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15
中野はその日、妙に気まずそうな雰囲気を引きずり、定時がくると簡単に挨拶をして逃げるように帰っていった。
俺は真っ暗なオフィスでひとり、久しぶりにアドレナリンの存在を実感するほど集中していた。「終電」とか「疲れ」とか現実な問題が一切視野に入らず、身体のすべてが燃えていた。誰もいないオフィスに、キーボードの音、マウスの音が響き、世界が小さく小さく固まっていく。朝が来るのは一瞬のことだった。
「……さん、深瀬さん!」
駆けだした感情が冷静になるより先に、眠気に襲われていたらしい。声をかけられびくりと目を覚ます。応接用のソファの上で上着を腹にかけて横になっていた俺は、目を開けるなりカーテンのない窓から差し込む朝日に目を焼かれた。反射的に目をつむり、ゆっくりともういちど開くと中野がソファのかたわらに立ち、俺の顔を覗きこんでいた。
「おはようございます。昨日ここに泊まったんですか?」
「……今何時?」
「七時前です」
「んだよ焦った……まだ時間あんじゃねーか……お前早起きだな」
「あぁ……早く来て、深瀬さんに謝ろうと思ってたので」
寝起きの視界はどんなものの輪郭も曖昧にしてしまう。うつむき、口もとを歪める中野のようすもぼんやりとしかとらえられなかった。なぜ中野は泣きそうな顔をしているんだろう、と思った。当事者であるということも忘れていた。
「偉そうなこと言ってしまって本当にすいませんでした。俺みたいなガキが言うことじゃないって本当に反省して。俺、ただの深瀬さんのファンなんです。だから感情的になりすぎてしまって、ついそういう目線から……」
努力は才能のうちだと言う。だとしたら中野は、今後も絶えずその才能を着実に伸ばしていくだろう。今の俺ほどの年齢の頃には誰ひとり追いつけないくらいに先を行っているだろう。俺もなんども悔しくさせられるはずだ。そしてそうした未来が、楽しみだ。
もう、醜い嫉妬のフィルターを持ち出すことはやめよう。たとえ中野の仕事に嫉妬して悔しくなっても、その感情は俺を突き動かしよりよいものを作る動力に変えていけばいい。「どうせ」も「俺なんか」も辞め、牛歩でも前に進んでいればきっと中野はポジティブな感情を受け取るだろう。こんなにも理想的な関係はない。
乾いた唇を開きかけたとき、足音とともに知った顔がやってきた。
「おう、お前らもう来てたんか。早えなあ」
「あ、部長」
「ん、なんだ深瀬社内に泊まってたのか? 納期はまだ先だろ」
「そうなんすけど……あ、とりあえず完成したやつみてもらっていいですか」
けだるい身体を引きずるように無理やり立ち上がり、部長の背中を追う俺の前で、中野はかぼそく俺の名前を呼んだ。振り返ると、取り残された迷子のように心細い表情の中野が、話は終わっていないのだと目で語っている。中野はとんでもない才能を持っているけれど、ときどきこんな風に子供にしか見えなくなる。
「中野、今晩メシ奢ってやるからなに食いたいか考えとけ」
俺は本来なら、中野を牽引する存在でいなければならない。
仮眠のみで過ごしていたため、午後になるとさすがに疲れがちらつきはじめた。しかしやらなければならない仕事はひとまず終わっているし、営業が帰ってくるまでは少し休憩しようと人のいない給湯室で立ったままコーヒーを飲んでいた。
「お、ここにいたのか」
見ると、給湯室の入り口に部長が立っている。
「さっき営業戻ってきて、例の案件の反応かえってきた」
「あ、はい」
部長は近くにあったティッシュをぽんぽんと引き抜いた。眼鏡をはずし、汚れたレンズをティッシュで拭う。そして思いつきみたいに、口を開いた。
「俺さー、某大の法学部出てるんだよね」
「……は?」
さらりと口にしたのは、国民のほとんどが知っているような有名大学だった。何の話だ。自慢か。俺は酸味の強いコーヒーをすすりながら、部長の言葉に耳を傾ける。
「親が俗に言う学歴主義っつーか、そういう家庭だったから頭が良けりゃそれでいいっていう育て方されてたんだよね」
「そうなんですか」
「頭が良ければ金を稼げる、頭が良ければ生きていけるってさ。でも実際、今の仕事で俺ができることって、お前らのデザインが教科書通りになってるかどうかの確認だけなんだよ」
大人が、まじめに、しずかに、正しいことを言っている。俺はマグを置いた。
「俺はお前みたいなデザインを一から作ることなんかできないし、本当は上から物言うようなことしちゃあいけねえんだよな。立場上言わせてもらってるだけだから、勘弁しろよ」
「……」
「めんどくせー相手、今回のデザイン無茶苦茶気に入ってた。理想通りだって褒めちぎってたよ。俺のはボロクソ言ったくせにって、ちょっと悔しくなるくらい」
部長は自虐的に笑った。眼鏡をもう一度掛け直したときの表情が、とてつもなく柔らかい。
目の奥が熱くなった。懐かしい感覚を思い出した。そうだ俺は、仕事として選ぶくらいには、デザインが好きだったはずだ。嫉妬も悔しさも苦しさも、そもそも愛情がなければ生まれない。部長が静かにつぶやいた。
「たぶんお前に嫉妬してるんだよな、俺」
俺は中野に嫉妬する。部長は俺に嫉妬する。俺たちは毎日多かれ少なかれ影響を受け合いながら、仕事をしている。
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