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12
夏がはじまった。お盆の休暇前に案件を片付けたいという思いからか、同じタイミングでの外注が殺到し、とたんに忙しくなる。他部署の人間もアルバイトも入り乱れ、それぞれがそれぞれの仕事をこなすために走りまわる。俺は担当案件のほか、部長から引き継いだ仕事もこなさなければならない。
そんな中で、俺はパソコンの前で指先ひとつ動かすことができなくなっていた。
この色でいいのか、この形でいいのか、このフォントでいいのか、この配置でいいのか。向き合うたび頭の中がにぶく重くなっていく。
いちど座席を離れ、喫煙スペースで煙草を吸う。コーヒーを飲む。深呼吸する。そうだ色はあれで統一しよう、フォントはあっちのほうがいいかもしれない。自分の行く道を明確にして再びデスクに戻ると、先ほど決定したはずの事項が指先からこぼれるように消えうせ視界が暗くなる。頭が重く、吐き気さえする。なにもわからなくなる。
そんな調子で時間ばかりが過ぎ、気づけば〆切が目前に迫る。水の出ない蛇口をひねるようにして、どうにか完成させた。
「こないだの案件ポシャったわ」
数日後、部長はわざわざ呼び出すことをせず、喫煙所にいる俺のもとへそっと忍び寄って告げた。このところ続く、俺の不調を気遣ってくれたのだろう。部長は非喫煙者だ。
「まあ、お前の出来がどうっていうよりもとにかく相手が特殊な人だったからな。めんどーなタイプで、なんでもかんでも文句つけるような人だからそうなるんじゃねえかなと思ってたけど」
「すみません、力不足でした」
「いや、しゃーねぇよ今回は特殊な案件だったから。まあ変に引きずる必要もないし、次の仕事もどんどん入ってきてるからよろしくな」
部長は慰めるように、ぽんと肩を叩いた。そのときのかるい衝撃で、留めていた言葉が零れ落ちそうになってしまった。
「部長」
「ん?」
今回の仕事を、中野が受け持っていたらどうなっていたと思いますか?
「……なんでもないです」
「え、なんだよ。言えよ」
「あー……今の一瞬で忘れました」
「お前その年齢でボケはじまってんのか? 早すぎるぞ脳トレしろ脳トレ」
「部長も気ぃつけてくださいね」
「大きなお世話だよ」
笑いながら去っていく部長のシャツを、煙草を持ったまま眺めていた。頭痛も吐き気も残っているが、なんとなく清々しさもある。
学生時代の俺は、不確かな足取りでもとにかく前に進んでいた。周りに目を向けている暇さえなかった。とにもかくにもがむしゃらで精一杯で、自分のことしか見えなかった俺は多くの人に迷惑もかけたのだが、同時に劣等感を覚える暇もなかった。だから無知で、無敵でいられた。
動かない手を引きずりながらディスプレイと向き合うあいだ、頭の中は中野のことばかりだった。
中野になりたいなあ。声にすれば叶うのなら、オフィスのど真ん中でだって言いたい。雑念を払うように、煙草をもみ消した。
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