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空調機の音ばかりが耳を震わせる。中野がじわりじわりと、静かに感情を高ぶらせていくのを俺はすっかり呆気にとられながら見ていた。 「どうせ、なんて簡単に言わないでくださいよ。俺、深瀬さんの消極的な言葉なんか聞きたくないです」 「お、おい……」 俺は中野の顔を覗きこんだ。目の前に立っても、視線が絡まない。中野が自分の内側ばかりをにらんでいるからだ。俺は高ぶりを沈静させるべく、中野の肩をやわらかく叩きながら声をかける。 「なに熱くなってんだ? 今のは別に仕事の愚痴でも弱音でもねぇぞ。言葉のあやっていうか」 「深瀬さん、仕事楽しくないんですか?」 「は?」 沈静させるつもりでいた。せめてこんなときくらい上司のふりをしようとしていた。中野の言葉は、無防備な俺を正確に突き刺していく。 「今、楽しくないですか。仕事つらいですか。俺はいつも深瀬さんの作品に憧れているのに、ひょっとして深瀬さんはもうそんな気持ちもないんですか。俺のイメージでは、深瀬さんはいつも真っ直ぐ楽しそうにものづくりしてました」 「なんなんだよ、ちょっととなりで作業しただけで俺の仕事まで分かったつもりになってんのか」 「深瀬さんの仕事の内容を、俺は知りません。でもイーストギャラリーでの深瀬さんのことは知ってます」 イーストギャラリー、と聞いて、どこかで聞いたことがある、と思った。招待をすぐに思い出せなかった俺は、それほどまでに仕事という魔物に蝕まれていたのだ。それは、学生時代に何度か個展を開いたギャラリーの名前だった。 中野はこの仕事に就いたきっかけを、何と語っていただろうか。 「俺、本当にやりたいこととか好きなことってなんにもなかったんです。事なかれ主義だし、消極的な理由でも安定していて楽な道をいきたいタイプだし。でも深瀬さんの作品にであったときに全部ふっとびました。自分ってほんと情けない人間だな恥ずかしいなって思ったくらいです」 「中野」 「この会社に入ったときびっくりしました。深瀬さん、大学時代よりずっと落ちついていて、表情の印象も変わっていて、それでも一目見て分かったんです。はじめて、神様っているんだって思いました。俺がこの仕事に就くきっかけを作ってくれた憧れの深瀬さんの隣で、同じ仕事ができるなんて夢じゃないのかなって」 中野の頬が赤くなっている。唇が震えている。重要なできごとをカミングアウトするような誠実さがあった。 中野は一方的に口を動かしているが、大学時代の俺を知っているという事実については、本当は言いたくなさそうに見えた。それでも口を開く必要があるのだろう。あんなに温厚で理性的な中野が、それをなげうってなにか語ろうとしている。 「深瀬さんの考えとか仕事のやり方を自分の目で見て、感動して……先走りすぎたこともあったけど、でもそのくらい惹かれてたんです。俺はこの会社に入って深瀬さんと距離を縮めたことを、後悔したくないです。作品だけを好きでいて、綺麗な憧れを持ったままでいればよかったなんて思いたくないです」 中野はほとんど泣きそうになっていた。密やかに語られる真実の前で、なにを言い返せると言うのだろう。昂った中野と言葉を失った俺、二人をなだめるように、昼休みを告げるチャイムが鳴った。 中野に飯食ってくるわ、と声をかけ、オフィス近くの中華料理屋に入った。評判の店だと聞いていたが、あまり美味しく感じなかった。心がささくれ立っているからだろうか。 箸を動かしながら、俺は遅れてこみあげた感情をどうにか消化していた。期待の新人は先輩に対しての口も達者なもんだと、皮肉さえ冷静に言える気がしなかった。強い関心を「憧れ」なんて言葉で正当化されたって、自分の情けなさを直視せざるを得ない状態に混乱している現状は変わらない。 そして大学時代の個展について、改めて思い出していた。あの頃の自分が自慢げに公表していたものは、今思えばたいしたものではなかった。若者特有の痛々しさに溢れた、くだらない代物だったと思う。 しかし中野にとっては、それこそが人生の転機だった、らしい。 「すいません、お勘定おねがいします」 「あぁはいはい。……はいこれ、お土産ね。持ってって」 「え?」 「ごま団子、サービスだよ。サラリーマンは頭使うぶん糖分もしっかりとらなきゃだめだからね。午後の仕事がんばんなね」 レジカウンターに立った恰幅の良いおばちゃんは、まんまるの笑顔で俺を送りだした。そして気がついた。とてつもなく美味い店だけが評判のいい店ではないのだ。俺はオフィスに戻ると部長にごま団子をおすそ分けしながら、例の案件は中野ではなく俺が引き受けると伝えた。
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