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一階、北側の部屋。 一番日当たりが悪く寒い部屋。 葬儀の為に帰省した時も無意識に避けて入らなかった、あの部屋。 「お母さん?」 声を張って呼びかけるが反応はない。 家はしんと静まり返っている。 彩名はベージュのストッキングに包まれた足で、一歩一歩、北側の仏間へ近付いていく。 途中、嫌な物を見た。見たくないものを見た。できれば記憶から消したいが、それはできない。 「こんなキズ、前はなかった」 一階の床に引っかき傷があった。誰かが這いずり、掻き毟ったあと。仏間から逃げ出そうとしたあと。 「このシミも知らない」 玄関から奥まった廊下の壁に、茶褐色のシミができている。排泄物を手掴みでなすり付けたような汚い色。それを必死に拭き浄め、隠そうとした痕跡。 親子二世帯の一軒家を父が購入した時、母がとても嬉しそうにしていたのを思い出す。 『あっちで子どもができたら帰ってきてもいいわよ、彩名』 ああそうだ、新社会人として上京が決まった時に母が言った。祖母を勘定から外してそう言った。 お母さん、あなたは一体何をしてしまったの。 彩名が帰省を拒み続けた数年の間に、この家はすっかり古ぼけてキズとシミが増えた。 何かが腐ったような、饐えた匂いも漂っている。 「お母さん、いるなら返事して」 祖母は仏間に寝かされていた。最後の方は殆ど寝たきりで、下の世話は母に委ねるしかなかった。彩名は母の愚痴を聞くのが鬱陶しくて、わざと電話にでずにいた。 おばあちゃん、また排泄物を壁に塗りたくったの。床に転がってたの。 聞きたくない。知らないでいたい。知ったらきっと、とてもとても面倒くさいことになるから。 彩奈は32歳だ。 がむしゃらに頑張って、やっと職場でそこそこの地位を築けたのに、祖母の介護の為だけに今いまさら地元に帰るなんて冗談じゃない。介護しかできることがない、負け犬に成り下がるのはごめんだ。 そこまで考えてハッとする。母は一対一で祖母の介護をしていた。ということは、当然仏間に出入りしてたはず。天井に住み着いた、モクメサンと会っているはずだ。 かすかな音がした。衣擦れの音。奥の仏間からだ。閉め切られていたのを何故不審に思わなかったのか。 人を入れたくなかった? 生唾を飲み、一番奥の襖に手をかける。 「ここにいるの?開けるよ」 一応許可をとり、ゆっくりと襖を開けていく。 一番日当たりが悪く一番寒い部屋。祖母にあてがわれた部屋。嫁姑の仲は険悪だった。若い頃は随分いびられたのよ、と母がこぼしていたのを聞いたことがある。 だから。 寝たきりになった祖母にその仕返しをしたとしても、母だけを責められまい。 「ああ、彩名。突然どうしたの」 仏間には母がいた。介護ベットは撤去され、剥き出しの畳だけが敷かれている。丸い窪みは四脚のあとだろうか。 とにかく母が健在で彩名は安堵した。 同時に名伏しがたい罪悪感がこみ上げて、襖に縋って膝を付く。 「ごめんなさいお母さん、おばあちゃんのこと全部押し付けて。知らんぷりで。帰らなくて」 お母さんがいるからと言い訳して。 おばあちゃんのオムツなんて替えたくないから、床でじたばた暴れるおばあちゃんをベッドになんて戻したくないから、ボケたおばあちゃんに恨まれたくないから、だから私は 耐えきれず、両手で顔を覆って叫ぶ。 「お母さんだけが悪いんじゃない。私が、私の方がずっとずるい」 母と彩名は同罪だ。 祖母殺しの共犯だ。
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