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11
どれほど心中が荒れ果てていようと、仕事は仕事だ。ディスプレイと向き合っていると個人的な感情はいつのまにか蒸発してしまう。中野はパーティションの向こう側で、ひっそりと確実に仕事を進めていた。個々での作業がメインの仕事だから、誰とも話をせずに仕事を終わらせることも不可能でないのは幸いだった。
定時が近づき、ようやく調子を取り戻して仕事をまとめた。一区切りついて伸びをしていると、部長に声をかけられた。
「深瀬、ちょっと」
「はい」
デスクに向かうと、一枚の広告を差し出された。住宅情報に関する広告で、大きな紙いっぱいにさまざまな情報がつめこまれていた。
「これ、前俺が担当してた広告なんだけど、お前引き継いでくんない?」
「……俺ですか」
「ん。こないだとは別のとこだけど、先方さんがまためんどくせータイプでさ、俺だと『センスが古い』んだってよ」
「はぁ……」
「困っちまうよな。そんな年齢もかわんねぇのに。で、まあとりあえず若いやつに回してくれってご希望だから、お前に頼むわ」
仕事を続けていると、完成した広告を見ただけで制作者の苦労がある程度は読みとれるようになる。相手が「めんどくせータイプ」であることも、この一枚からいくらか分かってしまった。
「俺だってそんな斬新なことできるタイプじゃないですよ」
「そうでもねえだろ。とにかく」
「中野に頼んだらどうですか?」
俺はそのとき広告の細かな工夫から、先方の意図を確認していた。口からは適当な言葉が漏れていたけれど、俺はもちろん自分で引き継ぐつもりでいた。
不自然な沈黙に顔をあげると、部長がにやにやした顔で俺を見ていた。
「そりゃ中野くんは優秀だけど、そんなに拗ねんなよー」
「えっ? いや、そういう意味じゃなくて、俺より若いし……」
「そりゃ若くてキラキラした子ってそれだけで脅威だけどさあ、引け目感じて変におじさんぶってるとあっという間にしゃれにならんくらい老けちまうぞ。とにかくまぁ、お前に頼むよ!」
部長はにやついた顔のまま、肩を叩いた。
自分のデスクに戻り、仕事をしながら自身の発言を省みた。昼休みの一件で、俺が恥ずかしながら多少自信を喪失したことは部長の目にも明白だったのだろう。そうしたタイミングで、よりによって中野の名前なんか出すんじゃなかった。引け目、その通りだ。情けない感情がにじみ出ていたのかと、思い出すだけで頭をかきむしりたくなる。
定時を少し過ぎ、やるべき仕事にかたをつけてオフィスを出たところで、後ろから声をかけられた。
「深瀬さん、お疲れ様です」
「……おう」
「今日はアトリエに帰らないんですか?」
「ああ。あそこは基本的には絵描くためだけの場所だからな。やっぱ落ちついて寝れるのは自宅だけだな」
駅までの道のりを、自然に並んで歩き出す。それ以上の会話は特にない。しかしこの空気のまま駅まで歩くわけにもいかず、俺は口を開いた。
「今日は悪かったな」
「え?」
「喫煙所でさ。……仕事うまくいかなくて、当たっちまった」
「ああ、気にしてませんよ」
本音だろう、と思った。その瞬間も今も、中野に気にしているような雰囲気はない。引け目を感じさせるほどの脅威に近い包容力で、俺の牙をも包みこんでしまう。中野はどうしていつでもこんな風にいられるのだろう。
「お前ってさ」
「はい?」
「結局、なんで大企業蹴ってうちみたいなとこに来たんだよ。この仕事に就きたいって思うきっかけ、なんだったの?」
信号がうつりかわる。居酒屋の前で大学生が騒いでいる。タクシーのヘッドライトが薄闇のはじまりを照らす。夜の入り口で、中野の言葉は真摯に響く。
「昔は絵とかデザインとか、ぜんぜん興味なかったんです。むしろ苦手なほうで」
「うん」
「でも学生んとき、友達にいろんな美術館とか個展に通ってる、アート系に関心が強いやつがいたんです。いちど暇だったからそいつについて行ったら、衝撃的な出会いがあって」
中野はどんなときも密やかに正確に言葉をつむぐ。俺はどちらかと言えば、はきはきと喋る人の方が好きだった。ぼそぼそしゃべるやつは苦手だった。けれど中野の声はなにか違う。乱暴な雑踏の中でも、なぜか聞きとりやすい。
「うわ、デザインって、アートってすげーんだな……って感動して。その頃からそういうものに興味を持つようになって」
「うん」
「でも就職のときはとにかく安定を求めていて、それで前の会社にどうにか受かって、毎日忙しかったんですけど……。でもほんとにこれでいいのか? 俺はこのまま、一生この仕事を続けるのか? って考えるようになっちゃって……あとは勢いで」
「へぇ、すげぇな。もったいねぇと思わなかったの?」
「うーん、正直結構悩みましたね。でも興味あることをうやむやにしたまま終わるほうが後悔しそうだったんで」
言葉が丁寧だからだろうか。当時の中野をしめつけた、衝撃や感動や葛藤がすべて、リアルな感覚をもって俺の中に入ってきた。
密やかな喋り方だが、その中に確実な意志の強さがあり、俺の学生時代の実績など到底陳腐なものに思えた。中野は誰よりも謙虚でありながら誰よりも力強く二本脚で立つ。意志があるからこそ、静かに努力しつづけることができるのだろう。ヘッドライトで照らされた街に、静かな真実が落ちて転がり音が鳴る。
「なんでもできちゃうんだな、お前」
そこにはもう嫉妬も自己否定感もなかった。さらりとした水のように、はじめて、中野に対して心から肯定的な言葉を使っていた。稚拙なプライドは、ほんとうに正しいものの前ではなんの価値もなくなるのだ。
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