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20
そしてまた朝が来る。始業のチャイムが鳴れば、俺たちは自分の役割を思い出す。
「中野ォ! あいつどこいった!」
「あ、はい……すいませんトイレ行ってました」
「テメェこんな適当なもん作って仕事終わらせたつもりか? だらだらトイレ休憩なんかしやがって」
「どこかおかしいところありましたか?」
「配置雑すぎ、フォントちゃんと選べ、ここの行間おかしい」
「あー……ごめんなさーい」
「ごめんなさぁい、じゃねぇよかわいこぶりやがって」
「あ、そういやこのライター拾ったんですけど、深瀬さんのじゃないですか?」
「え? あ、多分そうだわ。やべ、どこに落ちてた?」
「廊下です。はいどうぞ」
「おーサンキュ。悪かったな」
「いえ、これくらい」
中野は自分のデスクにつき修正にとりかかる。そのあいだに頼まれていたデータをまとめて出力するとと、じっと俺を見つめている部長に気づいた。
「部長、先ほどのデータこれで全部です」
「……ありがと」
「…………なんですか?」
眼鏡の奥の視線はじろじろと遠慮なく俺をなめわしている。なんだか気味が悪い。部長はデスクに片肘をつき、あごを支えたままぼんやりと言う。
「いや、そんな仲良かったかなと思って」
「なにがですか?」
「お前と中野くん」
「あー……、べつに、ふつーですよ。いつも通り」
「えー? そうだっけー? あやしー」
「なにがですか」
「なんか顔赤いぞ深瀬」
「……んなわけないでしょ」
俺と中野の関係は、確かに変わっていた。はじめて身体を重ねた翌日は、ただふわふわした掴み所のない空気が充満していただけだった。一緒に仕事に行ったあとはいつも通りに個々の仕事を進め、定時が過ぎるとそれぞれの自宅に帰った。そこで、俺も中野もいちど冷静になったのだと思う。
つきあってください、という生真面目なメールが届いたときは思わず笑ってしまった。返信はせずにそのまま電話をかけると、中野はなぜか焦ったように弁解していた。「恥ずかしい奴だなーお前」と言うと、ちょっと泣きそうな声を出したのでかわいかった。
あの日のことを思い出すと、いつでも頬がゆるむ。
「俺とも仲良くしてよー深瀬くーん」
「はぁ? 何言ってんすか」
甘い表情になりそうなところで、部長がふざけはじめたから嫌でも冷静になる。部長が俺の肩に手を回したので、やだあセクハラだあ、と冗談めかして訴えようとしたとき。
「深瀬さんちょっといいですかー!」
振り返ると、中野がパーティションから顔を出し俺を呼んでいた。逃げるきっかけができたので、部長のもとを離れ中野に寄っていった。
「ん、どうした」
「ちょっとここ、確認してもらいたいんですけど」
「ん……」
俺は腰を曲げ、後ろから中野のディスプレイを覗きこんだ。ディスプレイでは専用ソフトが起動しているほか、なぜか文書ソフトも立ち上がっている。よく観ると、そこには大きく一言、書き出されていた。
【部長といちゃいちゃしないでください】
中野はむかつくくらい完璧なポーカーフェイスをしていた。俺は脇腹のあたりをこづいた。
「……仕事しろよテメェ」
「いてっ、してますしてます」
「集中しろっつってんの」
こづくだけで、中野のポーカーフェイスは簡単にはがれた。ふにゃっと情けない表情があらわれるとなんだか決まりが悪くなり、中野の頭をくしゃっと撫でてから俺も自分のデスクに戻った。
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デザインの楽しさを思い出した俺は強かった。自分でも驚くほど。自分には厳しいだろう、と尻込むような仕事にも果敢に食らいつくバイタリティを取り戻し、失敗を繰り返しながらも着実に成果を上げていった。
もっとも必要なのは、過去の功績を忘れる、ということだった。見栄もプライドも持たず、大切なものを一から学んでいく。たったそれだけで、自己を過信していた頃なら確認できなかった方向にまで、目が届くようになったと思う。
ふとしたとき、中野に出会わないままだったら、と考え怖くなる。仕事も恋愛もなにひとつうまくこなせないまま、肥大化した自意識にとらわれ人生を食いつぶし、いつか終わらせていたかもしれない。もしもの不安に押しつぶされないよう、パーティション越しに中野に野次を飛ばし、存在を確認してしまう。
〆切のない日は定時が待ち遠しい。くわえて今日は金曜日だ。そわそわしながら事務作業を終わらせると、すぐに立ち上がった。
「っし、帰るぞ中野」
「はい」
「やっと休みだ、酒買って帰るぞ」
「あ、じゃあケーキも買っていいですか?」
「また甘いもん食うのかよ。いい加減太るぞ」
「深瀬さんも好きじゃないですか」
「まぁな」
身支度を整えて退社準備をする。人のいないエレベーターの中では中野の俺を見る眼が変わる。俺は気づいていないふりをする。
「お前、昔からその体型なの?」
「そうですね。そういや俺、これまで太ったことないかもしれません」
「それも年取ったら変わるからな、覚悟しとけよ。俺だって昔は痩せてたよ」
「深瀬さん今だって別に太ってはないじゃないですか。俺はもっと太ってもおしりの触りごこちとかよくなるならいいかと思うんですけど」
「……うるせぇ職場でそういうこと言うなカス」
会社を出るまではやんやと言い合い、会社を出て、ひとつ目の角を曲がりしばらく行ってクリーニング屋の角の車が通らない細い路地に入ったら、手を繋いでもいいことになっている。というか、中野がしつこく繋ぎたがるのでアトリエの近くのその場所でだけ許してやったのだ。
アトリエはもうアトリエの機能を果たしていない。キャンバスも絵具も片付けてしまった。なぜなら俺はもう、芸術家を気取ってアトリエを所有しなくても、絵を描き続けられるからだ。スーパーの袋を抱えたまま安アパートの階段を登ると、中野が自分の鍵をつかって鍵を開けた。
「ただいまー」
「……もうすっかり自分ちじゃねぇか」
「え、自分ちだと思ってるんですけど違うんですか?」
「違うだろ。自分ちとか言うなら家賃払え」
「いくらでも払いますよ」
「……冗談だよ。後輩の安月給たかったりしねーよ」
「いや、払わせてください。二人できちんと出し合って、ちゃんとした愛の巣にしましょう」
「うっわーさっむ、お前まじ恥ずかしいな!」
中野は微笑んだまま、狭い玄関スペースで俺を抱きしめた。俺は仕方なく腕を背中に回す。片付けられたアトリエには今、中野の着替えや荷物が散らかっている。こうして俺は、天才を卒業したのだ。
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