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「いいのよ」 優しい声に許しを期待して顔を上げた彩名は、母の背中に隠れた物に気付き、驚愕に目を剥く。 ガソリンの一斗缶だ。母は右手にライターを持っている。 「目撃者を消せばバレないから」 「目撃者って何よ、動けないおばあちゃんに何したの」 彩名は和室に踏み込む。 どうしても上を見る勇気がでない。子供の頃に来た祖母の部屋、天井に憑いたモクメサン。その顔は 顔じゃない。腕だ。 畳にめりこんだ四点の窪み、黒く腐った丸いへこみ、そのちょうど対角線上の天井に浮かび上がる腕の形のシミ。 生前、祖母の首があったあたりに。 「私は悪くない、仕方ない」 母が一斗缶の中身を天井にぶちまける。 ガソリンの強烈な異臭が立ち込め、瞬時に金縛りがとけた彩名は血相変えて走り出す。 母が虚ろな表情でライターのスイッチを押し込み、ガソリンが染みた天井に投げ付ける。 ボッ、と火が出た。 天井から。木目から。 「毎日毎日死にたい死にたいってうるさいから、じゃあ死ねばって言っただけ」 一生懸命世話してやってる嫁の気持ちも知らないで。 もし母が祖母を虐待していたのなら、毎日毎日死にたいと嘆かせるほどに痛め付けていたのなら、祖母が毎日見ている天井に、そこにいるモクメサンに殺してほしいと願ったのなら 「ありがとうありがとうって、最後まで当て付けがましいんだから」 「危ないからこっちきて!」 自殺はできない。 死にきれない。 故に祖母は、殺してくれてありがとうとモクメサンに言ったのだ。 腕を掴んで引っ張る娘をよそに、火炎に飲まれた天井の下に立ち尽くし、母は笑った。 真っ黒く燃え盛る腕が落ちてきて、母を掴んだ。 後で判明した事実。 祖母の遺体の首元には不自然な痣があったが、早々に事件性はないと判断され、母は家に帰されていた。 何故ならそれは絞殺の痕ではなく、指の形を模した腐敗の痕だからだ。 祖母の首の皮膚は黒ずみ、肉と骨まで蝕まれていた。死因は喉が腐った事による窒息死だ。 母は全身に火傷を負って搬送されたものの結局助からず、彩名は警察で事情聴取を受けた。 「私が母と祖母を殺したんです」 彩名の言葉は無理心中の自白と受け取られ、彼女は十数年真面目に勤め上げた会社を解雇された。 こんな話を知っているだろうか。 木にはたまに霊魂が入りこむことがあり、天井の木目は悪いものを閉じ込めておく格子なのだと。 だから木目は人に似る。 隣から火が出た時も、老人はベッドにいた。部屋には糞尿と飯が腐った悪臭が立ち込めている。放置された床ずれが痛い。 妻が腹立たしげにぼやいている。 「迷惑な話だよ、ウチまで警察が来た。いっそアンタのベッドから火がでりゃよかったのに」 これは人間が腐って行く匂いだ。 虚ろな目で天井を見上げると、先日までなかった木目が増えていた。 隣の婆さんがまだ自分で歩ける頃に言ってた通り、モクメサンが来てくれたのだ。 モクメサンは天井伝いに移動する。 逃げたくても逃げきれず、死にたくても死にきれず、寝床で腐っていくしかない哀れな年寄りの頭上に現れる。 姥捨て山に生えた木から切り出されたのだ、きっと。そうに違いない。 隣が燃えた時、窓ガラスを数センチ開けておいてよかった。 一筋だけ黒い煙が迷い込んで、それを天井が吸い上げて、腕が生えた。 「あ~あ、さっさと死んでくれんかね」 モクメサンありがとうと、彼は笑った。
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