……そういうことです」
「ふーん。お前ら毎日金ないって言ってんな」
「毎日は盛ってます」
「あ、ヤベバイト先から電話きた。伊勢、俺の分のA定食買っておいて」
「は!?」
自由な先輩は、突然スマートフォンを取り出し去ってしまった。俺と高岡さんは、券売機の列の中に取り残され言葉を失う。話の流れを汲んだなら、どうしたって昨日のことに触れざるを得ない。
気まずさから目線を泳がせた先にガラス窓があった。窓に映った高岡さんはやはりいつもの高岡さんだ。ただ、普段は気にしないあの唇の色や形、あの手の筋や形が目に留まってしまう。仕方ないだろう、あの唇にキスされて、あの手に触られて、下着の中に入り込まれて、握られて俺は。
「伊勢ちゃん何食うの」
「うぇ、あ?」
「うえあ?」
引きつった表情と変な声がもれた。高岡さんは唇の端だけで笑いながら、券売機を親指で指す。いつもとまったく変わらない声色に、俺ばかりが意識しているようで恥ずかしくなった。
「……ラーメンです」
「え、ラーメン?」
「ラーメン美味いじゃないすか安いし」
「ラーメン、んー……?」
「なんすか文句ありますか」
「いや、ないけど」
「なんすか!」
「さっき好きじゃないって言ってたのになと思って」
「あれは高岡さんに合わせただけですもん」
「あーそうかありがと。俺もラーメン美味いし好きだけどね」
「なんすかもう……高岡さんほんと支離滅裂ですよ」
「はは」
財布を取り出し、百円玉を食券機にカンカン投入していく。ラーメンのボタンを押しながら、支離滅裂なのは俺です、と、口の中だけで詫びた。
「伊勢ちゃん、昨日のラーメン屋行ったことある?」
「いや、まだないです。気になってはいるんですけど」
「そっか。じゃあ今度二人で行こうよ」
ごく普通の誘いかけだ。何度もこうして誘われるまま、ラーメンにも焼肉にも海にも行った。それなのに一瞬にしてざわめきが遠のき、俺は、あろうことか返事につまってしまったのだった。
「あーまじあの店長すぐシフト変えるからやだわー」
先輩の声に我に返る。電話を終え戻ってきた先輩と入れ違いに、高岡さんが身をひるがえした。
「混んできたから、俺席とっておくな」
「え……高岡さんメシ買わないんですか?」
「学食のメシって案外高いんだなー、びっくりした」
高岡さんは何も買わないまま列から抜け出し、空席を探して混みあった食堂に消えていった。先輩は、高岡さんの背中を見送って言う。
「あいつの金欠思ってる以上かもしれんな」
「……その割に、高岡さんって飲み会とか結構来てますよね?」
「そうなんだよなー。酒も飲まないのによく来るよな」
「え?」
「昨日も飲んでなかったじゃん」
スマホをいじりながら片手間のように、先輩が決定的な言葉を口にする。
「ここんとこずっと禁酒してんだってさー。なんか『酔ってまずいことやらかしそうで怖い』みたいなこと言ってたけど、あいつが派手に酔ったとこって見たことないよな。つーか、金もギリギリで酒も飲まねぇのになんで飲み会くるかって言ったらさー、いつものメンバーの中に狙ってる子いるんじゃねぇかって思ってんだよね。ずっと彼女いないって言ってたし」
耳の奥で感情が鳴る。気付かないふりをしていた真理を言い当てられたようだ、それでいて突き放されたようだ。高岡さんの影はもう見えないのに目の中に赤が張り付いているようだ。先輩が突然、あーおまえ俺の分のA定食買ってねーじゃん、と言い出したって、そんな言葉はもう一切聞こえないのだ。
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