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職場に休みの電話を入れ、すぐさま新幹線に飛び乗る。 お母さんがおばあちゃんを虐待してたなんて嘘、絶対嘘。 認知症のお年寄りは頑固だ。 言うことを聞かせるために多少手荒なまねはしたかもしれない、だけど 『ごめんなさい、ごめんなさい』 お母さんは誰に、なんで謝っていたの? おばちゃんはお礼を言ったのに。 答えを知りたい。知りたくない。矛盾した葛藤に引き裂かれ、彩名の心は千々に乱れる。 「お母さん、彩名よ。いるの?」 実家のインターホンを鳴らす。誰も出ない。母のスマホにかけても繋がらない。 得体の知れない胸騒ぎに支配され、スマホを握り締めて右往左往する。 ガラリと音が鳴った。 反射的に振り返る。隣家の一階の窓が開け放たれ、パジャマ姿の老人が這い蹲っていた。ちょうど祖母が寝かされていた北川の仏間の対面だ。 彩名は庭伝いに回り込み、低い垣根越しに声をかける。 「ちょっといいですか。神崎の彩名です、この家に住んでる襟子の娘の」 隣家とは殆ど交流がない。子どもの頃に挨拶を交わした記憶がうっすらある程度だ。夫婦2人暮らしのはずだけど、祖母の葬式にも来ていたかどうか…… 「母は帰ってきましたでしょうか。知ってたら教えてくれませんか」 離れて暮らす娘より、隣に住んでいる年寄りの方がまだ詳しいはず。 一縷の望みをかけて乞えば、老人がゆっくりと振り向く。 その顔を見た瞬間、彩名は悟った。 この人「も」認知症だ。祖母と同じ、それも末期の。 半開きの口からツ、と涎がたれ、食べこぼしの付いたパジャマを汚す。 祖母が寝かされていた仏間のちょうど正面、お隣さんも認知症だったなんて、偶然だろうか。 「馬鹿ね」 偶然じゃなければ何だというのか。 無理矢理自分を納得させる彩名を凝視、老人が口を開く。 「俺の番だぁ」 「は?」 痩せ細った指が宙を滑り、生前祖母がいた仏間、その天井のあたりをさす。 「モクメサンがぁ」 何故この人が知ってるのか。 「モクメサンがぁ、来るゥ」 「どういうことです、モクメサンが来てくれるって」 声の震えをおさえこめない。 どんどん震えが広がっていく。 寝たきりの祖母が教えた? どうやって? 叫べば聞こえなくはない距離だが、それにしたって…… 「教えてください、なんでモクメサンのことを知ってるんですか。祖母から聞いたんですか。来てくれるって」 虚ろな目が下りてきて、歯のない口に恍惚の笑みが浮かぶ。 「アンタ、勝手に出ちゃだめじゃない!」 「ひっ」 「またわけわからないこと言って、これ以上恥かかせないでよ」 彩名はびくりとした。 老人はもっと怯えている。 「まったく、こうなっちゃおしまいね」 部屋の中にエプロンを掛けた老婆がおり、パジャマの後ろ襟を掴み、老人を乱暴に引き戻す。 荒々しくサッシが立てられ、それきり沈黙が立ち込める。 彩名は胸の動悸をおさえて門前へ引き返す。 「モクメサンって……」 どうしてお隣さんがモクメサンを知ってるの。 「来る」ってなんなの、何をするの。 疑問は尽きないものの、今は母の方が優先だ。 頭を切り替えてピンポンを連打、反応がないと悟るや合鍵でドアを開ける。 「最初からこうすればよかった」 靴を脱ぐのももどかしく上がり框にあがる。 家の中は薄暗い。 今日が曇りで、電気を点けてないのを差し引いてもなお暗い。掃除もろくにしてないのか、埃で床がざら付く。 おかしい、前はこんなじゃなかった。 彩名が前回帰省した時は…… 「何年前よ、それ」 口角が皮肉っぽく上がる。改めて、どれだけ不義理をしていたのか思い知らされる。 母が嫌いなわけじゃない、祖母を疎んじたわけじゃない。なのに家に帰らなかった理由は…… モクメサンがどんな顔をしていたか、どうしても思い出せない。
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